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『魔術師は常に、己の本当の意志を知ろうとしなければいけない』
『……知ろうとする』
『そうだよ』
『……知らないの?』
『そうだよ』
『自分のことなのに』
『賢い子よ。己の意志を本当に知る人間は、ほとんどおらぬ。魔術師に限らずな』
『なぜ?』
『それ自体が、とても深くにあるものだからだよ。己の内側に目を向ける人間は少ない。ましてや、深くを覗こうとする者は滅多におらぬ』
『でも、しなくちゃいけないんでしょう』
『そうとも、賢い子よ。――魔術師にとって一番大切なことを、覚えているね』
『本当に望めるのは、本当に望んでいることだけ』
『そうだ。魔術とは、世界に望みを伝えること。叶えてくれと働きかけること。ただ、世界に願うこと』
『願う』
『……それを、忘れてはいけない。賢い子よ、そろそろ午後のお茶にしよう』
『はい』
時折雑談を交わしながら、服を替えさせたり、質問に答えたり、食事を摂ったりした。
気疲れもあるだろうからと早々に床を勧めれば、少女も素直に頷いた。湯浴みで一悶着あったのだが、侍女を拒むならとわたしが一緒に入り、また少しお互いの話をした。
温まり、どっと疲れが出たのか、少女は舟を漕ぎはじめた。淡く苦笑し、眠気を散らさぬよう寝かせぬよう寝台まで追い立てたのが夜の入りかというところ。一段落ついた、と肩の力を抜く。
「りゅうのひめ」
ようやく、自分に割り当てられた部屋に戻ることが出来た。過積載の情報に痛むこめかみを軽く押さえ、そろり、深呼吸をする。
――姫君。竜の姫君。
「竜に愛された娘――世界に愛された娘」
口にしてみれば、それはずしりと重かった。
「……あー」
胃まで痛むような心地を覚える。そっと腹をさすって、頼むから穴は空いてくれるなよと意味の無い独り言を口にした。
時間は早く、普段床に入るまでまだ三時間はある。
「……」
一度、寮に戻りたい。着替えも無いし、細々と必要な品もない。手元にあるのは精々が普段使いの術具やら筆記具程度で、およそ安心というには程遠い。
加えて、自分がいくらか苛立っている自覚もあった。
振り回されている。陛下に、竜の姫に、自分ではままならないものに。それは、言ってしまえば不本意だ。降り積もる苛立ちは、既にそれなりの大きさになっている。
そして、華やかなこの部屋はどうしたってそれを煽る。
「……うーん」
少しだけ迷って、侍女の一人を呼んだ。
「姫君は眠っているし……、一度、ここを出たいのだけど」
「……少しお待ちください」
面倒なやりとりになるのかな、と思ったが、そう待たされはしなかった。
もしかすると、陛下が何か言い置いていたのかもしれない。現われたのはエレーネで、背後に騎士を一人連れていた。
「こちらの者をお連れ下さい。道も、この者が案内致します」
「……見張り?」
「護衛でございます」
わたしに護衛なぞつけてどうするんだろうと思ったが、おそらく、やはり見張りだろう。
「竜姫様がお目覚めの際は、直ぐにご連絡致します」
「あー、うん。よろしくね」
ほんの少し苦笑が混じる。
視線を向けると、若い騎士は小さく敬礼した。お互い、ご苦労なことだと思う。
正門なぞ既に閉じている。通用口からこっそりと侵入し、自室の扉へと足を急がせる。
この時間は人通りが少ない。談話室や食堂で話していたり、研究室から未だ戻らなかったり、自室でくつろいでいたり、とにかくあまり移動が増える時間帯ではないのだ。
辿り着いた室内は、当然のことながらいつも通りだった。
「教本と……図鑑もいるかな」
どのみち、その内に教材を要求するつもりではいるが、当座は諸々を私物でしのぐことになるだろう。図書館が使えればいいが、外出はまだ認められていないし、侍女たちにややこしい書名と手続きを任せる気にはならない。
「着替えー。……下着だけ足りればあとはどうとでも……」
あれやこれやと、引っ張りだした旅行鞄に物を詰めていく。掘り返したものもあるため、部屋が物盗りにあったような有様になってきたが、この際気にしている暇はない。
「こんなものか」
ぽん、と鞄を叩く。
どのくらい空けることになるかは分からないが、監禁される訳ではないのだ。忘れ物があっても悔やむ程度で済む。留め具をなぞって、きちんと閉じていることを確認した。
そこで、ふと悩む。
「……ルゥは帰ってるかな」
若い騎士は通用口で待たせている。あまり時間はない……が、会えるものならば会いたかった。
しかし、無駄足を踏む可能性が大きいような気がする。元々、ルードはあまり早く帰宅するタイプではない。
「戻るか……」
考えて、諦めた。見方を変えれば、わたしだって『仕事中』だ。
「陛下」
「しーっ」
銀麗宮に戻り、荷物を整理するつもりが、放り出して読書を始めた頃。
