【追加しました】婚約破棄され、兄に売られるように子連れ侯爵へ嫁ぎました。嫌われていた継母ですが、寂しかった子供たちを愛した結果、お母様と呼ばれるようになり、元婚約者と兄は青ざめています
第一話 婚約破棄された令嬢、二児の母になる
「お前の嫁ぎ先が決まった」
兄の言葉に、セムラナ=ムーンは手を止めた。
窓の外では春の雨が降っている。
薄いピンク色の髪が揺れた。
「……そうですか」
静かな返事だった。
目の前に座るのは兄のギルバート=ムーン。
二十六歳。
両親の死後、ムーン子爵家を継いだ男だ。
だがセムラナは知っている。
この兄は自分のことなど家族だと思っていない。
ただ利用価値のある駒だと思っている。
「相手はカルダナ侯爵だ」
その名前にセムラナは少し驚いた。
ヤケイ王国でも有名な大貴族だった。
広大な領地を持ち、若くして王国を支える重臣。
だが――。
「奥様を亡くされた方ですね」
「ああ」
「六歳のご子息と四歳のご令嬢がいるとか」
「だから何だ」
兄は冷たく言った。
「お前は後妻として嫁ぐだけだ」
その言葉に、セムラナの胸が少しだけ痛んだ。
だが表情には出さない。
今さらだった。
両親が亡くなったあの日から。
彼女の人生は変わってしまったのだから。
◇
一年前。
ムーン子爵夫妻は馬車事故で命を落とした。
領地視察の帰りだった。
突然の訃報。
悲しむ暇もなかった。
家督を継いだ兄は領地経営に失敗し、多額の借金を抱えたのである。
そして――。
「婚約は解消させてもらう」
婚約者だったアレクシス伯爵令息はそう言った。
王都の高級レストラン。
大勢の貴族が見ている前だった。
「理由をお聞きしても?」
セムラナは静かに尋ねた。
するとアレクシスは鼻で笑った。
「分からないのか?」
隣には美しい金髪の令嬢が座っている。
「没落寸前の子爵家と結婚する価値はない」
店内からクスクスと笑い声が漏れた。
「親も死んだ」
「金もない」
「後ろ盾もない」
アレクシスはワインを傾ける。
「正直言えば重荷だ」
その瞬間。
セムラナの中で何かが冷えた。
この男を好きだったわけではない。
政略結婚だった。
それでも。
十年以上婚約者だった相手だ。
少しは情があると思っていた。
だが違った。
最初から価値しか見ていなかった。
「そうですか」
セムラナは立ち上がる。
「では失礼します」
「泣かないのか?」
「なぜです?」
「捨てられたんだぞ」
その言葉にセムラナは微笑んだ。
「捨てられたのではありません」
そして。
「本性が見えただけです」
店内が静まり返る。
アレクシスの顔が歪んだ。
その姿を最後に、彼女は店を後にした。
◇
――前世なら。
きっと泣いていた。
セムラナは思う。
彼女には前世の記憶があった。
三十代の会社員だった女性。
毎日働き。
理不尽な上司に頭を下げ。
家族のために頑張り続けた人生。
そして過労で倒れ、そのまま命を落とした。
だから分かる。
世の中には理不尽がある。
努力が報われないこともある。
人は平気で裏切る。
だからこそ。
前世の自分は最後まで諦めなかった。
今世も同じだ。
◇
「話は終わりだ」
兄が立ち上がる。
「お前は来月嫁げ」
「兄上」
「何だ」
「私に拒否権はありますか?」
ギルバートは鼻で笑った。
「あると思うのか?」
その一言で終わった。
「お前は家のために働け」
冷たい声。
「子爵家は苦しい」
「……」
「侯爵家との縁ができれば借金も整理できる」
そして。
「妹として最後の役目を果たせ」
セムラナは何も言わなかった。
言っても無駄だからだ。
兄の中では決定事項だった。
◇
結婚式は簡素だった。
派手な祝福もない。
笑顔も少ない。
それでもカルダナ侯爵は誠実だった。
金髪碧眼の美丈夫。
二十八歳。
凛々しい顔立ちだが、どこか疲れて見える。
「お会いできて光栄です」
セムラナが頭を下げる。
「こちらこそ」
カルダナも礼を返した。
「急な話で申し訳ありません」
その言葉は本心だった。
兄とは違う。
少なくとも人としての誠実さがあった。
