第2章【第5話:空は答えず、焔は立つ】
焔の里を出た三人を迎えたのは、乾いた風だった。
山を越えるにつれ、空の色は薄くなり、
足元の土は赤から白へ、白から砂へと変わっていく。
焔の里の匂い、鉄と煤と熱は、いつの間にか風の向こうへ溶けていた。
砂漠の入口は、思ったよりも静かだった。
焼けつくような暑さはなく、
砂は夜の名残を抱えたまま、ひんやりと息を潜めている。
風が吹くたび、砂の表面に小さな波が生まれ、すぐに消えた。
ルゥは、一歩踏み出した瞬間に分かった。
(……ここだ)
胸の焔が、わずかに震えている。
根の炉のときとも、空の夢のときとも違う揺れ方。
まるで、外から"触れられている"ような感覚。
「……焔が、反応してる?」
エリアスが気づいて、ルゥを見る。
「うん。でも……呼ばれてるっていうより、
"確かめられてる"感じ」
ティアは砂を一掴みし、風に流した。
「砂はね、記憶を隠すのが得意なの。
埋めるし、消すし、形を変える」
流れた砂が、風の中で一瞬だけ渦を作る。
「でも同時に、
残るものだけを、試す場所でもある」
三人は言葉を交わさず、砂へと足を進めた。
日が昇るにつれ、砂漠は表情を変えていく。
光は強くなるのに、音は少なくなる。
自分たちの足音だけが、やけに大きく聞こえた。
しばらく歩いた頃、
ルゥは不意に足を止めた。
「……待って」
エリアスとティアも、すぐに立ち止まる。
「今……焔が、下を向いた」
「下?」
エリアスが眉をひそめる。
ルゥは膝をつき、砂に手を触れた。
表面は乾いているのに、
指を沈めると、奥のほうはひどく冷たい。
胸の焔が、すっと沈む。
次の瞬間ーー
砂が、音もなく崩れた。
「ルゥ!」
エリアスが叫ぶより早く、
地面が抜け、ルゥの身体は砂の下へ引き込まれた。
だが、落ちない。
焔が、足元を照らした。
砂の下に現れたのは、
自然にできた洞ではなかった。
石の壁。
削られた通路。
そして、古い炉の跡。
「……地下遺構……?」
ティアの声が、少し緊張を帯びる。
「語り部の都より、さらに古い……
"焔が地上に定着する前"の痕跡かもしれない」
ルゥの胸の焔が、ゆっくりと脈打つ。
(……ここに……欠片が……)
通路の奥で、何かが光った。
焔ではない。
風でもない。
名を持たない、淡い光。
それは、完全な形を持たず、
揺らぎながら、しかし確かに"待って"いた。
足元を、持つ焔……
声が、砂に染み込むように響く。
エリアスは剣を抜かない。
ティアも風を荒らさない。
ルゥは、まっすぐに光へ歩いた。
「私は……まだ名を持たない」
光が、わずかに揺れる。
「でも、守る場所がある。
戻る里がある。
それでも進みたいって、思ってる」
焔が、胸の中で応えた。
光は、ゆっくりとルゥの前に浮かび上がる。
それは"欠片"だった。
焔の名を形作る、二つ目の輪郭。
砂に埋もれ、
待つことを覚え、
それでも消えなかったもの。
ルゥが手を伸ばすと、
欠片は焔に溶け込むように、静かに消えた。
その瞬間、砂漠の風が向きを変えた。
「……来る」
ティアが低く言う。
「欠片が動いた。
"名を急ぐ者"も、気づく」
エリアスは剣を構える。
「なら、迎える準備はできてる」
ルゥは立ち上がった。
胸の焔は、さっきよりも重い。
でも、それは不安の重さじゃない。
(……私は、進んでる)
砂の下で、焔は確かに育っていた。
そして――
名を持たぬ焔を追う影が、
遠くで、初めて砂を踏んだ。
砂の下の空気は、ひどく静かだった。
音がないわけじゃない。
砂が崩れる微かな擦過音も、遠くで石が軋む気配もある。
けれどそれらはすべて、まるで一段膜を隔てた向こう側で起きているように、輪郭を失っていた。
ルゥは胸に手を当て、ゆっくりと呼吸を整えた。
焔はまだ、欠片を受け取った余韻を残している。
熱は強まっているのに、荒れてはいない。
重く、深く、地に根を張るような感覚。
「……奥がある」
