表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/30

第3章【第1話:未完成の旋律】

砂は、音を吸っていた。


迷いの森を抜けた瞬間から、足音は軽く、風は遠く、言葉はすぐに乾く。

大地はなだらかで、地平はどこまでも続き、空だけが広い。広すぎて、上も前も同じ色に見えるほどだった。


「……森より、静かだ」


エリアスの声は、砂に落ちる前に細くなる。

聞こえないわけじゃない。だが、届く前に削れていく。まるで、この場所が"余計なもの"を嫌っているみたいに。


ティアは歩きながら、指先で風の流れを掬った。

森の中の風とは違う。層がない。迷わせるための揺れもない。単純で、だからこそ逃げ道がない。


「ここは……残る場所じゃない」

ティアは淡々と言った。

「残ったものだけが、残る場所」


ルゥは胸の奥の焔を確かめた。

迷いの森の中で感じた"軽さ"が、まだ残っている。熱はある。芯もある。けれど、余分な揺れがない。燃え上がろうともしない。


(……焔が、選んでる)


燃えることじゃなく、照らすことを。

進むことじゃなく、踏みしめることを。


前を歩くセリスは、いつもより小さく歩いていた。

砂に足を取られないように、というだけではない。彼女の歩幅そのものが、慎重になっている。だが同時に、その背中から"迷い"が減っているのも分かった。


「……歌が、近い」


不意に、セリスが立ち止まった。

ルゥは足を止め、エリアスも止まる。ティアだけが、風を止めずにゆっくり回した。


「歌?」エリアスが眉を寄せる。

セリスは頷くけれど、言葉にしきれない顔をした。


「うん……でも、歌っていうより……"形になる前"のやつ」

胸元に手を当て、深く息を吸う。

「思い出じゃない。でも……懐かしい」


ルゥの焔が、微かに応えた。

懐かしい、という言葉に。知らないはずの場所へ引かれる感覚に。


そのときだった。


遠くの地平が、わずかに揺れた。

蜃気楼の揺れではない。風の揺らぎでもない。

そこだけが、ほんの少し濃い。


ティアが目を細める。


「……見られてる」


エリアスの手が剣の柄へ行く。

だが、抜かない。指だけが確かめるように動く。


ルゥは一歩、前へ出かけて、止まった。

焔が燃え上がらないのを確認する。恐れではない。焦りでもない。ここで大きく灯す必要はない、と焔が分かっている。


揺れは、それ以上近づいてこなかった。

ただ、そこに"在る"だけ。


セリスが小さく息を吐く。


「……あれ、まだ……いる」


「追ってきてる?」エリアスが低く問う。

ティアは首を横に振った。


「追ってはいない。けれど、同じ方向を向いている。……私たちと」


ルゥはその言い方が気になった。

"私たちと"。敵としてではなく、ただ同じ向き。

それが一番、厄介だ。


「進もう」ティアが言った。

「ここで立ち止まると、砂が"余白"を持っていく」


余白。

迷いの森で聞いた言葉が、砂の上でも生きている。


四人はまた歩き出した。

しばらく進んだ頃、セリスがふと立ち止まり、指を差した。


「あれ……」


砂の色が少し違う場所がある。

そこだけ、地面が硬く、白っぽい。風に削られて露出した石が見えていた。


最初はただの岩だと思った。

だが近づくほど、石は"石"ではなくなっていく。


「……刻まれてる」


ルゥが膝をつき、砂を払う。

指先に触れるのは、冷たい石の溝。古い文字。紋。


ティアが息を呑んだ。


「語り部の……印」


その瞬間、セリスの肩が震えた。

彼女は一歩踏み出し、石碑の前にしゃがみ込む。触れようとして、止まった。触れてはいけないとでも思ったみたいに、指先が宙で迷う。


「……これ……」

声が、かすれる。

「知ってる……のに……」


ルゥは石碑の紋を見た。

記憶の都で見たものと同じ紋ではない。けれど、どこか似ている。意味より先に、"つながり"があると分かる形。


エリアスが周囲を見回す。


「こんなのが、なんでこんなところに」

「砂は、運ぶのよ」ティアが言った。

「埋める。残す。……残したいものを残すためじゃない。残ってしまったものを、ここに集める」


ルゥは胸元のペンダントに手を当てた。

光は弱い。けれど、確かに温かい。

焔の色だけじゃない。どこか、別の色が混じろうとしている。


(……火の里の焔じゃない)


