序章【第7話:焔の里に帰る朝】
雷鳴石の谷に静けさが戻ってから、三日が経っていた。あれほどの猛威を振るった稲妻の轟音が嘘のように消え、山には鳥の声と、朝露の瑞々しい匂いだけが戻っていた。
谷の試練を乗り越え、世界は彼らに優しさを取り戻したかのようだった。
ルゥとエリアスは、緩やかな山道をゆっくりと下っていた。行きは胸を締め付けるような緊張と、荒々しい自然との闘いの連続だったが、帰り道は穏やかで、どこか充足感に満ちていた。
それでも、極限を体験した旅の疲れは、体の奥底に重く残っている。
ルゥが、エリアスの足取りを気遣って尋ねた。
「……足、もう大丈夫?無理してない?」
エリアスは少し笑って、軽やかに足踏みをしてみせた。彼の顔には、もう試練前の焦りはなかった。
「平気だよ。君が作ってくれた包帯、なかなか丈夫だから。あの雷の衝撃を和らげる効果まであったんじゃないか?」
ルゥは鼻を鳴らした。
「ふふ、鍛冶師なめないで。素材の選定にはこだわったんだから」
「それは心強いな。今度から靴下も君に頼もうか。
これなら普通の靴下より、よっぽど心強い」
「ちょっと、それって褒めてるの?皮肉じゃない?」
「もちろん、最高の褒め言葉だ」
ルゥは呆れたように大きなため息をついたが、その表情は険しくなく、頬がわずかに緩んでいた。
二人の間には、試練を共に乗り越えたことで生まれた、揺るぎない信頼と親愛の空気が流れていた。
風が木々を揺らし、光の粒が枝の隙間を縫って彼らの足元に降り注ぐ。ルゥの胸元で、ペンダントの火が柔らかく明滅した。
あの試練のときの激しい白銀の焔とは違う。
今は、ルゥの心の穏やかな鼓動に合わせて静かに灯っている。それは、彼女が「火の真の意味」を見つけた証でもあった。
一日目の夜、二人は岩場の下の比較的風のない場所で、小さな焚き火を囲んでいた。山を下り始めて最初の夜だ。
持ってきた薪が道中の雨で湿っていて、火がなかなかつかない。ルゥが慎重に息を吹きかけるが、煙が立つばかりだ。
「……やっぱり、火って気まぐれだね。私の言うこと、聞いてくれない」
ルゥは苦笑して、ため息をついた。
エリアスは、木切れを拾って火の側にそっと置いた。
「いや、気まぐれなのは火じゃなくて、君自身だろ」
「えっ、私!?何でよ!」
ルゥは目を丸くした。
「だって、あの雷鳴の谷で、『私は火の継承者だから、雷なんて怖くない』って強がってた人が、最初の雷が鳴った瞬間、『ひゃっ』て一瞬、跳ねてたぞ」
エリアスは、その時のルゥの様子を思い出し、楽しそうに笑った。
「ひゃっなんて言ってない!もっとこう、『うっ』とか『はっ』とか、戦士っぽい声だったはず!」
ルゥは顔を赤くして否定したが、エリアスは首を横に振った。
「いや、どう聞いても『ひゃっ』だったな」
「むーっ!」
ルゥがふくれっ面になり、ついには膨れっ面のまま笑い出した。その笑いにつられて、エリアスも大声で吹き出した。張り詰めていた心が解けるような、穏やかな笑いだった。
ようやく焔が形を取り、炎の赤がふたりの頬を温かく照らす。夜風は少し冷たいが、その冷たさが焚き火の温もりを際立たせ、心地よく感じられた。
ルゥは火を見つめながら、静かにエリアスに語りかけた。
「ねぇ、エリアス。あの時、本当に怖かったんだ。精霊が雷を放って、私の火が暴れた瞬間……誰かを焼いちゃうかもしれない、エリアスを傷つけてしまうかもしれないって。怖くて、手が震えてた」
エリアスは火の向こうで静かに頷いた。
彼はルゥの抱える本質的な恐怖を理解していた。
「でも、君の火は誰も傷つけなかった。それどころか、俺の痛みと恐怖を癒してくれた。雷の衝撃で意識が飛びそうになった時、あの温もりが俺を引き戻してくれたんだ。……本当に、優しかったよ」
その言葉は、ルゥが欲しかった確信だった。
ルゥの瞳がわずかに揺れ、炎が涙の粒のようにきらめく。
「ありがとう。そう言ってくれて」
「礼を言うのは俺の方だ。君の火が優しかったから、俺もあの光景(過去の記憶)に負けずに立ち上がれた。……たぶん、あの極限の状態で、俺も誰かを守る力を心底から信じたかったんだ」
焚き火の音が静かに鳴り響き、夜が二人のすべてを優しく包み込む。
二人は火の温もりの中で、互いの魂の奥にある真実を分かち合い、いつしか言葉を失っていた。
