序章【第2話:揺らぐ焔、さざめく記憶】
朝日が山の稜線を淡い黄金色に照らし始めるころ、焔の里はまだ、深い眠りの中にあった。
鍛冶の音が響く前の静けさは、里全体を神秘的な雰囲気に包み込んでいる。
村の外れにある小高い岩場に、ひとりの少女がいた。ルゥのその燃えるような赤髪は、夜明けの光を受けてかすかに輝いていた。
昨日の「焔の祭り」の余韻はまだ村に漂っていたが、ルゥの胸の内は、その祭りで起きたある出来事によって、ざわついたままだった。
村人たちの間に広がった「異質」というざわめきが、未だ彼女の心に重くのしかかっていたのだ。
足元には、村の長老であるガランから譲られた古い鍛冶槌が置かれていた。
その槌は、長年使い込まれて柄はすり減り、金属部分は鈍い光を放っている。
そしてその隣には、昨夜、長老から祝福の証として渡されたばかりの、手のひらサイズの小さな黒鉄の塊があった。
表面はざらつき、不何の変哲もないただの鉄の塊に見える。だが、長老は微笑んで言った。
「お前の火で、目覚めさせてみるがよい。火を通せば、この鉄には古き紋様が浮かび上がり、お主の火が特別なものであることを教えてくれるじゃろう」
彼の言葉には、ルゥの力を信じる、揺るぎない確信が込められていた。
しかし、ルゥにはまだ自分の火が、長老の言うように特別なものなのか、それとも、村人が恐れるような異質なものなのか、判断がつかなかった。
その両極端な感情が、彼女の心を常に揺さぶっていた。
ルゥは、冷たい岩肌に手を置き、深く息を吐いた。
意識を手のひらに集中させ、内なる火に語りかけるように、心の中でそっと呟く。
「お願い、私の火……。少しでいいから、あの時みたいに、私に力を貸して……」
彼女の額には、微かな汗がにじんでいた。
まるで、自分の存在意義を問いかけるかのように、その鉄の塊を見つめる。
次の瞬間、ルゥの指先からふわりと、温かく柔らかな赤い光が漏れ出た。
それは、まるで花が咲くように、あるいはゆっくりと開く蕾のように、次第にその輝きを増していく。
その光は、迷うことなく黒鉄の塊へと吸い寄せられ、静かに塊全体を炎が纏い始めた。
炎は激しく燃え盛るのではなく、まるで鉄を優しく撫でるかのように、静かに、しかし確実にその表面をなぞっていく。
すると、見る見るうちに、古びた、しかし精緻な紋様が、鉄の表面に淡い光を放ちながら浮かび上がってきた。
その紋様は、彼女の胸元のペンダントに刻まれたものとよく似ていた。
ルゥの瞳は、その神秘的な光景に釘付けになった。
「……やっぱり、私の火は、変だ」
ルゥは、その現象を目の当たりにしながらも、小さく呟いた。その声には、驚きと、どこか諦めにも似た感情が混じっていた。
自分でも説明できない火の性質。
熱を放つだけでなく、どこか"記憶"のような何かに触れる感覚がある。
それは、まるで炎そのものが、遥か昔の出来事を語りかけてくるかのようだった。
焔に触れるたび、心の奥に眠る誰かの声が、遠くから呼びかけるように揺らめく気がして、ルゥはぞっとした。
それは、彼女自身の記憶ではない。
しかし、確かに彼女の魂の奥底に触れるような、不思議な感覚だった。
――ルゥ、どうして泣いているの?
耳元で誰かが囁くような、そんな幻聴が一瞬だけ彼女を貫いた。その声は、優しく、しかしどこか悲しみを帯びていた。
まるで、ルゥの知らない場所で、誰かが彼女のことを心配しているかのような声だった。
「誰……?」
ルゥは思わず振り返った。
しかし、そこにいるのは、澄み切った朝の空気と、岩場を吹き抜けていくだけの風。
広がるのは、雄大な山々の景色だけだった。
人の気配はどこにもない。
心臓の鼓動が早まるのを感じながら、ルゥは再び目の前の黒鉄の塊に目を落とした。
紋様はまだ輝いているが、その光は、さっきまでの神秘的な輝きを失い、ただの光に戻っていた。
焔を消し、ルゥは疲れたように腰を下ろした。
岩場から遠くに見える里の家々からは、朝の支度に忙しく動く人々の姿が見えた。
白い煙が立ちのぼる煙突からは、パンを焼く香ばしい匂いが風に乗って運ばれてくる。
村の小川からは、洗濯をする女性たちの楽しそうな話し声と、水の音が聞こえる。
そして、里の中心部からは、鍛冶場の金槌が鉄床を叩く、規則正しい音が響いてくる。
そのすべてが、いつもと変わらぬ平穏な一日のはずだった。
だが、その平穏の中に、ルゥはいつも異物のように感じていた。
自分の火が持つ特別な力は、里の誰とも共有できないものだった。
里の人々は彼女の力を「畏怖」あるいは「恐れ」の目で見ており、それがルゥを孤立させていた。
彼女は、この里に生まれ育ったにも関わらず、どこか居場所がないような感覚に囚われていたのだ。
「おーい、ルゥ!」
聞き慣れた、少し野太い声にルゥは振り返った。
里の幼なじみである少年、キルが、息を切らしながら岩場を駆け上がってきた。
彼の頬は、走ってきたせいで赤く染まっている。
キルは、ルゥとは正反対に、里の伝統を重んじるタイプの少年だった。
「おまえまたこんなとこでひとりで火遊びかよ。祭りの片付け手伝えって、母ちゃんが言ってたぞ。長老も、おまえがいなくて心配してたぞ」
キルの声には、呆れと、少しばかりの心配が混じっていた。
