5
気が付いたら、異世界だった。正気のことではないと思う。
もしかしたら、夢を見ているのかもしれない。目を覚ませば、またあの陰欝な日々が続くのかもしれない。
それとも、自分はやっぱりあのとき死んでいて――これは、死ぬ直前に見ている夢か何かなのかもしれない。真実は見極められなかったけれど、でも、それでいいと思った。
いつか目覚めるとしても、目覚めないとしても、今の私はあそこにはいない。私は今、見知らぬ世界にいる。
瞼の裏にしなやかな姿を描いて、私はほうと息を吐いた。
――明日もまた、彼女に会える。
今日も彼女は優しかった。辛抱強く説明を繰り返し、物分かりの悪い私にも苛立つような素振りさえ無い。最近は、分からないことを聞くのも恐ろしくなくなってきた。彼女は決して、私を怒ったり、なじったりしない。
だから、大丈夫。明日も頑張れる。
自然とそう思うことが出来て、私は思わず頬を緩めた。
『彼女』は、少し風変わりなひとだと思う。
異世界から来たらしい私がいうのもおかしいけれど、何となく、他のひとたちとは違う空気を纏っている気がする。
もっとも、私はあまり多くの人と関わった訳ではないから、それは的外れな印象かもしれない。
「どうしたの?」
「あ、いえ……」
お茶を飲む彼女を見つめていたら、首を傾げられてしまった。上手い言い訳が思いつかずに言葉が切れる。
淡い色の睫毛をゆっくり瞬かせ、彼女は柔らかく笑った。
「……おいしい?」
「は、はいっ」
「それは良かった」
こちらもどうぞ、と、お皿に乗ったクッキーを勧められる。
私はそれを口にしながら、またこっそりと彼女を窺った。
――綺麗なひとなのだろうと思う。
ストレートの髪はむらのないミルクティー色で、目は鮮やかなエメラルド。肌も白い。
化粧の気配の無い顔は華やかとは言い難いけれど、整ってはいる。体付きは、長くたっぷりとした黒衣のためによく分からない。指はほっそりしている。
宝飾品を色々と身につけている割に、あまり強く女性を意識させないのはなぜだろう。かといって男性的という訳もなく、紡がれる声は耳に柔らかで、落ち着いている。
そういえば、傍に寄ったときはほのかにハーブのような匂いがした。香水や汗とは違う、不思議な香り。
「シアンさんって、香水つけてますか?」
何となく知りたくなって尋ねてみる。
「香水じゃないのかな……何だか、不思議な匂いが」
「ああ、強かった?」
「いえ、近づかないと分からないです」
「そうか。多分、薬草だね」
「薬草?」
「最近はしていないけど、薬の調合、使用は日常だから。髪やローブに匂いが染み付いているんだろう」
ちゃんと洗ってはいるけどね、と彼女は軽く笑った。
「どんな薬を作るんですか?」
「魔術の媒介や、補助をするものだよ。よく使うものは販売されているけど、それを自分用に調整することもあるし」
「へえ……魔法使いの薬って、毒や惚れ薬、みたいなイメージがありました」
「ん」
お茶のカップに唇を寄せていた彼女は、動きを止め、迷うように視線を巡らせた。
「そういうのは、魔術師の中でも特に調合師と呼ばれる者が担当する。……それはそうと、魔法使いって言い方は、あまり正しくないね」
「え、……ええと、魔術師……?」
「うん。そうなんだけど」
お茶のカップがテーブルに置かれる。
「魔法使いというのはね、普通、存在しない」
「……?」
「魔法、という言葉はある。魔術と法術、両方を指す言葉だ」
「法術、ですか」
「そう。魔術師は、魔力でもって世界に働きかけるね。法術師は、法力で世界に働きかける」
「何が違うんですか?」
「使う力が違う。魔力は、個人が初めから持っている力だ。ところが、この量には個人差がある。君のように、とても大きい者もいれば、ほとんど無い者だっている」
「はい……」
「法力は、自力で手に入れる力なんだ。神を信仰し、その賜り物である世界を強く愛することで、法力が生まれる。言ってみれば、意志によって得る、世界へ働きかけるための力が法力……かな」
「ううん、似てるんですね……?」
「法術は、魔力の不足から魔術を使えなかった者が、その代替として編み出したものだから」
「代替、ですか」
