第2章【第3話:焔が道になるとき】
影が消えてから、しばらく誰も動けなかった。
通路の奥は静まり返っている。
焔の気配も、風の揺れも、まるで一度すべてが
「息を潜めた」かのようだった。
エリアスが、低く息を吐く。
「……行った、よな」
ティアは頷いたが、その表情は硬い。
「ええ。でも、去ったとは違う。
ただ、今は干渉しないって決めただけのよう」
ルゥは答えなかった。
胸の奥にあった焔が――
ない。
正確には、消えたわけじゃない。
けれど、いつもそこにあった"熱の輪郭"が、きれいに抜け落ちている。
(……え……?)
驚くほど、静かだった。
怖くはない。
焦りも、ない。
ただ、胸の中が"空洞"になったような感覚。
ルゥは無意識に、自分の胸に手を当てた。
「……ルゥ?」
エリアスの声が、少し近くなる。
「焔が……ない」
言葉にした瞬間、ようやく実感が追いついた。
「灯らない。揺れない。
あるはずの場所に……何もない」
エリアスが顔色を変える。
「消えたのか!?」
「違う」
答えたのは、ティアだった。
彼女はルゥをじっと見つめ、耳ではなく、風で確かめるように周囲を探っている。
「消えてない。
ただ……"形を変えた"みたい。」
次の瞬間だった。
通路の天井近く、岩壁の隙間から――
光ではないものが、ふわりと落ちてきた。
焔じゃない。
煙でもない。
それは、温度のない揺らぎだった。
空気が、わずかに歪む。
目で見えるのに、焦点が合わない。
ルゥは、息を呑んだ。
(……これ……)
それは、焔の代わりに"場"を満たしている。
燃えない。
照らさない。
だが、確かに存在している。
ティアが、震える声で言った。
「……焔が、"風と記憶の層"に溶け込んでる」
エリアスが眉をひそめる。
「どういうことだ」
ティアは、ゆっくり言葉を選んだ。
「今までの焔は、"力"としてそこにあった。
でも今は……」
彼女は、通路の先を見た。
「焔が、"道そのもの"になってる」
その瞬間、通路が変わった。
岩壁に刻まれていた紋が、ひとつずつ浮かび上がる。
光るのではない。
"思い出される"ように、輪郭が戻っていく。
足元に、かすかな段差が現れた。
踏める。
だが、触れれば消えそうな、頼りない道。
エリアスが、試すように一歩踏み出す。
「……大丈夫だ」
その足元で、紋が静かに応えた。
ルゥの胸が、微かに震える。
(……私の焔……)
ここにある。
燃えていないのに、確かに"私だ"と分かる。
「……焔が、私の外に出た」
言葉にすると、不思議と納得できた。
ティアは頷く。
「自分を守るためじゃない。
あなたたちを、先へ進ませるため」
エリアスが、低く笑った。
「随分、頼もしい焔だな」
ルゥは、苦笑した。
「……勝手だよね」
でも、その"勝手さ"が、今は少し誇らしい。
通路の奥で、風が静かに流れ始める。
それに合わせて、足元の道が、少しだけはっきりする。
「行ける」
ルゥは、そう確信した。
「焔が言ってる。
"今は、灯らなくていい"って」
エリアスが剣を背に回す。
「じゃあ、導いてもらおうか」
ティアが最後に、通路の闇を振り返った。
「……さっきの存在、これを見て引いたのね」
ルゥは頷く。
「焔が"使えない"って、こういうことなんだと思う」
力にならない。
武器にならない。
ただ......
進む理由だけを、静かに示す焔。
三人は、歩き出した。
焔は燃えない。
だが、確かにここにある。
形を失った焔は、
今、世界の奥へ踏み込むための"鍵"になっていた。
通路を進むごとに、足元の紋は次第に薄くなっていった。
焔が"道"として存在できる範囲が、少しずつ縮んでいるのが分かる。
(……長くは、もたない)
ルゥは胸の奥でそう悟った。
進めている。
確かに前には進めている。
けれど、代わりに何かが削られている感覚があった。
「……ルゥ」
ティアが、ふと足を止める。
「焔が……戻ろうとしてる」
その言葉に、ルゥの胸がきゅっと締まった。
次の瞬間だった。
胸の奥で、焔が再び灯ろうとする。
だがそれは、いつものように温かく広がる焔ではない。
引き裂くような痛みを伴って、無理やり戻ろうとする焔。
「……っ」
ルゥは思わず膝をついた。
エリアスがすぐに駆け寄る。
「無理するな!」
「違う……焔が……」
息がうまく吸えない。
焔が戻る。
けれど、それは"元の場所"を探して暴れている。
ティアが叫ぶ。
「選択を迫られてる……!
焔を"力"として戻すか、それとも……」
言葉が途切れた。
通路の奥が、崩れ始めていた。
焔が道である限り、進める。
だが、焔が戻ればこの道は消える。
エリアスが歯を食いしばる。
「ルゥ……!」
ルゥは、震える手で胸を押さえた。
(……戻ってきて)
焔は応える。
だが、その応えは、代価を伴う。
焔が囁く。
――……戻るなら……手放せ……
(……なにを?)
