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第3章【第2話:終わらせない歌】

砂の向こうに見えていた輪郭は、歩みを進めるほどに、静かに、しかし確実に形を持ちはじめた。


最初は、ただの歪みにしか見えなかった。

風に削られた砂丘の影だと、そう思えた。


だが、光の当たり方が違う。


自然の曲線の中に、意志を持った直線が混じっている。

砂の柔らかさの奥に、沈みきらない硬さがある。


風が向きを変えるたび、その輪郭は消えかける。

それでも、次の瞬間には別の角度から姿を取り戻す。


まるでここに在ることを、諦めていないかのように。


「……沈んでる」


エリアスの声は低く、乾いていた。


それは瓦礫ではなかった。


砂に半ば呑まれた石柱。

風に削られ、角を失った壁。

崩れてはいない石の積み重ね。


ただ、最後の一段が置かれていない。


完成の直前で、止まった形。


壊れたのではない。

壊されたのでもない。


止まった。


その瞬間だけが、ここに残っている。


ティアが風を低く流す。


だが風は持ち上がらない。

砂を巻き上げることもなく、ただ地面をなぞるだけだ。


まるで、この場所では

"強さそのもの"が削られるかのように。


「完全には消えていない……」


彼女の声は小さいが、はっきりしている。


「でも、生きてもいない」


ルゥは境界を越える。


足裏の感触が変わった。


砂は同じはずなのに、沈み方が違う。

表面はさらさらと乾いている。

だが、その下に硬い層がある。


踏みしめると、わずかな反響が返る。


砂漠では吸われるはずの足音が、

ここでは消えきらない。


(……残ってる)


胸の焔を確かめる。


熱はある。

だが、広がらない。


燃え上がろうとした瞬間、空気が締まる。

焔が形を持とうとすると、周囲がそれを削ぐ。


大きくなる前に、芯へ戻される。


(……完成させない)


その理解が、言葉になる前に胸に落ちた。


セリスは静かに進む。


崩れた壁に触れる。


石は冷たい。

だが、その奥に乾いた温度がある。


焔の熱ではない。

声の名残のような、乾いたぬくもり。


「……静かじゃない」


彼女の声は、かすかに震えていた。


音はない。


だが、沈黙ではない。


沈黙の奥で、何かが擦れている。


途中で止まった階段。

半分だけ刻まれた紋章。

名を彫りかけた石板。


どれも、あと一つが足りない。


(……やめた)


その瞬間が、砂の下に沈んでいる。


セリスが足を止める。


崩れた柱の前。

そこだけ、砂の色がわずかに濃い。


沈みきっていない。


「……ここ」


彼女は膝をついた。


砂に手を差し入れる。


砂は拒まない。


指先が、何かに触れる。


薄い板。


乾ききった素材。


引き抜く。


刻まれた線。

崩れた音符。

読めない文字。


ルゥは焔を小さく灯す。


炎は、板だけを照らした。


その瞬間、

セリスの指先に、冷たい衝撃が走る。


乾いた空気が、わずかに湿る。


砂の匂いが、石の匂いへ変わる。


ほんの一瞬。

風が、上から吹いていた。


高い塔。

未完成の紋章。

石の上に立つ、誰かの背中。


長い外套が風に揺れる。


「……まだ」


声が聞こえる。


若い。

だが、決意を含んでいる。


その先は、聞こえない。


視界が白くなる。


砂の乾きが戻る。


セリスは膝をついたまま、息を呑んでいる。


指先が震えていた。


「……今」


彼女は小さく言う。


「誰かが、いた」


エリアスが低く問う。


「誰だ」


セリスは首を振る。


「わからない……でも、立ってた。振り返らなかった」


ルゥは焔をわずかに揺らす。


板の溝が浮かび上がる。


――未完


二文字だけが、鮮明に刻まれている。


セリスの喉の奥で、旋律が震える。


歌えば、繋がる。


最後の一音を置けば、完成する。


だが、彼女は歌わない。


未完のまま、止める。


その瞬間。


空気が、わずかに揺れた。


都の奥。


崩れた塔の影。


そこに、濃さが生まれる。


最初は、欠けた空間だった。


背景の色が、わずかに深い。


次の瞬間、輪郭が追いつく。


腕のような形。

足のような影。


人に近い。


だが、顔がない。


エリアスの手が剣に触れる。


抜かない。


ルゥの焔が揺れる。


広げない。


影は動かない。


ただ、そこに在る。


セリスを見ている。


未完の楽譜を見ている。


砂が、ざらりと音を立てる。


削れかけて、削れない。


影の輪郭は不安定だ。


完成しきれない形。


(……あの背中)


セリスの胸が締めつけられる。


塔の上に立っていた背中。

外套が揺れていた。


振り返らなかった背中。


影は一歩も動かない。


だが、揺れる。


まるで、言葉を選びかけているように。


ルゥの胸に、別の衝動が芽生える。


(……完成したい)


