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第3章【第3話:終わらせないという選択】

都の中心で、風が一度だけ鳴った。

削るためではない。留めるための風、そう思えたのは、ほんの数呼吸ぶんだった。


次の瞬間、空気は「静か」ではなくなった。

音が生まれないのではない。音という形に届く寸前で、世界がそれを噛み砕いている。


耳を澄ませば澄ますほど、聞こえるのは無音ではなく、凍りついた未完のざわめきだった。


砂のひと粒が舞い上がり、落ちない。


崩れかけた石片が、崩落の途中で止まったまま宙に留まる。


動きたいものすべてが、動くという「完成」を許されず、途中の姿勢で固定される。


それは景色ではなく、停滞そのものが膜になって広場を覆っている感覚だった。


「……この空気、毒だわ」


ティアが吐き捨てると、彼女の周囲の風が目に見えない火花を散らした。


防ぐための風が、守る対象を包む前に削られていく。


"強さ"が形を持った途端に、ここでは削ぎ落とされるこの中心でさえ、例外ではないのだと告げるように。


セリスは、影の前に立っていた。


顔のない輪郭。

人に近いのに、人の決定的な何かが欠けた存在。

だが胸元だけが、呼吸のように淡く脈打っている。


熱を持たない燐光。焔ではない。

それでも消えない、執着に似た光だった。


「……あなた」


声は吸われず、広場の中に留まって返ってくる。

返事はない。けれど、胸の光がわずかに揺れた。


それは言葉への応答ではなく"届いた"という、未完の意志の小さな反応だった。


セリスの喉が、ひりつく。


腕の中の楽譜が、微かに温度を帯びる。


未完、と刻まれた二文字。

その溝に、指先が無意識に触れていた。


触れた瞬間に世界の重さが、わずかにずれる。


砂の乾きが、石の匂いへ変わる。


空気が、上から吹き下ろす。


高い。


足元が遠い。


広がる都。


まだ崩れていない石の列。

未完成の回廊。

人の声。槌の音。息遣い。


その中心に、ひとつの塔。


そして、その上に立つ背中。


外套が風を孕む。


手には、石を刻む道具。


大きな紋章の中心に、最後の空白。


あと一打。


たった一打で、完成する。


「……まだ」


声が、風に溶ける。


振り返らない。


振り返れば、終わる。


完成すれば、固定される。


名を刻めば、閉じる。


終わらなければ、続く。


――まだ。


視界が白む。


石の匂いが、砂へ戻る。


空気が乾く。


広場。


未完の塔。


顔のない影。


セリスの指が、楽譜から離れる。


呼吸が浅い。


「……触れた」


思い出したのではない。


侵入された。


未完の瞬間に。


そのとき。


ルゥの焔が、ひどく揺れた。


「……っ」


小さく息を呑む。


焔は消えていない。


だが、輪郭が削られている。


燃え上がろうとする先端が、見えない刃で削ぎ落とされる。


広がろうとするたび、空気が締まり、熱を圧縮する。


焔は爆ぜない。


ただ、芯だけが残る。


「なによ……これ」


ルゥは歯を食いしばる。


焔は、形を与える力だ。


未完を、完成へ押し上げる力。


だが、ここでは。


完成に向かう動きそのものが、削られる。


広場の空気が、震えた。


見えない圧が、外周から中心へと押し寄せる。


それは攻撃ではない。


修正。


終わらせる力。


「来るぞ」


エリアスが一歩前に出る。


剣に手をかける。


だが、抜けない。


剣気が、形になる前に散る。


振り下ろせば、その一撃は"完成した軌跡"になる。


ここでは完成したものは、固定される。


固定されたものは、削られる。


「違う……外からじゃない」


ティアの声が低く震える。


「世界のほうが、揃えようとしてる」


砂がざらりと鳴る。


広場の外縁が、歪む。


未完の構造物の輪郭が、わずかに薄くなる。


完成に近づく圧がかかるほど、削りが強まる。


セリスの胸が強く鳴る。


(……終わらせる)


