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第1章【第2話 : 風と記憶の残響、そして誓いの朝】

“歌”が、夜の砂漠を切り裂き、風の裂け目を一本の細い絹糸で縫い合わせるように響き渡った。


それは、嵐の轟音の中でも決して消えることのない、強靱な意志を持った旋律だった。

耳を澄ませなければ、ただの遠い幻聴のように聞き逃してしまうほどにかすかだったが、その音は確かに周囲の混沌を静かに侵食し、次第にひとつの“声”として形を取りはじめる。


低く、深く、魂の根源を揺さぶるような音色。

それは親が子に語りかける子守唄のように優しかったが、その裏には、世界の終わりを見届けたような途方もない悲しみが潜んでいた。

ルゥは砂に伏せたまま、その歌声が、まるで風そのものが感情を持ち、涙を流しながら歌っている、悲痛な子守唄のように感じていた。

彼女の胸の奥で、炎のペンダントが、その悲しみに共鳴して鼓動する。


「風よ、どうか眠らないで。すべてを忘れないで。記憶を連れて、この乾いた大地へと還っておいで」


その一節が、夜の帳を貫いた瞬間、狂おしいほど荒れ狂っていた砂嵐の猛威が、まるで巨大な獣が誰かの手で優しく宥められるように、静かに息を潜めていった。渦巻く砂塵の層はゆっくりと落ち着き、重く垂れ込めていた空がわずかに透け始める。

分厚い砂のカーテンの向こうから、冷たく白い月明かりが細い刃のように射し込み、砂に伏したルゥの顔を照らした。


ルゥは、熱い息を喉から絞り出し、震えるまぶたをゆっくりと持ち上げた。砂の匂いが鼻腔を刺す。

頬に触れる風は、もうさっきまでの暴力的な唸りではない。それは、優しく、繊細で、まるで彼女の顔をそっと撫でるように穏やかだった。


彼女の視線の先に月光を浴びて立つ、一人の少女の姿があった。


その姿は幻影のように頼りなく、薄い灰青の外套が夜の風に微かに揺れていた。

外套は砂漠の夜の色をそのまま映したようで、フードの縁からのぞく銀糸のような髪は、月光に溶けて、まるで砂漠に降る雪のように淡く輝いている。

その髪の先からは、極めて細かな光の粒が風に流れ、夜気と混ざり合って、静かに消失していく。

それは、過去の記憶の断片のように儚かった。


彼女の瞳は、まさに淡い風の色をしていた。

遠い空の蒼と、地平線にたなびく砂塵の灰を混ぜたような、唯一無二の色。しかし、その水晶のような透明さの奥底には、彼女が歌で表現した悲しみよりもさらに深い、永い時間を孤独に漂ってきた者だけが宿す、根源的な孤独の影が沈んでいた。


「……誰?」


掠れた声が、砂に吸い込まれるように小さくルゥの唇から零れた。彼女はまだ、自分が生きているのか、それともこの少女が嵐の後の幻影なのか、判別がつかずにいた。


少女は、ルゥの問いに答えとして微笑むこともなく、ただ風の音を聴くように静かに目を細めた。

その仕草には、焦りも戸惑いもなく、ただ悠久の時を生きる者の静寂があった。


「風を止めただけよ。嵐が……あまりにも激しく泣いていたから。彼らの悲しみを、私は放っておけなかった」


その声は、風が砂を撫でる音のように静かで、高すぎも低すぎもしない、完璧な調和を持っていた。

それはルゥの記憶のどこかに触れるような、どこか懐かしい響きを帯びていたが、同時に、触れれば崩れてしまいそうな、氷のような冷たさと儚さが混在していた。


ルゥを庇うように立ち上がったエリアスが、剣の柄に手をかけ、警戒心を露わにする。


「君は……この近くの街や集落の人なのか?

