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序章【第5話:雷鳴の谷、眠る心の影】

朝の光が差し込むころ、山道を吹き抜ける風は、里で感じるそれとは比べ物にならないほど鋭く冷たかった。

まるで、その冷気が彼らの旅の厳しさを物語っているかのようだ。


焔の里を離れて三日。

平原を抜け、荒涼とした岩の連なる尾根を越え、ルゥとエリアスは言葉少なく、黙々と歩き続けていた。

背後に見えていたはずの焔の里の煙は、もう視界のどこにも見当たらない。

代わりに広がるのは、生命の気配を感じさせない灰色の岩肌と、ひゅうひゅうと寂しく吹き荒れる風の音だけだった。

その風の音は、まるで彼らを試すかのように、時には囁き、時には唸りを上げていた。


エリアスが足を止め、大きく息を吐いた。

額の汗が風に冷やされて、一瞬肌寒く感じる。彼は剣の柄を握り直し、改めて周囲の光景を見渡した。


「ここまで来ると、空気ががらりと変わるな。里の温もりから、一気に引き剥がされたみたいだ」


彼の声には、僅かな戸惑いと、それでも前へ進む決意が混じっていた。道は次第に険しくなり、足場の岩肌は剣のように鋭く尖り、歩くたびにブーツの底を刺すようだった。

一歩一歩が、彼らの体力と精神力を削っていく。

時折、山の向こうから低い雷の音が響いた。

それはまだ遠く、しかし確かに、“何かが呼んでいる”音だった。

大地そのものが、何らかの力に反応して息をしているようだった。


ルゥは、その雷鳴に呼応するように胸元のペンダントに手を触れた。

ペンダントは冷たい岩の温度とは裏腹に、温かさが指先に広がり、微かな鼓動を感じる。

その鼓動は、彼女の心臓の鼓動とシンクロしているようだった。


「聞こえる?……雷の声。私を呼んでるみたいに響くの」


ルゥは目を細め、遠くの空を見つめた。

エリアスも耳を澄ませた。


「うん。でも、まだずっと遠くだ。本物の雷の音じゃなくて、もっと重い、地の底から響いてくるような……不気味な音だ」


彼の瞳は、その音の根源を探るようにまっすぐ前を見据えていた。彼は剣士としての直感で、この場所の危険性を感じ取っていた。


昼には山を下り、岩間に奇跡のように広がる小さな草地で足を止めた。

旅の途中で見つけた唯一の安息の地だ。

風が強く、木の枝がうなりを上げていたが、この場所だけは岩に守られ、比較的穏やかだった。


ルゥが火を灯すと、焔は風に煽られながらも、決して消えることなく、その芯だけは真っすぐに、力強く立ち上がった。

その小さな、しかし確かな火の光が、二人の疲れた表情を優しく照らした。


その焔を見つめながら、エリアスがぽつりと呟いた。彼の声は、岩に囲まれた静かな場所で、妙にはっきりと響いた。


「君の火、やっぱり不思議だな。普通、こんな風が強い場所だと、すぐに消えるか、形が崩れるはずだ。でも、君の火は力強く燃えてるのに、見てると変に落ち着く」


ルゥは少し笑って、風で乱れた髪を直しながら肩をすくめた。彼女の笑顔は、この荒涼とした風景の中で、唯一の温かい光のようだった。


「焔の里の人はみんな、火を“育てる”って言うの。

ただの道具じゃない。生きているものだって。暴れた火も、ちゃんと話を聞いて、優しくしてあげれば静かになるんだよ」


「話をすれば?」

エリアスは目を丸くした。

彼にとって、火とは熱く、危険で、ただ鍛冶の道具でしかなかったからだ。


「うん。たとえば——“今日も頑張ったね”って」


そう言ってルゥは焔に向かって優しく囁いた。

その言葉は、まるで古い呪文のように聞こえた。

焔は一瞬ふっと明るく揺れ、まるで返事をしたように見えた。その揺らぎは、確かに喜びや安堵を表しているかのようだった。


エリアスは苦笑しながらも、その光景に目を離せなかった。彼は自分の手の中で冷たく重い剣を思い浮かべた。剣はただの金属。

