第4章【第3話:触れてはいけない声】
一度は死に絶えたかに見えた風が、いつの間にか戻っていた。
だが、その風の流れはどこか不自然で、肌をなでる感触がひどく落ち着かない。
吹き荒れるわけでもなく、凪ぐわけでもない。
一定の強さを保ちながらも、そのリズムは微かに、そして粘り強く変化し続けている。
まるで、目に見えない何者かの呼吸や、歩調に"合わせている"かのような、作為的な動きだった。
ティアがいきなり足を止め、銀色の杖を砂に突き立てた。
「……変ね」
「何が?」
ルゥが振り返る。
その胸の焔は、周囲の異様さに当てられたのか、先ほどからチリチリと火花を散らしている。
ティアは薄く目を開き、空中に指を這わせて、風の奔流を感じ取った。
「風の法則が狂っているわ。
自然な気圧の差で動いているんじゃない。
まるで……私たちではない"何か"の動きに追随して、世界が鳴動しているみたい。」
その言葉に、エリアスが即座に反応した。
腰の剣の柄に手を添え、鋭い視線で周囲の砂丘を見渡す。
「俺たち以外に、先客でもいるってことか?
あるいは、またあの砂の化け物か」
「いる、というよりは……」
ティアは適切な表現を探すように視線を彷徨わせた。
「この領域で"動いているもの"の密度が増しているのよ。それも、かつてないほど明確な意志を持って」
その直後だった。
砂の向こう、半ば崩れかけた石造りの通路の奥で、
ひとつの人影が、ゆらりと歩いた。
ルゥの焔が、一際強く灯る。
「……また出た。影の残骸!」
だが、セリスは小さく息を呑み、自身の目を疑うように凝視した。
「違う……」
これまで見てきたものとは、決定的に違っていた。
その輪郭は陽炎のように揺れてはいない。
砂の粒子が無理やり固まったような不透明さもなく、そこにいるのは紛れもない「人間」の姿だった。
そして、何よりも耳を打ったのは"音"だ。
砂を踏み締める、確かな足音。
コツ。
コツ。
硬い石の床と砂が擦れ合う、乾いた、重みのある音が静寂を切り裂く。
人影は一度止まり、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……そこに、誰かいるのか?」
低く、落ち着いた声が届いた。
エリアスの指が、反射的に剣の鍔を弾く。
「……おい。今、はっきりと喋ったよな。
空耳じゃないよな?」
ティアの操る風の防壁が、困惑にわずかばかり乱れた。
「ええ……聞こえたわ。
ただの反響じゃない、明確な指向性を持った声」
セリスの喉が、引きつるように震える。
(……これ、前までのとは違う。ただの『映像』じゃない)
"見る"だけではなく、今や"聞こえる"段階にまで再現度が跳ね上がっている。
そして、最大の違いは――。
「おい、返事はないのか? 迷い込んだのか?」
向こうが、明確にこちらを認識し、対話を求めていることだった。
ルゥの胸の焔が、不安を煽るように大きく揺らめく。
「……私たちが見えてるの? 過去の幻影のはずなのに?」
セリスは吸い寄せられるように、エリアスの制止を振り切って一歩前へ出た。
「待て、セリス! まだ正体が……」
だが、彼女の声はすでに男へと投げられていた。
「あなた……こちらの声が、聞こえているの?」
一瞬の、刺すような沈黙。
そして、男は事も無げに応じた。
「……ああ。はっきりと聞こえている。
変な格好をしているな」
空気が、一気に張り詰めた。
エリアスの顔が戦慄に強張る。
「……嘘だろ。時を越えて会話してるっていうのか」
ティアが声を落として呟く。
「物理的な接触だけじゃない。
意識の領域までもが完全に"繋がっている"……」
ルゥは自分の胸を押さえた。焔が熱い。
(……完成に、限りなく近いんだ)
その理解が、冷たい汗となって背筋を伝い落ちる。
向こう側の人物が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
顔の細部が見える距離にまで近づいた時、セリスははっと息を止めた。
それは、まだ若い男だった。
日に焼けた肌に、埃っぽい石工の服。
手には使い込まれたノミと金槌。
そして――。
(……あの人だ)
かつて塔の幻影の中で見た、あの孤独な背中。
男は、真っ直ぐにセリスの瞳を見ていた。
その瞳には、彼女の姿がはっきりと映り込んでいる。
「……見ない顔だな。この区画はまだ整理が終わっていないはずだが。旅人か?」
視線が逸れない。
完全に、一個の人間としてセリスを認識している。
「……あなたは、この街の人……なの?」
男は、不思議そうに少しだけ首を傾げた。
「当たり前だろ。ここに住まずに、誰がこの塔を積み上げるっていうんだ」
あまりにも自然な受け答え。
だが、だからこそ寒気がした。
ティアが背後から小さく囁く。
「……時間の位相が噛み合っていない。
彼は『今』を生きているつもりなのよ」
男は話を続ける。
「ここはまだ建設中だ。資材も多いし危ない。
関係者じゃないなら、あまり奥には入るな。
完成すれば、最高の景色を見せてやれるんだがな」
その言葉に、セリスの胸が激しく鳴った。
(……本物だ。生きている。まだ、希望の中にいるんだ)
しかし、違和感は膨れ上がる。
「……今は、いつ? 何年なの?」
セリスの問いに、男は少しだけ考える仕草を見せた。
だが、その"間"が、あまりにも不自然に長かった。
「……いつ、だと? ……そうだな。……完成の前だ。
それ以外に何がある?」
曖昧すぎる、論理の欠落した答え。
ルゥの焔が、危険を知らせるように不安定に爆ぜた。
「ねえ」
ルゥが、我慢できずに口を開いた。
「あなた、本当は……この街を完成させないって決めた人じゃないの?」
その瞬間。
世界の形が、目に見えて歪んだ。
男の表情が、凍りついたように静止する。
ほんの一瞬。
だが、ビデオのテープが擦り切れるように、時間が"引っかかった"。
ティアが悲鳴のような声を上げる。
「ルゥ、だめよ! 核心に触れないで!」
だが、言葉は放たれた後だった。
男の目が、濁った色を帯びてわずかに揺れる。
「……何の話だ? 完成……させない?