自然と、そう口にしていた。
エリアスは頷く。
「空気が違う。
ここから先……"上でも下でもない"感じがする」
ティアは目を閉じ、風を集めた。
だが、風は遠くまで行かず、すぐに戻ってくる。
「……拒まれてるわ」
ルゥが息を呑む。
「拒まれてる……?」
「完全にじゃない」
ティアは静かに言う。
「でも、歓迎もされてない。
空が……距離を保ってる」
三人が進むにつれ、通路の形は不自然になっていった。
壁は石なのに、どこか"空洞"のように軽く、
床は確かに踏めるのに、影の落ち方がおかしい。
やがて、行き止まりに辿り着く。
そこには――
天井のない"部屋"があった。
正確には、天井があるはずの場所が、ぽっかりと抜け落ちている。
上を見上げても、空は見えない。
あるのは、歪んだ光と、層を成した雲のようなもの。
ルゥの胸の焔が、はっきりと反応した。
(……これ……)
夢の中で見た光景に、似ている。
拒まれた空。
一歩、退いた空。
エリアスが剣を抜きかけ、止めた。
「……敵じゃない。
でも……近づきすぎると、切れる」
「ええ」
ティアも頷く。
「これは"閉じた空の名残"。
都が滅びたあと、完全に戻れなかった空」
その言葉に、空間がわずかに揺れた。
拒絶の気配はない。
だが、近づこうとすると、距離が伸びる。
まるで、踏み込む意思そのものを測られているかのようだった。
ルゥは一歩、前に出た。
焔が、足元を照らす。
空は動かない。
退きもしない。
だが、近づきもしない。
「……私は」
ルゥは、胸の奥から言葉を探した。
「名を急ぎに来たわけじゃない」
空が、わずかに揺れる。
「答えをもらいに来たわけでもない」
揺れが、少し弱まる。
「ただ……拒まれた空が、どんな顔をしてるのか……
知りたかった」
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて、空の奥から"重さ"が流れてきた。
声ではない。
言葉でもない。
――……遅い……
胸に直接、落ちてくる感覚。
ルゥは目を閉じなかった。
「……そうかもしれない」
焔が、静かに揺れる。
「でも、遅れたからこそ……
足元を持てた」
空間が、微かに軋んだ。
拒まれた空の層に、細い"裂け目"が生まれる。
割れるのではない。
開くのでもない。
"覗ける"程度の、ほんの僅かな隙間。
ティアが息を呑む。
「……空が……見ることを許した……」
その隙間の向こうに見えたのは、
空の島ではなかった。
崩れた塔。
風を失った回廊。
焔を持てなかった炉。
そして――
名を持たなかった者たちの、影。
彼らは叫ばない。
求めない。
ただ、立ち尽くしている。
ルゥの胸が、きゅっと締めつけられる。
(……もし、私が急いでいたら……)
その瞬間、焔が強く脈打った。
拒まれた空が、最後に伝えてきたのは、言葉ではなかった。
――……戻れ……
――……名を持たぬまま、戻れる場所がある者は……
――……まだ、拒まれぬ……
裂け目が、ゆっくりと閉じていく。
完全に消える前に、ルゥは小さく頭を下げた。
「……教えてくれて、ありがとう」
空は応えない。
けれど、拒みもしなかった。
空間が、元の石の天井を取り戻す。
地下遺構は、ただの"過去の場所"へ戻った。
エリアスが、深く息を吐く。
「……あれ、敵だったら斬ってた。
でも……斬らなくてよかった」
ティアは静かに言う。
「拒まれた空は、壊すものじゃない。
"越える前に、立ち止まらせるもの"だから」
ルゥは胸の焔を確かめる。
欠片は、確かにそこにある。
だが、完成にはまだ遠い。
(……次は……)
焔は答えない。
けれど、向きだけは変わった。
空から、砂へ。
砂から、さらに"記憶の深い場所"へ。
地上に戻る階段の先で、
風が、はっきりと西を指していた。
そこには――
語り部の都へ続く、迷いの森が待っている。
焔は、まだ名を持たない。
だが、拒まれた空に背を向けず、
