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冷酷将軍に拾われた薬草採りの娘、戦場で兵を癒していたら溺愛されました

作者: 百鬼清風

 湿った土の匂いが鼻をかすめた。森の奥深くまで入り込んでいたアイリスは、籠の中の薬草を確かめる。白い花弁を持つ止血草、苦味の強い解熱草、そして母の咳を鎮める葉を、今朝は思いのほか多く見つけることができた。これで母の熱も少しは和らぐだろう。


 胸を撫で下ろし、帰ろうと歩を進めたそのときだった。

 どこか遠くで、地響きのような音がした。馬のいななき、金属がぶつかり合う耳慣れない轟き。アイリスは思わず立ち止まり、籠を抱き締める。戦など、自分の暮らす小さな村には関係ないはずだった。だが、辺境の地にも王国の領土争いの影は伸びてきているのかもしれない。


「……行っちゃだめ」

 心の中で自分に言い聞かせる。だが足は勝手に音のする方へ向かっていた。


 森を抜けると、視界に広がったのは地獄のような光景だった。

 草原に倒れ伏す人、人、人。赤黒い血に濡れた甲冑、うめき声、息絶えた目。アイリスは息を呑んだ。背筋が震え、吐き気がこみ上げる。それでも足を止められなかった。


「たすけて……誰か……」


 その声に振り向くと、若い兵士が胸を押さえて倒れていた。鎧の隙間から血が噴き出している。目は恐怖に見開かれ、必死に空を掴もうとしていた。


 アイリスは籠を落とすと駆け寄った。

「しっかりして! 大丈夫、まだ生きてる!」

 布を裂いて傷口を押さえ、止血草を潰して貼りつける。震える手で縛りをきつく結ぶと、兵士の荒い呼吸が少しずつ落ち着いていった。


 だが彼女の背後では、まだ何十人もの兵が苦しんでいる。逃げなければ、巻き込まれて自分も殺されるかもしれない。それでも、足は動かなかった。泣き叫ぶ兵士を前に、ただ薬草を取り出しては手当てを続けるしかなかった。


 どれほどの時間が過ぎたのか。

 甲冑の重い足音が、彼女の背後に迫った。


「……何をしている」


 低く冷たい声が、頭上から降ってきた。振り返ると、黒鉄の鎧をまとった男が立っていた。まだ若いのに、その瞳は氷のように冷たく澄んでいる。彼の周囲には屈強な騎兵たちが控えており、戦場の指揮官であることは一目でわかった。


 アイリスは息を詰め、必死に言葉を探した。

「この人たちが死んでしまうから……。だから……」


 男は彼女の手元に視線を落とす。血に染まった草と布切れ。それが命を繋ぎ止めている現実を、彼は即座に理解した。


 沈黙の後、彼は短く言った。

「お前のその手は、剣よりも兵を救う」


 その一言が、アイリスの運命を決定づけた。


 軍営に足を踏み入れた瞬間、アイリスは胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

 無数の天幕が張り巡らされ、焚き火の煙が風に乗って漂っている。鉄を打つような甲冑の音、乾いた笑い声、どこからか漂ってくる血と汗の混ざった臭気。昨日まで薬草を摘んでいた静かな森とは、あまりにもかけ離れた世界だった。


 通り過ぎる兵士たちの視線が一斉に注がれる。甲冑の隙間から覗く顔に驚きや好奇心、そしてあからさまな嘲笑が浮かんでいた。


「なんだ、あの娘は?」

「戦場にまで女を連れてきたのか? 将軍様も物好きだな」

「どうせ捕虜か、遊び相手だろう」


 ひそひそ声が背後から突き刺さり、アイリスの耳は真っ赤に熱くなる。視線に焼かれるような羞恥と恐怖。それでも隣を歩く男──ゼルヴァンは一切表情を変えなかった。冷たい鋼のような無表情。まるで周囲の声など存在しないかのように、彼は軍営の奥へと歩みを進めていく。