彼は、ルゥの特別な火の力を、ただ「火遊び」としか認識していなかった。
「火遊びじゃない。訓練だよ」
ルゥはむっとした表情で言い返した。
「訓練って、そんなことして何になるんだよ。それより、祭りの手伝いだろ。そんな火……誰にも見せたらだめって、長老も言ってたろ?あの火……なんか怖いしさ」
キルの言葉は悪気がなかった。
彼は純粋に、ルゥの特別な火の力を理解できず、恐れているだけなのだ。
それでもルゥは胸に小さな棘を感じた。
その言葉は、彼女の心の奥深くに、再び孤独の感情を呼び起こす。
「……ごめん。あとで行くから、キルは先に戻ってて」
ルゥは、キルの顔を直視できず、俯いて答えた。
「ほんとに来いよ。でないと、パン分けてもらえないからな。今日の朝食は焼きたてのパンだぞ!」
キルはふてくされたように言い残し、ルゥが返事をするのを待たずに、岩場を駆け下りて村へと戻っていった。
彼の足音は、あっという間に遠ざかっていった。
ひとり残されたルゥは、ふうと短く息を吐いた。
キルの言葉が、彼女の耳にこだまする。
あの火を他人に見せると、必ず誰かが戸惑う。
彼女自身、まだその力の正体をつかみきれていなかった。その力が、里の人々に受け入れられない原因となっていることに、彼女は深い悲しみを感じていた。
(もし、私の火が誰かを傷つけたら……)
そんな不安が、胸の奥で燻っていた。
彼女は、自分の力が、いつか里に災いをもたらすのではないかと、漠然とした恐怖を抱いていた。
日が高くなると、ルゥは村に戻り、祭りの片付けを手伝った。
里の中心広場では、まだ祭りの名残がそこかしこに見られた。
子どもたちが飾り付けの残骸で遊び、大人たちが協力して大きな炉の周りを掃除している。
ルゥは黙々と作業をこなしながら、時折、他の里人たちの視線を感じた。
それは、好奇と警戒が入り混じった視線だったが、以前ほど彼女を苦しめるものではなかった。
片付けの合間に、ルゥは隣の家の老婆に頼まれていた小さな装飾具を届けた。
それは昨日、彼女が即席で作った真鍮のペンダント。
村で取れる真鍮を繊細に加工し、小鳥の羽を模した優美な意匠が施されていた。
光に当たると、真鍮特有の鈍い輝きを放ち、まるで本物の羽根のように軽やかだった。
老婆は、顔いっぱいに皺を寄せてルゥを迎え入れた。その目は、温かく、そして慈愛に満ちていた。
「おお、ルゥや。わざわざ届けに来てくれたのかい。本当に器用な子じゃよ、おぬしは」
老婆はペンダントを手に取り、まじまじと見つめた。その指先が、羽根の繊細な彫刻をそっと撫でる。
「この火は、不思議じゃが……なんとも優しい火じゃな。このペンダントには、おぬしの温かい心が宿っておる。ありがとう、ルゥや」
その言葉に、ルゥは少しだけ胸をなでおろした。
怖がる者ばかりではない。
自分の火が、誰かに喜びを与え、理解してくれる人も、きっといる。
老婆の優しい言葉は、キルの言葉で傷ついたルゥの心を、静かに癒してくれた。
彼女は、自分の火の持つ意味について、新たな視点を得たようだった。
自分の火は、破壊の力だけでなく、創造し、癒す力も持っているのだと。
夕方、空が茜色に染まるころ、村の外れの木陰でルゥはふたたびひとり座っていた。
遠くの山々が、夕焼けの光を受けて燃えるように輝いている。
風が木々の葉を揺らし、心地よい音を立てている。
小さな焚き火を前に、ルゥは炎を見つめる。
パチパチと薪がはぜる音が、静かな夜に響き渡る。
彼女の心は、老婆の言葉で少しだけ軽くなったものの、まだ完全に不安が消え去ったわけではなかった。
そのときだった。
――ルゥ……目覚めの時が近い。
また、誰かの声。
今度は確かに、耳元で囁くような、けれどどこか懐かしく、あたたかい声だった。
それは、これまで聞いたどの声よりも明瞭で、ルゥの魂の奥底に直接語りかけるようだった。
声は、決して脅かすものではなく、むしろ、彼女を優しく導くかのように響いた。
「誰なの……?あなたは、私の火と関係があるの……?」
ルゥは、思わず声に出して問いかけた。
焚き火の炎が一瞬だけ、青白く瞬いた。
まるで、その問いに応えるかのように。
青白い炎は、まるで精霊の姿を幻視させるような、神秘的な輝きを放っていた。
そして、その炎の奥から、遥か彼方の風景が、一瞬だけルゥの脳裏にフラッシュバックした。
それは、彼女が見たことのない、しかしどこか懐かしさを感じるような、広大な遺跡のような場所だった。
そして、風が吹いた。
その風は、南の方角から、まだ見ぬ予感を含んだ風だった。
その風は、ルゥの赤髪を優しく撫で、彼女の心の奥に、言葉にならない衝動が広がっていくのを感じさせた。
それは、この村に留まっていてはいけない、という本能的な感覚だった。
(私の火は、どこから来たの?あの声は、いったい何を伝えようとしているの?)
問いの答えは、この村にはない。
ルゥはそう確信した。
彼女はまだ知らなかったが、その目覚めは、すぐそこまで来ていたのだった。
それは、彼女の秘めたる力が、今まさに解き放たれようとしていることを意味していた。
夜空には、満点の星が輝き、ルゥの旅立ちを静かに見守っているかのように思えた。
彼女は、自分の運命が、この広大な世界の中で、どのように紡がれていくのか、その答えを探し求めることを決意した。