もっと、乾いていて。

もっと、言葉に近い熱。


セリスが、ようやく石碑に触れた。


触れた瞬間、砂が一度だけ、音を立てた。

ざり、と、低い呼吸みたいな音。


そして、石碑の溝に残っていた砂が、さらさらと落ちる。

落ちた先で、砂はただの砂ではなくなった。

文字の形を保ったまま、一瞬だけ"浮かんだ"。


「……読める?」


エリアスが聞く。

セリスは首を振る。けれど、目だけは石碑から離れない。


「読めない。でも……歌える」

「歌える?」ルゥが小さく返す。


セリスは喉の奥で一度、息を整えた。

迷いの森で"仮の名"を削がれたときの、あの軽さ。

その余白に、今、何かが落ちてきている。


セリスが、ほんの短い旋律をこぼした。

言葉ではない。意味でもない。

ただ、声の形だけが、砂の上に置かれる。


風が止まった。


ティアでさえ、息を潜める。

砂が、音を吸うのをやめたみたいに、音が残った。


――こ…こ…は…


声が、石碑からではなく、砂の下から上がってきた。

誰かの声。けれど、誰でもない声。

"残ったもの"の声。


ルゥの焔が、足元を照らした。

大きくはない。焔の里で学んだとおり、燃やさない灯し方。

その光が石碑の文字を一瞬だけ浮かび上がらせる。


ティアが目を見開く。


「……道標……」


石碑は、ただの記録じゃない。

誰かがここに"残した"もの。

砂に埋もれても消えないように、刻んだもの。


エリアスが低く呟く。


「これ、砂漠への入口か」


ティアは頷く。


「ええ。境界の外側は、まだ"剥がれる場所"。

でも、ここから先は違う。ここからは……"残り続ける場所"」


セリスは歌を止めた。

止めた途端、風が戻る。音がまた薄くなる。

けれど、石碑の溝にひとつだけ、砂の形が残っていた。


それは矢印でもない。文字でもない。

ただの印。けれど、確かな"向き"。


セリスはその印を見て、小さく言った。


「……こっち」


ルゥは立ち上がり、地平を見る。

さっき揺れていた"濃い影"の場所とは少し違う方向。

けれど、遠さは似ている。砂は同じ色だ。空も同じ色だ。

なのに、胸の焔だけが、そこを"入口"と呼んでいる。


「行ける?」ルゥがセリスに聞いた。

セリスは一瞬だけ迷い、それから頷いた。


「怖いけど……行ける」

そして、ほんの少し笑う。

「さっきの私より、今の私のほうが……ちゃんと歩ける」


その言葉に、ルゥの焔が静かに強く灯った。

守るための灯り。進むための灯り。

名を急がない灯り。


ティアが前に出る。


「風が……乾く音をしてる」

彼女は空を見上げた。

「砂の風は、記憶を削る。けれど同時に、記憶を"磨く"」


エリアスが短く頷く。


「なら、剣も間違えないようにする。切るんじゃなく、支えるほうを」


ルゥは四人の足元を見た。

砂の上に、四つの足跡が並ぶ。

迷いの森の足跡とは違う。すぐに消える。風が撫でれば崩れる。

それでも、今は確かに残っている。


(……残らなくてもいい)


ルゥは思う。

足跡は消えてもいい。

"歩いたこと"が、胸の焔に残るなら。


四人は石碑を背に、印の示す方へ歩き出した。


その瞬間、遠くの地平で、もう一度だけ"濃い影"が揺れた。

今度は、さっきよりはっきりと形を持つ。

人のようで、人ではない。

けれど、こちらへ来る気配はない。


ただ――


"見送っている"ように見えた。


ルゥは振り返らなかった。

セリスも振り返らない。

ティアは風を整え、エリアスは剣を抜かない。


砂は音を吸い、空は広いまま、何も言わない。


それでも、入口は開いた。


ここから先は、記憶が試される場所。

残るものだけが残る場所。


そして、失われた記憶は――

砂の底で、形を持って待っている。


砂の色が、わずかに変わった。


それは目で見て分かるほどの違いではない。

けれど、踏みしめた足の裏が教えてくる。

乾いているのに、どこか重い。


「……深くなる」


ティアが低く言った。


風の流れが、地面すれすれを這うように変わっている。

上ではなく、下。

空ではなく、砂を撫でる風。


セリスは歩きながら、無意識に喉に手を当てた。


「さっきの石碑……まだ、続きがある」


「続き?」エリアスが問う。


「うん。あれ、全部じゃない。……途中で埋もれてた」


ルゥは振り返り、遠くに小さくなった石碑の影を見た。

もう形は分からない。

砂は、容赦なく均す。


(……全部は見せない)