「子供たちの件ですが」
カルダナの表情が曇る。
「無理をなさらないでください」
「はい」
「レオンは六歳です」
「……」
「妹のミリアは四歳」
少し沈黙した後。
彼は苦笑した。
「二人とも再婚には反対しています」
当然だろう。
母を亡くしてまだ二年。
知らない女性が母親になるのだ。
「私は仕事で家を空けることが多い」
カルダナは窓の外を見た。
「正直に言います」
疲れた声だった。
「父親としても失格かもしれません」
セムラナは少し驚いた。
貴族がそんな弱音を吐くのは珍しい。
「領地改革」
「王都での政務」
「国境問題」
カルダナは自嘲気味に笑う。
「気付けば子供たちとの時間がほとんどない」
だから再婚したのか。
愛ではない。
子供たちのため。
家のため。
必要だから。
それでも――。
セムラナは嫌ではなかった。
少なくとも利用するだけの兄よりはずっといい。
◇
侯爵邸に到着した日。
歓迎はされなかった。
「帰れ!」
レオンが叫んだ。
六歳とは思えないほど鋭い目だった。
「お前なんか母上じゃない!」
その横でミリアも泣いている。
「いやぁ……」
侍女たちが困った顔をする。
セムラナはしゃがみ込んだ。
「初めまして」
「嫌だ!」
「私はセムラナです」
「帰れ!」
返ってきたのは拒絶だけ。
ミリアも父親の後ろに隠れてしまう。
カルダナが頭を下げた。
「申し訳ない」
「いいえ」
セムラナは微笑んだ。
「当然ですから」
その日の夜。
一人になった部屋で窓を開ける。
夜風が頬を撫でた。
前世を思い出す。
理不尽な会社。
報われない努力。
それでも続けた日々。
そして今。
また新しい人生が始まる。
子供たちには嫌われている。
夫は仕事でほとんど家にいない。
味方もいない。
だけど――。
セムラナは小さく笑った。
「前世よりは簡単かもしれませんね」
少なくとも。
目の前の子供たちは悪人ではない。
ただ寂しいだけだ。
だから。
焦らなくていい。
少しずつ。
一歩ずつ。
家族になればいい。
その時だった。
コンコン。
扉が小さく鳴った。
「?」
開けると誰もいない。
だが床には小さな熊のぬいぐるみが落ちていた。
遠くの角から金色の髪が引っ込む。
ミリアだった。
思わずセムラナは笑う。
嫌われている。
そのはずなのに。
あの子は本当に優しい子なのだろう。
ぬいぐるみを胸に抱きながら、セムラナは夜空を見上げた。
この時まだ知らない。
自分を捨てた元婚約者も。
自分を売った兄も。
数年後、自分の幸せを見て後悔することになるなど――。
誰も知らなかった。
第二話 継母失格でも構いません
カルダナ侯爵家で迎える最初の朝。
セムラナは日の出前に目を覚ました。
前世でも早起きは得意だった。
会社員時代は始発電車に乗ることも珍しくなかったのだから。
「さて……」
身支度を整えたセムラナは窓を開けた。
広大な庭園が朝日に照らされている。
さすが侯爵家だ。
ムーン子爵家とは比べ物にならない。
だが豪華な屋敷のわりに、
どこか寂しい印象を受けた。
使用人たちの表情も固い。
笑顔が少ない。
まるで家全体が疲れているようだった。
その理由は朝食で分かった。
「申し訳ありませんが、本日も王都へ向かいます」
カルダナは朝から書類の山を抱えていた。
執事が次々と予定を報告する。
「王城で会議が二件」
「国境警備隊との面談」
「夕刻には財務局との会合がございます」
「分かった」
カルダナは疲れた顔で頷いた。
そして慌ただしく席を立つ。
「レオン、ミリア」
二人は返事をしない。
食事を続けるだけだ。
「……行ってくる」
沈黙。
カルダナは苦笑した。
「セムラナ様、申し訳ありません」
「お気になさらず」
そして侯爵は屋敷を後にした。
馬車が見えなくなった後も、子供たちは何も言わない。
だが。
セムラナは見逃さなかった。
窓の外を見つめるレオンの横顔を。
父親を見送っていた。
◇
「お母様って呼べとは言いません」
朝食後。
セムラナは子供たちの前にしゃがんだ。
