第2章【第4話:火見の間と、空へ至る条件】
焔の里へ戻る道は、来たときよりも静かだった。
風は穏やかで、空も澄んでいる。
けれど三人とも、さきほど見た"空の歪み"を忘れてはいなかった。
見えなくなったからといって、消えたわけではない。
ただ、世界の奥に折り畳まれただけだ。
里の門をくぐると、鍛冶場の炎はすでに落ち着きを取り戻していた。
炉の前では見張りに立つ鍛冶師たちが、低い声で状況を確かめ合っている。
その中で、ガランが三人に気づき、短く頷いた。
「……空、見えたな」
ルゥは思わず目を見開いた。
「分かるの?」
「分かるさ」
ガランは炉の奥へ視線を向ける。
「炎が、さっきから"上"を意識してる。
昔も、同じ揺れがあった」
その言葉に、ティアが静かに反応した。
「……昔?」
ガランは少し考えるように顎に手を当てる。
「俺がまだ若かった頃だ。
長老が、里の奥で記録を開いたことがある」
エリアスが身を乗り出した。
「記録?」
「焔の里には、鍛冶の技だけじゃない。
炎がどこから来て、どこへ行くか――その記録も残ってる」
ガランは歩き出し、三人を里の奥へ導いた。
鍛冶場を抜け、普段は使われない石造りの小屋の前で足を止める。
扉には、煤に隠れた古い紋が刻まれていた。
「ここは"火見の間"。
長老しか入らん場所だが……今回は別だ」
中は薄暗く、壁一面に古い板や石片が並べられている。
そこには文字だけでなく、焔の形、空の図、風の流れが刻まれていた。
ティアが、壁の一角に近づいて息を呑む。
「……これ……」
そこには、空に浮かぶ島の図が描かれていた。
粗い線だが、塔で見たものと同じ輪郭だ。
「やっぱり……」
ルゥの胸の焔が、かすかに応える。
ガランはさらに奥の石板を指差した。
「空へ行く方法は一つじゃない。
だが、どの記録にも共通して書かれている"条件"がある」
エリアスが尋ねる。
「条件?」
ガランは、ゆっくりと指を折った。
「一つ。
地の焔が、自分の根を知っていること」
ルゥは息を呑んだ。
それは、ついさっき辿り着いた答えだった。
「二つ。
風が、道を拒まないこと」
ティアが静かに頷く。
「風は選ぶ。
準備のない者は、空に辿り着く前に迷わせる」
「そして三つ目」
ガランの声が、わずかに低くなる。
「剣が、空を敵と見なさないこと」
エリアスは無意識に剣の柄に触れた。
「……どういう意味だ?」
「空へ行くとき、
守るものと、切るものを間違えた剣は"落ちる"」
一瞬、沈黙が落ちた。
焔、風、剣。
三つの条件は偶然ではない。
それは、三人の在り方そのものだった。
ティアが、ゆっくり口を開く。
「……でも、それだけじゃ足りない」
ガランは頷いた。
「そうだ。最後の条件がある」
そして、ルゥを見る。
「名を求める覚悟が、三つとも揃っていること」
ルゥの胸が、静かに鳴った。
名。
まだ持たない名前。
けれど、確かに探しているもの。
エリアスは短く息を吐く。
「行くって決めるだけじゃ、足りないってことか」
「そうだ」
ガランは石板をそっと叩いた。
「空は逃げ場じゃない。
真実から目を逸らす者は、入れん」
ティアがルゥを見る。
「だから……今は、まだ完全には開かなかった」
ルゥは、ゆっくり頷いた。
焔は根を知った。
風は道を感じている。
剣も、向きを迷いながらも拒んではいない。
だが――
名を受け取る準備は、まだ途中だ。
ガランは最後に言った。
「焦るな。空は逃げん。
だが、準備のない者を待つほど、優しくもない」
三人は顔を見合わせた。
空へ行く条件は明確になった。
同時に、それは次の旅の指針でもあった。
焔の里を出る理由。
戻る意味。
そして進む順番。
ルゥは胸の焔に問いかける。
(……次は、何を確かめる?)
