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第1章【第1話 : 風の匂い、砂原に吹く歌声】

朝靄の残る山道を抜けた時、ルゥは思わず足を止めた。急な斜面を下りきった先に、目の前に広がっていたのは、焔の里では決して見られない、圧倒的な広大さだった。


見渡す限り続く、黄金と緑のグラデーションの草原。風が作り出した波紋が地表を走り、その向こうには、空の青さがどこまでも果てなく続いていた。

雲の影は巨大な生き物のようにゆっくりと地を這うように流れていき、その動きはまるで世界が呼吸しているかのようだった。

風が頬を優しく撫で、里の谷に閉じ込められていた頃には感じられなかった、自由で開放的な感覚に包まれた。


「……広い。本当に、果てがないんだ」


思わず漏れた言葉は、広大な風の中に溶けていった。

胸の奥がじんわりと熱くなる。

それは恐怖ではなく未知への期待と自分が今世界の広さに触れているという事実から来る興奮だった。

里の狭い谷を囲っていた岩の山々が、今では遠くの稜線の向こうに淡い青の霞となって残っているだけだ。故郷が、まるで過去の記憶のように遠ざかっていた。


「これが外の世界なんだね……。私たちが本当に旅に出たんだ」


ルゥの呟きに、後ろからエリアスの声が返った。

彼は荷物を肩にかけ直し、ルゥの隣に並んだ。

その瞳には、剣士らしい期待とこの広大な世界への警戒が混じっていた。


「やっと実感が湧いてきたか、焔の継承者さん」


「うん……ちょっとだけ怖いけど、すごくきれい。

この風の匂いも、里とは全然違うもの」


ルゥは草原の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


「怖いのは、君の焔の勢いにびっくりして逃げたウサギくらいだよ。昨日の夜、ルゥが火を点した瞬間、すっ飛んで逃げていっただろ。足の速さに驚いた」


ルゥは思い出し、口元に手を当てて笑った。

「えっ、あれウサギだったの?てっきり、里にはいない変わった生き物かと思ってた。あんな速いの初めて見たわ」


「そりゃそうだ。焔の里じゃ、みんな狭い谷の中で、走るより鍛冶場で鉄を打つ方が早いんだろ?足腰は鍛えられてても、瞬発力はな」


エリアスはからかうように言った。


「むぅ……それは否定できないわ。でも、私だって剣士のあなたに負けないくらい、これからは速く走れるようになるから」


二人の笑い声が遮るもののない広大な草原に乗り、遠くまで響いていった。

それは、二人が故郷の束縛を離れ自由な旅人となったことを実感させる、軽やかな響きだった。

この笑い声こそが、彼らの新たな旅の始まりを告げるファンファーレだった。


焔の里を出て三日目の朝。

前夜は山の麓の岩陰で野営をし、今朝ようやく平原を抜けようとしていた。

太陽が昇り切ると、草原の緑が力強く輝き始めた。


エリアスは背負っていた革袋を下ろし、水筒をルゥに差し出した。


「ほら、水。今日の日差しは昨日までと段違いだ。

喉が乾かなくても、ちゃんと飲まないと脱水するぞ。気を抜くとすぐに体調を崩すのが、旅の常だ」


「ありがとう、頼りになる旅の師匠さん」


ルゥは水筒を受け取って一口飲む。

喉に染み込む冷たさが、旅の疲れを少しだけ癒した。


「ねぇ、エリアス。風って、味があるんだね」


「味?また変わったことを言うな」


エリアスは怪訝な顔をした。

「うん。この風ちょっとしょっぱい気がする。

海の匂いとも違うし、里の土の匂いとも違う。

何だろう?不思議な感触なの」


エリアスはルゥの言葉に誘われるように空を仰ぎ、大きく息を吸い込んだ。しばらく考えた後、納得したように頷いた。


「ああ、なるほど。それはきっと、砂の匂いだ。

長老の話じゃ、この草原を東に進めば広大な砂原が続いてるらしい。その砂が風に乗って、遥々運ばれてきてるんだ。もう、大地の気配が変わってきている証拠だろう」


「砂……」


ルゥは胸元のペンダントに触れる。

焔がほんのわずかに脈を打ったように感じられた。

雷鳴の谷で精霊と交わった火が、次の目的地である

「語り部の都」が近づいていることを予感しているのだろうか。その小さな鼓動が、ルゥの胸の奥で希望のように響いた。


昼を過ぎると日差しは急激に強くなり、気温は容赦なく上昇した。地面は熱を帯び、遠くの景色が陽炎のように揺らめき始めた。気温の上昇は、エリアスが言ったように、砂原が近いことを示唆していた。