確かに一歩、先へ進んでいた。
地下遺構を出ると、空気は一変した。
昼と夜の境目。
砂漠特有の、熱が残りながらも冷え始める時間帯だった。
風は弱く、砂は動かない。
けれど静かすぎた。
ルゥは足を止める。
「……変」
エリアスが即座に反応した。
「音がないな。
足音も、砂の鳴きも」
ティアは風を探るが、眉をひそめる。
「風が……避けてる。
この辺りだけ、触れないように流れてる」
まるで、砂漠そのものが
"ここに何かある"と知っているかのようだった。
次の瞬間、
前方の砂が――わずかに、盛り上がった。
崩れるのではない。
吹き上がるのでもない。
内側から、押し上げられるように。
エリアスが剣に手をかける。
「来るぞ」
砂が割れ、
そこから"人の形"が現れた。
だが、はっきりと人とは言えない。
肌は砂の色に溶け、輪郭は揺らぎ、
胸元だけが、不自然に光っている。
――……名を……
低い声。
耳ではなく、空気そのものが震えた。
――……名を、よこせ……
ルゥの胸の焔が、強く反応した。
(……要求……)
ティアが一歩前に出る。
「下がって。
あれは……"名を急いだ残骸"」
エリアスが歯を食いしばる。
「生きてる……のか?」
「生きていた、もの」
ティアは静かに言った。
「名を得る前に、空に手を伸ばしすぎた」
砂の人影は、三人を見ていない。
見ているのはルゥの焔だけだ。
――……その焔……
――……近い……
砂が、ざらりと音を立てる。
距離が縮まる。
ルゥは一歩も下がらなかった。
胸の焔が、はっきりと"拒否"を示している。
恐れではない。
違う、と分かる感覚。
「……それは、渡せない」
砂の人影が、揺れる。
――……なぜ……
――……急がねば……
――……名が、ない……
ルゥは、息を吸った。
「私も、ない」
その言葉に、砂の動きが止まる。
「でも……奪えば埋まるものじゃない」
焔が、足元を照らす。
根の感覚。
守った里。
戻れる場所。
「名は……立ってから、もらうもの」
一瞬、沈黙。
砂の人影の胸の光が、ひび割れた。
――……立て……なかった……
声が、崩れる。
――……急いだ……
次の瞬間、
人影は砂へと崩れ落ちた。
剣も、焔も、風も使っていない。
ただ、崩れた。
砂漠に残ったのは、
小さな、光の欠片。
ルゥは近づき、そっと拾い上げる。
それは、冷たい。
ティアが首を振る。
「持たないで。
それは……"途中で手放した問い"」
ルゥは、ゆっくりと砂へ戻した。
光は、すぐに消える。
エリアスが、低く言った。
「……俺たちも、ああなる可能性がある」
「ええ」
ティアは頷く。
「急げば、必ず」
ルゥは、砂漠の彼方を見る。
遠くで、同じ揺れがいくつも生まれている。
名を求める声。
答えを要求する声。
(……増えてる)
焔は、静かに強く燃えた。
「……急いでるのは、私たちだけじゃない」
ティアが風を集める。
「空が閉じかけてる。
だから、"名を欲しがるもの"が先に動き始めてる」
エリアスが剣を握り直す。
「なら……次は、もっとはっきり敵になるな」
ルゥは、首を振った。
「敵じゃない。……同じ"途中"」
砂漠の向こうで、
またひとつ、砂が盛り上がった。
今度は一つではない。
焔と風と剣が、同時に反応する。
物語は、
「急ぐ者」と「立つ者」の分かれ道へ
確実に踏み込んでいた。
名を持たない焔は、
急がないことで、
最初の選別を越え始めていた。
砂が、今度ははっきりと意思をもって動いた。
先ほど崩れた影とは違う。
寄せ集めでも、残骸でもない。
"立っている"と分かる気配があった。
砂漠の中央で、風が円を描くように避ける。
その中心に、ひとつの影が姿を現した。
人の形をしている。
輪郭も、足取りも、先ほどのものより明確だ。
だが――決定的に違う点があった。
胸に"穴"が空いている。
焔も、風も、剣もない場所。
まるで、何かを抜き取られた器のようだった。
エリアスが低く息を吐く。