「セムラナでも奥様でも好きに呼んでください」
「呼ばない」
レオンは即答した。
「そうですか」
「怒らないの?」
ミリアが不思議そうに首を傾げる。
「どうして?」
「だってお兄ちゃん失礼だもん」
セムラナは少し笑った。
「無理に仲良くなる必要はありません」
レオンが眉をひそめる。
「本当に?」
「はい」
「じゃあ近づくな」
「分かりました」
あまりにもあっさり引き下がったので、逆にレオンが戸惑った。
◇
その日の昼。
セムラナは厨房を訪れていた。
「奥様?」
料理長が驚く。
「何か問題でもございましたか」
「いいえ。少しお借りしても?」
前世で料理は得意だった。
節約生活をしていたため、自炊ばかりだったのである。
「レオン様のお好きな料理ですか?」
「好きな料理?」
「はい」
料理長は困ったように笑った。
「実は最近、あまり召し上がらなくて」
ミリアも同じらしい。
母親が亡くなってから食が細くなったという。
セムラナは考え込んだ。
そして。
「では簡単なものを作りましょう」
◇
昼過ぎ。
庭園で遊んでいたミリアが匂いに気付いた。
「いいにおい……」
テーブルの上には小さな焼き菓子。
丸くて可愛らしい。
「どうぞ」
セムラナが差し出した。
「食べていいの?」
「もちろんです」
ミリアは恐る恐る口に運ぶ。
次の瞬間,
目を丸くした。
「おいしい!」
ぱあっと笑顔になる。
その声を聞きつけてレオンもやって来た。
「何してる」
「お菓子!」
「……」
警戒しながら一つ手に取る。
そして、もぐもぐ。
しばらく無言。
さらにもう一つ。
もう一つ。
「レオン様?」
料理長が驚いていた。
最近ほとんど食べなかった少年が、夢中になっている。
「別に普通だ」
そう言いながら四つ目を食べていた。
セムラナは笑いを堪えた。
◇
その夜、カルダナが帰宅したのは日付が変わる頃だった。
「お帰りなさい」
セムラナが出迎える。
「まだ起きていたのですか」
「夕食は?」
「王都で済ませました」
そう言うが顔色は悪い。
疲労が見て取れた。
前世の社畜時代を思い出す。
この人、倒れるのでは。
本気でそう思った。
「少々お待ちください」
厨房へ向かい、温かいスープを用意する。
「これは?」
「夜食です」
「しかし」
「食べないと倒れますよ」
思わず断言してしまった。
カルダナは目を瞬く。
やがて苦笑した。
「久しぶりです」
「?」
「誰かにそう言われたのは」
スープを口に運ぶ。
そして少しだけ表情が緩んだ。
「美味しいな」
その言葉にセムラナも安心する。
◇
翌朝、屋敷に小さな騒ぎが起きた。
「ミリア様がいない!?」
侍女が青ざめている。
まだ四歳だ。
屋敷中が慌てて探し始める。
レオンも顔色を変えた。
「ミリア!」
だが見つからない。
するとセムラナはふと思った。
昨日、ミリアは花壇を見ていた。
何度も。
「庭です!」
セムラナは走った。
屋敷の裏庭、花畑の近く。
そこに小さな金髪の少女がいた。
「ミリア!」
「ひっ……」
泣きそうな顔。
「迷子になったの?」
ミリアはこくりと頷く。
「お花見てたら分かんなくなった……」
セムラナは優しく抱き上げた。
「大丈夫ですよ」
すると、ぎゅっ、小さな手が服を掴む。
「……ごめんなさい」
か細い声だった。
「謝らなくていいんです」
そのまま抱きしめる。
前世で子供はいなかった。
でも、守りたいと思った、本心から。
屋敷へ戻ると、レオンが駆け寄ってきた
「ミリア!」
「お兄ちゃん!」
兄妹が抱き合う。
そしてレオンは一瞬だけセムラナを見た。
ほんの少し。
昨日より敵意が薄れていた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
聞こえないほど小さな。
けれど確かに。
六歳の少年は初めて継母に感謝を伝えたのだった。
その様子を見ながらセムラナは思う。
焦らなくていい。
一歩ずつでいい。
この子たちと、本当の家族になれる日まで。
そのためなら何度でも手を差し伸べようと。