あの塔の上の背中。


最後の一打。


置けば、終わる。


完成する。


名を刻む。


歴史になる。


そして、動かなくなる。


影の胸元が、脈打つ。


淡い光が、強くなる。


「……な……」


音が、漏れた。


かすれている。


削れかけている。


だが、確かに声だ。


エリアスが息を呑む。


ルゥの焔が、跳ねる。


影の輪郭が、一瞬はっきりする。


「……な……ま……」


名。


その音が空気に浮かんだ瞬間。


広場全体が、軋んだ。


砂が削れ、未完の塔の縁が薄くなる。


修正の力が強まる。


「言うな!」


エリアスが叫ぶ。


だが影は止まれない。


声は、完成へ向かう。


終わりへ向かう。


セリスの喉の奥で、旋律が膨らむ。


未完の歌。


最後の一音が、そこにある。


置けば、繋がる。


置けば、名前になる。


置けば、この存在は"物語として完成する"。


そして、動かなくなる。


(……違う)


セリスは息を吸う。


旋律を、途中まで歌う。


未完のまま。


最後の一音の手前で、止める。


喉が焼ける。


止めるほうが、苦しい。


完成させるほうが、楽だ。


終わらせれば、静かになる。


だが。


「まだ」


その一言が、広場に落ちる。


影の輪郭が、崩れかけて止まる。


削りが、弱まる。


未完の塔が、沈みきらない。


ルゥの焔が、芯を保つ。


ティアの風が、留める。


エリアスの剣が、抜かれないまま構えを維持する。


影の胸の光が、揺れる。


「……な……」


その先は、言わない。


言えないのではない。


言わない。


未完のまま、在る。


修正の力が、後退する。


完全には消えない。


だが、退く。


未完のまま続くことを、今は許す。


セリスは影の前に立つ。


敵でもない。


救う対象でもない。


並ぶ。


「終わらせない」


それは祈りではない。


選択だ。


影の輪郭が、安定する。


完成ではない。


だが、崩れない。


広場の空気が、少しだけ呼吸を取り戻す。


未完の塔。

未完の影。

未完の歌。

未完の焔。


終わらないことを、選び続ける意志だけが、そこに在った。


セリスは影の前に立ったまま、動かない。


「言わなくていい」


その声は、静かだった。


命令でもない。


懇願でもない。


ただ、選択を共有する声。


影の輪郭が、ゆっくりと揺れる。


胸元の光が、わずかに強くなる。


だが、名にはならない。


音にもならない。


代わりに光が、形を変えた。


点ではなく、線になる。


線は、ひとつではない。


細く、震えるような軌跡が、胸元から広がる。


それは紋章ではない。


整っていない。


左右非対称。


途切れ、かすれ、繋がりかけて止まる。


まるで、書きかけの文字。


完成しなかった印。


セリスの息が止まる。


(……これ)


塔の上。


刻まれなかった中心。


空白の部分。


あの紋章の、最後に置かれなかった一筆。


それと同じ"不在の形"。


影の胸に浮かぶそれは、


「書かなかった」という選択の痕跡だった。


エリアスが低く呟く。


「……名じゃない」


ティアが目を細める。


「完成していない印」


光の線は、完全な円を描かない。


閉じない。


必ずどこかで途切れている。


だが、崩れない。


砂が、揺れない。


修正の力が、戻らない。


ルゥの焔が、静かに呼応する。


炎の中に、同じような未完の揺らぎが混じる。


(……形にしない形)