だが、ルゥの火は、まるで友人のように接すれば、応えてくれるように見える。


「すごいな……。もし俺の剣も、そんな風に話ができたら、何を言うんだろう」


エリアスは、壊れて直したばかりの剣を見つめた。

ルゥは静かに言った。


「きっと、あなたに感謝してるわ。だって、あなたは命を懸けて、谷へ石を探しに行ったんだもの。あなたの強い思いが、この剣をもう一度生かしたのよ」


二人の間に流れる空気は穏やかだった。

それは、互いの信頼と、この旅の目的への真剣さが生み出す、貴重な安らぎだった。

けれど、旅は甘くはない。彼らは、最も困難な試練が近づいていることを知っていた。


三日目の午後、空の色が重く変わり、冷たい雨が降り始めた。山の斜面はあっという間にぬかるみ、岩肌は滑りやすくなる。

雨粒は彼らの服をすぐに濡らし、体温を奪っていった。


エリアスは焦っていた。

一刻も早く雷鳴石の谷に辿り着かなければ、ルゥの体力も、彼の精神力も限界を迎えてしまう。

彼は慎重に足場を選ぼうとしたが、焦りが判断を鈍らせた。彼は一歩踏み出し、足を取られた。

岩肌の苔が原因だった。


「エリアス!」


ルゥの声が響くより早く、彼の体は大きく傾き、斜面を滑り落ちていった。幸い、大きな怪我はなかったが、彼は岩にぶつかり、足首を押さえながら、苦痛に顔を歪めていた。


ルゥはすぐに泥濘を気にせず駆け寄った。

彼女の顔には、恐怖と動揺が浮かんでいた。


「エリアス、大丈夫!?どこか折れてない!?」


「……平気だ。大したことない。歩ける」


エリアスは、ルゥに心配をかけまいと、痛みを堪えて立ち上がろうとした。しかし、片足をついた瞬間、激痛が走り、彼は再び苦痛に息を飲む。

その表情は、痛みを隠しきれていなかった。


ルゥは眉をひそめ、彼の肩にそっと手を置いた。その手は温かく、彼の体を支えた。


「無理しないで。嘘が下手だよ、エリアス」


ルゥの優しい、しかし強い口調に、エリアスはばつが悪そうに目を逸らした。嘘をつくのが苦手な彼は、すぐにルゥに見透かされてしまう。


彼女は膝をつき、泥で汚れた彼の足をそっと持ち上げた。冷たい雨と泥の感触が、怪我の痛みをさらに増幅させる。


「ちょっと冷たいけど、我慢してね。すぐに楽になるから」


ルゥはそう言って、自分の手から小さな焔を灯した。

その焔は雨に濡れることもなく、橙の光が雨粒に滲み、あたりを神秘的に照らした。

空気が一瞬、柔らかく温かくなる。

その焔が彼の足首をそっと包むと、痛みがじわじわと溶けていくのが分かった。まるで、焔が彼の傷口に流れ込んでいるかのようだった。


エリアスの表情が、急速に緩んでいく。

彼は信じられないという目で、ルゥの焔を見つめた。


「……すごい。本当に痛みが引いていく。まるで、魔法みたいだ」


「火は壊すだけじゃないの。里の鍛冶師は皆、火の力を使って怪我を治したりもするんだよ。でも、私の火は特に、癒す力が強いって長老が言ってた」


ルゥは優しく笑った。彼女の瞳は、自分の火の力に確信を持っているようだった。


「多分ね、私の火がそういう風にできてるのは……誰かを守るためなのかも。大切なものを、壊れないように、傷つかないように、治してあげるために」


エリアスはしばらく黙っていた。

ルゥの言葉が、彼の心を深く打った。

雨音だけが二人の間に静かに落ちる。


「君が優しいから、火もそうなるんだ。君の心そのものなんだよ、その火は」


彼の声は、雨音にかき消されそうなほど小さな声だったが、ルゥの心に真っ直ぐ届いた。

彼女の頬が熱くなるのは、焔のせいだけじゃなかった。それは、純粋な賛辞と、エリアスからの深い信頼を感じたからだった。


翌朝、夜が明けると雨は止んでいた。

雲はまだ空を覆っていたが、太陽がわずかに顔を出すと、濡れた岩が光り、あたりに虹のような幻想的な霧が漂った。谷に立ち込める霧は、彼らの進むべき道を隠しているようでもあった。