懐かしいページをめくる間に、部屋の扉が小さくノックされた。
訝しみながら押し開けた先には、至上の美しい方。思わず声が上がる。
それを、陛下は口に人差し指をあてて制した。
「遅くに悪いね」
「いえ……」
じとり、胃が竦む思いがする。わたしは、このひとが恐ろしい。
「お入りになりますか?」
「入れて」
長身はするりと室内に侵入した。
「まさか、おいでになるとは思いませんでした」
「ここは私の城。どこへなりと行く権利を持つのは、私。何より、今は非常事態だから」
美貌のひとはくすくすと笑う。
それから少し目を細めて、どこかを見るように視線をついと流した。
「あれをどう見る?」
「……素直な、お子かと」
「素直。素晴らしい美点だね」
皮肉を込めた言葉だった。言ってから、陛下はそっと首を横に振り、視線を上げてわたしを見た。
「男の一人も与えれば、大人しくしていると思う?」
「それは……分かりません。まだ幼いところのある娘です。友人の方がいいかもしれません」
「お前では?」
「わたしは、相応しくありません。ご存知でしょう」
「惜しいなあ」
ちっともそんな素振りを見せず、空の言葉が美しい声で紡がれる。
「竜の姫。世界に愛された竜の姫。――厄介な代物が落ちてきたものだ。ふふ、治世よりも、小娘の機嫌を窺わなければならなくなる」
「野心のありそうな方ではありませんが」
「そんなものはいつだって湧いてくるものだ。あの娘の魔力を見たろう。何と力に溢れていることか」
「竜の姫ですから……」
そう、あの娘は『竜の姫』だ。
世界に愛され、慈しまれ、甘やかされる姫君。世界が彼女を傷つけることはなく、運命が彼女を失うことはない。少女が現れた瞬間から、この世界は少女のための箱庭になる。
「ふざけた存在だ。……除くことすらできない」
「事故も病もありませんから、あと50年ほどは君臨されるのではないかと」
「消えればいいのに」
「そのお気持ちを、表されることの無きようお願い致します」
「私だって死にたくはないさ」
苦い呟きだった。陛下の眼差しは、一貫して遠い。
「飼い殺すしかない。千年前の悪夢を繰り返すのは御免だ。……何だって、あんな存在があるのだろうね、シアン」
「世界は常に理不尽です。これまでも、これからも」
「お前は本当に、塔の住人のようなことをいう。……やっぱり惜しいな。いい機会だから、今度こそ魔術師なんてやめてしまわない? 実務に就きたくないというなら、顧問という手もある。あの娘の面倒も見てもらわなければいけないし」
「陛下、それは……」
「私はお前を気に入っている。かわいいシアン。お前の忠誠と献身を受けるのは、さぞ心地よいことだろうね」
「……お戯れを。どうでもよいものを、手に入らないという理由で望まれるのは、陛下の悪い癖です」
「どうでもよいものなら、こうまで気に掛けはしないものを。あーあ、ルードが羨ましいなー」
「陛下……」
「私だって、愚痴や弱音を零したいことくらいはある。それがお前で、なぜいけない?」
「わたしは、陛下に至誠を捧げられません。陛下の柔らかいお心を見せられても、わたしが同じものを捧げることは出来ない」
「責任がとれないから」
「はい」
「そういうお前だから、慕われればさぞかし快かろうと思うのだけどね」
秀麗な美貌に苦笑が浮かぶ。恐ろしいひとなのに、こうも人懐っこい表情も見せるから、よけいにわたしはこのひとに近づくことが出来ない。……身構えてしまう。
たとえ誰に心を傾けていなかったとしても、この男に心を全て開いて見せることは出来なかっただろう。ぼんやりとそう思いながら、伸びる手を避けて一歩下がった。
長い手はぱたりと落ちた。
「シアン。それでも私は、お前に愚痴を吐くし、助けも請うよ。お前は私を拒絶できる立場にはないのだものね。同情したら、いつでも慰めてくれていいんだよ」
「陛下。それは国を統べる尊き方としてはいささか……」
「お前が言いふらす人間なら、そんなこともしなかったのにね。何のかんの言って、お前は口が堅いし、甘やかさないだけで受け入れるから。甘いねえ、かわいいかわいい」
「…………」
「かわいいシアン。竜の姫を懐柔しなさい」
「……わたしは、一介の魔術師です」
「賢いお前ならば上手くやるだろう。出しゃばらず、改革を望まず、この国を愛するように。必要なものは連絡しなさい。……竜姫の意志は何より尊重される。姫がここを望めば、神殿も強くは出られない」
「荷が重いのですが」
「お前は出来る子だ」
「わたしが彼女を私物化するとはお考えにならないのですか」
「そんなことをすれば国が乱れる。国が乱れれば、あの男はどうなる? お前は、今以上を望んではいないだろう」
見透かされている。
諦めて溜息を吐くと、陛下は面白そうに目を瞬かせた。やはり、このひとは苦手だ。
「期待しているよ」
勘弁してほしい。心から、真剣に。