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ひとつめ 彼がはじめて人を射抜いた日


【一】




 ――彼が始めて“人間”に矢を放ったのは、十五歳の春だった。




 春のミドイル村は、活気に満ちあふれている。

 収穫シーズンが到来して、村人達は笑顔で畑に向かっていた。


 この村に来て一年。

 まだまだ半人前の狩人であるナーリャは、村人達に混じって作物を運んでいた。

 これもセアックの課した筋力トレーニングの、一環だった。


「腰が退けてるぞ!ナーリャ!」

「ア、アグルおじさん」

「誰がおじさんだ!」


 陽気な笑い声が響く中、ふらふらとした足取りで籠を運ぶ。

 弓を手にとってもうすぐ一年……漸く獲物に当たり始めたという程度の、腕だった。


「ナーリャ」


 指定された場所に作物の籠を置き、一息吐く。

 丁度その時、ナーリャに低い声がかかった。


 背筋の伸びた、白髪の老人。

 白い口ひげと鋭い眼光は、彼を白い鷹のように見せていた。

 アインウルフの黒い革鎧で身を包んだ姿は、“騎士”のようにも見える。


「爺ちゃん。

 どうしたの?」

「マクバードウの狩り方を見せる。

 見て技を盗んで見せろ、ナーリャ」


 簡潔にそう言うと、老人――セアックは踵を返した。

 セアックの卓越した技術を見るのは、ナーリャの“楽しみ”の一つだ。

 だからその言葉に、ナーリャは目を輝かせて頷いた。


「うんっ!

 それじゃあ、あとはよろしく!」

「おう!