まだ始まったばかりの新しい人生の中で、セムラナは静かにそう誓った。
第三話 継母なんて認めない
カルダナ侯爵家へ嫁いで二週間。
屋敷には少しずつ変化が生まれていた。
「おはようございます」
朝食の席でセムラナが挨拶する。
するとミリアが小さく手を振った。
「おはよう」
ほんの一言。
それだけなのに侍女たちは目を丸くした。
最初の日は顔を見るだけで泣いていたのだから。
「ミリア、お行儀」
レオンが注意する。
「はーい」
兄妹のやり取りを見て、セムラナは微笑んだ。
少しずつだが前に進んでいる。
そんな気がしていた。
◇
その日の昼。
セムラナは庭園でミリアと花壇を作っていた。
「このお花かわいい!」
「そうですね」
「こっちも!」
「それも綺麗です」
楽しそうに笑うミリア。
最初の頃の怯えた姿はかなり薄れていた。
だが――。
「ミリア様!」
侍女が慌てて駆けてくる。
「お客様がお見えです!」
「お客様?」
セムラナが首を傾げる。
すると侍女の顔が少し曇った。
「侯爵様の叔母君です」
◇
応接室。
そこには豪華なドレスを身にまとった女性が座っていた。
五十代半ばほどだろうか。
宝石をこれでもかと身につけている。
鋭い目。
高そうな香水。
そして嫌味な笑顔。
「初めまして」
セムラナが礼をする。
すると女性は扇子を開いた。
「あなたが新しい奥様?」
「はい」
「まあ若いこと」
言葉は丁寧だ。
だが見下しているのが丸分かりだった。
「私はエルザ=カルダナ。侯爵の叔母です」
「よろしくお願いいたします」
「ふふ」
エルザは笑う。
そして。
「よくもまあ後妻になれたものね」
応接室の空気が凍った。
侍女たちが顔を青くする。
「叔母様」
「事実でしょう?」
エルザは肩をすくめた。
「子供付きの再婚相手なんて普通は嫌がるもの」
セムラナは黙っていた。
「しかも没落寸前の子爵家」
「……」
「侯爵家に拾ってもらえて良かったわね」
完全な嫌味だった。
だが前世の会社員生活を経験したセムラナには、それほど効かなかった。
もっと酷い人間を知っている。
「そうですね」
「え?」
エルザが目を瞬く。
「私は幸運だと思っています」
穏やかな返事だった。
「侯爵様もお子様たちも素敵な方ですから」
今度はエルザが黙った。
嫌味が通じなかったのである。
◇
その頃。
廊下ではレオンが話を聞いていた。
偶然だった。
だが叔母の言葉は全部聞こえた。
没落令嬢。
後妻。
拾われた。
そんな言葉ばかり。
レオンは小さく拳を握った。
確かに自分はまだセムラナを母とは認めていない。
でも、あの人は悪い人じゃない。
少なくとも叔母よりはずっと優しい。
◇
夕方、エルザは帰っていった。
だが置き土産を残して。
「侯爵様がお帰りです」
使用人が知らせる。
カルダナはいつものように疲れた顔だった。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
セムラナが出迎える。
その時だった。
「カルダナ!」
エルザが突然立ち上がった。
「この奥方を甘やかしてはいけません!」
「叔母上?」
「子供たちの教育も任せきりなのでしょう!」
カルダナが眉をひそめる。
「何の話ですか」
「私は見ました!」
大袈裟に扇子を振る。
「この奥方は一日中遊んでおります!」
セムラナは思わず目を瞬いた。
花壇作りのことだろうか。
「子供と遊び!」
「お菓子を作り!」
「庭で笑っておりました!」
使用人たちが呆れた顔になる。
それは仕事をしていたのと同じだ。
だがエルザは違うらしい。
「貴族夫人としての自覚がありません!」
カルダナは静かに聞いていた。
やがて。
「叔母上」
低い声で言った。
「それの何が問題なのですか?」
「え?」
エルザが固まる。
「子供たちが笑顔になる」
「……」
「食事を取るようになる」
「……」
「それ以上に大切な仕事がありますか?」
応接室が静まり返った。
エルザは真っ赤になる。
「わ、私は侯爵家のためを思って!」
「十分です」