「……あれは……」
ティアが、即座に答えた。
「"中心"よ。
名を急いだ者たちの中で、
最初に"自分を捨てたu存在」
影は、ゆっくりと顔を上げた。
目が、合う。
その瞬間、
ルゥの胸の焔が一切揺れなかった。
恐れも、拒絶も、警戒もない。
ただ、静かな"違い"だけがあった。
影が口を開く。
――……ようやく……来たか……
声は低く、かすれている。
だが、先ほどの砂の影たちとは違い、言葉が整っていた。
――……足元を、得た焔……
ルゥは一歩、前に出た。
「……あなたは、誰?」
影は、少しだけ首を傾ける。
――……名は……捨てた……
――……だが、役目は残った……
エリアスが、剣を半分だけ抜く。
「役目?」
影の視線が、剣へ移る。
――……切る者……
――……迷っているな……
次に、ティアを見る。
――……風を聞く者……
――……拒まれなかった……
最後に、ルゥを見る。
――……そして……
――……まだ、名を持たぬ焔……
胸の穴が、かすかに光った。
――……それを、欲している……
ティアが一歩、前に出る。
「違う。
あなたは"欲してる"んじゃない。
……埋めようとしてる」
影が、初めて表情らしきものを歪めた。
――……同じだ……
――……空は、答えをくれなかった……
ルゥの焔が、静かに応じる。
「空は……急ぐ声に、応えない」
その言葉に、影の胸の穴が揺れた。
――……知っている……
――……だから、作った……
砂が、影の背後で盛り上がる。
先ほど崩れた者たちの"名残"が、引き寄せられていく。
――……空がくれぬなら……
――……名は、奪えばいい……
エリアスが、完全に剣を抜いた。
「……やっぱり敵だな」
ルゥは、首を振る。
「敵じゃない」
そして、影を見据える。
「……"行き止まり"」
その言葉に、影の動きが止まった。
――……何……?
「足元を捨てて、名だけを掴もうとした」
ルゥは、はっきりと言う。
「だから……前に進めなくなった」
焔が、足元を照らす。
「私たちは、まだ途中。でも……戻れる」
影の胸の穴が、震え出す。
――……戻れない……
――……戻る場所を……壊した……
その声は、怒りではなく――後悔に近かった。
ティアが、静かに告げる。
「それが、"中心"になった理由。
名を急いだ者たちは、あなたを頼った。
あなたが……最初に、戻らなかったから」
影は、砂漠を見渡す。
無数の揺れ。
名を求める声。
答えを要求する残響。
――……なら……
――……せめて……
影の胸の穴が、強く光る。
――……おまえの焔を……
その瞬間、
焔が――拒んだ。
強くもなく、激しくもない。
ただ、確かに。
「それは、渡せない」
ルゥの声は、揺れなかった。
「私の焔は、"名のため"に灯ってるんじゃない」
影の光が、ひび割れる。
――……なら……
――……どうすれば……
初めて、問いだった。
ルゥは、少しだけ目を見開いた。
(……問いを……持てた……)
「……立つこと」
ルゥは、ゆっくり言葉を選ぶ。
「答えをもらう前に。名を得る前に。
自分が、どこに立ってたか……思い出して」
砂漠に、長い沈黙が落ちた。
風が、かすかに戻る。
影は、うつむいた。
――……立っていた……
――……確かに……あの時……
胸の穴の光が、弱まる。
だが――完全には消えない。
ティアが、低く言った。
「まだ……戻りきれない」
エリアスが剣を構え直す。
「なら……」
ルゥは、首を振った。
「……今は、ここまで」
影が、ゆっくりと後退する。
――……次に会う時……
――……答えを……持っていろ……
砂が、影を包み込み、
やがて――消えた。
砂漠に残ったのは、
重く、深い余韻だけだった。
エリアスが息を吐く。
「……あれが、中心か」
ティアは頷く。
「ええ。"名を急ぐ流れ"の、核」
ルゥは、胸の焔を確かめる。
揺れていない。
だが、確かに――次を示している。
(……もう、避けられない)