 期待してるぞ!見習い狩人!」


 手を振る村人達に、ナーリャは笑顔で返す。

 自身の過去ごと、家族も感情も記憶も失ったナーリャに、村人達は沢山のものをくれた。

 そのことに本当に感謝しているから、返したいのだ。

 一流の狩人となって、村の仲間達と、大切な育ての親に、大きな恩を返したい。


 その願いのために、ナーリャは弓を取る。

 鳥や獣を狩猟して、村の生活を豊かにする。

 いずれは、森の主も追い払い、そうしたら“記憶”を探しに行く。


 それがナーリャの、“目標”だった――。








【二】








 木々の上、森の低空を滑空する緑色の鳥。

 木の葉のように滑らかな動きは、見る者の目を簡単に惑わす。


 なんとか捉えようと追いかけていたナーリャは、数分後には目を回していた。


「一点を集中して見ようとするな。

 動き、流れ、感情……その全てを捉えて“観る”のだ」


 セアックの静かな声に、耳を傾ける。

 セアック特製の弓が大きくしなり、一息の内に放たれた二本の矢が走る。

 すると、空を飛ぶマクバードウと……その影に寄り添うように隠れていたもう一羽のマクバードウが、地に落ちた。


「すごいなぁ、爺ちゃん」


 その鮮やかな手腕に、ナーリャは小さく呟いた。

 声に篭もる“憧れ”と“尊敬”にむず痒いモノを感じたのか、セアックは顔を逸らす。


「いずれ出来るようになる。

 だから、焦るな」


 低く重い声。

 だがそこに冷たさはなく、家族に向ける“暖かさ”だけが、音に宿っていた。


「そっか、うん。

 僕、もっと頑張るよ!」

「その調子だ、ナーリャ」


 血は繋がっていなくとも、セアックにとってナーリャは“息子”だった。

 息子が自分の背中を見て、高みに登ろうとしてくれている。

 そのことがどうしようもなく嬉しくて、セアックは滅多に見せない笑みを零した。


「爺ちゃん?」

「なんでもない。

 さぁ、次はアインウルフとの戦い方だ」

「暗き森の狩人、だよね」

「そうだ。

 まずは――」


 培ってきた知識は、本来ならば彼だけの中で終わり、漬いていく物だった。

 だが、ある日突然現われた、自分の息子。

 その息子に、自分の全てを伝えられる。

 もう、あり得ないと思っていた、ことだった。


「人生など、あと僅かだというのに。

 ……本当に、何が起きるか解らんな」


 太陽の光を受けて、なお漆黒に輝くナーリャの髪。

 それを視界に納めると、セアックは小さく苦笑した。


「突出しすぎだ。

 死にたいのか、バカモノ」


 いつまで続くかは、わからない。

 けれどもう少し、この日々を謳歌したい。


 一度全てを諦めた老人は、ただそれだけを望んで祈りを捧げた。








【三】







 朱色の空の下。

 西へ太陽が落ちようとする、夕暮れの森。


 ナーリャは弓を持ち、ただじっと心を研ぎ澄ませていた。


 滑らかな滑空を見る。

 視界を広げて、ただ“世界”へ集中していく。

 やがて己が空に溶け、獲物の辿る筋が見えるようになる。


 その世界を――穿つ。


「先見一手」


 風を切った矢が、空を穿つ。

 森に擬態した緑の鳥は、軌道上に出現した矢によって、貫かれて絶命した。


 その鳥が地面に落ちる音で、ナーリャはゆっくりと覚醒していく。

 浮上する意識を、抱きかかえるように、ゆっくりと。


「先見までに時間がかかりすぎる」


 意識を戻して息を吐くナーリャに、セアックはそう呟いた。

 ここ数日の訓練で、先見は出来るようになった。

 だが、準備に長時間を有してしまうため、アインウルフと戦闘になったら間に合わないだろう。


「うぅ、

 ごめん、爺ちゃん」

「謝ることはない。

 ただ、向上心を忘れるな」


 無表情のまま紡がれる言葉。

 それに、ナーリャは肩を落とした。


「――だが、腕は上がっている。

 よく頑張った、ナーリャ」

「爺ちゃん……

 うんっ!よーし、もっと頑張ろう!」


 幼さの抜けていない顔で、ナーリャが笑う。

 セアックはその表情には何も映してはいないが、その声には優しさの感情が込められていた。


「よし、

 ではそろそろ夕食の準備をしよう」

「今日は僕の当番だね。

 今日こそ、爺ちゃんの舌を呻らせてみせるよ!」

「そうか。

 ならば、楽しみにしていよう」


 寡黙に返事をしながら、森の家に帰る。

 ナーリャが来てから変化し、そして日常になった“いつも”の光景だった。


 だがその日は――ミドイルの村に、小さな波紋が生まれた。


「セアック!」


 家の外から聞こえてきた声に、セアックとナーリャは真剣な顔で外へ行く。

 玄関から扉を開けると、そこには息を切らしたアグルが立っていた。


「どうした?

 ――何があった、アグル」

「と、盗賊だ!

 物見台でこっそり遊んでいた子供が、見たんだ!」

「なんだと?」


 波紋は広がり、やがて大きくなる。

 ならばそれは、“そう”なる前に、止めなければならない。


「場所は?」

「南西の、旧街道だ!」

「わかった。

 準備をしてくる。しばし待て」

「あぁ!頼んだ!」


 この平和を守るために。

 セアックは、家の中へ戻り準備をするために、踵を返した。









【四】









 アインウルフの皮鎧を纏い、手製の弓を持つ。

 矢筒を腰につけると、矢が落ちないように斜めにする。

 一度入れてしまえば、抜こうとしない限り逆さまにしても落ちない細工が施してあった。


「爺ちゃんっ!

