序章【第4話:雷鳴石の谷の呼び声】
市場の喧騒が少しずつ日常の音に溶けていく頃、ルゥはエリアスを伴って鍛冶場へ戻った。扉を閉めると、外の光が細い筋になって床を横切り、金床の縁を鈍く光らせた。ルゥは布の包みをそっと解く。黒く焼け焦げ、深いひびを刻んだ刃が、息を潜めるように沈黙している。
「ここなら……ゆっくり見られる」
ルゥは掌に小さく焔を灯した。
柔らかな赤が刃を撫でるたび、光は細い川となってひびの奥へ流れ込み、消えていく。熱は伝う。
だが、鉄は応えない。炉の火とも違う、彼女の火とも違う──どこか遠い場所の鼓動に、刃は耳を傾けているようだった。
「やっぱり……普通の火じゃ、呼び戻せない」
肩越しに覗き込んでいたエリアスが、唇を噛む。
「俺が……壊したから」
ルゥは首を振る。
「違うよ。これは誰のせいでもない。……ただ、ここにない“何か”を剣が探してる」
彼女は天井の煤けた梁を見る。幼いころから見上げてきた光景が、今日は遠くにあった。
「長老に、聞こう」
里の中心の大炉の前で、長老ガランは目を閉じ、静かに座していた。炉は弱く、けれど絶えず呼吸する。
ルゥとエリアスが膝をつくと、長老は瞼を開く。
その瞳は焔の奥の奥を覗くように深い。
ルゥが経緯を話し終えると、長老は剣を両手で受け取った。指先が刃をなぞる。
古い皺が、刻まれた紋様と重なり合う。
「雷の匂いがする」
ガランはぽつりと言い、壁の棚から古びた巻物を下ろした。羊皮紙が擦れ、微かな粉塵が舞う。
広げられた面には、稲妻を象った紋が幾重にも重なり、谷を囲む峰々の線が震えるように描かれている。
「雷鳴石の谷──山の向こう、雲と岩が交わる裂け目にある。そこは雷の精霊が眠り、時折、目覚めては世界の骨へ音を刻む。雷鳴石は、その眠りの破片じゃ」
ガランはルゥの胸元のペンダントへ目を落とした。
薄く、しかし確かに、紅が脈打つ。
「火の継承者の炎は、ただ燃やすためだけの火ではない。記憶に触れ、導きを引く。
だが、導かれた先はいつも優しいとは限らん。
……この剣は雷を求めておる。火は剣の声を聞いた。ならば、火と雷を結ぶ道を、辿るほかあるまい」
エリアスは拳を握った。
「行きます。俺は、この剣を取り戻したい。守りたいものがある」
ガランは少年の目を見、ゆっくり頷くと、鍛冶場の隅に立てかけられた古い槌を手にした。
柄は手垢で黒く、金属の頭には稲妻のような細い傷が走っている。
「ルゥ。これは昔、おぬしが物心つく前に打った槌じゃ。雷鳴の夜、この槌は炉の火を守った。重さと歌を知っておる。持って行け」
ルゥは両手で受け取った。
掌に伝わる重みは、過去からの約束のようだった。
その夜、ルゥとエリアスは鍛冶場の裏手に小さな焚き火を囲んでいた。
木々の間から覗く星々が冴え冴えと瞬き、遠くで山風が低く鳴っている。
炉の火に比べれば頼りない炎だったが、その温もりはふたりの心を繋ぐ灯りだった。
「……今日は、長い一日だったな」
エリアスが膝を抱え、火を見つめながらつぶやく。
その横顔には疲労と、わずかな安堵が浮かんでいた。
ルゥは黙って頷き、火に掌をかざす。
赤く揺れる焔が、彼女の指先に応えるように形を変え、小さな鳥の影を作り出した。鳥は炎の中で羽ばたくように揺れ、やがてふっと消える。
「私の火、きっと谷でも役に立つ。……でも怖いの。力が暴れたら、誰かを傷つけちゃうんじゃないかって」
素直な吐露に、エリアスはしばらく黙っていた。
