3
平凡な毎日というものの有り難みをしみじみ思う。
『何もない一日』は、本当はものすごく貴重だ。
「シアンさん……」
不安に揺れる大きな目が、じっとわたしを見上げる。
無理もない、ことではあった。軽食と共に歓談を交え、随分と少女の気もほぐれていたところだったのだ。
そこへ来て、不意のお呼び出しである。
――彼女にとってみれば、不意討ちのようなものだろう。
「直ぐに参ります、とお伝えして」
「かしこまりました」
「し、シアンさん」
「大丈夫、わたしも一緒に行くから」
頭を撫でてやりながら、こっそりと溜め息を吐く。
どうにか時間の調整がついたのだろう。陛下も、陛下の近習も、実に優秀だ。およそ四時間程度で、あの綿密なスケジュールを組み換えて見せるとは。
もう少し猶予が得られるかと思っていたが、呼ばれてしまっては仕方がない。
「さ、立って」
「は、はい」
部屋の前にはパオラが控えていて、扉を開けるとぴょこりとお辞儀をした。
「出口までご案内致します」
「ありがとう。……見惚れて、はぐれないようにね」
「えあっ。はい、だ、大丈夫です!」
少女は大きな目をぱちぱちと瞬かせ、豪奢な廊下に惚けていた。声をかけるとハッと我に帰り、こくこくと何度も頷く。
「(後でゆっくり案内しようかな)」
女の子はきれいなものが好きだ。
そして、こと美しさにおいて、この王宮に勝るものはそう無い。
それは、王宮を統べる陛下についても同じことが言える。
「シアン・フィルドラ、サヤカ・ユウキ。お呼びにより参上致しました」
「入れ」
「失礼致します」
銀色の髪をした、ぞっとするほど美しい――男。
しかしその容貌は中性的で、顔だけを見ていれば女とも分からない。
かつて化け物呼ばわりされたその美貌に、わたしの後ろに隠れた少女が身を固くしたのが分かった。
「随分と懐かせたようだ」
執務机ではなく、来客用のソファに身体を沈めた美青年は、笑みをゆるく唇に刷いてそう言い放ち、優美な指で向かいのソファを示した。
「座りなさい」
「ありがとうございます。……サヤカ、どうぞ」
「はっ……はい」
ギクシャクとぎこちなく、椅子に身体を落ち着ける。
「サヤカというのか、そなた」
「そ、うです。サヤカ・ユウキと言います」
「きれいな音をしている。意味は?」
「ええと、清らかな香り、って意味、です」
多分、という小さな声は陛下には聞こえなかったらしい。
「なるほど」
陛下はどこか満足げに頷き、少女をしばし見つめた後、いくらか声を和らげて再度質問をした。
「単刀直入に聞くが、そなた、元の世界に戻りたいか?」
ぎくり、と。
少女の身体があからさまに強張り、隣で見て分かるほど、顔が色をなくした。
それは、あえてわたしが尋ねなかったことでもあった。
予想はついている。陛下にも、わたしにも。
「思いません」
震える声は、しかしきっぱりと言った。
「私、あっちに、戻りたくなんかない……!」
一瞬だけ、陛下とわたしの視線はぶつかった。それは互いに安堵する色を示していた。
「(この子は確かに竜の姫だ)」
変わることなく。外れることなく。
「……あ」
刹那の激情の後、彼女の顔は幼く揺れた。小さな手が何かを探すように中途半端な位置をさまよい、覚束ない視線がきょろきょろとふらつく。
「あ、あの、ごめんなさい。ちが……わ、私に出来ることなら、何でもしますからっ。こんな凄いとこに居座ろうなんて思ってなくて、違って、どどどどこかで働けたらなあって……!」
「シアン」
「はい」
「面白い娘だね、これは」
「そのように存じます」
「……へ?」
くつくつと喉を鳴らしながら、とても楽しげに陛下の目が細まった。
「竜の姫。そなたが働く必要はない。しばらくこの城に留まるが良い」
「……良いんですか?」
「帰らぬと言われて安堵しているのはこちらよ。そなたは得難い宝物ゆえ」
「ほ、ほうもつ」
