第2章【第6話:足元を知り、迷いを選ぶ】
砂漠に残ったのは、重く、深い余韻だけだった。
影が砂にほどけて消えた場所は、何もなかったように平らで、ただ風だけが遅れて戻ってきた。
戻ってきた風は冷たくも熱くもない。
けれどどこか、言葉を探しているような間の抜けた流れ方をしている。
エリアスが剣を収めきらないまま、息を吐いた。
「……あれが、中心か」
ティアは頷く。
「ええ。"名を急ぐ流れ"の核。完全に形を持っているわけじゃない。でも、ここに立ち続ければいずれ、もっとはっきりした輪郭で戻ってくる」
ルゥは胸の焔を確かめた。揺れていない。
けれど、静かなままに強い。
恐れで膨らむ焔ではなく、方向を選んだ焔。
さっき影に向かって「渡せない」と言い切った時の温度が、まだ指先の奥に残っている。
(……もう、避けられない)
その確信は重かったが、足を縛る重さではなかった。むしろ、足元に石を置かれたような重さだった。
立てる、という感覚。
「とりあえず、ここを離れよう」
エリアスが周囲を見回しながら言う。
「またああいうのが出るなら、広いところの方がいい。砂丘の陰だと、近づかれても気づけない」
ティアも首を傾けて風に耳を澄ませた。
「追跡の気配は薄い。
でも……砂が変。流れが一定じゃない」
「中心が消えた場所、まだ引っかかる?」
ルゥが問うと、ティアは一瞬だけ眉を寄せる。
「引っかかる、というより……呼び水みたい。
残り香がある。風がそれを嫌がってる」
三人はゆっくり歩き出した。
足を踏み出すたび、砂の感触が微妙に違う。
湿り気があるわけではないのに、砂の粒がわずかに重い。まるで遠くで、砂が何かを抱え込もうとしているみたいだった。
その時だった。
ルゥの胸の焔が、一度だけ小さくはねた。
"怖い"ではなく、"気づけ"というはね方。
「止まって」
ルゥが言う前に、ティアも足を止めていた。
風が、ほんの少しだけ音を変える。
砂を撫でる音の下に、別の音が混じった。
擦れるような、呼吸のような人の気配。
エリアスが剣に指を掛ける。
「……いるな」
「敵?」
ルゥが問うと、ティアは首を横に振った。
「分からない。でも、風が"引いてる"。避けたがってる。近づくと、記憶が薄くなる感じがする」
三人は砂丘の端へ回り込み、低い場所を覗き込んだ。
そこにいたのは影ではなかった。砂そのものでもない。
人だった。
砂に半分埋もれ、外套の裾が乾いた波に引かれるように揺れている。肩は細く、髪は淡い月明かりみたいに白い。顔色は砂と同じくらい薄く、息は浅いのに、まだ生きているのが分かった。
「……人だ」
エリアスが一歩前へ出る。
ティアが低く止める。
「触らないで。今、風が"欠け"を感じてる」
「欠け?」
ルゥが眉を寄せた瞬間、胸の焔がふっと明るくなった。焔は、怯えずに寄っていく。
知らない焔ではなく、どこか"同じ場所を見た焔"に近い反応だった。
ルゥは膝をつき、砂をそっと払った。
外套の胸元に、小さな紋が縫い付けられている。
風の紋に似ている。でも完全ではない。
線が途中で途切れている。
都で見た"記憶の糸"が切れた時の形に似ていた。
その瞬間、倒れていた人物の唇がかすかに動いた。
声にならない吐息。けれど、その吐息が旋律の形をしていた。
「……歌……?」
ティアが目を見開く。
次の瞬間、倒れた人物が、砂の中から掠れる声を拾うように言った。
「……風……眠ら……ないで……」
その言葉と一緒に、周囲の砂がわずかに落ち着いた。
ざわついていた砂が、揺れを整える。風がほんの少しだけ通りやすくなる。
ティアの喉が鳴った。
「……語り部の歌の欠片」
「語り部の……」
エリアスが息を呑む。
「都の歌と同じか?」
「同じじゃない。でも、近い。都へ繋がる前の歌……いや、"都が壊れたあとに残った歌"に似てる」