 その背を追うしかない。薬草籠を胸に抱き締め、アイリスは必死に足を運んだ。


 やがて辿り着いたのは、将軍専用の幕舎だった。中に入ると、簡素ながらも清潔な寝台と机、武具が整然と並べられている。圧倒的な威圧感に、アイリスは息を呑んだ。


「ここで過ごせ」

 低く短い声が響いた。

「兵を救うために、お前の力を使え」


 命令とも信頼ともつかぬ言葉。冷淡なのに、不思議と背筋に力が宿る声色だった。アイリスは唇を噛み、こくりと頷いた。


 しかし軍の空気は冷たい。

「庶民の娘に何ができる」

「薬草で剣傷が塞がるなら医師はいらん」

 兵士たちの嘲りは隠すことなく彼女に浴びせられる。


 心が折れそうになりながら、アイリスは負傷兵の天幕に入った。

 そこには、血にまみれた兵士が何人も横たわっていた。うめき声。腕を失った者。熱に浮かされ、荒い呼吸を繰り返す者。村で母の世話をしてきた彼女には想像もつかない惨状が広がっていた。


 息が詰まる。吐き気を堪えながらも、アイリスは籠を地面に置き、震える指で薬草を取り出した。


「お願い……効いて」


 止血草を潰し、流れる血に押し当てる。布切れで必死に縛り、解熱の葉を煎じて湯に溶かす。彼女の動作は決して完璧ではなかったが、必死さがにじんでいた。


「やめろ、素人の小娘が……」

 兵士の一人が声を荒げた。だが数刻後、その呻きは止んだ。荒い呼吸をしていた若い兵士の顔に、僅かな安らぎが戻ったのだ。


「……息が、楽に……」


 目の当たりにした兵士たちは唖然とし、そして低くざわめいた。

「馬鹿な……さっきまで死にかけていたやつが」

「本当に効いているのか?」


 驚きと戸惑いの中で、アイリスは次の患者へと駆け寄った。指先が血に濡れても怯まず、髪が乱れても拭うことなく。必死に命を繋ごうとする姿は、やがて兵士たちの目を奪った。


 その光景を見守っていた年長の兵が、思わず呟いた。

「……まるで、白き癒し手だ」


 冗談めいた一言だった。だがその呼び名は、焚き火の煙のように瞬く間に軍中に広がった。嘲りの代わりに、尊敬の眼差しが向けられるようになっていく。


 夜、焚き火の影で、ゼルヴァンは彼女の姿を遠くから見ていた。

 無表情の奥に、微かな揺らぎ。冷酷と呼ばれた将軍の心に、かすかな温もりが灯り始めていた。


 夜明け前の軍営は、しんと静まり返っていた。まだ焚き火の余熱が赤く残り、兵士たちは寝息を立てている。アイリスは眠れず、薬草を仕分ける手を止めて空を見上げていた。青白い光を帯びた空に、どこか不安を煽る風が吹いていた。


 その静寂を破ったのは、急を告げる角笛の音だった。

「敵軍が接近! 備えよ!」

 怒号が飛び交い、兵士たちが一斉に跳ね起きる。甲冑を身に着け、剣を抜き、各隊が整列していく。


 慌ただしい空気に押し潰されそうになりながら、アイリスも立ち上がった。心臓が喉元までせり上がる。これから始まるのは戦。人が殺し合い、血が流れる場。彼女がこれまで目を背けてきた現実が、今まさに迫っていた。