この嵐を鎮めた力が、尋常なものだとは思えない。

何者なんだ」


エリアスは、目の前の少女が、自然現象を操るほどの強大な力を持っていることを瞬時に理解していた。

彼の問いには、剣士としての警戒と、その力への純粋な探求心が混ざり合っていた。


少女は、エリアスの鋭い視線に動じることなく、ゆっくりと首を横に振った。その仕草さえも、まるで風そのもののように静かで滑らかだった。


「私は……もう、どこの人でもないの。

属する場所も、帰る場所も、すべてが砂に飲まれてしまったから」


その言葉は、夜の砂よりも静かに、しかし確かな重みを持って地に落ちた。

それは、彼女の存在が、特定の場所や共同体から切り離された、孤立したものであることを、決定的に示唆していた。


彼女は、言葉の代わりに、ルゥの足元へとしゃがみ込み、白い指先で砂の表面を丁寧に撫でた。

その指先が触れると、風がそこに集まり、淡い、青みがかった光を描き出す。

光は、まるで水面に油が広がるように線をなし、やがて複雑な螺旋と曲線が絡み合う、ひとつの“紋”を描き出した。その模様は、どこか懐かしく、そして古代の叡智を感じさせる神聖な光を放っていた。


「その模様……!」


ルゥは、声を詰まらせた。

その瞬間、彼女の胸元の炎のペンダントが脈を打つように光を放った。赤い焔のような光が彼女の胸から広がり、少女の描いた紋の上に重なり合う。

二つの光が触れ合った瞬間、紋様は一層鮮やかに輝き、ルゥの心臓を強く打った。


少女――ティアは、その紅い光を静かに見つめた。

彼女の瞳には、遥かな過去の記憶が映し出されているかのようだった。


「それは、“語り部の民”の印。風と記憶を結びつけ、歌を歴史として残す者たちの証よ」


風の音が再び吹き抜け、ティアの声を遠くまで運んだ。彼女は、ルゥの胸元で揺らめく焔へと、一歩、また一歩と、ほとんど音もなく近づく。

そのたびに、砂が微かに鳴き、周囲の夜気がわずかに震えた。それは、彼女の存在が、この大地に深く根ざした力を持っていることを示していた。


「あなたの焔……とても懐かしい匂いがする。

それは、都の中心で灯されていた、命の炎の残り香よ」


ルゥが息を呑む。

ティアの言葉が、彼女のペンダントに込められた、燃える故郷の記憶に触れたようだった。


その瞬間、ルゥの火がふっと明るくなった。

それは、ティアの言葉に応えるかのように、あるいは彼女の持つ太古の記憶に触れて歓喜したかのように見えた。その紅い光は、ティアの周りに漂う灰青の光と混ざり合い、夜の闇の中で、淡い紫のヴェールを作り上げた。


「私はティア。風の民の末裔……だった人間」


「だった?」


エリアスが眉をひそめ、その言葉の持つ意味を問い詰める。彼の目には、ティアの持つ力が、この世界から失われてしまうことを恐れるような、強い意志が宿っていた。


ティアは、エリアスの追及に対し、かすかに笑った。

その笑みは、どこか痛みを隠すような影を帯びていたが、諦めだけではない、静かな強さも含んでいた。


「ええ。風の民はもういないの。

語り部の都も、千年の時を超えて、この砂に飲み込まれた。私たちのすべては、風に散った歌の断片だけ。残ったのは、その歌の“残響”に過ぎない」


彼女はゆっくりと目を閉じた。

銀色の髪が風に揺れ、彼女の周囲に淡い光の粒が舞い上がる。その光が夜の砂に落ちるたび、微かな音が響いた。それは、まるで遥か昔の都の賑わい、あるいは誰かの囁き、遠い記憶の残響のように聞こえた。


「それは、嵐の夜だったの。都を覆い尽くした砂嵐は、ただの天災ではなかった。それは、記憶を喰らう、巨大な獣のようだった」


ティアは静かに語り始めた。

その声は、まるで遠い過去の情景を再現する、古びた巻物から読み上げられているかのようだった。


「私たちは最後の歌を捧げた。その嵐を鎮めようと、必死に歌い続けた。都の長老たちの声も、子供たちの希望の歌も、すべてを一つにして。けれど、力及ばず、歌は途中で途切れた」