「……偉大な魔術師は、『世界に愛された者』と呼ばれる。魔力は世界からの贈り物だからね。対して、偉大な法術師は『世界を愛する者』と呼ばれる」
そして、と、彼女はほんの少し声を低めた。
「邪者とか、邪術師とか呼ばれる者も、時にはいるね。『世界を憎む者』と言われ、排除の対象となる」
淡々とした言葉だった。
私は、思わず息を飲んだ。
世界を憎む者。
世界を、憎まれるのではなく、憎む者。
背中がぞおっとした。それを知ってか知らずか、彼女の緑の目が柔らかくしなる。
「講義になってしまったな。お茶の時間だったのに。……ま、そういう訳で、魔法使いという言葉はないんだ。この二つをどちらも使う者はいないし、魔術師と法術師は、普通、一緒くたにされるのを嫌がるから」
「仲、悪いんですか」
「悪いねえ」
くすくすと笑う顔は猫か狐のようだった。割に冗談やユーモアを好むらしいというのは、ここしばらくで分かっている。
「そのうち分かるよ。どうせ君はどちらにも追いかけられる」
「う」
「大変だねえ」
「ひ、他人事にしないで下さい」
「うん、わたしもあまり他人事じゃない」
その割に、口調は軽い。
こちらを見る眼差しは穏やかで、私は不意にどきりとした。
「サヤカが困ると、わたしも困る。だから、ちゃんとサポートするよ。安心してくれていい」
――心臓の辺りにある何かが、ほろりと小さく崩れる。
彼女は、優しい。優しくて、恐ろしくない。
嬉しい。
けれど、どう答えればいいか分からなくて、私はただ頷いた。それでもいいのだと、彼女の微笑みに言われているような気がした。
そういう風に、最初の一週間はとても平穏だった。
初日こそ訳の分からないままに過ぎてしまったけれど、二日目からは勉強が始まり、生活のリズムが作られ始めた。
朝、彼女に起こされて、身仕度を整えてから一緒に食事を摂る。それから勉強。合間にお茶の休憩を挟み、軽い昼食。少し食休みを挟んで、午後も同様に。夕食の後に――これはちょっと恥ずかしいのだけれど、一緒にお風呂に入る。肌や髪の手入れをしてから、就寝。別々の部屋で寝る。
一日中勉強漬けの割にそれが苦にならないのは、がりがりと机に向かう訳では無いからだろう。教科書だけではなく、窓から見える景色や、小さな庭の植物からも、彼女はいろいろな話を取り出して見せる。
作法に関しては実地で、食事やお茶のときに教えられた。あまり、元の世界と変わるものではないらしい。少しだけ安心した。
魔術の勉強もした。私は魔力の量が多いそうで、最初は全然要領が掴めなかった。自分の中に魔力があることさえ、三日かかって気が付いた。
「大きいものほど気付きにくいものだよ」と彼女は言う。「小石を踏めば直ぐに分かる。けれど山ほどもある大岩は、そのままなら、地面だと思ってしまうだろう」
分かったような、分からないような例えだ。
今では、指先に光を灯すくらいのことは出来る。魔力というのは燐光を帯びているので、集めてやると光るらしい。
術だとか、そういうのはもう少し後になると言われた。実はかなり楽しみにしている。
ただ、その前に越えなければならない困難があった――ようで。
「え」
「ようやく、お三方の都合があったらしい。明日の午後に面会だって」
「お、お三方って」
「負けじと神殿もねじ込んできたから、夕食はそっち。大人気だねえ」
「お三方って!」
「三竜の皆様」
「うえええ」
三竜、といえば。
もはや記憶はおぼろだけれど、一番初めに私を殺そうとした人たちだ。この国で最高クラスの魔術師らしいが、なおさら怖い。何をされるのか身構えてしまう。
あの混乱と恐怖を思い出し、ぞくりと腹の底が冷えた。
「どうどう」
しなやかな手が、私の背を撫でる。
「大丈夫、彼らは君に何もしない。ほんの顔合わせなんだ。彼らは竜で、これから君と、深く関わることになるから」
「……りゅう」
「三竜の説明はしたろう?」
問われて、頷く。
三竜という言葉は、『竜の位』を持つ当代の魔術師三人を指すそうだ。建国に関わった四竜の色を位にいただくもの、それ即ち、竜姫の末裔たる皇帝の最も優れた剣であり盾であり宝である。
ただ、『竜の位』は何も魔術師のみに与えられる訳では無いという。
例えば騎士、例えば賢者、例えば都市。この帝国では『四』の数が尊ばれ、優れたものを四つ選び出してはそれに『竜色』を与える。