 ゼルヴァンは冷静だった。馬に跨り、鋭い声で指揮を飛ばす。

「前衛、東の丘へ! 後衛は矢を備えよ!」

 その声に従って兵たちは秩序を取り戻し、迅速に布陣していく。恐怖を飲み込み、兵士たちの瞳には戦意が宿っていた。


 一方、アイリスの足は地面に縫いとめられたように動かない。鼓動は速く、全身が震えていた。

「わ、私……どうすれば……」

 頭の中が真っ白になり、籠を抱えた手も力なく震える。


 次の瞬間、戦の咆哮が大地を揺らした。敵兵が突撃し、金属と金属がぶつかり合う甲高い音が辺りに響く。空気が血の匂いを帯び、悲鳴が飛び交う。


 目の前で兵士が矢に倒れた。鮮やかな赤が地面に広がる。アイリスは息を詰め、思わず後ずさる。足がもつれ、地に座り込んだ。

「無理……こんなの、私には……!」

 目の前に広がる地獄。彼女の小さな世界──母を看病し、村人に薬を分ける日々とは違いすぎた。


 その時、冷たい影が彼女の上に落ちた。

 ゼルヴァンだった。戦場の只中にあっても、彼の姿は揺るがない。馬上から見下ろす視線は鋭く、それでいてどこか温かさを含んでいた。


「弱さを見せてもいい」

 低く、しかし確かに届く声。

「恐れるのは当然だ。だが、お前が動かなければ、助かる命も消える」


 アイリスの瞳に涙が滲んだ。喉が焼けるように痛い。

「でも……私は怖くて……」

「怖さを抱いたまま進め。それが戦場に立つ者の強さだ」


 短い言葉が心に突き刺さる。彼が冷酷な将軍と呼ばれる所以を、アイリスは理解し始めていた。恐怖を切り捨てるのではなく、恐怖を抱えたまま戦い続ける。その強さが彼を作り上げたのだ。


 震える手を見下ろす。籠の中には、血を止める草、熱を和らげる葉。今、目の前で命を落としかけている兵士たちを救うのは、自分しかいない。


 アイリスは唇を噛み、膝に力を込めて立ち上がった。

「……行きます。助けに行かなくちゃ」


 倒れた兵に駆け寄り、矢を抜き取り、止血草を押し当てる。叫び声が耳を裂いても、彼女は手を止めなかった。血に濡れる指先が、確かに命を繋いでいる。


 戦場の喧騒の中、彼女の姿は小さな灯火のように揺らめいていた。その光を、ゼルヴァンは馬上から黙って見つめていた。


 戦の後の夜は、不気味なほど静かだった。

 日中の喧噪が嘘のように、軍営は焚き火のはぜる音しか聞こえない。草の上には乾ききらぬ血の匂いが漂い、兵士たちはそれぞれの幕舎に籠もっていた。治療を終えたアイリスは、疲労で膝が笑うほどだったが、どうしても眠れなかった。


 幕舎の外に出ると、月光に照らされた背中が目に映った。

 大きく、孤独な影。ゼルヴァンが剣を磨きながらひとり腰掛けていた。焚き火に照らされる横顔は、冷たく硬質な仮面のようで、誰も近づけぬ威圧感を放っている。


 アイリスは一瞬ためらった。だが、胸の奥に溜まった想いが彼女を突き動かした。

「……将軍様」


 呼びかけに、彼はちらりと視線を上げる。銀のような瞳が一瞬、彼女を映したが、すぐにまた剣に戻った。


「眠れないのか」

「はい……。今日はあまりにも……人が死にすぎて」


 声が震え、思わず拳を握り締める。そんな彼女を見ても、ゼルヴァンは眉ひとつ動かさない。ただ、ゆっくりと布で剣を拭う手を止めた。


「死に慣れることはない。だが、戦場ではそれを受け入れるしかない」

「将軍様は……怖くないのですか?」


 沈黙が流れた。焚き火が爆ぜる音がやけに大きく響く。

 やがて、彼は低くつぶやいた。


「俺は六つの頃にはすでに剣を握っていた。王家の血に連なる身として、戦場に立つことを強いられた。怯えて泣いた夜もあったが、涙を見せれば弱さと判断される。弱者は容赦なく排除される……そういう場所で生きてきた」


