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第2章【第7話:仮の名を置いて】

迷いの森の奥へ進むほど、光は減っていった。

闇になるわけではない。ただ、昼と夜の区別が曖昧になる。


木々の間から差し込む光は、時間を忘れたように一定で、影だけが、少しずつ位置を変えている。


「……森なのに、時間が動いてないみたいだ」


エリアスの言葉に、ティアは首を横に振った。


「動いてるわ。

ただ、"同じ速さ"じゃないだけ」


ルゥは足元の土を踏みしめる。

柔らかいが、沈まない。

ここまで来て、焔は一度も不安定になっていなかった。


(……燃えない選択を、してる)


それが、少しだけ不思議だった。


セリスは前を歩いている。

先ほどよりも、歩調は安定していた。

だが、その背中はどこか緊張していて、時折、指先が外套を探る。


「……ここ、嫌いじゃない」


唐突に、セリスが言った。


エリアスが振り返る。

「嫌いじゃない、って……?」

「うん。覚えてなくても、怒られないから」


ルゥの胸が、きゅっと鳴った。


ティアは何も言わず、ただ風を弱めた。

この森では、言葉よりも"残す間"のほうが重要だった。


やがて、道が二手に分かれた。


片方は、木々の間がひらけ、

遠くに"知っている景色"が見える道。


もう片方は、細く、暗く、

先がまったく見えない。


エリアスが、無意識に前者を見る。

「……あれ、焔の里の山じゃないか?」


確かに、似ている。

輪郭も、稜線も、記憶にあるものと酷似していた。


セリスが、顔を青くする。


「……だめ」


その声は、はっきりしていた。


「……あれは、行っちゃだめ」

「どうして?」

ルゥが問う。


セリスは、しばらく言葉を探してから、答えた。


「……"帰れた私"が、いるから」


空気が、ひとつ重くなる。


ティアが低く言った。

「見せてきたわね。"失わなかった場合"」


エリアスが歯を食いしばる。

「つまり……あっちを選べば、楽になる?」

「楽、じゃない」

セリスは首を振った。

「……完成する。

でも、それは……今の私じゃない」


ルゥは、ゆっくりと息を吸った。


(……森は、奪わない)


代わりに、差し出す。

選ばなかった未来を。


「セリス」

ルゥは静かに言う。

「行きたい?」


セリスは、一瞬だけ目を伏せた。

それから、はっきりと首を振った。


「……ううん。

完成してるのに、歌ってない」


その言葉に、森が――応えた。


ひらけた道のほうが、音もなく溶ける。

景色が霧のように崩れ、

まるで最初から存在しなかったかのように消えた。


残ったのは、細く、暗い道だけ。


エリアスが息を吐く。

「……選んだな」

「うん」

セリスは、少しだけ笑った。

「……怖かったけど」


進み始めた瞬間、

ルゥは"違和感"を覚えた。


焔が――軽い。


消えたわけじゃない。

弱くもない。

けれど、確かに"何か"が、抜け落ちている。


(……え?)


ティアも気づいたらしく、足を止めた。


「……誰か、今……」

「……名前」


セリスが、小さく言った。


「……一つ、持ってかれた」


ルゥの喉が鳴る。

「名前……?」

「うん。でも、元からなかったやつ」


森が、静かにざわめく。


ティアが、理解したように呟いた。

「迷いの森は……記憶じゃない。"仮の名"を削ぐ」


エリアスが眉を寄せる。

「仮?」

「自分を守るためにつけた名前。

本当の声じゃないもの」


セリスは、胸元を押さえた。

苦しそうではない。

むしろ、呼吸は深くなっている。


「……軽い。怖いけど……軽い」


ルゥは、自分の焔を確かめる。

変わっていない。

でも、確かに影響を受けている。


(……私も、いつか……)


