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第3章 【第4話:境界のひびと未完の焔】

都の中心は、静かだった。


だがその静けさは安らぎとは程遠く、むしろ何か巨大な均衡の上にかろうじて保たれている空気のように、ほんのわずかな揺らぎで崩れてしまいそうな危うさを含んでいた。


先ほどまで広場を満たしていた削る力も、押し寄せていた圧も、今は表面から退いている。


未完の塔。

未完の影。

未完の歌。


それらすべてが、互いの存在を支え合うようにして、かろうじてこの中心に留まり続けていた。


均衡。


それは安定ではない。


ただ、崩れていないだけの、薄い均衡だった。


ティアがゆっくりと息を吐いた。


その吐息は風となって広場の空気をなぞり、見えない境界を確かめるように静かに広がっていく。


「……まだいる」


誰も問い返さない。


問い返す必要がないほど、皆が同じものを感じていた。


広場の外側。


視線の届かないところで、何かが留まり続けている。


去ってはいない。


ただ、こちらを観察するように待っている。


エリアスが剣を下ろしたまま言う。


「様子を見てる」


それは戦う者の気配ではなかった。


もっと冷たい。


もっと計算された視線。


未完がどこまで揺れるのか。

どこで崩れるのか。

どこから奪えるのか。


それを確かめるための沈黙だった。


セリスは影の隣に立っていた。


影はまだ消えていない。


胸元に浮かぶ未完の印が、ゆっくりと脈打つように明滅している。


閉じない線。

完成しない円。


それは名前ではない。


だが確かに、ここに在るという意志だった。


「……大丈夫?」


セリスが小さく声をかける。


影は答えない。


だが胸の光が、ほんのわずかに揺れる。


弱くはなっていない。


ただ静かに、そこに在る。


セリスは楽譜を開いた。


最後の一音。


まだ置かれていない音。


喉の奥で旋律が揺れる。


歌えば完成に近づく。


だが、それを選ばない。


未完のまま残す。


それが、この場所を守る方法だからだ。


そのときだった。


砂が、わずかに沈んだ。


中心ではない。


広場の縁。


円を描くように、砂の色が変わっていく。


黒い。


わずかに湿った色だった。


ティアが顔を上げる。


「……来る」


彼女の周囲で風が動く。


削る風ではない。


押し返すための風。


それでも砂の下で、何かが動いていた。


沈みきらなかった都の下。


さらにその奥。


そこから黒い筋が、ゆっくりと浮かび上がってくる。


亀裂。


だがそれは石の割れ目ではない。


影の裂け目だった。


エリアスが剣を握る。


今度は迷わない。


刃が空気を裂く。


その音は消えない。


修正の力ではないからだ。


「下だ」


裂け目は広場の中心へ向かって伸びていく。


未完の塔。


未完の影。


その方向へ。


ルゥの焔が低く唸る。


炎は大きくならない。


だが強い。


芯が揺れない。


「……あれ、塔を見てる」


裂け目が止まる。


塔の基礎のすぐ手前で。


それ以上は進まない。


だが退かない。


観察している。


測っている。


未完の塔。

未完の印。

未完の歌。


そのすべてを。


セリスの胸が冷える。


未完は完成していない。


完成していないから固定されていない。


形が決まっていない。


だから奪える。


裂け目がわずかに広がる。


影の胸の印が強く脈打つ。


光が引き寄せられる。


影の輪郭が揺れた。


「……っ」


セリスが影の前に立つ。


「だめ」


その声は小さい。


だが広場の中心に落ちる。


裂け目が止まる。


完全ではない。


だが、一瞬だけ躊躇する。


エリアスが言う。


「狙いは影か」


ティアが首を振る。


「違う」


風が裂け目の縁をなぞる。


触れた瞬間、風が歪む。


「影じゃない」


「未完そのもの」


ルゥの焔が強くなる。


焔はまだ広げない。


だが守る。


影の胸の印が震える。


閉じない線が、わずかに引き伸ばされる。


裂け目がそれを吸おうとする。


未完を奪うために。


セリスは楽譜を胸に押し当てる。


歌わない。


完成させない。


未完のまま抱える。


「渡さない」


その言葉が落ちた瞬間、裂け目がゆっくりと動いた。


進むのではない。


回る。


広場の外周をなぞるように。


まるで境界を探しているように。


侵入できる場所。


未完が揺らぐ場所。


そこを。


ティアが小さく言う。


「……試してる」


エリアスが低く答える。


「どこから崩せるか」


ルゥは焔を握りしめる。


焔は小さい。


だが消えない。


影の印も消えない。


セリスは目を閉じた。


喉の奥で旋律が揺れる。


未完の歌。


途中の旋律。


それだけを、静かに流す。


最後の一音は置かない。


完成させない。


旋律が広場に満ちる。


裂け目が止まる。


動かない。


測るのをやめる。


セリスは歌い続けない。


途中で止める。


未完のまま。


影の印が安定する。


裂け目が、わずかに後退する。


消えない。


だが引く。


ティアが息を吐く。


「……退いた」


エリアスが言う。


「完全じゃない」


ルゥが頷く。


「また来る」


セリスは目を開ける。


広場の中心。


未完の塔。

未完の影。

未完の歌。


それらを、闇が見ていた。


「守らないと」


セリスが言う。


「ずっと」


誰も否定しない。


都はまだ沈まない。


だが狙われている。


未完は残る。


だが残るものほど、奪われやすい。