 淡々とした声の奥に、深い傷が潜んでいることをアイリスは感じ取った。

 冷酷将軍と呼ばれる理由は、ただの残忍さではなく、孤独と恐怖を押し殺してきた年月が彼をそう形作ったのだ。


「だから俺は……誰にも心を預けない。預ければ、それは必ず裏切りの刃となる」


 その言葉に、アイリスの胸が締めつけられた。

 彼は誰よりも強く見えるのに、誰よりも孤独だったのだ。


「……そんなの、あまりにも悲しすぎます」


 気づけば頬に涙が伝っていた。

「将軍様は冷たくなんかない。兵を救うために戦っている。私だって、こうして守っていただいている……。本当は、とても優しい方なんです」


 言い切った瞬間、彼女自身も驚いた。

 恐怖よりも、彼を理解したい気持ちのほうが勝っていた。


 ゼルヴァンはしばし彼女を見つめ、やがて視線を外した。

 剣を収め、立ち上がる。その仕草は、どこか肩の荷を少しだけ下ろしたように見えた。


「……お前は、奇妙な娘だな」

 その声は、これまでよりもわずかに柔らかかった。


 翌朝、兵士たちは気づいていた。

 冷徹無比と恐れられた将軍が、ほんのわずかだが、人間らしい色を取り戻していることに。


「なあ、最近の将軍、少し変わったと思わないか?」

「確かに……前よりも、人の話を聞いているような」

「ありゃ、あの“癒し手”の影響だろうよ」


 囁きが軍営に広がっていく。

 兵士たちの間で「白き癒し手」と「黒鉄の将軍」を結びつける噂が芽吹き始めていた。


 戦いの余韻がまだ残る軍営に、異様な緊張が走った。

 王都から新たに派遣された補給部隊と共に、煌びやかな馬車が入ってきたのだ。兵士たちがざわめき、整列して迎える中、真新しい軍装をまとった一人の男が悠然と馬から降り立った。


 細身の体を金糸の入ったマントで包み、整えられた髪には香油の匂いが漂う。彼は自らを誇示するように顎を上げ、周囲を見下ろした。


「ふむ、これが辺境の軍営か。噂どおり、粗野で不潔なものだな」


 嘲るように鼻を鳴らしたその男こそ、王都の有力貴族の次男にして将校の地位を与えられたヴァルターだった。若い兵士たちは露骨に顔をしかめ、歴戦の兵ですら不快そうに視線を逸らす。