焔は答えない。
だが、向きだけははっきりと示していた。
空へ至る前に――
まだ、歩くべき場所がある。
火見の間を出たあと、三人は里の外れへ向かった。
夜気が下り始め、焔の里の灯が一つ、また一つと浮かび上がっていく。
山肌に沿って並ぶ灯は、遠くから見ると星のようだった。
けれど空にある星と違い、それらは確かに「人の手」で守られている炎だ。
その光を背に、エリアスがふと足を止めた。
「……少し、話していいか」
ルゥとティアは振り返る。
エリアスは剣の柄に手を置いたまま、空を見上げていた。
「さっき言われた"剣が空を敵と見なさないこと"……
あれ、心当たりがある」
ルゥは何も言わず、続きを待った。
ティアも風を静め、耳を澄ませる。
エリアスは、ゆっくりと息を吐いた。
「俺がまだ小さかった頃だ。
剣の修行を始める前の話」
焔の里から少し離れた、山裾の草地。
空がひらけ、雲の流れがよく見える場所だったという。
「雷鳴石の谷に行く前……
俺は、剣を持つ意味が分からなかった」
父親から渡されたのは、まだ鞘にも収まらないほど歪な刃だった。
切れ味も悪く、重さだけが手に残る。
「守るためだって言われても、
何を、どう守ればいいのか分からなかった」
ある日、ひとりで山に入り、
雲の影が落ちる草地で、ただ剣を振っていた。
「その時だ」
空が、不自然に静まった。
風が止まり、鳥の声が消え、
まるで世界が息を止めたような瞬間。
ティアが、小さく息を呑む。
「……"空が見る"前触れ」
エリアスは頷いた。
「雲が裂けて、
そこから"光"が落ちてきた」
火でも雷でもない。
熱も音もないのに、
確かに"圧"だけがあった。
「俺は反射的に剣を構えた」
守るものも、敵も分からないまま。
ただ、何かが来ると思った。
「でも……」
エリアスの声が、少し低くなる。
「剣が、動かなかった」
柄を握っているのに、
振ろうとしても、刃が応えない。
代わりに剣は――
空へ、わずかに傾いた。
「……迎える、みたいに」
ルゥの胸の焔が、かすかに揺れた。
「空から落ちてきた光は、俺の目の前で止まった」
触れれば消えそうな、淡い光。
だが、恐怖はなかった。
「その時、聞こえたんだ」
耳ではない。
胸の奥に、直接。
――剣よ、問え
――切るか、支えるか
エリアスは震える息を吐いた。
「俺は……答えられなかった」
切る理由も、
支える理由も、
どちらも分からなかった。
「だから、剣は動かなかったんだと思う」
光は、やがて空へ戻っていった。
何も壊れず、何も残さず。
ただ、剣だけが――
その日から、少しだけ変わった。
エリアスは剣を抜き、月明かりに刃を晒した。
「切れ味が増したわけじゃない。重さも変わらない」
でも、と彼は続ける。
「この剣は、"空を敵として見ていない"」
ティアが、静かに言った。
「だから……空は、剣を拒まなかった」
エリアスは剣を収めた。
「俺は、ずっとその意味を考えてた。
剣は振るためのものだって、思い込んでたから」
ルゥは、そっと口を開いた。
「……剣は、答えるためのものでもあるんだね」
エリアスは驚いたように彼女を見て、
それから小さく笑った。
「そうかもしれない」
ティアは、風を一筋だけ起こした。
それは冷たくも強くもない、空へ向かう細い流れだった。
「空はね、力を試す相手じゃない」
彼女は静かに続ける。
「問いを投げた者に、同じ問いを返す場所」
ルゥは胸の焔に手を当てた。
焔は切らない。
風は縛らない。
剣は拒まない。
三つが揃ったとき、
空は――初めて道になる。
エリアスは、最後に言った。
「だから俺は、行く。
切るためじゃなく、答えるために」
ルゥは頷いた。
ティアも、風を整える。
その夜、焔の里は静かすぎるほど静かだった。
風はある。
焔もある。
けれど、どこか"余白"が残っているような気配が、
里全体に漂っていた。
ルゥは眠れず、寝台の上で天井を見つめていた。
胸の焔は穏やかだが、消えてはいない。
揺れない代わりに、
奥のほうで、かすかな"引き"を感じていた。
(……呼ばれてる?)