その考えを、焔が静かに止めた。


――今じゃない。


森が、そう告げている。


やがて、視界がひらけた。

木々の間に、小さな空白が生まれる。


そこには、何もない。

道標も、石も、声もない。


ただ、立ち止まれる場所だけがあった。


ティアが言う。

「ここが……森の"奥"」

「奥なのに、何もない?」

エリアスが首を傾げる。


「だからよ」

ティアは微笑んだ。

「ここは、"まだ決めない"ための場所」


セリスは、空を見上げた。

「……歌、聞こえないね」

「ええ」

「でも……静かじゃない」


ルゥも、同じことを感じていた。


音はない。

だが、否定もない。


迷いの森は、ここで終わらない。

だが――


これ以上、奪わない。


「行けるね」

ルゥが言うと、

三人は、同時に頷いた。


森は、背後で何も言わずに道を閉じる。


拒絶ではない。

祝福でもない。


ただ――

選んだことを、物語として認めただけ。


そして、セリスは初めて気づいた。


名前を失ったのではない。

名前に辿り着く準備が、始まったのだと。


迷いの森を抜けた先は、奇妙な場所だった。


草原でもなく、荒野でもない。

大地はなだらかで、地平は遠く、空は広い。

けれど、どこにも"行き先"を示すものがない。


「……森より、落ち着かないな」


エリアスが周囲を見回しながら言った。

確かに、危険な気配はない。

だが、守ってくれるものもない。


ティアは足元に手をかざし、風を探る。


「ここは……境界の外側。

森が削いだものが、まだ"定着していない"場所」


セリスは、何も言わずに立っていた。

迷いの森を出てから、彼女の様子は少し変わっている。


歩き方が、前よりも慎重になった。

だが同時に、迷いも減っている。


「……ここ、名前がない」


ぽつりと、セリスが言った。


ルゥが振り返る。

「場所に?」

「ううん。"私が立ってる感じ"に」


エリアスが首を傾げる。

「どういう……」


「森の中では、"迷ってる私"だった。

でも、ここでは……何者でもない」


ティアが小さく息を吐いた。


「それが"余白"よ。

記憶も、役割も、まだ置かれていない場所」


ルゥは胸の焔を確かめた。

揺れてはいない。

だが、森の中よりも、世界の温度が直接伝わってくる。


(……ここから先は、誤魔化せない)


その時だった。


風が、一瞬だけ逆流した。


ティアが顔を上げる。

「……来る」


同時に、エリアスが剣に手をかける。

だが、抜かない。


ルゥの焔が、微かに“暗さ”を映した。


遠くの地平で、何かが揺れた。

黒い影のようにも、空気の歪みのようにも見える。


「……あれ」


セリスが、指を差す。


影は、近づいてこない。

ただ、在る。


「敵?」

エリアスが低く問う。


ティアは、首を横に振った。


「……まだ、違う。

でも、同じ"方向"を向いている」


ルゥは、一歩前に出た。

焔は燃え上がらない。

だが、はっきりと応えている。


(……見られてる)


影が、わずかに形を持つ。

人のようで、人ではない。

声を出さないのに、存在だけで"圧"がある。


セリスの呼吸が、ほんの少し乱れた。


「……あれ、知ってる」


ルゥが振り向く。

「思い出したの?」

「ううん……違う」


セリスは、胸元に手を当てる。


「……思い出せない"まま"のやつ」


空気が、静かに張り詰める。


ティアが言った。

「語り部の都でも、記録にあった。

"名を持たない影"」


エリアスの表情が強張る。

「闇の勢力……?」

「近いけれど、まだ不完全」


影が、さらに濃くなる。


その瞬間、

セリスが――一歩、前へ出た。


「……来ないで」


声は小さい。

だが、はっきりしていた。


影が、止まる。


ルゥは息を呑む。

(……焔じゃない)

(……風でも、剣でもない)


セリス自身の"声"だ。


「……私、名前がない。

でも……奪われたわけじゃない」


影が、揺れる。


「……だから、あなたにも渡せない」


沈黙。


それは、拒絶ではなかった。

対話でもない。


ただ、境界線。


影は、ゆっくりと後退する。

消えはしない。

だが、これ以上近づかない。


エリアスが、息を吐いた。

「……追い払った?」

「違う」

セリスは首を振る。


「……"止まった"だけ」


ティアが、深く頷く。


「それでいい。

今は、それ以上、関わらないほうがいい」


影は、やがて地平の揺らぎに溶けていった。


ルゥは、セリスを見る。


「……怖くなかった?」

セリスは、少し考えてから答えた。


「怖かった。

でも……逃げたくなかった」


その言葉に、ルゥの焔が、静かに強く灯った。


(……始まってる)


セリスの物語も。

闇の物語も。


そして、この章の終わりも。


ティアが前を向く。

「進もう。

ここに留まると、"余白"が揺れる」


エリアスが頷く。

「次は?」

「砂の境界」

ティアは言った。

「記憶が、乾いて残る場所」


セリスは、振り返らなかった。

影のいた地平を、もう見ない。


「……行こう」


影はもう、追ってこない。

四人の足が、同時に動き出す。


セリスは歩きながら、自分の胸元にそっと触れた。

そこには、まだ名前はない。

けれど、空白は恐ろしくなかった。


失ったのではない。

ようやく、何かが入る場所ができただけだ。


歌は、まだ形を持たない。

声も、旋律も、思い出も足りない。


それでも、確かに――

「始まっている」という感覚だけは、あった。


セリスは一度だけ、深く息を吸った。

そして、前を向いた。


迷いの森は終わった。

だが、選択は終わっていない。


そして次の場所では、

失われた記憶が――

形を持って待っている。


ルゥは、無意識に胸元に手を当てた。

焔は静かだった。

揺れも、焦りもない。


ただ、確かに――前を向いている。


迷いの森では、選ばなかった未来が示された。

境界の外では、何者でもない自分が立たされた。

そして今、砂が待っている。


削がれるかもしれない。

残るかもしれない。

あるいは、何も持ち帰れないかもしれない。


それでも。


ルゥは、立ち止まらなかった。


「……行ける」


誰に言うでもなく、そう呟くと、

焔は小さく応えた。


燃え上がらず、照らしすぎず、

足元だけを確かに示す光として。

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