広場の外縁で裂け目がゆっくり砂に沈む。


消えたわけではない。


潜った。


待つ。


未完が揺らぐ瞬間を。


風が静かに戻る。


だが都の空気は、もう以前と同じではなかった。


未完は守られた。


そして同時に、


未完は、狙われるものになった。



裂け目が消えたあと、広場には奇妙な静けさが残っていた。


それは安全な沈黙ではなかった。


何かが一度ここを通り過ぎたあとに残る、形のない余波のようなものだった。


ティアの風が、ゆっくりと広場をなぞる。


砂の上を薄く滑る風は、未完の塔の周囲を円を描きながら確かめるように巡った。


「……変ね」


ティアが低く呟く。


エリアスが振り向く。


「何がだ」


ティアは答えず、風をもう一度広げた。


今度は少し強く。


広場の空気がわずかに揺れる。


だが、その揺れ方が不自然だった。


「風が……流れない」


「どういう意味だ?」


「動いてるのに、流れが続かない」


ティアは未完の塔を見る。


「途中で止まるの」


その言葉を聞いた瞬間、セリスの胸が小さく鳴った。


途中。


未完。


同じ言葉が、楽譜の上にも刻まれている。


セリスは影の方を見る。


影はまだそこに立っていた。


輪郭は安定している。


胸元の未完の印も消えていない。


だが――


その光が、わずかに揺れていた。


呼吸のような揺れではない。


何かに引かれているような、歪んだ揺れだった。


「……?」


セリスが一歩近づく。


影は動かない。


だが胸の印の光が、わずかに歪む。


細い線が、ゆっくりと引き伸ばされる。


まるで見えない手に触れられているように。


「待って」


セリスの声が落ちる。


エリアスとティアが振り向く。


その瞬間だった。


影の輪郭が、大きく揺れた。


砂がざらりと鳴る。


だが地面は動いていない。


揺れているのは、影のほうだった。


輪郭が崩れかける。


煙のように。


形を保っていたはずの存在が、少しずつほどけていく。


セリスの息が止まる。


「……だめ」


未完だから。


完成していない存在だから。


固定されていない。


奪われるのではない。


崩れる。


影の胸の印が、ゆっくりと歪む。


閉じない線が、さらにほどける。


そこへ、冷たい気配が触れた。


見えない。


だが確かにある。


広場の空気の奥に、湿ったような闇が混じる。


ティアが振り向く。


「……中にいる」


「中?」


エリアスが眉を寄せる。


「どこだ」


ティアは答えない。


風を広げる。


広場の空気が大きく震える。


そして気づく。


「違う……」


ティアの声が小さくなる。


「外じゃない」


影の輪郭が、さらに揺れる。


胸の印が、引き伸ばされる。


光がほどける。


セリスが気づく。


「……影の中」


その瞬間。


影の胸の光が一気に歪んだ。


未完の印が、崩れる。


線がほどける。


形が消えかける。


エリアスが剣を抜く。


だが、振るえない。


斬る相手がいない。


敵は外にいない。


影の内側。


未完の隙間。


そこに、冷たい闇が入り込んでいた。


「……これ」


ティアが呟く。


「未完を崩してる」


完成していない形は、弱い。


完成していないからこそ、削られない。


だが。


完成していないからこそ崩れる。


影の輪郭がさらに揺れる。


胸の印が消えかける。


セリスの喉が震える。


楽譜の旋律が動く。


最後の一音。


置けば、完成する。


完成すれば、形は固定される。


固定されれば――崩れない。


だが。


セリスは歌わない。


喉が震える。


旋律が溢れそうになる。


それでも止める。


「……まだ」


未完のまま守る。


そのときだった。


ルゥの焔が、大きく揺れた。


小さな灯りだった焔が、胸の奥で広がる。


「……離れろ」


ルゥが影の前へ出る。


焔が揺れる。


だが燃え上がらない。


形を持たない焔。


未完の焔。


ルゥが影に手をかざす。


その瞬間。


焔が、影の胸の印に触れる。


光が震える。


ほどけかけていた線が、わずかに止まる。


闇が揺れる。


未完を崩す力が、焔に押し戻される。


ルゥの額に汗が浮かぶ。


「……重い」


焔は燃やしていない。


形を押さえている。


崩れないように。


未完のまま留めている。


ティアの風が広がる。


エリアスが影の前に立つ。


守るように。


影の輪郭がゆっくりと戻る。


胸の印も、形を取り戻す。


閉じない線。


完成しない円。


光が再び安定する。


闇の気配が、わずかに後退する。


広場の空気が、静かに戻る。


ルゥの焔が小さくなる。


元の灯りへ戻る。


セリスが息を吐く。


「……守れた」


ティアが空を見上げる。


「でも」


風が止まる。


広場の外縁の砂が、わずかに沈む。


闇は消えていない。


退いただけだ。


エリアスが低く言う。


「理解されたな」


セリスが影を見る。


影の胸の印が、静かに明滅している。


未完のまま。


だが、揺れない。


ルゥが小さく言う。


「未完は、守らないと崩れる」


セリスが楽譜を胸に抱く。


最後の一音は、まだ置かない。


未完の塔が、静かに広場の中心に立っている。


完成していない都市。


完成していない歌。


そして。


未完の焔。


だが今、ひとつだけ確かなことがあった。


闇は知った。


未完は奪える。


そして未完は、崩せる。


都の空気が、わずかに冷える。


これは終わりではない。


始まりだった。

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