答えは、すぐに来た。
胸の奥に、ひとつの感覚が浮かび上がる。
今まで当たり前のように持っていたもの。
気づかないほど、自然だったもの。
――……「焔を感じ取る力」……
ルゥは、息を呑んだ。
(……それを、失う?)
焔は戻る。
だがその代わりに、自分の焔を"感じる感覚"を失う。
灯せる。
使える。
けれど......
もう、自分の焔が何を望んでいるのか、分からなくなる。
エリアスの声が、遠く聞こえる。
「何が起きてるんだ!」
ティアが、必死に言葉を絞り出す。
「焔は……戻れる。
でも……ルゥは、もう"自分の焔の声"を聞けなくなる」
一瞬の沈黙。
通路の崩壊が、すぐそこまで迫っていた。
ルゥは、ゆっくりと顔を上げた。
怖かった。
正直に言えば、震えるほど。
けれど
焔の里で知ったことが、胸に残っている。
(……焔は、力じゃない)
(……向き、だった)
ルゥは、微笑った。
「……いいよ」
エリアスが叫ぶ。
「ルゥ!」
「大丈夫」
ルゥは、はっきり言った。
「焔を感じられなくなっても……
進む方向を、間違えなければいい」
胸の奥で、焔が一瞬、強く揺れた。
――……了承……
その瞬間。
焔が戻った。
熱が、胸いっぱいに広がる。
いつもの焔。
確かな力。
だが同時に
何かが、すっと抜け落ちた。
静かだった。
焔は燃えている。
けれど、声がしない。
(……あ……)
今まで、当たり前のように感じていた
「焔が喜んでいる」「焔が拒んでいる」
その微細な感覚が、完全に消えていた。
ティアが、そっと呟く。
「……本当に、行ったわね」
ルゥは、立ち上がった。
足は、しっかり地についている。
焔も、応えている。
でも
もう、内側から導かれることはない。
エリアスが、強く拳を握った。
「……なら、俺が見る」
ルゥは驚いて彼を見る。
エリアスは、真っ直ぐ前を向いた。
「焔が迷ったら、俺が止める。
風が乱れたら、ティアが読む。だから……」
彼は振り返り、笑った。
「一人で背負うな」
ティアも、静かに頷いた。
「焔の声が消えたなら、私たちが"外側"になる」
ルゥの胸が、じんと熱くなった。
(……これが、私の選んだ代価)
焔は戻った。
だが、もう独りでは歩けない。
それでも不思議と後悔はなかった。
三人は、再び歩き出す。
焔は燃えている。
だが、今はただの力だ。
その力に、意味を与えるのは仲間の声。
焔の物語は、ここから少しだけ形を変える。
「感じる焔」から、
「選び取る焔」へ。
そしてこの選択は、
後に"真名"へ至るための、
決定的な分岐点となる。
焔は、確かに戻っていた。
胸の奥で力として脈打ち、必要とあらば即座に応じる。
けれどそれは、言うことを聞く焔ではなかった。
通路を抜け、外気が肌に触れた瞬間だった。
ルゥの胸の焔が、一拍遅れて強く跳ね上がる。
「……っ!」
視界の端が白く染まり、空気が歪む。
焔が"外へ出よう"とする。
だがそれは、以前のような自然な広がりではない。
行き場を失った力が、噴き出そうとしている。
「ルゥ、止めろ!」
エリアスの声が飛ぶ。
だが、止め方が分からない。
(……違う……前は……)
前は、焔に触れれば分かった。
焔が何を嫌がり、どこまでなら許すのか。
けれど今は何も返ってこない。
焔はただ、力として暴れ始めていた。
地面の紋が弾け、砂と石が宙に浮く。
熱が走り、周囲の空気が焼ける音を立てる。
ティアがすぐに風を張った。
「ルゥ! 焔を"抑えよう"としないで!」
「……え?」
「抑えると、余計に反発する!」
焔がさらに跳ねる。
力が、制御を拒んでいる。
(……どうすれば……)
その瞬間、ルゥの脳裏に浮かんだのは、
鍛冶場の炉だった。
火を押さえつけるな。
閉じ込めるな。
ただ枠を決めろ。
ガランの声が、記憶の奥で響く。
火は、器で決まる。
ルゥは、息を吸った。
焔を感じられないなら、
感じようとするのを、やめる。
代わりに、決める。
「……ここまで」
小さく、しかしはっきりと呟く。
胸の前に手を置き、焔に"触れない"。
命じない。
願わない。
ただ、境界を示す。
「ここから先は……行かない」
焔が、ぶつかる。
だが、その"枠"に。
力が、暴れながらも形を探す。
エリアスが息を呑む。
「……収まってきてる……?」
ティアが目を見開いた。
「違う……"抑えた"んじゃない……
焔が、居場所を見つけた」
焔は、なおも強い。
だが、外へ溢れない。
炉の中で燃える炎のように、
決められた形の中でだけ、燃えている。
ルゥは、肩で息をした。
汗が頬を伝う。
胸の奥は、熱いままだ。