二人はなんとか見つけた大きな岩陰で休憩を取り、エリアスは慣れた手つきで干し肉を分け、ルゥは持参した小鍋で湯を沸かした。


ルゥは指先に集中して小さな炎を灯し、それを鍋の底にそっと当てる。里の鍛冶場での訓練のおかげで、彼女はもう火加減を自在に操れるようになっていた。

炎の熱は一瞬で水を温め始めた。


「おぉ……本当に火を起こす薪も道具もなしで、お湯ができるんだな。何度見ても魔法みたいだ。

君の火がなければ、この旅は水筒の中の冷水だけで過ごすことになっていた」


エリアスは感嘆の声を漏らした。


「鍛冶場じゃ毎日これだよ。これがなければ仕事にならないんだから。鍛冶師にとって焔は、指先と同じくらい大切なんだからね。……はい、干し肉と野菜を入れた、特製スープできたよ」


エリアスは湯気の立つスープに警戒心なく口をつけた瞬間、大きく顔をしかめた。


「熱っ!熱すぎるぞルゥ!少しは冷ませと言ってくれ!」


「ふふっ、ちょっと早かったね。鍛冶場で鉄を扱うときは、これくらいの温度は平気でしょ?」


ルゥは笑いをこらえきれずに言った。


「鉄と舌は違う!君、絶対楽しんでるだろ!俺の反応を見て!」


「そんなことないよ?ほら、エリアスの顔に火傷させちゃいけないから、私が風を送ってあげる」


ルゥは悪戯っぽく笑いながら、熱を和らげるために優しく息を吹きかけた。


「絶対ある!」


二人の笑い声が、広大な草原に心地よく響き渡った。この穏やかな時間こそが、旅の途中で得られた最も貴重な安らぎだった。


スープを飲み終え、エリアスは剣の手入れをしながら、ルゥに問いかけた。


「ねぇ、ルゥ。君は“語り部の都”について、長老から何か詳しい話を聞いたのか?俺たちが向かう場所だ。もっと情報を整理しておきたい」


ルゥはペンダントをそっと撫でながら答えた。


「ううん。長老も知っているのは『遠い東の砂の果てにある、今は亡き伝説の都』ということだけ。

でも、エリアスが言っていた『記憶を歌に刻む民』の話はすごく惹かれるわ。まるで、私たちに必要な答えが、そこに封印されているみたい」


「記憶を……歌に?」


ルゥは改めてその言葉の持つ響きに心を奪われた。


エリアスは剣を鞘に収め、改めて詳しく語り出した。


「ああ。古の言い伝えだ。昔、この世界には、記録を紙や石に残すのではなく、すべてを声と旋律に変えて残す、高度な文明があったらしい。

彼らは、大戦で失われた英雄たちの記憶や、世界の魂の歴史、そしてこの地を巡る精霊たちの物語さえも、歌にして残した。

だから、彼らの都は世界の『失われた図書館』とも呼ばれていたんだ」


「失われた図書館……」


ルゥは感嘆の息を漏らした。


「まさに、私たちが求めている場所だわ」


「ああ。雷鳴の谷で精霊は言った。

『焔の記憶が、次の道を示す』と。君の火に隠された真の力、そして私が守れなかった過去の出来事。

その痛みの記憶の答えも、きっとその都にあるはずだ」


「じゃあ、やっぱり確かめたいね」


ルゥの声は、風の中で強く揺れていたが、その響きには迷いがなかった。


「火の力を持つ自分が、なぜ記憶の都に導かれているのか。その理由を知るためにも、私たちは前に進むしかない」


「ああ。俺たちの進むべき道は、あの谷で決まった。剣士として、そして一人の人間として、過去と向き合い、未来を切り開くために」


エリアスの瞳には、強い決意の光が宿っていた。


夕暮れが近づくと空は瞬く間に金色から深紅、そして深い紫へと、目まぐるしく染まり始めた。

太陽が地平線に沈むにつれ遠くの地平では、風が渦を巻き、砂を巻き上げているのが見えた。

その光景は、美しさの中に荒々しさを秘めていた。


エリアスが言った通り、砂混じりの風が急に強くなり、ルゥの頬を刺すように掠めた。

その風は熱く、微細な砂を含んでいた。


「……風が、熱を持ってる。いよいよ砂原が近い証拠ね」


ルゥは顔を覆いながら言った。


「まずい、この風はただの砂風じゃない。

夜になる前に、最低限の野営地を確保しないと、砂に埋もれてしまうかもしれない」


二人は急ぎ、風除けになりそうな小さな丘の裏手に駆け込み、手早く石を積み始めた。

ルゥが指先に集中し、火を灯す。橙の光がゆらゆらと揺れ、草と砂の匂いと混じり合った。


火を確保し、エリアスが持参した革のテントを組み立てている間、ルゥは焚き火の番をしていた。


「ねぇ、エリアス」


「ん?」


エリアスはテントの紐を結びながら答えた。


「旅って、思ってたより静かだね。