 彼の目がやがて一点に止まった。白い布で腕を包帯している負傷兵に薬草を与える、庶民の娘。

 アイリスだ。


「……なるほど。これが噂の“癒し手”か」

 ヴァルターの口元に嘲笑が浮かぶ。

「将軍閣下、これはどういうことです? 王国の軍に、素性も知れぬ村娘を紛れ込ませるなど聞いたことがない。規律を乱すどころか、不敬の極みでは?」


 広場の空気が凍りついた。

 兵士たちは目を逸らし、誰も口を開けない。

 アイリスの胸は痛いほど締めつけられた。確かに自分は兵でも医師でもない。場違いな存在であることは、誰よりも自分が理解していた。


 ゼルヴァンは一歩前に出て、淡々と答えた。

「彼女は兵を救った。必要だからここにいる」


 しかしヴァルターは口角を吊り上げ、声を張り上げる。

「必要? まさか。庶民の小娘ごときに、軍が依存するなどあってはならぬこと! これが王都に知れれば、閣下のお立場も危うくなるでしょうな」


 その言葉に、アイリスの心臓が大きく跳ねた。

 自分がここにいることで、彼を窮地に追いやってしまう──その恐怖が全身を覆う。


 夜、天幕の隅でアイリスは膝を抱えた。

「……私がいなければ、将軍様は責められずにすむのに」

 指先に残る血の感触を思い出す。助けた命と引き換えに、彼を危険に晒している。涙が頬を伝い落ちた。


 翌朝、事態は動いた。

 ヴァルターが公然と糾弾の声を上げたのだ。

「王都の法に従えば、女の従軍などありえぬ! ましてや庶民の出など、恥辱以外の何物でもない!」


 広場に兵士たちが集められ、彼の声は軍営の隅々まで響いた。

 アイリスは立ち尽くし、逃げ場のない視線を浴びて震えた。


 だが、そのとき。

「待て!」

 年老いた兵士が声を張り上げた。

「この娘がいなければ、俺は今ここにいない!」


「俺もだ!」

「熱で死にかけた仲間を救ったのは、この娘だ!」


 次々に声が上がる。兵士たちの叫びは次第に大きなうねりとなり、ヴァルターの声をかき消していった。

 アイリスは呆然と立ち尽くした。自分がこんなにも多くの人に必要とされているなど、夢にも思わなかったからだ。


 ヴァルターが顔を歪め、ゼルヴァンに詰め寄る。

「閣下! このような規律違反を、まさかお認めになると?」


 その瞬間、ゼルヴァンの剣が鞘から抜かれた。鋭い音が広場を切り裂き、兵士たちが息を呑む。


「彼女を害する者は、この俺が斬る」


 静かな宣言だった。だがその言葉は雷鳴のように全員の胸を打った。兵士たちの歓声がわき起こり、広場は揺れた。


 アイリスの胸は熱くなり、同時に鋭い痛みが走った。

 ──私のせいで、将軍様は刃を振るう覚悟まで背負ってしまった。

 嬉しさと苦しさが入り混じり、涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。


 その夜は、不気味なほど静かだった。

 昼間の騒擾が嘘のように、軍営は休息に包まれている。兵士たちは疲労の色を濃くし、焚き火の残り火の横で眠りに落ちていた。

 アイリスもようやく薬草籠を閉じ、硬い寝床に横たわろうとした時だった。


 突如、耳を劈く角笛が鳴り響いた。

「敵襲――!」

 怒号が夜空を切り裂き、眠りこけていた兵たちが一斉に飛び起きる。


 次の瞬間、火矢が降り注いだ。天幕が次々に炎に包まれ、暗闇が一転して地獄のような赤に染まる。悲鳴、金属の衝突音、馬の嘶き。敵軍の夜襲だった。


 混乱の中、アイリスは本能的に負傷兵の天幕へ駆け込んだ。

 ここにはまだ立てぬ兵が何十人も横たわっている。逃げることなどできない。

「大丈夫、動かないで!」

 必死に叫び、彼女は倒れかけた天幕の布を押し返した。だが、轟音と共に壁が破れ、敵兵がなだれ込んできた。


 目の前に突き立てられる槍の穂先。

 アイリスの喉が凍りつく。

「いや……!」

 恐怖で足がすくみ、籠を取り落とす。薬草が床に散らばった。


 敵兵の刃が振り下ろされようとしたその瞬間――。


 疾風のような影が割り込んだ。

 黒鉄の剣が閃き、火花と共に敵兵の槍が弾き飛ばされる。

 ゼルヴァンだった。


「この女に触れるな――!」


 怒声と共に剣が横薙ぎに走る。鮮血が散り、敵兵が崩れ落ちる。次々と襲いかかる刃を、彼はまるで舞うように捌き、なぎ払った。甲冑が軋むたびに、彼の姿は鋼そのもののように揺るぎなかった。


 アイリスは呆然と見つめていた。

 恐怖よりも強く、胸を満たしたのは圧倒的な安堵と……言葉にならぬ熱だった。


 やがて最後の敵兵が倒れると、ゼルヴァンは血飛沫を浴びたまま彼女に駆け寄った。

「無事か!」

 肩を掴む手が震えているのを、アイリスははっきりと感じた。

「わ、私は……でも、兵士たちが……」

 言いかけた瞬間、彼が彼女を強く抱き締めた。


「俺はお前を失いたくない!」


 耳元で吐き出された叫びは、剣戟よりも鋭く、胸を突いた。

 冷酷と呼ばれた将軍が、初めて感情をあらわにしている。

 アイリスの視界が揺れ、熱い涙が溢れた。


「……将軍様」

 その声は震え、しかし確かに彼に届いた。


 夜襲はなお続いていたが、その瞬間、彼らの心には確かな絆が結ばれていた。


 夜襲を退けて数日後、軍営には重苦しい空気が漂っていた。

 敵軍の本隊が近くに迫っている――斥候からの報せは、誰もが覚悟していた「決戦」を意味していた。兵士たちの顔には疲労と恐怖が刻まれている。だが同時に、諦めきれぬ闘志の炎も潜んでいた。


 アイリスは天幕の片隅で薬草を仕分けながら、震える手を押さえていた。

 この戦いで多くの命が失われることは避けられない。けれど彼女には逃げるという選択肢はなかった。彼の隣に立つと決めたからだ。


 決戦の朝、霧が濃く立ちこめる戦場に兵たちが集結した。

 ゼルヴァンが馬上から声を上げる。

「今日の戦いで勝敗が決まる! 恐れるな。俺たちには守るべきものがある!」


 その言葉に応じるように、兵士たちの視線が一人の少女に注がれる。白い布で腕を覆い、薬草を抱える小さな背中。

 アイリスは深く息を吸い込み、声を張り上げた。

「生きて帰ってください! 私は、あなたたちを必ず癒します!」


 その叫びは震えていたが、確かな力を持って兵士たちの心に届いた。

「癒し手がいる限り、俺たちは倒れない!」

「生きて帰るぞ!」

 ざわめきはやがて雄叫びとなり、兵士たちの士気を大きく押し上げた。


 戦は苛烈を極めた。

 矢が雨のように降り注ぎ、剣戟が火花を散らす。大地は血に濡れ、倒れる者が相次ぐ。アイリスは必死に駆け回った。傷口に薬草を押し当て、熱に苦しむ者に水を与える。声が枯れるまで「生きて」と叫び続けた。


