序
まだ、彼とわたしが小さかった頃の話だ。
明るい月明かりの下で、わたしたちは並んで空を見上げていた。
彼が母を亡くしたその日、忙しく立ち働く大人たちから外れて庭へ降りたのは、わたしが誘ってのことだったと思う。
「お月さま、きれい」
「ああ」
その日、大人びた彼の横顔に涙は無く、ただ静かだった。
それが強がりでも何でも無いことをわたしは知っていたから、何も言わなかった。彼の母親は、あまり子供に関心のあるひとでは無かった――というより、ほとんどあらゆることに関心が無いようだったから、彼は悲しもうにも悲しめなかったのだろう。
わたしは、紺碧の空に、幾度も見た細い姿を思い描く。
その横で、彼は静かに月を見ていた。
「……母さまは」
「うん」
「あそこに行かれたんだろうか」
彼の目はひたりと一点を見据えたままだった。
「月?」
「そう」
「分かんない……。そうなの?」
「知らない。ただ、帰ってこないというから」
彼はふっと口を閉ざし、上げていた視線を下ろしてわたしを見た。この頃はわたしの方がもう少し背が高く、目線はさほど変わり無かった。
「遠くに行って帰ってこない」
端的な彼の言葉を、わたしはゆっくりと噛み砕く。
「……お母さま?」
「父さまがそう言った。死ぬということは、そういうことだと」
「ふうん……」
何というべきか言葉を探すわたしに、彼は小さく首を傾けた。
わたしの目を覗き込むように、青みを帯びた黒い目が月を映す。
「シアは、」
その月がゆるりと揺れた。
眼球を覆う薄い水の膜が、瞬きにさざめいて微かに波を孕んだ。
わたしはいかない、と応えたのは、ほとんど反射のようなものだった。
「わたし、ずっとルゥといる」
「……ずっと?」
「うん。ずっと、ルゥの隣にいる。どこにもいかない」
「どこにも……」
笑って欲しかったのだろうか、わたしは。
わたしの言葉を繰り返す彼に言いようのないもどかしさを覚え、その小さな手をそっと取った。指先の冷たさに驚く。彼は、こんなに頼りない手をしていたかしら。
絡めた小指は、わたしと彼の最初の約束になった。
「ずっと隣にいるよ。約束するよ」
彼は笑わなかったけれど、ただこくりと小さく頷いた。
わたしはなぜだかホッとして、それから少し鼻の奧が痛くなった。
「……大好きだよ」
いつも母親に聞かされる言葉を、まるごとそのまま彼に送る。
「大好きだよ、ルゥ」
絡めたままの小指が、ほんの少しあたたかくなったような気がした。