もっと毎日、野獣と戦ったり、悪党に襲われたり、何かドラマチックなことが起きるのかと思ってた。里の人が話す『冒険』とは少し違うわ」


「静か?」


エリアスは立ち上がり、ルゥの隣に腰を下ろした。


「俺は十分ドキドキしてるよ。毎日が新鮮で、ドラマチックだ」


「え?何にドキドキしてるの?」


ルゥは彼が冗談を言っているのか分からず、首を傾げた。


エリアスは真面目な顔をして言った。


「こんなに近くで、君の火を見ているの、初めてだから。里ではいつも炉の奥にあっただろ。今、俺の目の前で、君の心臓の鼓動に合わせて、こんなにも美しく揺らいでいる」


ルゥは顔を上げた。

夕闇の中、焔の光がエリアスの瞳に映っている。

その瞳は、どこか懐かしい色をしており、彼の心にある純粋な好奇心と、わずかな感傷を映し出していた。


彼女は少しだけ照れくさくなり、視線をそらした。

焚き火の火が小さく爆ぜる音が、二人の沈黙を優しく埋める。夜風が吹き抜け、空には無数の星が瞬き始める。


「……エリアス」


「ん?」


「もし、この先で私たちが出会うだろう怖いものや、乗り越えられない壁に出会っても、一人で抱え込もうとしないでちゃんと話してね。

私を、あなたの『剣士の孤独』に巻き込まないで。

私たちは、もう一人じゃないんだから」


「約束する。俺も、君が焔の記憶に不安になったり、その強大な力に戸惑ったりしたら、必ず話す。

……君の焔は、もう俺の背中を守る盾であり、俺自身の道標なんだ」


「うん」


二人の間に、静かな、しかし確かな信頼の約束の時間が流れた。焔と風。二つの小さな灯が、暗い夜の中で寄り添うように揺れている。


その時、風の音が、急激に、そして異様な唸りを上げて変わった。

地平線の向こうで、低い唸りが聞こえる。

それは、ただの風の音ではない。何かが大地を削り、砂を巻き上げるような、荒々しい咆哮だった。

空の星々が、一瞬にして黒い砂塵に覆い隠される。


「……砂嵐!?まだ都は遠いはずだ。こんなところで足止めを食うわけにはいかない!」


エリアスが立ち上がり、剣の柄に手をかけたまま、風向きを見る。


「まずい、来るぞ!この風の勢いは、昨日までのものとは比べ物にならない。テントが吹き飛ばされる!」


砂を含んだ風が、容赦なく二人の頬を打ち付ける。

焚き火の焔が不安げに揺らめき、今にも消えそうだ。

ルゥはすぐさま両手を広げ、火を胸に集めた。

彼女の全身から発せられた炎が、逆巻く風の中で必死に踏みとどまり、二人の周囲に光の円を描く。

風は炎を打ち消そうとするが、ルゥの火は雷鳴の谷で覚醒した後、遥かに強靱になっていた。


耳鳴りのような風の咆哮。

砂の匂いが肺の奥まで突き刺さる。

世界がかき消えていく中で、ルゥは確かに“声”を聞いた。


――歌。

それは、最初は風の音と錯覚した。

しかし、それは、風の轟音を貫いて、鼓膜ではなく魂に直接響くような、確かに人の声だった。

その歌声は、遠い過去を語り、失われた記憶を呼び覚ますような、どこか懐かしく、そして魂を揺さぶるような、涙がこぼれそうなほど切ない旋律。


ルゥは炎の壁の中で、目を大きく見開いた。


「……歌?誰かの歌が聞こえる!エリアス、聞こえないの!?」


エリアスは砂嵐の轟音に耳を覆いながら、かすかにその旋律を捉えた。


「風の音に紛れて……何か、音が?」


ルゥは炎の制御に全神経を集中させながら叫んだ。


「違う!ただの音じゃない!歌よ!とても古い、優しい歌!」


嵐の勢いがその歌に呼応するかのように、少しずつ弱まり始めた。砂を巻き上げる風の壁が整い、黒い砂のカーテンが左右に開く。

空が開け砂の向こうに沈みかけた夕日の最後の光が射し込んだ。


その光の中にまるで幻影のように、ひとりの少女が立っていた。彼女は全身に砂塵を纏い、薄い布を身に纏っている。

まるでこの荒野の一部であるかのように見えた。

彼女の唇から、その不思議な歌が響いている。

彼女はルゥたちを見据えているようにも、あるいはただ遠い空を見つめているようにも見えた。


「あれは……人か?」


エリアスは剣を構えたまま、警戒を緩めない。

こんな砂嵐の中で、人間が立っているはずがない。


ルゥは、ペンダントの焔がその歌に強く共鳴し、激しく脈打つのを感じた。

その少女こそがこの旅の最初の出会いであり、彼らを「語り部の都」へと導く運命の鍵となるのだろうか。

ルゥの胸の火が、その歌声と、少女の存在を強く求めていた。

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