問いかけた瞬間、焔が一度だけ、内側へ沈んだ。
視界が、ふっと暗転する。
――そして、空が開く。
音が、消えた。
重さが、ほどける。
身体の輪郭だけが、ゆっくりと薄れていく。
落ちているわけではない。浮いているわけでもない。
ただ、立つという感覚だけが消えていた。
次に目を開けたとき、ルゥは――
地面のない場所に立っていた。
下も上も分からない。
あるのは、果てのない空と、滞留する光。
空は青ではなかった。
黒でも、白でもない。
名を付ける前の色が、幾層にも重なって広がっている。
「……ここ……」
声を出したつもりだったが、
言葉は空気に触れる前にほどけた。
遠くに、島のような影が浮かんでいる。
塔で見た空の島に似ているが、どこか違う。
輪郭が定まらず、
焔も、風も、流れを失っていた。
その島へ向かって、無数の"声"が伸びている。
焔の声。
剣の声。
風の声。
だが、それらは問いではなかった。
――与えろ
――開け
――名をよこせ
要求だけが、空を叩いている。
ルゥは息を呑んだ。
(……これが……)
その瞬間、空が――動いた。
雲が裂けるのではない。
光が降りるのでもない。
ただ、空そのものが一歩、退いた。
拒む音はしない。
怒りもない。
けれど、確かにそこには「距離」が生まれた。
伸ばされた声は、空に触れる前にほどけ、
焔は制御を失い、
剣は振るわれる先をなくし、
風は行き場を失って渦を巻く。
島が、崩れ始めた。
焔は暴れ、
風は引き裂かれ、
剣の気配は、宙で折れていく。
「やめて……!」
ルゥが叫ぶ。
だが声は届かない。
島の中心で、ひとつの焔が暴れていた。
大きく、強く、眩しい。
けれど――足元がない。
支えるものを持たず、
どこにも根を下ろせず、
ただ燃えることしか知らない焔。
それは、泣いているように見えた。
(……足元を……知らない……)
その瞬間、ルゥの胸の焔が、強く脈打った。
焔が、彼女を前へ押し出す。
「……違う……」
ルゥは、一歩踏み出した。
地面はない。
けれど、彼女は落ちなかった。
胸の焔が、足元を照らす。
「空は……答えを奪わない」
ルゥは、島の焔を見つめる。
「問いを持たない声には……応えないだけなんだ」
その言葉と同時に、
彼女の足元に、かすかな光が生まれた。
小さな、炉のような形。
焔の里で見た、あの根の感覚。
岩に囲まれ、
人の手で守られ、
静かに呼吸していた場所。
空が、再び動く。
今度は退かない。
近づきもしない。
ただ――見ている。
島の焔が、ルゥに気づいた。
――……おまえは……
声は、まだ名を持たない。
「私は……まだ名を持たない」
ルゥは、正直に答えた。
「でも、足元はある」
焔の里。
守った焔。
戻る場所。
空が、わずかに"緩む"。
拒絶ではない。
許可でもない。
――歩け
ただ、それだけが響いた。
島の焔が、揺れた。
暴れる焔が、
初めて"下"を見る。
足元のない焔に、
ルゥの足元の光が映る。
小さな炉。
未完成で、
けれど確かな根。
島の焔が、震えながら声を落とす。
――……名を……急いだ……
その瞬間、
島の崩れが、止まった。
完全には戻らない。
歪みも残る。
だが、落ちることはなくなった。
ルゥの胸の焔が、静かに応える。
「……歩いてからでいい」
空が、何も言わずに見ている。
それ以上、何も起こらなかった。
次の瞬間、視界が砕ける。
音が戻り、
重さが戻り、
息が胸に詰まる。
ルゥは、寝台の上で身を起こした。
夜の闇。
焔の里の天井。
胸の焔は、はっきりと燃えている。
恐れはなかった。
焦りもなかった。
(……空は、拒んだんじゃない)
ルゥは静かに理解する。
("立てない場所"を、映さなかっただけ)
夜明け前の風が、窓を鳴らした。
遠くで、エリアスの剣が微かに鳴る。
ティアの風が、静かに巡る。
三人は、同じものを感じていた。
空は、まだ先にある。
けれど、もう閉じてはいない。
焔は、名を急がない。
足元を知ったまま、歩き続ける。
夜明け前の焔の里は、音を立てずに息をしていた。