ルゥはエリアスの足首に再び焔をかざし、最後の仕上げの治療を施した。


「これで大丈夫。でも、無理はしないでね」


エリアスは立ち上がり、足首を回してみた。痛みはすっかり消えていた。


「ああ、完璧だ。ありがとう、ルゥ。本当に助かった。君がいなかったら、俺はここで終わってたかもしれない」


彼はルゥの手を握り、真剣な目で感謝を伝えた。

ルゥは照れくさそうに、そっと手を離した。


空の奥から、低い雷鳴が、昨晩よりもずっと近く聞こえる。それは、もう遠い山の向こうからではなく、彼らの頭上から響いてくるかのようだった。


「近いな……」


エリアスが呟くと、ルゥの胸元のペンダントが応えるように明滅した。青白い雷の光と、橙色の焔の光が、互いを呼び合っているようだった。

火と雷——全く異なる二つの力が、強く引かれ合っていた。


その日の夕暮れ、彼らは荒涼とした岩場の端に辿り着いた。ここで、風が変わった。

冷たい山風に代わり、温かい南風が吹き始めたが、その風には微かな金属の匂いと、焦げ付くようなオゾン臭が混じっていた。


空を見上げると、頭上には黒雲が渦を巻き、その奥で激しい稲妻が走っている。

稲妻は空気を切り裂き、轟音を立てていた。

その光は、まるで雲の中で巨大な何かが暴れているかのようだった。


「……もうすぐだね。風の匂いも、変わった」


ルゥの声が、雷鳴の響きに負けないように震える。

彼女の瞳には、この先にある未知への恐怖と、それを乗り越える強い意志が宿っていた。


「怖いか?」


エリアスが、静かに尋ねた。


「少し。足がすくむ。でも、それ以上に——知りたい」


ルゥはペンダントをぎゅっと握りしめた。


「私のこの火が、なぜこんな場所の精霊と呼応するのか、知りたい。私の、本当の居場所がどこにあるのかを」


二人は最後の焚き火を囲み、火を見つめた。

炎の光は、彼らを外界の恐怖から守る、小さな結界のようだった。


ルゥが掌を焔の上にかざす。

火の温もりが、彼女の全身に力を与えていく。


「ねぇ、エリアス。私たち、あの谷で何を見つけるんだろう。雷鳴石だけじゃない気がする」


「ああ、俺もそう思う。雷鳴石はあくまで手段だ。俺は、剣の声を、もう一度聞きたい。あのとき折れた剣の“理由”を知りたい。なぜ俺の剣は砕けたのか。その答えが、この谷の精霊の言葉にある気がする」


「私も……火の本当の意味を知りたい。私自身の真実を」


炎が二人の瞳を照らす。

焔の揺らめきの中で、彼らの影がひとつに重なった。

互いの決意が、静かに共鳴し合う夜だった。


翌日。

山道を抜けた先に広がっていたのは、言葉を失うほどの光景だった。

巨大な裂け目が大地を深く、垂直に割っていた。

その黒い岩の裂け目からは、地の底から湧き上がるような青白い光が絶え間なく漏れている。

そこが——雷鳴石の谷だった。


谷底からは絶え間なく稲妻のような青白い光が走り、轟音が山肌を震わせ、大地そのものを揺るがしている。空は黒雲が重く垂れ込め、渦を巻き、落雷の光がまるで生き物の息のように脈打っていた。

その光景は、まさに神話に出てくる試練の場のようだった。

ルゥは思わず息を呑んだ。

その圧倒的な力に、畏怖を感じる。


「……これが、雷の精霊の眠る谷……。信じられない……」


胸の火が熱くなる。

彼女の炎が、まるで“同じ力”に反応しているかのように激しく燃え上がる。ペンダントは、雷の光に照らされて、これまでにないほど強く輝いていた。


エリアスの剣もまた、かすかに震えた。その修復された剣の鋼は、谷の磁力に引きつけられているかのようだった。


「聞こえるか?ルゥ。この音……ただの雷じゃない。鼓動だ。巨大な、生き物の鼓動だよ」


風が唸りを上げ、彼らの髪が逆立つ。

その時、足元の岩が、雷鳴石の青白い光を浴びて、赤く不気味に光った。

そして、遠くの岩壁に、人の形をした“影”がちらりと揺れた。その姿は煙のように薄れ、次の瞬間には消えていた。まるで、誰かが谷の入口で彼らを待ち構えていたかのようだった。


ルゥの心臓が跳ねる。

彼女はエリアスの服の裾を強く握りしめた。



「今の……!何だったの?誰か、私たちを見ていたわ……」


エリアスは剣を強く握りしめた。

その瞳には、緊張と警戒の色が宿る。


「わからない。だが、気を抜くな。何かが俺たちを見てる。この谷は、単なる自然の試練だけじゃない」


稲妻が空を裂き、谷全体が一瞬、昼のように明るくなる。その光の中で、谷の岩肌に埋め込まれた無数の雷鳴石が輝いた。

彼らの進むべき道が、青白い光で照らし出された。

雷鳴石は、まるで試練を前に笑っているかのように——彼らの挑戦を待っていた。


「行こう、ルゥ。もう、後戻りはできない」


エリアスは、谷の底へと続く険しい道を見据えた。


「うん……エリアス」


ルゥはペンダントを握りしめ、エリアスの背を追う。

二人の影が、雷の光の中に溶けていく。

轟音が空を貫き、大地が震える。

焔と雷——二つの力が、ついに出会おうとしていた。

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