ティアの声が、風の音のように震えた。

彼女の指先が小刻みに動き、砂を掴もうとするが、その砂は風に攫われてしまい、手のひらに何も残らない。


「風が泣き止んだ時、都の歌も消えた。

誰も声を上げられなかった。すべての記憶が、風ごと奪われていったのよ。そして気がついたら……私だけが、この残響の中で残っていた。なぜ私が残ったのか、それも風だけが知っている」


ルゥの胸に、鋭い痛みが走った。

それは、ティアの記憶と、彼女自身の持つ炎の記憶が、深く共鳴し合ったからだ。

ルゥの掌で火が小さく揺れ、まるで悲しみに応えるように灯る。彼女は、ティアの孤独な悲しみを、自分の炎の一部として感じていた。


「……風が止まるのって、怖いんだね」


ルゥがそっと呟いた。それは、火を扱う者にとって、炎が消えることと同じくらい、あるいはそれ以上に恐ろしいことだと直感的に理解したからだ。


ティアは少し驚いたように顔を上げ、その瞳に静かな悲しみを湛えたまま、微かな笑みを浮かべた。


「ええ。風が止むということは、世界から記憶が閉ざされること。歌が失われたら、世界は何も覚えていられない。私たちの存在も歴史も、そして悲しみさえも無意味になってしまうの」