「左様。そこの者に話は聞いたか? 竜の姫は癒しと平和をもたらす者。戦を控える我が国にとってはこの上ない瑞兆よな」
宝物だの、瑞兆だの、まるでモノ扱いである。
間違いではないのが、哀れなところでもあったけれど。
「シアン」
「はい」
「先にも言ったが、竜姫殿をよくよく頼むぞ。細かい話は追って……ひとまずは、神託の結果を待つことになろう」
「承りました」
「サヤカ殿」
「はいっ」
「私も忙しい身ゆえ、此度は急な呼び出しを失礼した。近い内に、ゆるりと話せる場を設けよう。それまでは何でも、そこの者に申し付けるがいい」
「え、ええっ?」
――ごく短く終わった会談の後、少女は困ったような怒ったような顔でわたしを見上げた。わたしはといえば、陛下の圧迫感から解放されたことで、ようやく呼吸を楽にしていた。
「……どうしたの?」
「あの……私、結局、どうすればいいんでしょう」
「どう、とは」
「だから、私……ごめんなさい、私、何か言われると思ったんです。こうしなさいとか、これはダメとか。でも……ええと、私、明日からどうしたらいいんでしょうか」
「ああ……そうだねえ」
端的にこちら側の望みを伝えるなら「大人しくしていろ」となるのだろうが、さすがにそれは可哀想だろう。
「……勉強、かな」
「へ」
「あなたは、あちらに戻る気は無いんだろう? なら、こちらのことを勉強しておくのは、どう転んでも良いことだと思うよ」
「べ、勉強」
少女の茶色の瞳がくるりと回る。
「もしかして、苦手かな?」
「す、少し……」
「大丈夫だよ、一つずつやるから」
あまりいじめては叱られてしまうものね、と笑えば、少女は微妙な半笑いを浮かべた。
歴史と、作法と、魔術。とりあえずは、そんなものだろう。
――とはいえ、それは明日からのこととして。
「シアンさんは、どんな人なんですか」
問われたのは、美しい庭園に立ってのことだった。
戻った室内が互いに少し気詰まりで、エレーネに許可を取り、今の時期はほとんど人が来ないという東の小庭園に出た。
花の少ない緑色の庭は、あまり広くは無い。木々に高低をつけることで奥行きを出している。
気持ちのいい天気だね、というと、少女は嬉しそうに頷いた。
それからややあって、控えめに質問を口にした。
「……どんな、か」
「ええと、お仕事とか。好きなものとか……」
「ふむ」
そういえば、自分のことはほとんど話していなかったことに気付く。
先ほど雑談で聞いた限り、目の前の少女は学生で、五人家族、豊かでも貧しくもない平民だったのだそうだ。
住んでいた場所は比較的都会で、読書や絵本が好きだったという。
一方で、わたしは話を聞いたきり、あまり語らなかったから、それは少し不公平なことかもしれない。
彼女としても、得体の知れない人間に張りつかれるのは嫌だろう。
「何から話せばいいだろうね……わたしの名前は、シアン・フィルドラという」
「はい」
「帝都に出てきたのは12歳のときで、18歳までを魔術学校で過ごした。今は宮廷魔術師をやっているよ」
「この世界、魔術があるんですもんねえ……」
「あなたの世界にはないのだものね」
「はい、一応……あ、小さい頃はどこにいたんですか?」
「南部。実家の辺りは、農業が盛んな美しいところだよ」
「わ、いいですね。ご実家、農家さんなんですか?」
「畑は持っているけど、ちょっと違うかな。……そういえば、馬には乗れる?」
「え? あー……いえ、ほとんど乗ったことないです」
「そうか。あの辺りは馬の名産地でね、わたしも少しは乗れるから、もし機会があれば教えるよ」
「わあ、ぜひ! ……わ、わたし、運動、苦手ですけど……」
「大丈夫。気性の優しい子もいるし、二人乗りをしたっていい。見る分にも、馬は美しいしね」
「お好きなんですね」
微笑ましげに少女は微笑った。
返答を考え、わたしは緩く首を傾けた。
「そうだね……身近なものだったからね。うちの家紋は馬だし、小さい頃からよく乗った」
