第2章【第2話:焔は灯らず、ここに在る】
通路の光が、ふっと弱まった。
進め、という気配は残っている。
だが先ほどまで確かに感じていた"空へ引かれる力"が、急に輪郭を失った。
ルゥは一歩踏み出そうとして、足を止めた。
(……?)
胸の奥が、妙に静かだ。
焔が消えたわけではない。
むしろ、そこに"在りすぎる"ような感覚だった。
熱も、脈も、いつも通りなのに、動かそうとすると応えが遅れる。
「……あれ?」
無意識に指先を立て、焔を呼ぶ。
いつもなら、息をするより早く灯るはずだった。
けれど――
ぱち、と小さな音がして、淡い火花が一つ散っただけだった。
「……?」
エリアスが、すぐに気づく。
「ルゥ?」
もう一度、呼ぶ。
今度は強く。
胸の奥で何かが詰まったような感触が走り、焔が立ち上がる。
だが、それはいつもの橙ではなかった。
淡い蒼が混じる。
いや、混じるというより均等に溶け合っている。
焔が、安定しない。
揺れているのではない。
形を決めかねている。
「……焔が……」
ルゥは思わず手を引いた。
怖いからではない。
自分の焔なのに、手応えが違う。
ティアが、静かに近づく。
「……変わったわね」
「え……?」
ティアは風を一筋、ルゥの焔に触れさせた。
いつもなら、焔が弾くか、抱くか、どちらかの反応を見せる。
だが今は違った。
焔は風を拒まない。
同時に、取り込もうともしない。
ただ、待っている。
「……選んでる」
ティアが低く言った。
「焔が、自分の"在り方"を」
エリアスが眉を寄せる。
「制御できてないってことか?」
ルゥは、首を振ることも、頷くこともできなかった。
「……分からない。
力が暴れてる感じじゃない。
でも……いつもみたいに、使えない」
胸の奥が、じわりと重くなる。
(……代償?)
空の記憶を見たから。
巡りを知ったから。
だから――
「……戻れ、って言われた理由……」
ぽつりとこぼれた声に、ティアが反応する。
「ええ。
焔が"次の段階"に触れたなら、
今までと同じ形じゃ、使えなくなる」
エリアスが一歩前に出る。
「それって……戦えない、ってことか?」
ティアは、すぐには答えなかった。
風が、慎重に言葉を選んでいる。
「戦えない、とは違う。
ただ...今までのやり方では、応えてくれない」
ルゥは唇を噛んだ。
焔は、彼女を拒んでいない。
見放してもいない。
ただ、前と同じ呼び方では振り向かなくなった。
「……私、間違えた?」
思わず出た言葉だった。
エリアスが、即座に否定する。
「違う」
強い声だった。
「間違えてたら、あんなもの見せられない。
焔が選んだんだろ」
ティアも、静かに頷く。
「ええ。
これは拒絶じゃない。"移行期"よ」
ルゥは、ゆっくりと息を整えた。
焔を出そう"とするのをやめる。
代わりに、焔がどう在りたいかを感じ取ろうとする。
胸の奥に、微かな感触があった。
これまでの焔は、
「灯す」「守る」「焼く」という答えをすぐに返してきた。
でも今は――
(……待ってる)
焔は、ルゥの"問い"を待っている。
何のために。
誰のために。
どこへ向かうのか。
答えを、先に決めてしまわないでほしい、と。
ルゥは、胸に手を当てた。
「……ごめん。
ちょっと……時間、ちょうだい」
焔が、微かに応えた。
揺れではなく、了承の温度。
エリアスは剣を収める。
「なら、俺が前に出る。今は守る役だ」
ティアも、風を広げる。
「焔が落ち着くまで、風が道を読む。
無理に進まなくていい」
ルゥは、二人を見て、ゆっくり頷いた。
(……一人じゃない)
焔は変わった。
でも、それは失ったのではない。
次へ進むために、一度ほどけただけだ。
通路の奥で、光がまた一度、瞬いた。
急かさない。
拒まない。
ただ、待っている。
焔が、自分の名前に近づく、その瞬間を。
通路の奥で、光がかすかに揺れた。
それは合図のようでもあり、警告のようでもあった。
ティアが風を探る前に、エリアスが足を止める。
「……来る」
低い声だった。
次の瞬間、足元の石が微かに鳴った。
岩壁の奥、焔の通路とは別の暗がりから、重たい擦過音が近づいてくる。
金属でも、獣でもない。
湿った石が擦れるような、不快な音。
「……何?」
ルゥが思わず問いかける。
焔は、反応しない。
正確には反応する前で止まっている。
ティアが一歩前に出た。
「記憶の残滓……。
塔の外に流れ出た"編み損ねた声"が、