だが、やがて拳を握りしめて言った。
「怖がってるのは、ちゃんと火を大事に思ってる証拠だ。俺は……君の火に救われた。だから、谷でも一緒に越えたい」
ルゥは驚いたように顔を上げ、その瞳に火の明かりが映り込む。胸の奥に小さく温かな熱が広がり、不安の影を押しのけていった。
夜風が二人の間を通り抜け、星明かりの下で焔は静かに揺れている。
やがて言葉は途切れ、焚き火の音だけが夜を刻んだ。互いの沈黙は不安ではなく、これからを支える約束のように心地よかった。
そして翌朝、長老の言葉を胸に刻んだルゥは荷を整えた。
ガランが差し出した槌を抱え直し、ふと呟く。
「ミラに、ひと言は?」
「……うん。すぐ戻るって」
長老は巻物を巻き直しながら、最後に言葉を添えた。
「覚えておけ。雷鳴石は“奪う”ものではない。
“聞き出す”ものだ。雷の精霊は、問うてくる。『おぬしの火は、誰のために灯るのか』と」
ルゥは鍛冶場へ戻る途中、広場の端でミラを見つけた。彼女は露店の灯りを吊り替えながら、こちらに気づくとぱっと表情を明るくする。
「ルゥ! フレーム、みんなに褒められたよ。光がふんわり広がるって」
「よかった……ミラ」
言葉が喉でつかえる。ミラはすぐに何かを察したように、ルゥの手を取った。
「行くんだね」
ルゥは頷いた。
「雷鳴石の谷へ。長くは……かからないはず」
ミラは左右を見回し、近くの屋台から小さな革袋を受け取って戻ってきた。中には干した果実と塩をまぶしたナッツ、薄く焼いたパンがきれいに詰められている。
「これ、道中に。あと……」
彼女は自分の髪に挿していた小さな髪飾りを外した。真鍮の小鳥が羽を休める意匠。ルゥが作ったものだ。
「返すわけじゃなくて、預けるの。戻ってきたら、またつけさせて。『おかえり』って」
ルゥは笑って受け取り、胸の前でぎゅっと握りしめた。
「ただいま、って言う」
ミラは大きく頷き、今度はエリアスに向き直る。
「エリアスくん。ルゥは、すぐ無茶するから。……頼んだよ」
「もちろん。俺が守る。剣も、彼女も」
ミラの笑顔に、夕暮れの灯が宿る。それは焔よりもやさしい色だった。
日が沈むと、山の稜線が墨絵のように黒く浮かび上がり、風が冷たさを増した。
鍛冶場の裏手、里を見渡せる小岩の上で、二人は荷を整える。槌、革の手袋、布、薬草、綱、打ち直し用の小型金床──ルゥはひとつずつ指で触れて重さを確かめた。
「準備、いい?」
エリアスが頷く。彼は布で刃を包み直し、胸に抱えた。刃のひびの底で、微かな脈動がまたたいた気がした。遠雷の卵が眠っているように。
その瞬間、風の匂いが変わった。
乾いた鉱の匂いの奥に、鉄を舐めるような冷たさ。空のどこかで、まだ生まれていない雷が、雲の形を選び始める。
「……呼んでる」
ルゥのペンダントが温かくなった。薄紅の灯りが胸元に咲く。触れると、焔が指に寄り添うように揺れた。
「行こう。夜のうちに峠の手前まで。明けたら谷を目指す」
ふたりが小道へ踏み出した時、鍛冶場の扉が軋んで開き、ガランが顔を出した。煤だらけの大きな手に、包みをひとつ。
「忘れもんだ」
中には細身の打ち棒と、柄の短い鋼の楔、そして鉱脈に反応して色を変える古い粉が入っていた。
「谷じゃ岩も雷も“声”を出す。耳ばかりじゃなく、道具にも聞かせろ。……それから」
ガランはエリアスをじっと見た。
「剣は刃だけじゃない。握る手もまた、剣の一部だ。手を休ませる勇気を学べ。折れるのは鉄だけじゃない」
