エクリシア王国
遺跡の端に、馬が一頭、繋がれていた。
鞍と簡単な荷袋。
長旅用ではないが、街道を行くには十分だ。
リオラが手綱を外しながら言う。
「ここまで来たならさ」
「お礼もしたいし……一緒に乗って」
言い切りだった。
理由を重ねる気もなさそうだ。
一拍置いて、リオラが付け足す。
「家はエクリシアっていう国にあるんだけど」
「……さすがに、知ってるよね?」
その言葉に、
レグルスの意識が、わずかに引っかかる。
エクリシア。
口に出されただけの、国の名。
それ以上の説明も、感情も含まれていない。
それでも、
胸の奥で、何かが静かに揺れた。
レグルスは一瞬だけ考え、
それから、黙って頷いた。
リオラが先に鞍へ乗り、
少しだけ身を前に詰める。
「後ろ、空いてるよ」
レグルスは応じるように跨った。
二人分の重みを感じたのか、
馬が一度、低く鼻を鳴らす。
「……今からだと」
「普通は途中で泊まりかな」
歩き出しながら、リオラが言う。
「でも、急げば」
「日が沈む前には、たぶん」
そう言って、軽く手綱を引いた。
馬は、街道へ向かって走り出す。
遺跡を離れるにつれ、
森は途切れ、踏み固められた道になる。
背後で、レグルスは静かに呼吸を整えていた。
馬の動き。
脚の運び。
かかる負荷。
ほんの少しだけ、
魔力を流す。
速さではなく、
保つために。
馬の歩調が、乱れなくなる。
リオラは前を見たまま、口を開いた。
「ねえ」
「あなた、どこから来たの?」
間を置いて、続ける。
「……事情、ありそうだよね」
「言えないなら、無理に聞かないけど」
独り言のようで、
それでも、気にかけている声だった。
レグルスは答えない。
代わりに、
馬の背越しに、夕方の風を感じていた。
しばらくして、リオラが首を傾げる。
「……あれ?」
「この子、今日やけに元気じゃない?」
「二人乗りなのに」
「全然、ばてないね」
軽く笑う。
「ついてる日、かな」
レグルスは何も言わなかった。
空が、ゆっくりと赤く染まっていく。
「本当なら」
「もう野営の準備してる頃なんだけど」
そう言いながら、前方を見る。
「……でも」
少しして、声が弾んだ。
「あ、見えた」
丘の向こう。
石造りの壁が、夕焼けに浮かび上がる。
王都だった。
エクリシア。
「間に合ったね」
「日が沈む前に、着けるなんて」
街道を進むにつれ、
人の姿が増えていく。
行商。
帰路につく兵。
門へ向かう荷車。
リオラは自然に速度を落とした。
「……着いた」
そう言って、息を整える。
レグルスは、
王都の外壁を見上げ――
その奥へ、視線を向けた。
城がある。
街の中心。
人の流れが、無意識に避けている場所。
石造りの城郭は、
周囲の建物とは、明らかに年代が違っていた。
壁は削り直され、
街は広がり、
意味も、役割も、変わっている。
それでも。
かつて戦った、
あの城だけは――
記憶の中の姿と、ほとんど変わっていなかった。
「……」
レグルスは、目を伏せる。
王都は生きている。
だが、あそこだけは、
時間から切り離されたままだ。
門前で、兵の気配が集まる。
夕暮れの中、
迷いのない足取りが、こちらへ向かってきた。
——そのまま、通してはもらえなかった。
門前に立っていた兵が、一歩前に出た。
その視線は、まっすぐリオラに向けられている。
「……アウローラ様」
声に、安堵と緊張が混じる。
「どちらにいらしていたのですか」
「城を抜け出されたと聞いて……心配しておりました」
リオラは、少し気まずそうに笑った。
「あ、えっと」
「ちょっと調査にね」
兵は深く息を吐き、
それから、リオラの背後へと視線を移した。
レグルスを見る。
赤い髪が、
夕暮れの光を受けていた。
一瞬だけ、眉が動いた。
「……おい」
低い声。
「そこの男」
「お前が、アウローラ様を誑かしたのか」
リオラが、慌てて首を振る。
「違うってば」
「助けてもらった人なの」
だが、兵は聞き入れない。
「そうやって近づき」
「何が目的だ」
剣の柄に、手がかかる。
「黙っているのも、なおさら怪しい」
男は、名乗った。
「私は、メルクリウス」
「この国の剣を預かる者だ」
抜き放たれた剣が、
夕暮れの光を反射する。
その刹那、
メルクの視線が、わずかに揺れた。
——妙だ。
目の前の男から、
殺気も、敵意も、焦りも感じない。
それなのに、
近づきすぎてはいけない、と
本能が警鐘を鳴らしている。
「……」
その感覚を、振り払うように。
メルクは、踏み込んだ。
「違うんだって!」
リオラの声が、背後で弾かれる。
剣が、一直線に振り下ろされる。
——遅い。
レグルスは、
半歩も動かず、
片手で、剣を受け止めた。
金属が、止まる。
「……なっ」
メルクの目が、見開かれる。
すぐに後方へ跳び、距離を取る。
「もう一度!」
今度は、斜めから。
続けざまに、二太刀。
だが、そのすべてが、
同じ手に、同じように止められた。
受け止められるたび、
剣の重さが、奪われていく。
メルクは、歯を食いしばり、
再び距離を取る。
「……」
踏み込もうとして——
視界から、男が消えた。
「!?」
息を呑む。
次の瞬間、
背後から、声がした。
「……終わりだ」
いつの間にか、
レグルスは、メルクの背後に立っていた。
剣を振るえば、
届く距離。
メルクは、動けなかった。
汗が、首筋を伝う。
沈黙が落ちる。
「……すごーい」
場違いなほど、明るい声。
リオラだった。
「メルクは、この国で一番強い剣士よ」
「それを、あんなふうに……」
目を輝かせて、レグルスを見る。
「ねえ、あなた」
「何者なの?」
レグルスは、
ゆっくりと手を下ろした。
答えは、返さない。
ただ、
夕暮れの中で、
静かに立っているだけだった。
明日も更新します。