形を持ってしまったもの」
言い終わる前に、それは姿を現した。
人の背丈ほどの塊。
石と影と、煤のようなものが絡まり合い、中心だけがぼんやりと光っている。
だが目はない。
口もない。
代わりに、こちらの焔に引き寄せられるように動いている。
「……焔を、食う気か」
エリアスが低く呟き、剣を抜いた。
ルゥは反射的に前に出かけて、止まった。
(……ダメ)
焔が、まだ応えない。
「エリアス……!」
「分かってる!」
エリアスは一歩、間合いを詰めた。
剣が、残滓の表面を掠める。
――ぎり、と嫌な音。
斬れた、はずだった。
だが、切り裂いた部分が、すぐに繋がる。
「……手応えが浅い」
残滓が、向きを変える。
エリアスではない。
ルゥの方へ。
胸の奥が、きゅっと締まった。
(……私の焔を……)
ティアが風を強める。
「ルゥ、下がって!これは焔に反応する!」
だが、足が動かない。
恐れではない。
焔が、動くな、と言っている。
残滓が、一歩、近づいた。
その瞬間――
ルゥは、焔を"呼ばなかった"。
代わりに、息を吸った。
胸の奥で、焔と同じ速さで。
(……燃えなくていい)
そう思ったわけでもない。
ただ――
(……迷わなくていい)
次の瞬間、焔が"外に出ないまま"脈打った。
熱が、体の内側を巡る。
外へは出ない。
代わりに、存在だけが強くなる。
残滓が、ぴたりと止まった。
中心の光が、揺らぐ。
ティアが目を見開く。
「……拒んだ……?」
ルゥは、ゆっくりと一歩、前に出た。
焔は灯らない。
だが、そこに"ある"。
「……違う」
静かな声だった。
「あなたは、焔を欲しがってるんじゃない。
迷ってるだけ」
残滓が、震えた。
近づくでも、襲うでもない。
揺れている。
エリアスが、息を殺す。
「……ルゥ?」
「……今なら、分かる」
ルゥは、胸に手を当てたまま、続けた。
「焔は……答えを押し付けるものじゃない。
行き先を、思い出させるだけ」
残滓の中心が、淡く光った。
そして――
音もなく、崩れた。
石が砕けたのではない。
影が溶け、煤が風に散り、
最後に残った光が、ふっと消える。
通路に、静けさが戻る。
エリアスが、剣を下ろした。
「……焔、使ってないよな?」
ルゥは、胸の奥を確かめる。
焔は、確かにそこにある。
そして――少しだけ、応えが戻ってきている。
「……うん。でも……逃げなかった」
ティアが、静かに笑った。
「それよ。焔が変わったんじゃない。
あなたの向きが、先に変わった」
ルゥは、息を吐いた。
怖さは、なかった。
焔が使えなかったことより、
使わなくても進めたことの方が、胸に残っている。
通路の奥で、光がもう一度、揺れた。
今度は、はっきりと。
急かさない。
拒まない。
ただ、認めた、という揺れ。
焔はまだ完全には戻らない。
けれど、もう立ち止まる理由はなかった。
残滓が完全に消えたあとも、通路の空気はすぐには元に戻らなかった。
音がない。
風も、焔の気配も、ほんの一拍だけ"間"を保っている。
ティアが、ふと足を止めた。
「……ねえ」
その声は小さかったが、確信を含んでいた。
「今の、風の流れ……少し、おかしい」
エリアスが即座に周囲を見渡す。
「追ってきた感じは?」
「いいえ。追跡じゃない。でも……見られている。」
ルゥの胸の奥で、焔が微かに応えた。
警戒ではない。
けれど、無関係でもない。
(……いる?)
通路の壁――
焔の光が届かない、石の継ぎ目の奥。
そこに、ほんのわずかな歪みがあった。
空気が揺れたわけでも、音がしたわけでもない。
ただ、影の濃さが一瞬だけ変わった。
エリアスが、低く息を吐く。
「……今、動いたな」
「ええ」
ティアは頷く。
「でも、敵意は感じない。
むしろ……距離を測ってる」
ルゥは、無意識に一歩、前に出ていた。
焔は灯らない。
けれど、向きだけが、そこを指している。
「……出てこない?」
答えはない。
代わりに、影の歪みが、すっと薄れた。
消えた、というより――
溶け込んだ。
まるで、最初から通路の一部だったかのように。
ティアが、静かに言う。
「見張りじゃない。
監視でもない……確認されたみたいな…」
「何を?」
エリアスが問う。
ティアは、ルゥを見る。
「焔の状態……かな」
ルゥは、胸に手を当てた。
焔は、先ほどより落ち着いている。
完全ではないが、拒まれてはいない。
(……試された?)