 僕も、僕も手伝うよ!」

「まだ早い。

 おまえ待っていろ、いいな?」

「でも!」

「待っていろ」


 強く言って、セアックは外へ走る。

 敵の人数が解らない以上、急ぐ必要があった。


 セアックは、黙って何も言わなくなったナーリャを一瞥だけした。

 そして、軽く目を伏せると、アグルと一緒に走り出す。


「南西の、旧街道」


 その背中で、ナーリャがそう呟いたことに、気がつかないまま――。









――†――









 森の奥から、飢えた目で村を目指す“狂犬”を、セアックは木々の狭間から見ていた。

 南西の森には、古い時代に使われていた街道の跡が残っている。

 ミドイルの村の脇を通るその道は、廃れて久しい。


 だが、村への道標としては、現在に至っても使われていた。

 普段なら、道に迷った商人が、困り果てて村に辿り着く程度の道標だ。


「盗賊に知られるとは、な」


 どういった経緯か、七人ほどの盗賊がこの街道に侵入した。

 べっとりと血糊を付着させた鉄さびの剣を、腰から提げて。


「一仕事の後か」


 セアックの鋭い目が、盗賊達を観察する。

 長年戦いに身を置いていた戦士の経験が、盗賊達の力と目的を見据える。


「あれは、獣の目だ。

 食料と金、それから“血”に飢えた、獣の目」


 固い声から紡がれるのは、冷酷な音だった。

 他者から強奪し、その血を浴びることで己の欲求を満たす。

 獣の方が幾分か上等な、穢れた“殺人者”が、希有なことに徒党を組んでいた。


「貴様らには、何も奪わせん」


 木々の狭間から出て、街道の先に立つ。

 姿を見せてしまうのは、彼が“戦士”だった時の、名残か。

 それとも――――散りゆく者達への、最後の慈悲か。


 雄々しく、鋭い気配で佇む。

 その姿は、百戦錬磨の“戦士”の姿を思わせた。


 ただ、その背中は何処か……折れてしまいそうにも、見えていた。









【五】









 五十メートルほど離れた位置に、盗賊達は群れを成していた。

 弓を持った老人としてセアックを見る盗賊達の目は、暗く淀んでいる。


 その目を、セアックは鋭く睨み付けた。


「先見二手、二拍時雨にはくしぐれ


 弓を構えて、矢を番える。

 斜め上に向けて、一息の内に三発、これを二拍繰り返した。


「なんだ、あのジジ……ッギ」


 盗賊達の頭上から、矢が降り注ぐ。

 咄嗟に避けた場所に降るように射られた矢。

 それは、セアック流射撃術“先見”の極意の一つだった。


 七人いた盗賊は、たったこれだけでその数を四人まで減らされた。

 仲間の事への憎悪ではなく、単に侮られた事への憤怒で、盗賊達の顔が赤く染まる。


「キサマァァァアアアアァッッッ!!」

「先見三手」


 セアックに近づこうと、盗賊達が剣を持って走る。

 だが、残り十五メートルほどの所で、先頭の男が崩れ落ちた。


「三撃必殺」


 放たれた矢は、一射目を避けた男の足に突き刺さり、崩れた所に三射目が突き立った。

 弓を扱う者に限らず、戦場に絶つものなら誰でも用いる“先読み”を、擬似的な未来予知の領域まで昇華させた技能。


 それが彼の操る、“先見”なのだ。


「死ねッ!」

「させん」


 更に近づいてくる男を、一息二撃で射抜く。

 これで残りは二人となった。この程度の盗賊は、セアックの敵ではない。


 ……通常、ならば。


「アァァアアアアァ!!」

「む」


 ほぼ捨て身と言っても良い攻撃。

 それに対して、セアックは弓を放つ。

 一撃目は避ける、だから二撃目で動きを止めて三撃目で心臓を射抜く。

 経験が導く未来予測、三撃必殺。


 それが――。


「なっ、

 き、キサマ、ギッ!?」


 ――予想外の方法で、妨げられた。


 一人が仲間を盾にして、わざと一撃目で殺させる。

 まだ痙攣する仲間の身体を盾にし続けて接近し、セアックの命を狙ったのだ。


 ここで、セアックの経験が、状況に応じて新たな未来予測を開始する。

 それが今までの戦闘だった。

 

「うっ」


 だが、セアックは目眩を感じて一瞬の隙を見せた。

 現役時代ならば、そもそも残虐な盗賊が仲間を盾にするところまで読んでいただろう。

 敵に近づかせず、遠距離の内に全て仕留めていただろう。

 