「家紋ですか」
「そう。ええと……ほら、これ」
魔術師は通常、黒いマントを羽織っている。
術具を多く身に付ける者がほとんどであるため、そうでもしないと服装の統一が出来ないからだ。
わたしの場合、黒い布は左肩の首元近くで留めている。留め具にしているブローチは家紋だけを彫り込んだ丸いもので、かつて兄から贈られたものでもある。
「ボタン? ……ブローチ、ですか? きれい」
「ありがとう。馬の横顔が彫られているの、分かるかな」
「え、と……あ、はい。でも……これ、角……?」
「ああ、そう。彫られているのは、一角種だから。とても珍しい特徴だれど、みな足が速い馬になる」
「ユニコーンみたい」
「そうとも呼ぶ。知っているの?」
「私の世界では、伝説の……実在しない生き物なんです。想像上の。他にも、ペガサスっていう羽の生えた馬とか」
「それはさすがにいないな。ペガサスと呼ばれるのは、小型の騎乗竜だ」
「あ、竜も伝説の生き物なんですよ」
「竜、いないの」
「いないです」
「そうか……それなのに、名前は知っているんだね」
「知っているというか……想像の生き物としては、いるんです。本当にはいないけど、伝説や、昔話には出てきます」
「不思議だね」
わたしの言葉に、少女はきょとんと目を丸くした。
「誰か一人の想像、というのじゃないんだろう? あなたの口振りからして……いないけど、みんな知っている、という感じだろうか」
「知らないひとは、まあ、確かに少ないかと……」
「みんなが、同じ幻想を持っているのか。……確かに、あなたの世界に魔術は無いんだろうね。この世界でそんな風になれば、きっとそれは生まれてしまうよ」
「う、生まれる?」
「魔術は、いや、法術を含め魔法というものは、意志によって世界に働きかけるものだから」
微かな風に、庭の木々が揺れた。
肌寒さは無い。ちょうどいいかもしれないと思って、わたしは周囲に視線を巡らせた。
庭の片隅に小さな椅子が置かれている。さすが、いくら小さくても王宮の庭、薄汚れた様子はない。
「座ろうか、立ち話も何だし。もちろん、あなたに興味があれば、だけど」
「はい。あの、すごく聞きたいです」
「それは良かった」
これから話すことは、魔術についての知識の中では一番基本的なことで、そして魔術のほとんど全てでもある。
そう言うと、少女は気を引き締めた表情を見せた。
魔術を習い始めた子供たちが、一番最初に見せるのと同じ顔だ。
「まず、自分の手を見てごらん」
「手、ですか」
「そう。そして、あなたはお腹が空いていて、目の前には食べてもいいパンがあるとする」
「はい」
「あなたは何を思って、どうするかな」
「えっと……パンを食べたいなあと思って、食べます」
「どんな風に?」
「……パンを手にとって、口にいれて……?」
「そうだね。このとき、パンを食べたいというのは意志で、あなたの手が魔力、手を伸ばすのが術式で、パンを食べるのが結果だ。大雑把に言えば」
「……あーっ、と……」
「パンが遠くにあれば、あなたはパンを食べられないね。また、手を伸ばせなかったり、違うことをしてしまうのでも、パンは食べられない」
「はい……」
「意志によって、魔力を正しい術式で動かし、対象に働き掛ける。これが、魔術の基本」
「何か、分かったような、分からないような」
「簡単なことだよ。だからこそ、間違いやすいんだけど」
「間違いですか……」
「魔術を万能なものだと思う人間は多いよ。実際は、本当に望んでいることしかなせないのにね。……本当に望んでも、魔力や技術が足りずに叶わないこともあるけど」
「魔術で出来ないこともある、ってことですか」
「魔術は、いつも本当に望むことしか出来ないんだ」
「本当に望むこと……」
「それだけが、望めることだからね」
分からない、と言いたげに、少女は小さく俯いてまるい後頭部を見せた。