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少女は、ユウキサヤカと名乗った。
「ここ……、どこですか。私、私、……死んだはずなの、に」
真っ青な顔でそう言った、その大きな目が印象的だった。
黒に近い茶色の目。泣き出す直前のように揺れて、それを意志の力で堪えている。
わたしはまず、彼女の質問に答えることにした。
「ここは銀麗宮。我が帝国の王宮の一角。それから、わたしの目には、あなたは生きているように見える」
「帝国? 王宮って……何……全然、意味が……」
「少し、落ち着いた方がいいね。水は飲めそう?」
少女は、迷ってからこくりと頷いた。
ベッドサイドの水差しをとって、グラスに注ぐ。その間に、少女の視線が室内をぐるりと渡った。
「私……トラックにぶつかって……それで……」
「はい、水。ゆっくり飲んでね」
「あ、ありがとうございます……」
グラスを受け取り、唇を寄せ、細い首がこくこくと上下する。
見る限り、およそ十代前半と思われる少女だった。全体に体付きは華奢で未熟、顔立ちも幼い。
しかし身体に似合わず、彼女は膨大な魔力を纏っている。
空になったグラスを受け取ると、幾分滑らかさを取り戻した声が「あの」と切り出した。
「私、……どうしたんでしょうか」
「それは、少し込み入った話になるなあ……」
ベッドサイドの椅子に腰掛け、慎重に言葉を選ぶ。
「わたしたちの推測が正しければ、あなたは、異なる世界からこの世界へやって来たことになる」
「異なる世界……」
「あなたにしてみると、元の世界から異世界へ来てしまったということになるのかな」
「……異世界!」
「そう。まあ、信じがたいことだろうけど」
苦笑する。少女は、どこか夢を見ているような、覚束ない眼差しでわたしを見つめた。
「夢だと思う?」
「え?」
「今の、この状況。君は、自分が夢を見ているのだと思う?」
細い喉が、こくりと小さく上下した。
意地の悪い質問だったかな、と思う。肯定にしろ、否定にしろ、それを彼女に証明してやることは出来ないだろうし、少女の茶色の目は戸惑うように揺れた。
揺れてから、右側が歪んだ。
「へ」
「いひゃい」
……いや、うん、それはそうだろう。
白い指が、柔らかそうな丸い頬を思い切りつねっている。自分の指で、自分の頬を。
「えーと……」
「い、痛いから、夢じゃないと思います」
「え」
「今、ちょっと期待して思いっきりつねったのに、痛いし、目も覚めないから」
「夢じゃないと思います」と彼女は繰り返した。
そういうものなんだろうか。禁術には、夢の中で相手を殺してしまうものもあるのだけれど。
しかし、彼女はそれで少し落ち着いたようだったので――あるいは、腹をくくったようだったので――わたしはちょっと笑って、小さな頭にぽんと手を置いた。
「それなら、これは現実という訳だ。ようこそ、我らが帝国へ。――『竜の姫君』」
「ひ、めぎみ?」
「そう。わたしたちの国では、あなたのように異世界からやってきた少女をそう呼ぶんだ。竜に愛されたお姫さま、とね」
「それは……言い伝え、とか、伝説……ですか?」
「察しがいいね」
少女が腹をきめたからか、室内の空気は大分柔らかいものに変わっていた。これならば大丈夫だろうと、膝の上で手を組んでゆるく目を伏せる。
出来るだけ、分かりやすい言葉で。混乱しないよう、ほんの少しだけ。彼女に彼女の立場を与えてやらなければいけない。
「むかし、むかしの言い伝えだよ。
――かつて、この大陸には四頭の竜がいた。彼らはあるときひどく争い、人も大地も死にかけてしまった。
「もう駄目だ」と、残された人々がそう思ったとき、天から少女が舞い降りて、竜をなだめ、人や大地を癒した。
彼女は竜に愛され、残った僅かな人々を率いて国を造った。
……それがこの帝国の始まりで、以来、彼女の死後もずっと、この国は竜に愛されている、という」
「はあ……」
「この『少女』のことを、『竜姫』とか『竜の姫』とか呼ぶんだ。そして、君のように異世界から現れた女性のことも、伝説になぞらえてそう呼ぶ。初代竜姫から数えて、君は……六代目に当たるのかな」
「えっと、あの、……過去にも、わたしみたいなひとが?」
「いたようだ。随分昔のことだから、文献にしか残っていないけれど」
ほう。大きなものを飲み込んだような顔で、幼い少女は息を吐き出した。
懸命に、自らに何が起こったのか受けとめようとしている。いじらしいと思ったのは、彼女がどうにも小動物めいているからかもしれない。
大きな目に、細い体つき。ちょこちょことした仕草。何となく愛くるしく見えてしまう。
「……そう、固くなることはないさ」
もう一度、今度は指先で髪を梳いて頭を撫でると、茶色の瞳は落ち着かない様子で瞬きをした。
「あなたは、いわば客人だ。どうも、最初に失礼な振る舞いをしてしまったようだけれど……あなたが何者か、分からなかったから……でも、今後は、そんなこともないだろう。少しずつ、馴染んでいけばいい。わたしもお手伝いするから」
きょとん。不思議そうに目を丸めた後、それまで忘れていたのだろうか、「ああ」と少女は声を上げた。
「あの、きらきらした人たち!」
「……きらきら?」
「銀髪と金髪と赤い髪! あ、あと黒のロン毛!」
「……ろんげ?」
「えっ、あっ、や、あばばば。いやあの、えーと、すごくきれいな顔の……怖い方たち……が、いた、かなあって」
「ああ」
きれいな顔。それは確かにそうだろう。
「陛下と三竜の方々だよ。本当は、そう恐ろしくもないのだけど、あなたが不審者かもしれなかったから……でも、ごめんね。泣かせてしまったのだっけ」
「……っへ!? ……あー!! や、いや、いやいや、わ、私もその、こ、混乱してましたからっ」
「うん、ごめん。こわかったろうね」
「……お恥ずかしい限りです……」
ぽんぽん、と背中を撫でると俯かれてしまった。泣いてしまったことが恥ずかしいのだろうか。
「気にすることはないよ。いきなり、そんな目に遭えば、誰だって混乱する」
「ありがとうございます……えっと、あの」
「……ああ、わたしのことは、どうぞシアンと」
「シアン、さん」
『さん』は必要ない、と言おうとして――やめた。
確かめるように呟いた彼女が、はにかむように笑ったから。それに、わたしよりいくらも年下の少女だ。かえって呼びづらいかもしれない。
「今更だけど、あなたの教育係を頼まれている。今後、よろしくね」
「は、はいっ。よろしく……お願いします」
小さな唇の端、口角がきゅっと引き締まる。
少しだけ強い色を映した目は、どことなく沈む光を抱えているように見えた。
――死んだはず、と言っていたな。
「うん」
やらなければならないことが、頭の中でぐるりととぐろを巻く。目の前の少女のこと、己の仕事のこと、些末な雑事。
その片隅で、幼馴染みのことがふと気に掛かった。
今頃は仕事中だろう。今日はもう、顔を合わせることは無理かもしれない。