でも焔は、応じている。
(……これが……制御……)
感じ取れなくても、
焔の声が聞こえなくても。
選んで、枠を与えれば、焔は従う。
ティアが、静かに言った。
「……今のは、鍛冶師のやり方よ」
ルゥは、少しだけ笑った。
「……そうかも」
エリアスが肩をすくめる。
「感覚がなくても、やれるってことか」
「うん……でも」
ルゥは、胸の焔を確かめる。
制御できた。
けれど、余裕はない。
一歩間違えれば、再び暴れる。
(……一人じゃ、無理だ)
その思いが、はっきりと形になる。
ルゥは顔を上げた。
「……お願いがある」
エリアスとティアが、同時にこちらを見る。
「焔が逸れそうになったら……教えてほしい。
止める"合図"を」
エリアスは、即座に頷いた。
「剣が震えたら言う。
近づきすぎたら、引き戻す」
ティアも、風をそっと寄せる。
「流れが乱れたら、必ず知らせる。
あなたの代わりに、読む」
ルゥの胸が、じんわりと温かくなる。
焔は、もう独りで灯るものじゃない。
支え合って、保つ焔だ。
三人は、再び歩き出す。
焔は強い。
だが今は、選ばれた形で燃えている。
――感じる焔ではない。
――だが、迷わない焔。
歩き出してしばらくは、何事も起きなかった。
山道を下り、谷を抜け、焔の里を囲む岩肌が遠ざかっていく。
朝と夜の境目のような薄い光の中で、世界は静かだった。
けれど静かすぎた。
最初に異変に気づいたのは、ティアだった。
彼女はふと足を止め、風に耳を澄ませる。
その表情が、ほんのわずかに強張った。
「……おかしい」
エリアスが振り返る。
「何が?」
ティアは答えず、空を見上げた。
ルゥもつられて視線を上げる。
雲が、動いていない。
正確には、動いているはずなのに、
同じ形を保ったまま留まっている。
「風が……上に行かない」
ティアの声が低くなる。
「流れてるのに、循環してない。
まるで……空に"溜まってる"」
その言葉と同時に、
ルゥの胸の焔が、微かに引かれる感覚を覚えた。
引っ張られる、というより、
呼び水に触れたような、静かな誘い。
(……上……?)
次の瞬間だった。
谷の奥で、空気が震えた。
音はない。
だが、視界の奥で光が歪む。
陽の光でも、焔でもない。
透明に近い輝きが、空の一点に集まり始める。
エリアスが目を細めた。
「……あれ……何だ?」
空の裂け目だった。
割れたわけではない。
切れ目でもない。
ただ、空が"重なっている"。
遠近が狂い、距離感が失われ、
その中心に――島影が浮かび上がる。
輪郭はまだ曖昧だ。
だが、確かにそこに「地形」がある。
岩の縁。
段差。
そして――細く巡る、光の線。
「……塔で見た……」
ルゥの声が、無意識にこぼれた。
ティアが、はっきりと頷く。
「間違いない。
これは……"空の層"が近づいてる」
エリアスが息を呑む。
「近づく……?空が、下りてくるのか?」
「正確には逆よ」
ティアは、ルゥを見る。
「呼ばれたものに、空が応えてる」
その瞬間、
ルゥの胸の焔が、淡い蒼を含んで揺れた。
強くはない。
だが、確実に向きを持っている。
(……まだ、行くなって言われたのに……)
その思いに応えるように、
空の歪みはそれ以上広がらなかった。
島影も、完全には現れない。
ただ――
見せただけ。
エリアスが静かに言う。
「……前兆、ってやつか」
ティアは小さく息を吐いた。
「ええ。門じゃない。招待状でもない。」
視線を空から外し、ルゥを見る。
「"準備は始まった"っていう、合図なのかも」
ルゥは胸に手を当てる。
焔は、暴れていない。
だが、確かにそこへ向かう回路を作り始めている。
(……まだ、名はない)
でも足元は、
もう空に繋がっている。
空の歪みは、やがてゆっくりと薄れ、
雲は再び流れを取り戻した。
まるで、何事もなかったかのように。
エリアスが、深く息を吐く。
「……今すぐ行く話じゃないな」
「ええ」
ティアは頷く。
「でも、遠くない。
焔と風と……剣が揃った時、
空はもう一度、ちゃんと開く」
ルゥは、最後にもう一度だけ空を見上げた。
見えない。
けれど、知ってしまった。
空は、ただ高い場所じゃない。
焔が、記憶が、名を求めた先にある次の層だ。
ルゥは、小さく息を吸う。
「……行く前に」
エリアスとティアが、同時にこちらを見る。
「ちゃんと、里に戻ろう。
話して、準備して……それから、行きたい。」
二人は、迷わず頷いた。
三人は再び歩き出す。
空はまだ遠い。
だが、もう隠れてはいない。
焔は、足元を知り――
次は、空を見上げ始めた。




