警備ロボット :約6000文字 :SF :ロボット
ある日の夕暮れ時、とある古びた商業ビルの七階。テナントが並ぶフロアを抜けた先の廊下には、窓の向こうから差し込む夕陽が床に橙色の四角い光を等間隔に落としていた。天井の電灯はまだ点いておらず、壁際や廊下の隅では影がじわじわと濃くなり始めている。営業を終えた店舗もちらほらと見られ、フロア全体が閑散としていた。
窓の外には紫がかった空が広がり、一日の幕を静かに下ろそうとしているかのような雰囲気。街の喧騒もこの階に届く頃には弱まり、天井のスピーカーから流れる『蛍の光』が静かな廊下によく響いている。穏やかな旋律でありながら、どこか人を追い立てるようなせわしなさがあった。
その廊下の一角で、老人がひとりエレベーターの前に立ち、扉が開くのを待っていた。
杖を床に突き立て、わずかに体重を預けていたが、鈍い光を返す硬質な床は、力をかける角度を誤れば杖の先がずるりと滑りかねず、肩に妙に力が入っていた。
階数表示を見上げていると首が痛くなるため、老人は閉ざされた扉をただじっと見つめていた。
呼び出しボタンはすでに押してあるが――念のため二回――、本当にやってきているのか疑わしい。ちらりと視線を落とすと、ボタンの透明なカバーにはひびが入っていたが、橙色のランプが点灯しているので、一応動いてはいるらしい。
そろそろ来てもいい頃だろう。そう思い、老人が扉の上にある階数表示を確かめようとした、そのときであった。
ガン――。
何かが足にぶつかった。
老人は「うっ」と短く呻き、反射的に足元へ視線を落とした。そして、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは――。
『離れてください。離れてください』
「……なんだよ」
老人は顔をしかめ、忌々しげに呟いた。
そこにいたのは警備ロボットだった。背丈は老人のへその下ほどで、白い外装は筍のように上に向かってやや尖った形をしており、底部には小さな車輪がいくつも取りつけられている。
駅の構内やショッピングモールなどで見かける、ごくありふれた型――ただし、それより何世代か前のもの――である。胴体に貼られた警備会社のロゴシールは保護フィルムが剥がれかけており、黄ばんでいた。
『離れてください。離れてください』
「お前が離れろよ」
老人は吐き捨てるように言うと、ロボットの胴体に膝をこつんと当てた。
『進路を塞がないでください。こちらは巡回中の警備ロボットです。進路を塞がないでください』
「だから、お前がどけ」
このポンコツめ――老人は小さく毒づき、今度は先ほどより強く膝を当てた。すると、ロボットは低い駆動音を立てながら、ようやく後ろへ下がり始めた。車輪が床の欠けた部分を通過するたびに、かたん、かたんと間の抜けた音が響いた。
老人はふんと鼻を鳴らし、エレベーターの扉へ向き直った。
が――。
「うぐっ……」
またしても足に衝撃が走り、老人は呻いた。ロボットが再びぶつかってきたのだ。しかも先ほどよりも勢いがあったらしく、膝に受けた衝撃が脚の付け根まで駆け上がり、ぶつけられた箇所がじんと痛んだ。
『離れてください。離れてください』
「この馬鹿が……!」
本来なら、前方に人がいればセンサーで検知し、自動的に進路を変えて接触を避けるはずだった。だが、センサーが劣化しているのか、それとも老人が執拗に進路を塞いでいると誤認しているのか、ロボットは同じ警告を繰り返すばかりだった。その無機質な声が老人の神経を逆撫でした。
老人はカッと目を剥き、杖を強く握りしめた。そして振り上げると、ロボットの頭頂部めがけて思い切り振り下ろした。