ルゥは胸の焔を小さく灯し、熱ではなく明かりとして差し出した。
「大丈夫。起きられる?」
倒れていた人物は、まぶたをゆっくり開いた。
瞳は淡い色だった。風の色、というより、風が通り過ぎたあとの空みたいな色。
ただ、その奥がひどく曇っている。焦点が合わないのに、こちらを見ている。見ようとしている。
「……ここ……は……」
言葉が途切れる。
次に出たのは、名前ではなかった。
「……わたし……誰……」
ティアが息を止めた。
風が一度だけ、強く逆流した。
ルゥの焔は逆に、静かに揺れた。
焔が言っている。――"ここだ"と。
エリアスがしゃがみ込み、声を低くする。
「無理に思い出さなくていい。水は飲めるか」
人物は小さく頷き、震える手で水筒を受け取ろうとした。だが指がうまく動かない。
ルゥはそっと支え、水を少しずつ口に含ませた。
喉が鳴り、呼吸が整っていく。
それでも目の曇りは晴れない。
ただ、次に出た言葉は、少しだけはっきりしていた。
「……セリス……」
「え?」
ルゥが聞き返すと、人物は眉を寄せ、確かめるように呟く。
「……それだけ……残ってる……セリス……たぶん……わたし」
ティアがゆっくり頷いた。
「"名の欠片"が残ってる。全部はない。
でも……消えてない」
エリアスが周囲を警戒しながら言う。
「ここで立ち話は危ない。歩けるか?」
セリスは立とうとしてふらついた。
ルゥが肩を貸すと、セリスの身体が一瞬だけ強張る。だが次の瞬間、焔に触れた場所から、呼吸が落ち着いた。
「……あったかい……」
セリスが小さく言った。
「焔……?」
ルゥは頷く。
「うん。焔。私はルゥ」
「……ルゥ……」
セリスはその名前を口の中で転がした。
「……忘れない……気がする……」
ティアが、セリスの外套の切れた紋を見つめる。
「あなた、語り部の民?」
セリスは首を振ろうとして、途中で止めた。
「……分からない……でも……歌が……」
そして、砂の向こうを見た。
何もないはずの砂の向こうを、まるで"道"が見えているみたいに。
「……森……」
セリスが呟いた。
「迷う……緑……」
ティアの表情が変わる。
「迷いの森……?」
エリアスがルゥを見る。
「今の、偶然じゃないな」
ルゥは胸の焔を確かめた。
焔は揺れていない。けれど、はっきりと同じ方向を向いた。
(……答えを持っていろ、って言われた)
(答えは、まだ言葉じゃない)
(でも――次の場所は、見えてる)
ルゥはセリスに微笑んだ。
「一緒に行こう。歩けるようになるまで、私たちが支える」
セリスは少しだけ目を見開き、次に視線を落とした。
拒む顔ではない。けれど、怖がる顔でもない。
ただ、必死に"今の自分"を繋ぎ止めようとしている顔だった。
ティアが、セリスの隣に立つ。
「風は、あなたを拒んでない。まだ"残ってる"って言ってる」
セリスは小さく頷く。
「……行く……わたしも……知りたい……」
エリアスが先に歩き出し、振り返る。
「急ごう。ここは砂が落ち着いてない」
ティアが風を整え、砂の流れを切る。
ルゥは焔を小さく灯し、セリスの足元を照らした。
四つ目の影が、砂に伸びる。
でもそれは敵の影じゃない。
"欠けた名"が、ようやく旅に混ざった影だった。
そして遠くで、砂が一度だけ鳴った。
中心が消えた場所からではない。もっと奥、もっと遠い場所から。
「次」を急かすのではなく、「次」を待っているような音だった。
砂丘を離れると、足元の感触がゆっくり変わっていった。
乾いた砂は粒を失い、踏みしめるたびにわずかな弾力を返す。
まだ草は生えていない。けれど、砂だけの世界でもなくなっている。
境目だった。
砂漠と、次の土地との境界。
地図には載らない、風だけが覚えている境目。
セリスは、ルゥの焔が照らす足元を見つめながら、時おり立ち止まった。
歩けないわけではない。ただ、足を出す前に必ず"確かめる"ような間があった。