 だが、セアックは現役を離れて久しい。

 戦場に立たず獣を狩猟していた数年が、セアックの“戦士”としての部分を脆くしていた。


「ひはははっ!」


 狂った笑みを浮かべる盗賊を、霞む視界で見る。

 この程度で立ち眩みを起こしてしまう、老いた身体を恨めしく思う。

 でもそれよりも、残してしまう者のことを考えると、いたたまれなかった。


「すまん、ナーリャ」

「死ねぇぇぇええええぇッッッ!!!」


 そしてその、鉄さびの剣が、セアックを――――。









【六】









 セアック手製の弓を持ち、山を駆ける。

 狩人として森に挑み、まだ半年の半人前。


 それでもナーリャは、セアックの弟子として森での生き方を心得ていた。


 森で木々に足を取られたりはせず、狭間を縫うように駆けていく。

 枝葉で身体が傷ついていくことを気にする余裕もなく、ひたすら走る。

 石を蹴り上げ、樹皮に当たって己に返り、掠めた頬から血を流しても構わず走る。


「爺ちゃんっ」


 不安と心配で霞む声は、弱々しい。

 たった一人の家族。

 空っぽの自分が得た、大切な“記憶”を、こんなに早く失ってしまうのは、嫌だった。


「失いたくない」


 歯を噛みしめて放たれた言葉には、切実な想いが込められていた。

 どうしようもない胸騒ぎが、ナーリャの身体に余分な力を入れさせる。

 そのせいで普段よりも何倍も疲れているというのに、ナーリャはそのことに気を回す余裕がなかった。


「失う、もんかッ」


 足に力を込めて、更に速度を上げる。

 そしてその先に……盗賊達と戦うセアックの姿を見た。


「爺ちゃんッ

 ……あれ?動きが、変だ」


 一目でセアックの体調を見抜いたナーリャは、戸惑いの声を零した。

 明らかに動きの悪いセアックの姿と、斬りかかる盗賊達の姿。

 その姿に“嫌な予感”を感じて、ナーリャは弓を構えた。


「矢を、番えなきゃ」


 だが、肝心の矢を番える段階にきて、ナーリャは矢筒に手を伸ばせずにいた。

 目測で距離も測り、矢の軌道も、今までにないほどクリアに見えている。


 それでも、そう、それでも……人間に向かって“矢を番える”ことが、出来なかった。


「ぁ、だめ、だ」


 このままでは、明らかに調子の悪いセアックに、凶刃が襲いかかることだろう。

 そうしたら、それで終わり。

 もう二度と、ナーリャの“大切な人”は戻ってこない。


「戻って、こない?」


 そのキーワードが、ナーリャの頭に響く。

 失った“何か”が、ナーリャの背を押して、その手に力を入れさせた。


「ぅ、あ」


 自然と溢れた涙で、頬を濡らす。

 セアックの優しい表情が、“誰か”と重なって、ナーリャは歯がみした。


「失いたくない。

 失いたく、ないんだッ!」


 震える手で、矢筒から矢を引き抜いた。

 培われた経験が、ナーリャの動作を“完璧”なものとするおかげで、もう手の震えは止まっていた。


 心はこんなにも、震えているのに。


「あぁぁああああぁぁッッッ!!!」


 流れるように美しく、一派先を見据えて弓を構え直す。

 矢を番えて弦を引くも、その弦も弓も矢も、震えることなく静かに構えられている。


「先見、一手」


 ただ一言呟かれた、言葉。

 セアックの頭上に凶刃が到達する、その一歩前。

 その命運を分けるタイミングで――――ナーリャの矢が、間に合った。


――トスッ


 呆れるほどあっけない、終わり。

 たったそれだけで、盗賊は心臓を抑えて事切れた。


 誰かの命を屠った手は、思っていたよりもずっと軽くて、重い。

 自分が他者を殺したというどうしようもない真実が、ナーリャの心を砕いていた。


「僕は、ぼくはッ」


 両膝をついて、顔を両手で覆う。

 手首の付け根が強く押しつけられた目元は、赤く腫れていた。


「ナーリャ」

「あぁ、ぁぁああぁ」


 蹲って泣く“家族”の姿に、気がついて近づいたセアックが声をかけた。

 だが何と言っても良いのか解らず、ただ肩を並べて背中をさする。


「すまん、ナーリャ。すまん」

「爺ちゃんっ、

 あぁ、ぁあぁぁッ!」


 自分の身体を抱き締めるナーリャを、セアックは強く抱き締めた。

 より多くのものを、この少年に……“家族”に遺してやりたいと、小さな決意を胸に秘めて、ただ今はナーリャを慰める。






 ナーリャ=ロウアンス。

 彼は十五歳の春、始めて他者を射抜いた。

 その冷たくとも空虚な感触は、今もなお彼の中に残っている。


 他者の命を奪うという、その覚悟。

 彼の心に番えられた“覚悟”の矢は、今もなおその切っ先を磨いている。


 誰も失わない――――失わせない、ために。





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