竜の騎士、竜の賢者、竜の都市。いずれも常に四つが並びたち、赤、青、白、緑のいずれかを冠する。
『竜』が欠けることがあるのは魔術師のみなのだそうだ。
また、単に『三竜』、あるいは『二竜』『四竜』と呼ばれるのも魔術師のみ。
なぜなら、唯一魔術師だけは、『竜の位』を皇帝によって認めらるのではないから。
――優れた魔術師は、竜石に向かうことを許される。石が認めた者にのみ、『竜の位』が許される。
彼女は、少しの苦笑を浮かべてそう言った。
その言によると、竜は――特に古竜は、魔術師のシンボルであるらしい。彼らは、世界で最も強大な魔力を有した種族とされる。
「三竜の方々は、建国の四竜の形代……の、ようなものだと思えばいい。竜石は眠る四竜の揺籃であり、彼の魔術師たちは、結び付いた竜石から竜の魔力を借りることも出来るから。……そして、それがどういうことか、分かる?」
「それ、って」
「君は『竜の姫』、彼らは『竜』。関わりが深いというのは、つまりそういうことだよ」
ぱちぱち、と瞬き。思わず、返す言葉に詰まる。
彼女はちょっと楽しそうに笑い、小さく肩を竦めて見せた。
「過去の竜の姫には、当時の『竜』のいずれかと結ばれたものもいる。勿論、皇帝と結ばれた例もあるし、市井に降りた例も……これは一例だけだけれど、ないではない。だけどとりわけ、『竜』と『竜の姫』の関係は特別なんだ。――建国の四竜は国ではなく、『竜の姫』をこそ愛し、従ったのだからね」
「え、と。つまり……?」
「形式上は、彼らは君に従うことになるんだ。彼らにも仕事があるから、直属って訳にはいかないけど」
くすくすと、楽しそうに彼女は笑う。何が、そんなに楽しいのだろう。
私ときたら、胃がきゅっと縮み上がったというのに。
「い、いやです」
「ええ?」
「し、従うとか、えっ? こわい」
「怖くない、怖くない。彼らは君に逆らえないもの」
「何それこわい」
『竜の姫』。
それが一体どんなものか、私にはいまだ実感がない。けれど、ここのひとたちにとっては大切なものなんだろう。
私のような小娘を、こんなに丁重に扱うのだ。異世界から来た、というだけで。
「私、そんなたいそうな人間じゃないのに……」
ぽつりと呟く。彼女の、すんなりした眉が器用に片方だけ持ち上がった。
物言いたげな表情に一瞬身構えたのだが、しかし彼女は、『仕方ない』とでもいう風に目元を和らげて微笑みを作った。
「卑下することはないし、出来れば、あまり彼らを嫌わないでやってくれ。独特でも、悪い方々ではないよ」
「お知り合い、ですか?」
「わたしの上司だからね」
「あ、魔術師」
そういえば、目の前の女性の本職は魔術師だった。
魔術以外の知識も広く(これは、私が何も知らないからそう思うのかもしれない)、教え方も上手いので、『先生』という印象が強かった。けれど、彼女は帝国とやらに仕える魔術師で、教師は本職ではないらしい。
「そう。『赤の魔術師アスター』様が、わたしの直接の上司。華やかで美しい女性だよ」
「わ、美人さんですか」
「とびきりね。大輪の花のような方だ。あとの二人は男性だけれど、どちらもそれぞれに綺麗な方だよ」
「そのお二人は、確か、緑と白の方ですよね?」
「うん。『緑の魔術師ロキア』様と、『白の魔術師フィリ』様」
「どんな方なんですか?」
「んー、ロキア様は、物腰が柔らかくて話上手な方だよ。風貌も優しげだから、女の子に人気がある。フィリ様はその逆で、とても生真面目な方。でも、ものすごく顔が綺麗だから、やっぱり人気はあるね」
「ものすごく……ですか」
「ものすごーく、だね。皇帝陛下を覚えている?」
「えっ、あっ、はい、銀髪の」
「タイプは違うけど、あのくらい」
「…………」
「人外だよね」
「で、ですよねえ……」
さりげなく失礼なことを言ったような気もするが、深い同意にこくこくと頷く。
初日に顔を合わせた皇帝陛下は、それはもう凄まじい美貌の方だった。声で男性だと分かったが、容姿自体は中性的で、一見ではどちらとも分からない。
確かに、人外。魔王さまですと言われても違和感はない。
「とりあえず、楽しみにしておいで」
きれいな緑の目を三日月にしならせ、彼女は私の肩をぽんと叩いた。