名を持たない。


だが、消えない。


影は、一歩だけ前に出る。


敵意はない。


祈りでもない。


ただ示す。


胸の光が、わずかにセリスの楽譜へと伸びる。


触れない。


だが、重なる。


未完の歌。

未完の印。

未完の塔。

未完の影。


セリスの喉が、震える。


最後の一音は、まだ置かない。


だが、旋律の"途中"が、わずかに変わる。


書き足すのではない。


削るのでもなく、"残す"。


楽譜の空白が、意味を持つ。


ティアが、ゆっくりと息を吐く。


「……中心は、すぐには削らない」


エリアスが頷く。


「未完のまま、続いてる」


ルゥは胸の焔を確かめる。


炎は小さい。


だが、消えない。


広げなくても、消えない。


それでいい。


影の胸の未完の印が、静かに明滅する。


完成を拒む光。


終わりを拒む意志。


声にならないまま、


それは確かに"示された"。


セリスは小さく笑う。


「名前じゃなくていい」


影は、揺れない。


肯定でも否定でもない。


だが、消えない。


未完の塔の基礎が、わずかに温度を帯びる。


都は沈まない。


まだ。


まだ終わらない。


ルゥが静かに言う。


「続けよう」


完成させるためではない。


未完を選び続けるために。


広場の上を、風が一度だけ横切る。


修正の風ではない。


揺らぎを均す風。


未完を、未完のまま保つ風。


影は、その場に残った。


消えなかった。


名を持たないまま、


だが、確かに"意志"として。


物語は、終わらない。


終わらせない。


未完のまま、続いていく。


影の胸に浮かぶ未完の印が、静かに明滅していた。


閉じない線。

途切れた円。

完成しない形。


広場の空気は、わずかに均されたまま保たれている。


削る力は退いた。


未完は、今は守られている。


だが、その均衡は、あまりに静かすぎた。


――そのはずだった。


風が、止まる。


均していたはずの流れが、急に音を失う。


ティアの肩が強張った。


「……違う」


さっきまでの圧とは質が違う。


修正ではない。


揃えようとする力でもない。


もっと、粘つく。


砂の下から、低い振動が伝わる。


都の中心ではなく、外周。


削りきれなかった未完の縁を、なぞるように。


エリアスが剣に手をかける。


修正の圧とは違う質感が、刃に触れた。


今度は、抜けた。


刃が空気を裂く音は、消えない。


「来てる」


砂が、逆に沈む。


削るのではなく、吸う。


未完の塔の縁が、わずかに黒ずむ。


影の胸の印が、強く脈打つ。


それに反応している。


ルゥの焔が、低く唸った。


今度は削られない。


だが、引かれる。


「……これ、引っ張られてる」


未完の形が、狙われている。


完成させるためではない。


壊すためでもない。


奪うため。


ティアが地面に手を触れる。


「外からじゃない……下」


砂の下。


沈みきらなかった層の、さらに奥。


そこに、別の気配がある。


冷たい。


乾いていない。


湿った闇。


広場の外周の砂が、わずかに持ち上がる。


そこに、黒い亀裂のような線が走る。


それは影とは違う。


揺れない。


揺らぎを持たない。


ただ、裂け目。


「……闇の勢力」


エリアスの声が低く落ちる。


だが、以前の"侵食"とは違う。


直接襲わない。


未完の印を見ている。


奪えるかどうか、測っている。


セリスの胸が冷える。


(……狙ってる)


未完は、残る形。


完成しないから、削られない。


だが。


完成しないからこそ、"固定されていない"。


奪える。


影の輪郭が、不安定になる。


胸の未完の線が、わずかに引き伸ばされる。


セリスが一歩、影の前に立つ。


「だめ」


それは誰に向けた言葉でもない。


選択への拒絶。


闇の裂け目が、わずかに広がる。


声はない。


だが、圧がある。


奪えば、力になる。


未完は、まだ形を持たない可能性。


可能性は、利用できる。


ルゥの焔が、強くなる。


今度は削られない。


中心だから。


だが、焔は迷う。


燃やせば、未完を固定してしまうかもしれない。


固定すれば、削られる。


「ルゥ」


セリスの声が、低く落ちる。


「燃やさないで」


ルゥは頷く。


炎は、広げない。


守るために燃やさない。


ティアの風が、裂け目の上を撫でる。


均すのではなく、遮る。


エリアスが一歩前へ出る。


今度は、剣を振る。


だが、斬らない。


地面に突き立てる。


衝撃が、円を描く。


裂け目が、わずかに閉じる。


完全ではない。


だが、広がらない。


闇は退かない。


消えない。


ただ、測る。


未完を奪えるか。


完成へ追い込めるか。


影の胸の印が、再び明滅する。


閉じない線が、震える。


セリスが楽譜を胸に押し当てる。


歌わない。


完成させない。


未完のまま、抱える。


「渡さない」


裂け目が、ぴたりと止まる。


完全に閉じたわけではない。


だが、踏み込まない。


闇は理解した。


今は、奪えない。


未完は、選び続けられている。


裂け目が、ゆっくりと砂に溶ける。


消えたのではない。


潜った。


待つ。


未完が揺らぐ瞬間を。


風が、ゆっくり戻る。


ティアが息を吐く。


エリアスが剣を抜き、構えを解く。


ルゥの焔が、小さく灯り直す。


影は、消えていない。


未完の印は、まだ胸にある。


セリスは、広場の中心を見る。


「……狙われる」


未完は、残る。


だが、放っておかれない。


ルゥが小さく言う。


「なら、守る」


完成させるためではない。


奪わせないために。


都の中心で、未完の塔が静かに立つ。


沈まない。


だが、安全でもない。


未完は、選び続けなければ守れない。


そして闇は、それを知った。

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