カルダナは冷たく言った。
「今後は私の妻への無礼をお控えください」
初めてだった。
彼がここまで強く言ったのは。
エルザは悔しそうに唇を噛む。
そのまま足早に去っていった。
◇
夜、子供たちが寝静まった後、セムラナは温かい紅茶を淹れていた。
「今日は申し訳ありませんでした」
カルダナが頭を下げる。
「叔母上は昔から少々……」
「大丈夫です」
セムラナは笑った。
「慣れていますから」
前世で散々理不尽な人間を見てきた。
エルザ程度なら可愛いものだ。
カルダナは少し驚いた顔をする。
「あなたは強いですね」
「そうでしょうか」
「私なら傷付いていました」
その言葉にセムラナは苦笑した。
この人は優しい。
だから疲れるのだろう。
全部一人で背負っている。
「カルダナ様」
「はい」
「少し休んでください」
また同じ言葉だった。
だが今回はカルダナも笑った。
「努力します」
◇
翌朝、セムラナが庭へ出ると、そこにレオンがいた。
珍しいことだった。
「おはようございます」
「……」
レオンは黙ったまま。
そして突然、小さな包みを差し出した。
「?」
「別に大したものじゃない」
ぶっきらぼうな声。
開けると押し花だった。
少し歪だが、一生懸命作ったことが分かる。
「これ」
レオンが視線を逸らす。
「ミリアを見つけてくれたお礼」
セムラナは目を丸くした。
そして、胸の奥が温かくなった。
「ありがとうございます」
本当に嬉しかった。
レオンは耳を赤くする。
「なくすなよ」
「はい」
その瞬間だった。
遠くからミリアが駆けてくる。
「お兄ちゃんずるい!」
「なっ!?」
「ミリアもセムラナにプレゼントあるの!」
兄妹が言い争いを始めた。
その光景を見ながらセムラナは笑う。
まだ母親ではない。
まだ家族とも言い切れない。
だけど、確かに距離は縮まっている。
そして屋敷のどこかで、長年失われていた温かな時間が、少しずつ戻り始めていた。
第四話 初めての家族の日
カルダナ侯爵家へ嫁いでから一か月が過ぎた。
春だった庭には色とりどりの花が咲き始めている。
侯爵邸にも少しずつ変化が現れていた。
「セムラナ!」
朝からミリアが駆け寄ってくる。
以前なら遠くから様子を窺うだけだった少女だ。
今では見つけると笑顔で走ってくる。
「おはようございます、ミリア」
「おはよう!」
元気いっぱいの返事。
セムラナは思わず笑顔になった。
すると後ろからレオンが現れる。
「ミリア、走るな」
「だってセムラナがいたもん!」
「転んだらどうする」
まるで小さな保護者だ。
六歳とは思えないほどしっかりしている。
「レオンもおはようございます」
「……おはよう」
まだ少し照れ臭そうだが、無視はしなくなった。
それだけでも大きな進歩だった。
◇
その日の朝食。
珍しくカルダナが席についていた。
いつもなら夜明け前に王都へ向かう。
だが今日は違う。
「侯爵様、お仕事は?」
セムラナが尋ねる。
するとカルダナは苦笑した。
「執事に無理やり休まされました」
隣の老執事が深く頷く。
「倒れられては困りますので」
「大袈裟だ」
「三日連続で執務室に泊まり込んだ方の台詞ではございません」
使用人たちも一斉に頷いた。
どうやら前科があるらしい。
セムラナは呆れた。
前世で見たことがある。
こういう働き方をする人間を。
そして大抵は体を壊す。
「今日は休んでください」
「……はい」
カルダナは観念したように答えた。
その様子に使用人たちが驚いている。
侯爵が素直に従うことなど滅多にないのだろう。
◇
午前中。
ミリアが突然言い出した。
「みんなでお出かけしたい!」
食堂が静まり返る。
「お出かけ?」
セムラナが聞き返す。
「うん!」
ミリアは目を輝かせた。
「家族で!」
カルダナの手が止まる。
レオンも固まった。
家族。
その言葉に誰もすぐ反応できなかった。
ミリアは不安そうになる。
「あれ?」
「いや……」
カルダナが困ったように笑う。
「久しぶりだったので」
「久しぶり?」
「四人で出かけるのがです」