「……ここ……違う」
小さな声だったが、はっきりしていた。
エリアスが振り返る。
「違うって、何が?」
セリスは首を傾げ、言葉を探す。
「砂……さっきの砂は、戻ろうとした。
でも、ここは……進ませようとしてる」
ティアが静かに頷いた。
「境界ね。風も同じことを言ってる」
彼女は外套の裾を押さえ、空気の流れを感じ取る。
「迷いの森の"外縁"。まだ中じゃないけど、もう引き返しやすい場所じゃない」
ルゥは胸の焔を確かめた。
揺れはない。ただ、向きが定まっている。
さっきまで砂漠に向いていた焔が、今は確実に“緑の気配”の方を向いていた。
(……答えを持って来い、じゃなくて)
(“続けろ”って言われてる)
セリスはふいに足を止め、外套の内側を探るように手を入れた。
布の奥から出てきたのは、小さな布包みだった。
「……これ……」
中には、割れた円環のような金属片。
風の紋に似ているが、意図的に欠けている。
完全な印ではない。
u完成しなかった証"のような形。
ティアの呼吸が、わずかに浅くなる。
「語り部の"仮印"……」
「仮?」
エリアスが眉を寄せる。
「正式な名を持つ前、記憶を編む途中の者が身につけるものよ」
ティアは金属片に触れないまま、目だけで追う。
「都がまだ機能していた頃、これは"未完の語り"を示していた」
ルゥの焔が、かすかに反応した。
熱ではなく、共鳴に近い反応。
「セリス……これは、あなたの?」
セリスは少し迷ってから、頷いた。
「……たぶん。
でも……完成した覚えは、ない」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
未完。
欠けた記憶。
名の途中。
それは、今のルゥ自身とも重なる状態だった。
エリアスが口を開く。
「つまり……セリスは"途中の語り部"だった、ってことか」
ティアは首を振る。
「"だった"じゃない。今も、途中」
風が一度だけ、強く流れた。
森の方角から、冷たい気配が押し寄せる。
「……来る」
ティアが低く言う。
「森の気配が、こちらを測ってる」
セリスの指先が、わずかに震えた。
「……歌……来る前……歌えば……」
「歌?」
ルゥが問うと、セリスは唇を噛む。
「……全部じゃない。でも……"入口"の歌……」
彼女は息を吸い、掠れる声で旋律を紡いだ。
それは完成した歌ではない。
途中で切れ、つなぎ目が曖昧な、断片の旋律。
だが――
風が、止まった。
砂と空気の境界にあったざらつきが、すっと消える。
代わりに、緑の匂いが、はっきりと流れ込んできた。
エリアスが目を見張る。
「……道が、できた」
実際、前方の空気がわずかに歪み、進める“幅”が現れている。
ティアは、確信を持った声で言った。
「セリスは"鍵"じゃない。"継ぎ目"よ。
迷いの森は、完成した名よりも……欠けた声を通す」
ルゥは、セリスの隣に立った。
「一緒に行こう。
歌が全部思い出せなくても、大丈夫」
セリスは、不安そうにルゥを見る。
「……迷わない?」
ルゥは微笑んだ。
「迷うよ。でも――戻れる」
その言葉に、セリスの肩の力が少し抜けた。
エリアスが剣を軽く鳴らす。
「じゃあ、決まりだな。次は――森だ」
ティアが風を前へ流す。
それは拒む風ではなく、試す風。
四人は並び、境界へ踏み出した。
砂の感触が消え、
地面は、まだ見えない"道"になる。
迷いの森は、口を開いた。
それは歓迎ではない。
拒絶でもない。
――問いを持つ者だけを、通す沈黙だった。
そして、
焔と風と剣と、欠けた歌は、
その沈黙の中へ、同時に足を踏み入れた。
迷いの森の入口は、門のような形をしていなかった。
境界線があるわけでも、標の石が立っているわけでもない。
ただ、砂の色が完全に消え、土の匂いが混じり始めたところで、世界の"感触"が変わった。