俺は、造っている。ずっと、造り続けて……」
声は変わらない。
だが、音の響きが半拍ずつズレていく。
セリスの背筋に氷を押し当てられたような戦慄が走った。
(……違う。さっきまでとは、反応が噛み合ってない)
エリアスが剣を抜き放ち、セリスの前に割り込んだ。
「もういい、そこまでだ! 離れろ、セリス!」
男が、さらに一歩近づく。その動きは、先ほどまでの滑らかさを失い、不気味なほどに機械的だった。
「お前たち……どこから来た? ……どこから……いつから……?」
質問の内容が変質していく。
それは知的好奇心ではなく、バグを起こした機構が必死にエラーを修正しようと、情報の隙間を探っているかのようだった。
「……これ、危ないよ。本物じゃない」
ルゥが震えながら呟く。
その瞬間。
男の身体の輪郭が、激しくノイズのように揺れた。
「維持しきれていないわ! 存在の整合性が崩壊してる!」
ティアが風の力を最大まで引き出し、荒れ狂う突風を男との間に叩きつけた。
風が間に割って入り、男の姿を激しく掻き乱す。
「……あ……あ、あ……」
声が崩れる。
言葉としての意味を失った、砂が擦れ合うような摩擦音。
次の瞬間。
男の肉体は、一気に数千、数万の砂の粒へとほどけた。
崩れる。
悲鳴も、衝撃も、跡形もなく。
彼は元の、意思を持たない無秩序な砂塵へと還っていった。
沈黙が戻る。
ただ、冷たい風の音だけが虚空に響いていた。
セリスはその場にへたり込み、自分の手を見つめた。
「……今の。確かに話せたよね。心があったよね……」
エリアスが重い溜息をつき、剣を鞘に納める。
「ああ。だが……砂の城と同じだ。長くは持たなかった」
「持たなかったんじゃないわ」
ティアが首を振り、暗い表情で砂の跡を見つめた。
「私たちが、彼の矛盾を突いてしまった。
この場所のルールに、彼の存在が耐えられなかったのよ」
ルゥの焔が、静かな、冷ややかな色に戻る。
「……完成しきれなかったんだ」
その言葉の重みに、全員が口を閉ざした。
セリスは震える手で楽譜を握りしめる。
「……もし、もっと深く、強く繋がってしまったら」
誰も答えなかった。
だが、全員がその帰結を理解していた。
より完成に近づき、より"本物"に見える存在が現れるだろう。
そして、それに触れてしまったら二度と、こちらの現実へは戻れなくなる。
ティアが前方の闇を見据え、毅然と言い放った。
「進むわよ。ここはもう、安全な観測場所じゃない」
エリアスも頷く。
「ああ。完全に記憶の沼に引きずり込まれる前に、出口を見つけるべきだ」
ルゥも、弱々しく灯る焔を励ますように頷いた。
「うん。でも、まだここは『入り口』な気がする」
「入り口?」
セリスが問い返す。
「さっきの人、まだ『途中』だったから。もっと深い場所……都の心臓部に行けば」
その先を、ルゥは口に出せなかった。
"完全な過去"が、そこには待っている。
セリスは、覚悟を決めたように立ち上がった。
「……行こう。最後まで、見届けなきゃいけない気がするの」
風が、都の奥へと流れる。
今度は、逃れようのない強い意志を持って、彼らを誘う。
4人は歩き出す。
砂の底へ。
記憶の澱の中へ。
~触れてはいけない声~が満ちる、深淵の先へ。
そのとき――。
彼らの背後で、再び、掠れた声がした。
「……待てと言っただろう……」
全員が弾かれたように振り向くが、そこには誰もいない。
だが、耳の奥には確かに残っている。
あの石工の、執念の混じった声が。
「……消えてない。まだそこにいる……」
セリスの呟きに呼応するように、ルゥの焔が鋭く、青白く爆ぜた。
記憶は消え去るのではない。
むしろ、彼らの歩みに合わせて、この場所と"繋がり始めて"いるのだ。