 一方、戦場の中心では、ゼルヴァンが敵将との死闘を繰り広げていた。

 敵将は老練の戦士で、その剣は重く鋭かった。斬撃が交わるたび、周囲の兵が震え上がる。

 ゼルヴァンの鎧にはすでに幾筋もの傷が刻まれ、血が滴っていた。だが彼は一歩も退かない。


「俺には――守るべき者がいる!」

 渾身の一撃と共に、彼の剣が敵将の刃を弾き飛ばした。次の瞬間、黒鉄の剣が敵の胸を貫いた。


 歓声が戦場に轟く。だがその直後、ゼルヴァンは膝をついた。鎧の下から血が溢れ、顔色は蒼白に変わっていた。


「将軍様!」

 駆け寄ったアイリスは、必死に血を押さえた。震える手に薬草を握りしめ、涙で視界が滲む。

「お願い、死なないで……!」


 兵士たちが彼らを囲み、敵の残党を追い払う。やがて勝利の凱歌が上がった。

 だが、アイリスの胸にあったのは安堵と恐怖の入り混じった感情だった。

 勝利は確かに掴んだ。けれど代償として、最も大切な人を失うかもしれない。


 血に濡れた手を握りしめ、アイリスは祈るように彼の名を呼び続けた。

 その声に応じるように、ゼルヴァンの瞼がわずかに動いた。


「……俺は、まだ……生きている」

 掠れた声に、アイリスは堪えきれず涙を流した。


 長く続いた戦がようやく終わりを告げた。

 戦場に吹く風は、血と煙の匂いを洗い流すように澄んでいる。軍営では兵たちが壊れた武具を直し、凱旋の準備を進めていた。疲労は深い。だが、勝利を得た安堵が表情を和らげている。


 アイリスは薬草を仕分ける手を止め、ふと空を見上げた。

 重く垂れ込めていた雲は消え、青が広がっている。戦場に立った日々を思えば、その空は信じられないほど穏やかだった。

「……終わったんだ」

 胸の奥から、小さな吐息のように言葉がこぼれた。


 だが、安堵は長く続かなかった。

 王都から届けられた勅命が軍営を凍りつかせたのだ。


『庶民の娘を王都に入れることを許さぬ。

 軍の規律と威信を守るため、即刻彼女を排斥せよ』


 文を読み上げる将校の声は冷酷で、兵士たちは沈黙に包まれた。

 アイリスの顔から血の気が引いていく。

 やはり自分はここにいるべきではなかったのだろうか。

 これまで積み重ねてきた日々が、一瞬にして打ち消されてしまうのか。


 広場にざわめきが広がる中、ゼルヴァンが歩み出た。

 彼の歩調は揺るがず、その背は黒鉄の甲冑に包まれてなお、一人の人間としての意志を放っていた。


「その命、受け入れられぬ」


 短い言葉に、将校が目を剥いた。

「な、何を仰るのです、将軍閣下! 王命に背くことは――」


 ゼルヴァンは剣を抜かない。ただ全兵の前に立ち、澄んだ声を放った。

「俺が生涯を捧げたいのは、この女だ」


 静寂。

 次いで兵士たちの間に、驚きと歓声が渦を巻いた。

「将軍が……!」「癒し手を……!」


 アイリスは信じられず、ただ呆然と彼を見つめた。

 冷酷と恐れられた将軍が、王命を退けてまで自分を選んだ。その事実が胸を貫き、熱い涙が頬を伝った。


「……私なんかでいいのですか」

 震える声で問いかけると、彼は迷わず頷いた。

「お前でなければならない」


 その一言で、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 彼の腕に抱き寄せられ、アイリスは声をあげて泣いた。


 兵士たちが剣を掲げ、歓声が夜空を揺らす。

「白き癒し手に栄光を!」

「黒鉄の将軍に万歳!」


 戦場を生き抜いた二人は、もはやただの娘と将軍ではなかった。

 癒しと武力、白と黒。相反するはずの二つが並び立つ姿に、人々は新しい未来の象徴を見た。


 凱旋の行軍の先頭に立つのは、血に染まった剣を携えた将軍と、薬草を抱えた娘だった。

 その背中は並び立ち、決して離れることはなかった。

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