カンッ――乾いた打撃音が廊下に響いた。
『叩かないでください。こちらは警備ロボットです。離れてください』
「お前が悪いんだろうが! お、お、お……」
怒鳴り声を上げたそのときだった。ロボットが胴体を押しつけるようにして前進してきた。
老人はよろめき、慌てて杖を床につこうとしたが、その杖をロボットの胴体が弾いた。
老人は体勢を崩し、踏ん張る間もなくその場にどすんと尻もちをついた。衝撃が背骨を駆け上がり、低く呻きながら天井を仰ぐ。
『離れてください。離れてください』
「よ、よせ、おい……」
ロボットはなおも前進を続け、倒れた老人の足をぐいぐいと押し込んできた。
老人は床に手をつき、尻を擦るように後ずさったが、ロボットはすぐさま距離を詰めてきた。
『離れてください! 離れてください! 警告! 離れてください!』
甲高い警告音が二度鳴り響いた。老人は立ち上がろうとするも、ロボットが廊下の奥へ奥へと押しやっていく。靴底が滑り、足は何度も空を掻いた。
老人は杖を握り直し、ロボットの胴体を突いた。
「やめろ! おい!」
杖の先端を当て、どうにか押し返そうとした。しかし、ロボットは後退するどころか揺れもせず、さらに押し込んできた。
老人はよろめき、床に肘をついて低く呻いた。
『暴力行為を検知しました』
「は、はあ?」
『あなたの行為は器物損壊罪に問われる恐れがあります。また、警備会社から損害賠償を請求される場合があります』
「お前のせいだろうが!」
老人は怒りに肩を震わせ、再び杖を振り上げると、ロボットの胴体めがけて力任せに振り下ろした。鈍い金属音が廊下に響いた。
その瞬間、ロボットの胸部が白く瞬いた。視界に緑色の残像が滲み、老人は思わず顔を背けて目を閉じた。
『写真を撮影しました。警備会社へ送信します』
「や、やめろ……!」
『送信に失敗しました。あなたの行為は器物損壊罪に問われる恐れがあります。また、警備会社から損害賠償を請求される場合があります』
「うるさい! 来るな! おい、誰か! 誰かいないのか!」
老人は声を張り上げながら体を起こそうとした。床に手をつき、腰を浮かせる。だが膝が伸びきる前に、ロボットが押し込んできて、ますます後ろへ追いやられた。何度試みようとその繰り返しで、どうにか身をよじって体を横へずらすのが精一杯だった。
必死に首を伸ばしてロボットの背後を覗き込んだが、廊下には誰の姿もなく、足音一つ聞こえなかった。
『逃げないでください。警備会社へ通報します……失敗しました。逃げないでください。逃げないでください』
老人は腕と足で床を擦りながら後ずさるが、ロボットはモーターを低く唸らせながら追いすがり、距離は一向に開かない。
どうにかしてこいつを止められないか――老人は息を切らしながらロボットの車体に目を凝らした。
白い外装には擦り傷が幾筋も走り、壁を擦ったのかそれとも靴跡なのか、黒い汚れがあちこちに見て取れた。塗装の剥がれた部分や小さな凹みもあり、定期的にメンテナンスされているのかも疑わしい。
黒いスピーカーの横には小さなボタンが一つ埋め込まれており、老眼で霞む目を細めると、かろうじて『連絡』という文字が読めた。
老人は杖を両手で握り、銃のように構えると先端をボタンへ向けた。
押そうとするたびに、ロボットがぐいぐいと車体を押し込んできて杖の先端がカッ、カッと横に弾かれたが、狙いをつけ直し、四度目にしてようやくボタンを捉えた。
『……はい、こちら管理センターです』
雑音混じりの、どこか気だるげな男の声がスピーカーから流れた。
どうやら管理会社に繋がったらしい。老人は安堵の息を吐き、唾を飲み込むと顔をスピーカーに近づけた。