炎のゆらめきだけが、心に残る不安を優しく溶かしていくようだった。
二日目の朝。霧の山道を進むと、木々の間から朝日が差し込み、霧を黄金色に染めていた。
ルゥはふと足を止め、顔を上げた。
「ねぇ、行きと帰り、同じ道なのに……景色が全然違って見えるね。行きはすべてが敵みたいだったのに」
「俺たちが変わったんだろうな。もう、この道に怯えてない。試練を乗り越えたから」
エリアスは、ルゥの隣に並び、霧の向こうを見つめた。
「うん……そうかも」
エリアスが少し黙ったあと、ぽつりと、まるで独り言のように呟いた。
「雷の谷で……声を聞いたんだ。精霊の声とは別の、もっと古くて、親しい声」
ルゥは驚いたように振り返った。
「声?エリアスにも?」
「ああ。『おまえの剣は、まだ道の途中だ』って。あの雷光の中で、剣がそう言っている気がしたんだ。
誰の声か分からない。でも聞いた瞬間、胸が苦しくなった。まるで、ずっと忘れていた大切な言葉を思い出そうとしているみたいに」
ルゥは自分が経験した「焔の記憶」の奔流を思い出し、静かに彼の言葉を待った。
エリアスは深く息を吸い、過去の重い扉を開くように語り始めた。
「俺の村、昔…夜に、何者かに襲われたんだ。
そして突然、村は火の海になった。」
彼の声は低く、静かに揺れていた。
「空が真っ赤で、息をするのが熱くて苦しくて、
混乱の中で…俺は誰かに突き飛ばされて、必死で逃げたんだ。『エリアス、逃げろ!生きろ!』って、
あの声はたぶん、母さんだったと思う。
気づいたら、村の外れの剣の鍛冶場の前で倒れてて……それから、その夜のことは全部、何も覚えてない」
ルゥの喉がきゅっと詰まった。
その壮絶な過去に、言葉が出ない。
「……そんなことがあったのね」
「それ以来、俺は剣を覚えようって決めたんだ。
剣を手にすれば、もう二度と、大切な人を守れなかったって思わずに済むと信じて」
エリアスは自嘲するように笑おうとしたが、その声は震えた。
「でも、あの雷の谷で聞いた声、そして『語り部の都へ行け』という言葉が……もしかしたら、失われた記憶の鍵に繋がってる気がするんだ。
あの都で、記憶を取り戻せば、あの夜の悲劇の意味も、俺が生き残った理由も分かるかもしれない」
ルゥは静かに、深く頷いた。
彼女の目には、エリアスへの深い共感と、彼を守りたいという決意が宿っていた。
「そっか…。行こう!エリアス。あの谷の試練を乗り越えた今、私たちはもう一人じゃない。焔の記憶が導く場所なら、あなたの“痛みの記憶”も、きっと優しく受け止めてくれるわ」
「君も行くんだろ?」
エリアスは、彼女の決意を確認するように尋ねた。
「もちろん!私の火も、まだ途中だから。
私の火の本当の使命と、誰と約束したのか、その答えを『語り部の都』で見つけたい」
二人は見つめ合い、穏やかに笑った。
炎と剣の二つの深い想いが、運命に導かれ、ひとつの道へと重なっていく瞬間だった。
三日目の昼。
山を越えた先に、見慣れた焔の里の赤い屋根が見えた。鉄とパンの香ばしい匂いが風に乗って届く。
ルゥの胸が熱くなり、エリアスの口元にも安堵の笑みが浮かぶ。
「……帰ってきたね、ルゥ。この匂い、里の匂いだ」
「あぁ。やっとだ。故郷の温かさって、こんなにも安らぐものだったんだ」
里に着くと、最初に駆け寄ってきたのは、親友のミラだった。
「ルゥっ!もうっ、どこ行ってたのよ!心配で死ぬかと思った!」
ミラは涙目で抱きつき、ルゥの体を何度も確認した。
ルゥはミラの背を優しく叩き、少し笑って答えた。
「ごめん、心配かけちゃった。でも見て、ほら無事よ」
「ほんとに……怪我、ない?どこか痛いところは?」
ミラの声は震えていた。
「ちょっと火傷したけど、平気だってば。私の火で治したから」
ミラの眉が跳ね上がる。
「ちょっとって言えるわけないでしょ!まったく、無鉄砲なんだから!」
「でも、こうして帰ってきたでしょ?これでもちゃんと成長したんだから」
ミラは涙を拭いながら、しぶしぶ笑った。
「もう二度と、こんな無茶はしないでよね」
その様子を見て、エリアスが少し照れくさそうに頭を下げた。
「心配かけたのは……本当にすみません」
ミラはじろりとエリアスを睨んでから、ふいに優しい笑みを浮かべた。