亡き妻が生きていた頃以来。
そういうことなのだろう。
ミリアは少し俯いた。
「だめ?」
「だめじゃありません」
答えたのはセムラナだった。
「行きましょう」
ぱあっと少女の顔が明るくなる。
「ほんと!?」
「はい」
こうして急遽、家族で街へ出かけることになった。
◇
侯爵領の中心街。
休日ということもあり大勢の人で賑わっている。
「わあ!」
ミリアが歓声を上げた。
「お店がいっぱい!」
屋台。
花屋。
雑貨店。
子供にとっては夢のような場所だ。
「走るな」
レオンが追いかける。
その姿にセムラナは微笑んだ。
兄妹仲は本当に良い。
すると。
「セムラナ様」
隣からカルダナが声を掛ける。
「ありがとうございます」
「何がですか?」
「子供たちです」
カルダナは前を歩く兄妹を見る。
「最近よく笑うようになりました」
以前は違った。
母を亡くし。
父とも会えず。
屋敷は暗かった。
「あなたが来てから変わりました」
その言葉にセムラナは少し照れた。
「私は何もしていません」
「いいえ」
カルダナは静かに首を振る。
「私にはできなかったことです」
その横顔はどこか寂しそうだった。
セムラナは思う。
この人もまた孤独だったのだろう。
◇
その頃。
ムーン子爵家。
「何だと!?」
兄ギルバートが机を叩いた。
執事が青ざめている。
「商会が取引を停止いたしました」
「なぜだ!」
「それが……」
答えは簡単だった。
信用がないのである。
先代夫妻の死後。
ギルバートは浪費を繰り返した。
領地改革も失敗。
借金も増えた。
商人たちも距離を置き始めている。
「くそっ!」
ギルバートは苛立った。
本来ならセムラナの結婚で状況が改善するはずだった。
だがカルダナ侯爵は援助を拒否した。
政略結婚ではある。
しかし借金を肩代わりする義務はない。
当然の話だった。
「役立たずめ」
吐き捨てる。
その言葉を聞いて執事は顔をしかめた。
セムラナはずっと家を支えていた。
帳簿管理。
領民対応。
商会との交渉。
先代夫妻を手伝っていたのも彼女だ。
だがギルバートは何も理解していない。
◇
一方その頃。
セムラナたちは広場にいた。
「見て!」
ミリアが花冠を頭に乗せている。
「可愛いです」
「ほんと?」
「はい」
するとミリアは少し迷った後。
花冠を外した。
「セムラナにつける!」
「え?」
ぽすん。
頭に乗せられる。
ミリアは満足そうだった。
「似合う!」
レオンもちらりと見る。
「……まあ」
肯定だった。
その瞬間。
セムラナの胸が温かくなった。
前世では家族を持つことなく終わった。
恋人もいなかった。
仕事ばかりの人生だった。
だけど今は違う。
隣には子供たちがいる。
少し離れた場所にはカルダナもいる。
不思議だった。
政略結婚だったはずなのに。
いつの間にか、この時間が大切になっている。
◇
帰宅後。
子供たちは遊び疲れて眠ってしまった。
執事や侍女たちもどこか嬉しそうである。
「本当に楽しそうでしたね」
セムラナが言う。
「ええ」
カルダナも頷いた。
そして少し沈黙した後。
「また行きましょう」
そう言った。
「子供たちと」
「はい」
「……そして」
珍しく言葉を探す。
金髪の侯爵は少しだけ視線を逸らした。
「あなたとも」
セムラナは目を瞬いた。
それが家族としてなのか。
それとも別の意味なのか。
まだ分からない。
だがカルダナの耳が少し赤くなっていることだけは分かった。
その様子に思わず微笑む。
こうして少しずつ。
失われていた家族の時間は戻り始めていた。
そして同じ頃。
没落へ向かうムーン子爵家では、さらに大きな問題が起ころうとしているのだった。
◇
第五話 初めて「お母さん」と呼ばれた日
街へ出かけてから数日後。
カルダナ侯爵家の空気は、目に見えて柔らかくなっていた。
朝食の席では、ミリアの笑い声が響く。
「セムラナ、このパンおいしい!」
「ふふ。今日は厨房のみなさんと一緒に焼いたんですよ」
「だからふわふわなんだ!」