炉の炎はすべて落ち着き、
鍛冶場にはもう金槌の音もない。
けれど、完全な静寂ではなかった。
炎が、里の奥で"考えている"気配だけが残っている。
ルゥは寝台を降り、裸足のまま床に立った。
冷たいはずの石が、今日はなぜか温かい。
胸の焔が、微かに揺れている。
強くもなく、弱くもなく、
ただ「こちらだ」と向きを示すような揺れ方。
(……呼ばれてる)
それは空からではない。
根の炉からでもない。
もっと近い。
もっと――自分の内側に近い場所。
ルゥは外套を羽織り、
音を立てないよう扉を開けた。
夜と朝の境目。
空はまだ暗く、星が薄く残っている。
里の外れへ続く道を歩くうちに、
焔は次第に、はっきりと一点を指し始めた。
そこは、里の北側。
使われなくなった古い炉の跡地だった。
石組みは崩れ、
炉床は土に埋もれ、
今では誰も近づかない場所。
けれど、ルゥの焔は、そこへ向かっていた。
「……ここ?」
声に出した瞬間、
焔が一度、強く脈打った。
古炉の中央に、ひび割れた石が残っている。
その表面に、うっすらと刻まれた紋。
焔の里の紋ではない。
語り部の都の紋でもない。
もっと古い。
言葉になる前の、形。
ルゥは、膝をついた。
石に触れた瞬間、
焔が――沈んだ。
燃えるのではない。
消えるのでもない。
深く、深く、
自分の奥へ降りていく。
視界が、揺らぐ。
世界が裏返るような感覚のあと、
ルゥは"記憶"の中に立っていた。
それは、焔の里ではなかった。
もっと昔。
もっと静かな場所。
炉がある。
だが、まだ焔は灯っていない。
周囲には人影がない。
あるのは、石と、土と、空。
その中央に、小さな子どもが座っている。
背丈は、ルゥよりもずっと小さい。
髪の色も、顔立ちも、はっきりしない。
ただ――
胸に、小さな焔を抱えている。
子どもは、炎を見つめていた。
燃やすためでも、
照らすためでもない。
"そこにあるもの"として。
――……まだ、名はない……
声が、どこからともなく響く。
空の声でもない。
火霊の声でもない。
もっと近い。
自分自身の声に、よく似ている。
――……名は、後でいい……
子どもが、焔を胸に押し当てる。
その瞬間、
焔が、石の上に影を落とした。
影は、文字ではない。
けれど、確かに"形"を持っていた。
ルゥは、息を呑む。
(……これ……)
それは、完全な名ではなかった。
呼べば応じるほど、固まっていない。
けれど――
"焔が何であろうとしているか"を示す、最初の輪郭。
――……守るために、灯る……
――……進むために、消えない……
言葉にならない声が、
焔の中に沈んでいく。
次の瞬間、
記憶がほどける。
ルゥは、古炉の前で目を開けた。
朝の気配が、空に滲み始めている。
胸の焔は、変わっていない。
だが――重さが増していた。
軽くなったのではない。
"芯"が生まれたのだ。
「……これが……」
ルゥは、胸に手を当てる。
「真名の……欠片……」
完全な名ではない。
呼べば世界が応えるほどの力もない。
けれど、確かに――
焔は、自分が何であろうとしているかを、思い出し始めていた。
背後で、足音がする。
振り返ると、
エリアスとティアが立っていた。
「やっぱり、ここか」
エリアスが言う。
ティアは、風を静めたまま、ルゥを見る。
「……見つけたのね」
ルゥは、頷いた。
「うん。まだ全部じゃないけど……
"最初の形"みたいなもの」
ティアは微笑む。
「それでいい。
名は、集めるものじゃない。
歩きながら、育つものだから」
エリアスは剣に手を置いた。
「じゃあ……次は?」
ルゥは、空を見上げた。
まだ道は開いていない。
けれど、もう拒まれてはいない。
「次は、この焔が"誰のために灯るか"を、
確かめに行く」
焔が、静かに応えた。
三人は、顔を見合わせる。
焔の里の朝が、ゆっくりと始まる。
真名は、まだ遠い。
けれど、最初の欠片は――
確かに、ルゥの中に宿った。
そして旅は、
"名を探す旅"から、
"名を育てる旅"へと、静かに姿を変えていった。