砂は、与えない。

ただ、試す。


そのとき、足元の砂がわずかに沈んだ。


ルゥが一歩引く。


「……罠じゃない」


エリアスが素早く周囲を確認するが、敵の気配はない。


沈んだのは、ルゥの足元だけではなかった。

四人の立つ場所が、円のようにわずかに低くなっている。


ティアが風を流す。


「空洞……下に、何かある」


セリスが静かに目を閉じた。


「……声がする」


砂の下から、低く、曖昧な響き。

はっきりとは聞き取れない。

けれど、確かに"残っている"。


ルゥは膝をつき、手で砂を払った。

乾いた粒が指の間から落ちる。


やがて、硬い感触が触れた。


石ではない。

布でもない。


「……箱?」


砂の下から現れたのは、古びた木箱だった。

装飾はない。紋もない。

だが、封じられている。


エリアスがしゃがみ込む。


「開けるか?」


ティアが首を横に振る。


「待って。これは……"触れる順番"がある」


セリスが、ゆっくりと前に出た。

迷いはない。

怖さはある。それでも、足が止まらない。


「……私が」


ルゥは一瞬、止めようとした。

だが、焔が静かだった。

燃え上がらない。止めない。


セリスは箱の前に膝をつき、両手を置いた。


「……歌っても、いい?」


誰に向けた問いでもない。

それでも、三人は頷いた。


セリスは、さきほど石碑の前でこぼした旋律の続きを、そっと繋げた。


声は小さい。

だが、砂は今度、吸わなかった。


箱の縁に刻まれていた細い溝が、淡く光る。


ルゥの焔が、無意識にそれを照らす。

光が触れた瞬間、溝の一部が外れた。


カタン、と軽い音。


封が解けた。


エリアスが息を呑む。


「開いた……」


箱の中には、何も入っていなかった。


いや、正確には――"形のあるもの"はない。


けれど、空気が違う。

箱の中だけ、温度が違う。


ティアが目を細める。


「……残響」


セリスの手が、ゆっくりと箱の中に入る。


触れた瞬間、彼女の肩が震えた。


「……歌」


今度は、彼女の声ではない。


箱の中から、誰かの声が漏れる。

言葉にならない、途切れた旋律。


ルゥの胸が締めつけられた。


(……これ)


これは、失われた記憶じゃない。

"残ってしまった"記憶。


セリスの目に、涙が浮かぶ。


「……私じゃない」


その声は、はっきりしていた。


「でも……私と、同じ」


箱の中の旋律が、一瞬だけ強くなる。

そして、ふっと消えた。


消えたのではない。

セリスの胸に、落ちた。


風が一度、大きく吹いた。


砂が舞い、箱を再び覆い始める。


エリアスが叫ぶ。


「閉じるぞ!」


だがティアが首を振る。


「いい。ここは……"置いていく場所"」


砂は箱を隠す。

まるで、最初から何もなかったように。


セリスは立ち上がった。


顔は濡れている。

けれど、目ははっきりしていた。


「……あの箱の中、空じゃなかった」


「何があった?」ルゥが聞く。


セリスは少し考え、答える。


「"途中で終わった歌"」


砂漠は、残す。

完成したものではなく、

"未完成のままでも消えなかったもの"を。


ルゥは胸の焔を確かめた。


そこに、ほんのわずか、別の色が混じっている。

乾いた、透明な光。


(……焔だけじゃない)


砂の熱。

記憶の熱。


遠くで、また"濃い影"が揺れた。


今度は、ほんのわずかに近い。


エリアスが低く言う。


「追ってきてるな」


「いいえ」ティアが答える。

「見届けている」


ルゥは地平を見た。


砂の向こうに、かすかに起伏が見える。

丘でもない。

建物でもない。


けれど、何かが"集まっている"。


セリスが小さく呟いた。


「……都」


それが本当に都なのかは分からない。

けれど、その形は"集まった声"のように見えた。


「都?」エリアスが振り返る。


「たぶん……語り部の、失われた都」


ティアの風が、はっきりと向きを持つ。


「ええ。砂の底に沈んだ場所」


ルゥは息を吸った。


そこは、ただの砂ではなかった。

それは、"残った声"が眠る場所。


「行こう」


ルゥの声は、迷わなかった。


四人の足が、再び動く。


足跡はすぐに消える。

だが、胸の中に残るものは、消えない。


砂の向こうに、かすかな輪郭が浮かび上がる。


未完成の歌。

名を持たない影。

失われた都。


そして、まだ呼ばれない名前。


物語は、静かに深く――

砂の底へと進み始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