「何も覚えていられない……」


ルゥはその言葉を繰り返した。

火を操る彼女の世界では、燃やしたものは灰になり、灰は風に溶けて消える。

それが“忘却”の象徴のように思えた。

ティアの語る世界はすべてが灰になり、その灰すらも風に散ってしまった、究極の虚無の世界だった。


だからこそ、彼女の心の奥に湧き上がった、本能的な拒絶の言葉が、自然に口を開かせた。


「なら……また歌えばいい」


ティアが息を飲む。その瞳には、ルゥの言葉が持つ純粋な力に、戸惑いと驚きが混ざり合っていた。


ルゥは真っ直ぐにその瞳を見つめた。彼女の胸元の炎が、一層強く輝く。


「あなたの風は、まだ残響としてここにある。

私の焔でその風を照らせるなら、またきっと歌を取り戻せる。ね? 私たちの炎は、あなたの記憶を灰にさせない」


ティアの瞳がわずかに見開かれた。

長い沈黙のあと、彼女の頬を一筋の涙が伝った。

それは、千年分の孤独と悲しみが、ルゥの炎に触れて溶け出した雫だった。


「……焔の民はいつもまっすぐね。

それは、私たちの風が持てなかった強さ。

でも、風は形を持たない。掴もうとしても、手のひらをすり抜けてしまう。そんな掴めないものを、どうやって……どうやって取り戻すの?」


ルゥは答えられなかった。

形のない風を掴む方法を、彼女は知らなかった。


けれど、その沈黙を破ったのは、ルゥの隣で二人のやり取りを静かに見守っていたエリアスだった。

彼は、力強く、そして穏やかな声で言った。


「風が形を持たないなら――俺たちが形にすればいい。記録すればいい」


彼は、背負った剣の柄を握りしめ、ティアに目を向けた。


「君たちの歌をこの剣が、この旅の記憶が覚えてる。俺たちは、あの雷の谷で誓ったんだ。守るって。

剣は、人の意志を形にするものだ」


ティアがゆっくりと彼に目を向けた。

その視線には、警戒でも憐憫でもなく、ほんの少しの驚きと、そして微かな温もりが宿っていた。


「あなた……不思議な人ね。

人の身でありながら、風の声が聞こえるなんて。

剣士はいつも地に足をつけて、物質的なものだけを信じるものだと思っていた」


エリアスは照れくさそうに笑った。

その表情には、剣士としての厳しさだけでなく、ルゥと共に旅をすることで得た、柔らかな人間性が滲み出ていた。


「風の声は聞こえない。だが……感じることはできる。この剣を打った時の雷の響き、あれも風が運んでくれた気がしたんだ。そして、ルゥの焔の熱も、風が運んでくれる」


ティアはその言葉に、納得したように目を伏せた。


「……雷鳴も、風の記憶の一部。

そして焔は、記憶を形作る熱。

なら、あなたもきっと“歌の記録者”のひとりね。

火と剣、そして残響の風。失われた歌を再び響かせるために、ここに集められたのかもしれない」


ルゥとティアの視線が交わる。

焔と風。本来、交わらぬはずの光が、夜の中で、共通の使命によってひとつの温もりに変わっていった。

それは、二つの異なる力がお互いを認め合い、補完し合う、静かな信頼の誕生だった。


やがて、嵐の夜は完全に終わりを告げた。

東の空がわずかに明るみ、地平の果てから淡い光が世界を染め始める。砂嵐が過ぎ去ったあとの大地は、まるで洗い清められたかのように静まり返っていた。


眼前には、淡く、青みがかった光を放つ砂の海が、無限に広がっていた。夜光を帯びた砂粒の一つ一つが、風の旋律を微かに刻み、まるで海面に残された波紋のように、光の粒子が瞬いている。

それは、荒々しかった嵐の姿とは対照的な、静謐な美しさだった。


「……きれい」


ルゥの声は、息のようにかすかだった。

彼女は、その光景に、滅亡の後の再生の兆しを感じていた。


ティアがその横顔を見つめ、初めて心からの笑みを浮かべた。その笑みは月の光のように儚かったが、確かな希望を含んでいた。


「この風は、“語り部の都”の名残よ。

歌が完全に消える前、最後の民が自分の魂と願いを風に託したの。それは呪いではなく、ただの願い。

“いつか誰かが、再びこの歌を見つけますように”って。彼らは、すべてを失っても記憶だけは残そうとした」


ルゥの胸が熱くなる。

炎が彼女の内側で静かに燃え、まるでその願いに呼応するように、より一層強く灯り続けた。


ティアは空を仰ぐ。

彼女の視線は、砂の海の遥か彼方を見つめていた。


「語り部の都は、この先の、砂の海を越えた“迷いの森”を越えた場所にある。

けれど、そこへ行くには、ただの危険だけでなく、記憶を失う覚悟がいる。迷いの森は、入った者の心を試す。忘れたいものほど深く沈め、思い出したいものほど遠ざける。それは、記憶を拒絶する者の試練の場でもある」


エリアスは、その警告を聞き、静かに拳を握りしめた。彼の決意は揺るがない。


「それでも行くよ。

誰かの歌が消えていくのを、俺はもう見たくない。

歌を覚えている限り、俺たちは生きていける。

もし記憶を失っても、ルゥの炎と、この剣の誓いが俺を繋ぎ止めてくれる」


ティアの瞳にはじめて、彼らが単なる旅人ではない、運命に導かれた存在であると認める柔らかな光が宿った。


「……あなたたちは不思議ね。

焔と風は本来、交わらないはずなのに。

お互いの存在を否定するはずなのに、なぜこうも深く共鳴し合えるのだろう」


ルゥは微笑んで答えた。

彼女の焔は、ティアの風を受け止め、より強くなっているのを感じていた。


「でも今は、同じ歌を聴いてる。

あなたの残響と、私の焔の鼓動。

私たちの歩く音も、きっとひとつの旋律だよ。

失われた歌の、新しい始まりの音」


風が、三人の間を通り抜け、彼らの決意を運んだ。

ルゥの焔がその風を優しく包み、橙と蒼の光が境界線を曖昧にして重なり合ってゆく。

それは、未来への確かな予感だった。


ルゥの胸元のペンダントが、柔らかく輝きを放った。

その光は、遠く砂の地平を指し示し、細く伸びた光の道の先に、まだ見ぬ“迷いの森”が霞のように浮かんでいる。それは、記憶が示す、唯一の道だった。


「……行こう」


ルゥが、小さく、しかし決意に満ちた声で呟く。


ティアは目を閉じ、風の音に耳を澄ませた。

彼女は、静かに、そして確信を持って告げた。


「風が言ってるわ。“焔の記憶が、次の道を示す”って。風と火は、もう二度と離れない。この旅が終わるまで、歌は消えない」


エリアスは深く頷き、背負っていた剣の柄を力強く握り直した。彼の顔には、微塵の迷いもない。


三人の影が、夜明けの光に溶けていく。

風が、静かに歌い。

焔が、力強く応え。

そして――失われたはずの記憶を抱いた三つの魂が、再び世界を取り戻すために、今、静かに歩き出した。

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