足を踏み出した瞬間、空気が一段、深くなる。
音が遠くなり、風の流れが読みにくくなった。
木々はまだ疎らだが、枝と枝のあいだに、わずかな湿り気が漂っている。
「……ここから、森」
ティアがそう言った時、声はいつもより低く、慎重だった。
エリアスは周囲を見回す。
「思ったより、普通だな」
「最初は、ね」
ティアは即座に返した。
「迷いの森は、入った瞬間に迷わせない。
"戻れると思っているうちは"、まだ試さない」
ルゥは胸の焔を確かめた。
揺れてはいない。だが、先ほどまであった“砂漠の名残”の向きは、完全に消えている。
(……帰り道、もう測れない)
セリスは、何も言わずに歩いていた。
けれど、その歩幅は微妙に不規則で、一定の距離を保とうとしているのが分かる。
「……ねえ」
小さな声で、セリスが言った。
「……音、変じゃない?」
エリアスが耳を澄ます。
「鳥の声、だろ? 森なら普通じゃ……」
「違う」
セリスは首を振った。
「……"遠い"。
近くにある音が、全部……一歩ぶん、離れて聞こえる」
ティアの視線が、鋭くなる。
「もう始まってるわね」
次の瞬間だった。
――足音が、四人分になった。
誰も、歩く人数を増やしていない。
けれど、背後から、確かに"もう一人ぶん"の踏みしめる音が重なった。
エリアスが即座に剣に手をかける。
「……後ろだ」
「抜かないで」
ティアが低く制した。
「敵じゃない。"選択肢"よ」
足音は、追い越すことも、近づくこともない。
一定の距離を保ったまま、森の奥へと誘うように続いている。
セリスの肩が、わずかに震えた。
「……あれ……」
「知ってる?」
ルゥが問うと、セリスは首を振る。
「……でも……懐かしい。
"行かなくていい"って言われてた音……」
ティアが息を呑んだ。
「……森は、"戻れた可能性"を見せる」
「戻れた?」
エリアスが眉を寄せる。
「そう。別の選択をしていた自分。
来なかった道。歌わなかった歌」
足音が、二つに増えた。
今度は、前方と、横。
進めば進むほど、音は増え、しかし重ならない。
ルゥは、はっきりと感じていた。
これは罠じゃない。
恐怖を煽るものでもない。
――問いだ。
(……私は、どの音を選ぶ?)
焔が、静かに脈打つ。
その時、セリスが足を止めた。
「……歌、聞こえる」
彼女は外套の内側を押さえ、目を閉じる。
音は、言葉にならない旋律だった。
完成していない、途中の歌。
「……こっち」
セリスは、四つに分かれた足音のうち、最も不安定な方向を指した。
道としては、最も細く、最も曖昧な方角。
エリアスが一瞬ためらう。
「……大丈夫か?」
セリスは、ゆっくり頷いた。
「……完成してる道は、私のじゃない」
その言葉に、ルゥは笑った。
「うん。じゃあ、それで行こう」
ティアは、何も言わなかった。
ただ、風をその方向へ流した。
拒まず、押し付けず、確かめる風を。
足音は、一つずつ消えていった。
最後に残ったのは、
セリスが選んだ、不完全な旋律の方角だけ。
森の空気が、少しだけ軽くなる。
「……通してくれた」
セリスが、ほっと息を吐いた。
「ええ」
ティアは静かに答える。
「迷いの森は、"完成を拒まない"」
「どういう意味だ?」
エリアスが尋ねる。
「未完成なものを、拒まないってこと」
ルゥは、セリスを見る。
割れた仮印。
欠けた歌。
思い出せない名前。
(……それでいい、って言われてる)
焔が、あたたかく灯る。
森は、まだ続く。
けれど――
この瞬間、
四人は"通された"。
迷いの森は、静かに背後を閉じる。
逃げ道を消すためではない。
選んだ道を、物語にするために。
そしてセリスは、まだ気づいていなかった。
この森が最初に試したのは――
ルゥでも、エリアスでも、ティアでもなく。
「欠けたまま、進むことを選んだ彼女自身」だったことを。