「おい、聞こえるか。おたくのロボットが体を押してくるんだ」
『あー、ロボットから離れてください』
「いや、だから離れても押してくるんだよ。さっさと止めてくれ」
『近寄らず、ロボットから離れていただければ問題ありませんので』
「いや、向こうから近寄ってきたんだ! 早く止めろ!」
『……またかよ』
男が小さく息を吐いた。
『ロボットの指示どおりにすれば大丈夫ですから。壊したら弁償ですよ。では』
「だから――」
ブツッと湿った音がした。それきり、老人が何度呼びかけても、スピーカーの向こうからは雑音一つ返ってこなかった。
もしかすると面白半分に近寄る者や、いたずらを仕掛ける者が多いのかもしれない。以前、街を歩いているとき、ロボットを小突いたり、蹴ったりしては笑いながら逃げていく若者たちを見たことがあった。
このロボットも、そういった扱いが原因で不具合を起こしたのか。
だが、原因の見当がついたところで打つ手は浮かばず、老人は廊下の奥へと押しやられるばかりだった。
窓の外の橙色はいつの間にか褪せ、床に並んだ四角い光は細く痩せ始めていた。気づけば、まるで入れ替わるかのように天井の電灯が弱々しい光を落としていた。
やがて、チンと高い音が廊下に響いた。
老人は、はっとして上体を起こし、ロボットの脇から必死に奥を覗き込んだ。
エレベーターが到着したのだ。低い駆動音とともに扉がゆっくりと開き始めた。
老人は助けを求めようと大きく息を吸い込んだ。が――扉の向こうからは誰も現れず、白い照明の冷たい光が廊下へ漏れ、太い光の帯を作るだけだった。
扉は静かに閉じ、老人の荒い呼吸とロボットのくぐもった駆動音だけが廊下に響いていた。
「……この! どけ! どけと言っているんだ、この馬鹿が!」
胸に絶望が込み上げたが、それはすぐさま怒りへと変容した。老人は杖をやたらめったらに振り回し、ロボットの胴体を何度も叩いた。
杖は弾かれ、擦れ、乾いた音が響く。手のひらは痺れ、肩には痛みが走り、視界は激しく揺れた。
『叩かないでください。逃げないでください』
だがロボットはまるで意に介さず、無機質な音声を繰り返し流しながら、一定の速度で前進を続けた。
やがて老人は廊下の端――窓のない暗がりへと追いやられた。天井の電灯の光もわずかにしか届かず、澱のように濃い影が溜まっている。床の冷たさが這い上がり、老人は体の芯まで冷えていくような心地がした。
そのとき、ひゅっと喉が鳴った。横手の暗がりから、ひやりとした空気が肌を撫でたのだ。
老人はゆっくりと顔を向けた。
――階段!
すぐ脇に、下階へと続く階段が口を開けていた。踊り場の壁に取りつけられた白い電灯が、そこに掲げられた『7』の階数案内板を寒々しく照らしている。湿った空気が下から這い上がっていた。
老人は目を見開き、慌てて正面を向き直った。なんとか体の向きを変え、階段から離れようとしたものの、ロボットに押され続けて思うようにいかない。それどころか、ロボットは車体の向きを少しずつ変え、老人を階段のほうへと追い立てていった。
背筋にすうっと寒気が走った。空気の流れだ――そう思って振り返ると、尻のすぐ後ろには床がなく、階段の段差が続いていた。
「ど、どけ! おい! どくんだ!」
『離れてください。離れてください』
「お前が離れろよ、この馬鹿が!」
追い込まれ、ついに尻が階段の縁からはみ出した。背後の床を探った手は空を掻き、ひやりとした感覚に老人は咄嗟に手を前方の床についた。
その直後だった。
「ぎっ、あああああっ!?」