嬉しそうに頬いっぱいパンを頬張るミリアを見て、侍女たちも自然と笑顔になる。
以前なら考えられない光景だった。
母を亡くしてから、この食堂には笑い声などほとんど響かなかったのだから。
「……」
一方、レオンは黙々と朝食を食べている。
だが以前のような険しい表情ではない。
「レオン様、おかわりはいかがですか?」
「……もらう」
少し照れくさそうに皿を差し出す。
料理長は目を丸くした。
「今日はよく召し上がりますね」
「育ち盛りだから」
ぶっきらぼうな返事。
しかし耳が少し赤い。
セムラナは笑いそうになるのを必死でこらえた。
素直じゃないところまで可愛らしい。
◇
朝食後。
カルダナは王都へ向かう準備をしていた。
「今日は戻りが遅くなります」
「お気をつけて」
「はい」
以前と違うのは、そのやり取りだった。
以前のカルダナは、誰にも見送られず屋敷を出ていた。
だが今は違う。
「いってらっしゃい!」
ミリアが元気いっぱい手を振る。
レオンも少しだけ顔を背けながら、
「……気をつけて」
と小さく呟いた。
カルダナは一瞬、驚いたような顔をした。
そして、とても優しく笑う。
「ああ。行ってくる」
馬車が走り去るまで、二人は門の前で見送っていた。
その姿を見ながら、セムラナは胸が温かくなる。
この親子は、ちゃんと家族だった。
ただ、少しだけ時間が足りなかっただけなのだ。
◇
昼過ぎ。
ミリアが庭で転んだ。
「きゃっ!」
小さな膝を擦りむき、涙がぽろぽろとこぼれる。
「いたい……」
セムラナはすぐ駆け寄った。
「見せてください」
ハンカチを濡らし、優しく土を拭き取る。
「少ししみますよ」
「うぅ……」
「我慢できる?」
ミリアは涙を浮かべながら、こくりと頷いた。
「えらいですね」
包帯を巻き終えると、セムラナは優しく頭を撫でた。
「これで大丈夫です」
すると。
ミリアは突然、ぎゅっとセムラナに抱きついた。
「……?」
「こわかったぁ……」
小さな体が震えている。
セムラナは何も言わず、その背中を優しくさすった。
「大丈夫ですよ」
まるで前世で見た保育園の先生のように。
「もう痛くありませんからね」
その時だった。
「お母さん……」
小さな声が聞こえた。
セムラナの手が止まる。
「え?」
ミリアも自分で気付いたらしい。
「あ……」
顔が真っ赤になる。
「ち、違うの!」
慌てて離れようとする。
しかしセムラナは微笑んだ。
「ありがとうございます」
「怒らない?」
「どうして怒るんですか?」
「だって……」
ミリアは恥ずかしそうに俯く。
「本当のお母さんじゃないもん……」
その言葉に、セムラナはゆっくり首を振った。
「本当のお母様は、世界でたった一人です」
「……うん」
「だから無理に私をお母さんと呼ばなくても大丈夫ですよ」
ミリアは少し安心したようだった。
けれど。
「でも……」
小さな手が服の裾を握る。
「セムラナが、お母さんだったらいいなって……思っちゃった」
その一言だけで十分だった。
胸がいっぱいになる。
前世では一度も母になることはなかった。
誰かに必要とされる家庭も持てなかった。
けれど今。
一人の少女が、自分を家族だと思ってくれた。
それだけで、涙が出そうになるほど嬉しかった。
その日の夕方。
王都での仕事を終えたカルダナは、いつもより少しだけ早く屋敷へ戻ってきた。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、いつもなら静かな屋敷から、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
思わず足を止めた。
「ミリア、待ってください」
「やだー!」
「転ぶと危ないですよ」
庭ではセムラナが笑いながらミリアを追いかけていた。
その後ろでは、レオンが呆れたようにため息をつく。
「ミリア、走りすぎ」
「お兄ちゃんも来て!」
「僕はいい」
「えー!」
そう言いながらも、ミリアに腕を引っ張られ、結局レオンも鬼ごっこに付き合わされている。