「ルゥを守ってくれてありがとう、旅の人。助かったわ」
「い、いや……守られたのは俺の方で。ルゥの火に助けられました」
ルゥが堪えきれずに笑い出すと、ミラも釣られて笑った。緊張が解け、里の温かい空気が彼らを包み込んだ。
鍛冶場の前には、長老ガランが立っていた。
静かな笑みを浮かべ、すべてを見透かしたような目で二人を迎える。
「無事に戻ったようじゃな。よくやった」
「はい」
ルゥは両手を差し出した。
掌の上には、青白く、まるで月の光のように光る雷鳴石の核。その光が炉の焔と混じり合い、柔らかな紫の輝きを放った。
ガランの目が細くなり、低く呟く。
「雷の精霊が……おぬしらの志を認め、そして祝福をくれたのか」
ルゥはすぐに試練の後の言葉を伝えた。
「試練のあと、言葉をもらいました。『語り部の都へ向かえ。焔の記憶が、次の道を示す』と」
その言葉に、ガランの眉がわずかに動いた。
彼の表情は真剣そのものだった。
「語り部の都……それは遠い東の砂の果てに存在する、伝説の都じゃ。世界の歴史や、失われた記憶を歌に刻む民が住むと言われる、知識の集積地じゃ」
ルゥは静かに息を呑む。
エリアスが一歩前に出た。
「俺も、その都へ行きたい。この剣を完成させるためだけじゃなく、俺自身の過去を知るために」
ガランの視線が少年の瞳に注がれる。
彼は何も尋ねなかったが、すべてを理解しているようだった。
「何か、見たのだな。
雷の光の中で、おぬし自身の真実の一端を」
「はい。雷の光の中で、過去の声を。
……あの都で、すべての答えを知りたいんです。
なぜ俺の剣は砕け、なぜ俺だけが生き残ったのか」
ガランは小さく頷いた。
「ならば、焔と雷の二つの導きが一つになったということじゃ。剣は雷鳴石を得て完成の兆しを見せ、火はおぬし自身の記憶を求め始めた」
彼は微笑み、炉の焔を見つめながら言った。
「行け。おぬしたちの旅は、まだ始まったばかりじゃ。ワシは、この里でおぬしらの帰りを待とう」
夜。鍛冶場の焔が赤くゆらめき、炉の音が心臓の鼓動のように響く。
ルゥとエリアスは隣に座り、火を見つめていた。
エリアスは、手に入れたばかりの雷鳴石を剣に組み込む作業を終え、その剣を静かに抱えていた。
「……あの時の雷の音、今でも耳の奥で鳴ってる気がする」
ルゥが呟いた。
「きっと、精霊の声が残ってるんだよ。試練を乗り越えた証として」
「君の火の声も、同じように?」
「うん。……『まだ道の途中。立ち止まるな』って言われた気がする」
ふたりは同時に笑った。
炎がゆらりと揺れ、焔の中に小さな火の鳥が生まれた。その鳥は、羽ばたくように天井の影を照らし、やがて消えた。
「また旅が始まるね」
ルゥは言った。
「でも、今度は目的がある。曖昧だったものが、はっきりした」
ルゥの言葉に、エリアスが強く頷いた。
「君の火が導くなら、俺はその隣で、君が守りたいものを守るために剣を振るう」
「……頼りにしてるわ、私の剣士さん」
「任せろ、俺の火の継承者」
夜風が鍛冶場を抜け、火がやさしく揺れる。
その焔の光が二人の頬を照らし、まるで未来の約束を祝福するようだった。
翌朝。霧の中、焔の里がゆっくりと目覚める。
ルゥとエリアスは荷を背負い、鍛冶場の前に立っていた。
ミラが小さな包みを差し出す。
「干し果物とパン。道中で食べてね。これはお守り」
「ありがとう。……ミラ」
ルゥは包みを受け取り、きつく抱きしめた。
ミラは涙をこらえながら、無理に明るく笑った。
「必ず帰ってくるんだよ。今度は、もっと壮大な土産話を用意しなさい」
「うん。必ず!」
ガランが一歩前に出て、炉の火を背に言った。
「焔は帰る場所を覚えておる。迷ったら、その火に尋ねろ。火も剣も、心を離せば折れる」
ルゥは深く頷いた。
「行ってきます、長老」
エリアスも言葉を重ねた。
「また帰ります。必ず」
朝の光が山の端から差し込み、二人の背を照らす。
ルゥはペンダントを握りしめ、微かに灯る火のぬくもりを胸の奥で感じた。
「さぁ、行こう。東へ」
「語り部の都へ」
二人の足音が石畳を離れ、山道へと続く。
焔の里の上空に、ひとひらの火の粉が舞い上がった。それは朝陽を受けて輝きながら、東の空へと消えていった。
――語り部の都へ。
焔の記憶が、次の道を示す。
彼らの旅は、まだ始まったばかりだった。