ロボットの車輪が老人の右手の甲に乗り上げた。ごりごりと骨を擦られる感触とともに、電気が弾けるような痛みが腕を駆け上がり、視界が白く明滅した。老人は喉を裂かんばかりに叫び、反射的に体を引こうとしたが、手はまったく抜けなかった。
老人は杖を振り上げ、ロボットの車体に何度も叩きつけた。しかし、そのたびにロボットは、まるで足で踏みにじるかのように老人の手の上で車輪を前後に動かした。
『叩かないでください。叩かないでください。叩かないでください』
「ちょっと……叩いただけだろ……なんで、こんな……」
老人は痛みに顔を歪め、掠れた声を漏らした。
車輪はレールの上を進むかのように、手の甲から手首へとじりじり這い上がっていく。皮膚がぐにいと歪み、その奥でみしりと嫌な音がした。車輪の汚れが黒い筋となって皮膚にこびりつき、さらにみるみる赤紫色に変わっていった。
老人は奥歯を噛み締め、声にならない息を吐きながら、どうにかして腕を引き抜こうともがいた。
そのときだった。ロボットの車体がわずかにぐらついた。
老人は視線を落とした。すると、腕を踏んでいる側とは反対側の車輪が浮き、車体の底と床との間にほんのわずかな隙間ができているのが見えた。腕の厚さの分だけ、反対側が持ち上がっているのだ。
老人はすかさず杖をその隙間に差し込んだ。そして持ち手を階段側へ向け、梃子の要領で杖に全体重をかけた。
「うぐううう……!」
歯を食いしばり、階段側へ体を押し込むようにして残された力を振り絞る。杖がしなり、車体がガタンと傾いた。そして次の瞬間――車輪が腕から逸れた。
老人はすぐさま腕を引き抜くと、その勢いのまま転がるようにして体を横へ投げ出した。
ロボットはなおも止まらなかった。そして車体の先端が階段の縁に差し掛かった瞬間、前輪が空を切った。
『離れてくだ――』
ガン、ガン、ガン――。
凄まじい衝撃音が立て続けに響き、階段の吹き抜けにこだました。
やがて音が止むと、あたりには静けさが戻った。
老人は痛む腕をかばいながら床を這い、ゆっくりと階段下を覗き込んだ。壁にぶつかった勢いで止まったのだろう、ロボットは踊り場で横倒しになり、底部の車輪が空しくカラカラと回り続けていた。
『離れてください。離れてください』
老人は口を開けたまま、しばらくその姿を見下ろしていた。やがてふっと小さく息をつき、ゆっくりと体を起こした。
廊下の窓から差し込む光は、もう残り火のようにわずかしか残っていなかった。
ビルを出た老人は、右手をかばいながら左手で杖をついて歩き出した。
街はすでに薄青い黄昏に沈み、道沿いの街灯が柔らかな光を灯していた。夕風が汗ばんだ首筋を冷やし、行き交う人々のざわめきが耳をくすぐった。
立ち止まって右手を見下ろすと、手の甲はわずかに腫れ上がり、車輪の跡が痣のように浮かんでいた。指を動かそうとすると痛みが走り、老人は顔を歪めた。
病院へ向かうべきか、それとも交番へ行ってあのロボットのことを訴えるべきか。老人は決めかねていた。
『清掃中です。ありがとうございます』
ふいに聞こえた声に、老人ははっと顔を上げた。ちょうど清掃ロボットが横を通り過ぎようとしているところだった。先ほどの警備ロボットとほぼ同じ大きさで、低い排気音を立てながら路面を滑るように進み、たばこの吸い殻や丸まったレシートを次々と底部に吸い込んでいた。
老人はちらちらと周囲を見回したあと、杖をぐっと握りしめた。そして――。
ガンッ――。
杖を振り上げ、清掃ロボットの背中へ素早く一発叩き込んだ。鈍い音が周囲に響き、近くを歩いていた通行人がちらとこちらへ目を向けた。
そして、すぐに視線を逸らして歩き去っていった。
ああ、ああいう人いるよね――。
そう言いたげに、わずかに顔をしかめながら。