焔は、形を与える力。


未完を完成へ導く力。


だが、ここではその衝動が削られる。


未完でいること。


それは救いか。


それとも、停滞か。


影はまだ声を持たない。


だが、その沈黙の奥に


"終わらせたい"という衝動が、確かにある。


セリスは楽譜を抱きしめる。


未完。

途中。

止まった歌。


都の中心が、奥にある。


途中で止まったものが、集まる場所。


ルゥは静かに言う。


「行こう」


焔は灯りのまま。


セリスは未完の楽譜を抱え。


影は距離を保ったまま、そこに在る。


砂は足跡を消す。


だが、未完のものは消えない。


物語は、まだ終わらない。


そして影は、


まだ声を持たない。


だが確かに、


"完成を選ぶかどうか"の境界に立っている。


都の奥へ進むほど、砂は薄くなっていった。


完全に払われているわけではない。

だが、建物の輪郭がはっきりしてくる。


崩れた塔。

傾いた梁。

途中で止まった回廊。


どれも壊れていない。


止まっている。


足音が、わずかに反響する。


ここでは音が消えきらない。


未完成の形が、音を受け止める。


ティアが低く言う。


「……中心が近い」


風は上に抜けない。


壁と壁の隙間を縫い、円を描くように流れている。


まるで、何かを囲っているかのように。


セリスは未完の楽譜を胸に抱えたまま進む。


喉の奥で、旋律が揺れている。


まだ歌わない。


だが、止めてもいない。


やがて、視界がひらけた。


円形の広場。


中央には、基礎だけが残った塔。


塔になるはずだった石積みは、三段目で止まっている。


その周囲に、同じような未完の構造物が並ぶ。


「……ここだ」


ルゥの胸の焔が、わずかに強くなる。


だが燃え上がらない。


空気が、それを抑えている。


広場の中央。


砂が、わずかに沈んでいる。


そこだけが、他よりも深い。


セリスが立ち止まる。


「……歌が、集まってる」


彼女は目を閉じる。


断片的な旋律。


未完のまま終わった歌。


止められた声。


途中で途切れた誓い。


それらが、重なっている。


エリアスが低く言う。


「……出てくるな」


その言葉と同時に。


広場の中心の砂が、静かに揺れた。


ざらり、と音を立てて、沈む。


そこから影が、立ち上がる。


以前より、明確だ。


腕は腕の形を持ち、脚は地面に触れている。


輪郭はまだ揺れているが、崩れない。


顔はない。


だが、“向き”がある。


セリスのほうを向いている。


ルゥは一歩前へ出る。


焔は灯りのまま。


広げない。


エリアスは剣に手をかける。


抜かない。


ティアは風を抑える。


強めない。


影は動かない。


だが、今度は揺れが少ない。


まるで、ここでは安定できるかのように。


セリスが、息を吸う。


「……あなた、ここにいたんだね」


影の輪郭が、わずかに波打つ。


返事はない。


だが、消えない。


セリスは未完の楽譜を開く。


「これ……あなたの?」


沈黙。


だが、広場の空気が変わる。


砂が、わずかに締まる。


ティアが低く言う。


「ここは……未完を削らない」


ルゥの胸が、強く鳴る。


(……ここだけは)


完成に近づいても、崩れない。


中心だから。


止まった瞬間の、核だから。


セリスの喉の奥で、旋律が膨らむ。


今度は、少し長く。


未完の旋律。


だが、最後の一音は置かない。


その瞬間。


影の胸元が、わずかに光る。


黒ではない。


灰色の奥に、乾いた淡い光。


「……な……」


音が漏れる。


かすれている。


削れかけている。


だが、はっきりと“声”だ。


エリアスが息を呑む。


ルゥの焔が揺れる。


広げない。


影の輪郭が、強くなる。


「……な……ま……」


セリスの指が震える。


「……名前?」


その言葉が空気に置かれた瞬間。


影の輪郭が一瞬、ざらりと崩れる。


だが、消えない。


ここは中心。


削られきらない。


ティアが小さく言う。


「名を呼べば……完成に近づく」


ルゥが静かに続ける。


「でも、まだ」


セリスは楽譜を胸に抱き直す。


「……まだ、終わらせない」


影の揺れが止まる。


未完のまま。


声になりかけたまま。


そこに在る。


セリスは、ゆっくりと歩み寄る。


一歩。


影は逃げない。


もう一歩。


距離が縮まる。


エリアスの手に力が入る。


だが、剣は抜かない。


セリスは影の前で立ち止まる。


「……あなたも、未完でいたい?」


返事はない。


だが、胸元の光がわずかに揺れる。


肯定とも否定とも取れない。


ただ、"選べない"揺れ。


ルゥは理解する。


(……ここは、選択の前)


完成か、未完か。


消えるか、残るか。


決めるのは、まだ先。


セリスが小さく言う。


「じゃあ、一緒だね」


影の輪郭が、ほんのわずかに安定する。


完全ではない。


だが、崩れない。


広場の空気が、静かに落ち着く。


砂が、沈まない。


削られない。


未完のまま、留まる。


ティアが空を見上げる。


「……都は、まだ沈みきってない」


エリアスが低く言う。


「止まったまま、待ってる」


ルゥは胸の焔を確かめる。


炎は小さい。


だが、強い。


(……私も未完)


完成を急がない。


名を急がない。


物語は、止まっていない。


ただ――まだ終わっていない。


影が、ゆっくりと一歩だけ後退する。


敵意はない。


拒絶でもない。


距離。


未完のまま、共に在る距離。


セリスは楽譜を閉じる。


最後の一音は置かない。


広場の中央。


未完の塔。


未完の影。


未完の歌。


未完の名前。


そして、未完の焔。


ルゥが静かに言う。


「ここに残ろう」


終わらせるためではない。


続けるために。


都の中心で、風が一度だけ鳴る。


それは削る風ではなかった。


留める風。


未完を、未完のまま支える風。


影は、消えなかった。


そして初めて、

声にならないままの"意志"が、

確かにそこに在るとわかった。

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