子どもたちの笑い声が、夕暮れの庭に響いた。
「侯爵様」
隣に立った老執事が穏やかに微笑む。
「皆様、本当に楽しそうでございます」
「ああ……」
カルダナは静かに頷いた。
亡き妻を失ってから、この屋敷は時間が止まっていた。
子どもたちは笑わなくなり、自分は仕事へ逃げ続けた。
屋敷は広いのに、どこか冷たかった。
だが今は違う。
セムラナが来てから、失われていた日常が少しずつ戻ってきている。
その光景を見ているだけで、胸の奥が熱くなった。
◇
夕食の席。
今日は珍しく四人そろって食卓を囲んでいた。
「今日はね!」
ミリアが目を輝かせる。
「転んじゃったの!」
「それは自慢することじゃない」
レオンがすぐに突っ込む。
「えへへ」
「笑ってごまかすな」
二人のやり取りに、思わずセムラナもカルダナも笑ってしまう。
「でもね」
ミリアはカルダナを見上げた。
「セムラナが助けてくれたの!」
「そうか」
カルダナは優しい目で妻を見る。
「ありがとうございます」
「私は何も」
「いいえ」
カルダナは首を横に振った。
「あなたは、いつも子どもたちを守ってくださっています」
真っ直ぐな感謝の言葉だった。
セムラナは少し照れてしまう。
「当然のことをしているだけです」
「その当然が、一番難しいのです」
カルダナは穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見て、使用人たちは驚いていた。
侯爵がこんな穏やかな表情を見せるようになったのは、本当に久しぶりだったからだ。
◇
夕食後。
レオンは一人で書庫にいた。
机の上には、一冊の古びた絵本。
亡き母が読んでくれた、大切な本だった。
「母上……」
ぽつりと呟く。
忘れたことなど一度もない。
今でも大好きだ。
だから新しい母を認めることが怖かった。
認めたら、本当のお母様を裏切る気がしていた。
「……でも」
今日の出来事を思い出す。
ミリアを優しく抱きしめる姿。
自分を叱らず、急がせず、待ってくれる姿。
そして。
『本当のお母様は、世界でたった一人です』
その言葉が何度も胸の中で響いていた。
「……違うんだ」
レオンはようやく気付く。
セムラナは母親の代わりになろうとしているのではない。
母を大切に思う自分たちの気持ちまで、大切にしてくれているのだ。
その優しさが嬉しかった。
◇
翌朝。
セムラナが庭の花に水をあげていると、小さな足音が近付いてくる。
「レオン様?」
レオンは少し緊張した顔をしていた。
「あの」
「はい」
「昨日……ありがとう」
「昨日?」
「ミリア」
それだけで十分伝わった。
「私より、ミリアが頑張りました」
セムラナが微笑む。
レオンは首を横に振った。
「違う」
少しだけ唇を噛みしめる。
そして意を決したように顔を上げた。
「母上を忘れるのが怖かった」
セムラナは静かに耳を傾ける。
「だから、ずっとあなたを認められなかった」
「……」
「ごめんなさい」
まだ六歳の少年が、一生懸命頭を下げていた。
セムラナはしゃがみ込み、その小さな頭を優しく撫でる。
「謝らなくていいんですよ」
「でも」
「レオン様は、お母様のことが大好きだったんですね」
少年は涙をこらえながら頷く。
「はい……」
「その気持ちは、ずっと大切にしてください」
レオンは驚いたように目を見開いた。
「私は、お母様にはなれません」
優しく微笑む。
「でも、あなたとミリアのことは、これからも大切に守っていきます」
その瞬間だった。
レオンは小さく頷く。
「……お願いします」
短い言葉だった。
けれど、それは少年が初めて心からセムラナを家族として受け入れた瞬間だった。
少し離れた廊下では、その様子を偶然見ていたカルダナが静かに微笑んでいた。
「ありがとう……セムラナ」
誰にも聞こえないほど小さな呟き。
それは妻への感謝であり、失われた家族を取り戻してくれた女性への、心からの想いだった。
春風が花壇を優しく揺らす。
止まっていたカルダナ侯爵家の時間は、ようやく再び動き始めていた。