エリアスは深く頭を下げた。「ありがとうございます」
ガランは照れ臭そうに鼻を鳴らし、扉を閉めた。中で火がくぐもった笑い声のように鳴る。
里を離れる道は、夜露に濡れて光っていた。
踏みしめるたびに、石と土が小さく鳴り、藪で眠る虫が音を止める。やがて道は森の縁をかすめ、緩やかな斜面へと変わった。
遠く、雲の腹のどこかで光が瞬き、遅れて低い響きが山肌を這ってくる。
「怖い?」
「少し。でも、それより……知りたい」
ルゥの答えに、エリアスは笑った。
「俺も」
ふたりは言葉少なに歩き、峠の手前の岩棚に辿りついた。頭上に空が大きく開け、星が冷たい針で夜を縫っている。
風が一段と強まり、草が一斉に倒れては戻る。
焚き火を小さく起こすと、炎は風に押されながらも、芯でまっすぐ立ち上がった。
「……ねぇ、エリアス。あの時、里に来た時、どうして私に頼んだの?」
炎を見つめたまま、ルゥが尋ねる。
エリアスは包みを抱え直し、言葉を探すように息を吐いた。
「誰でもよかったわけじゃない。剣を見せた瞬間、君の火が、俺の胸の痛みに触れた気がした。
焼けた鉄みたいに、固まってたのに。……少しだけ、やわらいだ」
ルゥは黙って頷いた。
焔が小さく跳ね、影が岩肌を駆けのぼる。
「私の火は、怖がられることもある。私だって、まだ……全部を分かってるわけじゃない。
でも、あなたの剣が『聞こえる』って言った。だから、行く。私がこの火で、聞いてくる」
エリアスは目を細めた。炎の向こうにいる彼女の輪郭は、心の中で決して揺らがなかった。
「ありがとう」
沈黙がふたりを包む。静けさの底で、雷の胎動がゆっくり近づいてくる。焚き火は小鳥のようにさえずり、夜は深さを増す。
「誓おう」
ルゥが立ち上がった。槌の柄を胸に抱き、ペンダントへ重ねる。エリアスも包みを抱き直し、彼女の隣に立つ。風がふたりの間を通り抜け、髪を揺らす。
「私は、私の火を、誰かを守るために使う。奪うためじゃなく、繋ぐために」
「俺は、この剣にもう一度、帰る場所を作る。刃にも、俺にも」
焚き火の炎がふっと強くなり、周囲を明るく撫でた。ちいさな火の鳥が一羽、生まれては夜空へ飛び、すぐに星に紛れて見えなくなる。遠くの雲の中で、光がまた一度だけ瞬いた。
やがて二人は火を落とし、外套を肩にかけ、背中を岩に預けて目を閉じた。雷の胎動は子守歌のように、しかし確かに近づいてくる。眠りの底で、ルゥは夢を見る。音のない谷、立ち昇る白い霧、その中に立つ影
稲妻の糸を指に巻き、こちらを見る顔のない誰か。
『問おう。おまえの火は、誰のために灯る』
声は、雷鳴の前の、世界が息を吸う音に似ていた。ルゥは胸の前で両手を組み、答えようと唇を開く-
夜明け前、風が変わった。冷たさの底に、新しい日の匂いが混じる。鳥の第一声が斜面の下から立ち上がり、続いて幾つもの声が重なる。ルゥは目を開け、空の色が黒から群青へ、群青から薄い藍へほどけていくのを見る。
「行こう」
エリアスも頷き、立ち上がる。
ふたりは荷を背負い直し、峠道の先へと足を踏み出した。雲は低く、谷はまだ見えない。
けれど、胸の中の灯ははっきりと道を指している。
焔の里は彼方で淡く光り、朝靄の中に沈んだ。
振り返らない。それは、帰らないという約束ではない。ただ、今は前だけを見て進むための、静かな礼儀だった。
雷鳴石の谷は、まだ言葉を持たない音で、ふたりを呼んでいた。