その考えに、焔が小さく応えた。
肯定でも否定でもない。
そう考えてもいいという温度。
エリアスが、剣を収め直す。
「つまり……
俺たちが来るのを、前から知ってた可能性がある」
「ええ」
ティアは視線を通路の奥へ戻した。
「この場所は、焔の里とも、語り部の都とも違う。
どちらにも属さない"境目"よ」
境目。
その言葉が、胸に落ちる。
ルゥは、ゆっくりと息を吸った。
「……だったら」
二人が、彼女を見る。
「隠れて見てるだけなら……いつか、出てくる」
焔が、静かに強くなる。
灯る直前の、確かな存在感。
「焔が変わったの、見たなら……
無関係じゃいられない」
ティアは、少しだけ笑った。
「そうね。風も、同じことを言ってる」
通路の奥で、光が揺れた。
今度は、道としてではない。
"視線が残った痕跡"のような揺れ。
誰かが、確かに見ていた。
焔が使われなかった瞬間を。
拒まず、押し返した、その在り方を。
そして――
何もせず、去った。
エリアスが、肩をすくめる。
「厄介だな。でも……良かった。」
「どうして?」
ルゥが聞く。
「本当に危険なら、あの場で手を出してる。
様子見ってことは……
少なくとも、俺たちを"選択肢"として見てる」
ルゥは、通路の先を見つめた。
焔は、もう迷っていない。
ただ、慎重になっている。
(……次は、誰が出てくるんだろう)
答えは、まだない。
けれど確かに、
この旅は、三人だけのものではなくなった。
通路の奥で、光がゆっくりと脈打った。
待っている。
試すように。
確かめるように。
焔が、どこまで変われるのかを。
通路の奥で揺れていた光が、ふっと消えた。
その瞬間だった。
空気が、重く沈む。
先ほどまで感じていた"見られている感覚"とは違う。
もっと直接的で、もっと露骨な――意図を持った気配。
ティアが即座に足を止めた。
「……違う」
風が、はっきりと逆流している。
「さっきの"確認"とは別。これは……狙ってる」
エリアスが剣に手をかける。
「やっぱり来るか」
ルゥの胸の焔が、わずかに疼いた。
灯ろうとはしない。
だが、拒絶の熱が確かにある。
(……触るな、って……)
通路の壁際、影が不自然に盛り上がった。
岩でも闇でもない。
"人の形"を取ろうとして、まだ定まりきらない輪郭。
やがて、それはゆっくりと前へ出てきた。
外套のような布をまとっているが、色は分からない。
焔の光を吸い込み、風の輪郭をぼかす。
顔は見えない。
だが、視線だけははっきりとこちらを捉えている。
「……やっぱり、面白いね」
声は低く、どこか乾いていた。
年齢も性別も判断できない。
けれど、"人である"ことだけは分かる。
「焔が、灯らなかった。
それなのに、残滓を鎮めた」
その存在は、ルゥを見る。
「……それ、普通じゃない」
エリアスが一歩前に出た。
「名乗れ」
影は、小さく笑った。
「名か。
残念だけど、今は必要ない」
ティアの風が、ぴんと張り詰める。
「……あなた、"境目の者"ね」
「正解」
影は肩をすくめた。
「どこにも属さない。
だから、どこにでも行ける」
ルゥの胸の焔が、じり、と鳴った。
(……嫌な感じ……)
敵意だけではない。
興味。
観察。
そして――期待。
「焔が変わる瞬間を、ずっと探してた」
影は続ける。
「使われなくなった焔。命じられない焔。
それでも、答えを出せる焔」
ティアが、低く言った。
「……利用するつもり?」
影は、否定しなかった。
「可能性を"借りたい"だけだよ」
エリアスの剣が、わずかに鳴る。
「断る」
即答だった。
影は、楽しそうに息を吐いた。
「まだ何も言ってないのに?」
「言わなくていい」
エリアスは視線を逸らさない。
「焔を"借りる"って言葉が出た時点で、信用できない」
影は、初めてエリアスを見た。
「……剣は、単純でいいね」
それから、再びルゥを見る。
「君はどう?」
ルゥは、すぐには答えなかった。
焔は、灯らない。
だが、はっきりと拒んでいる。
(……この人は……焔を"答え"じゃなく、"道具"として見てる)
胸の奥が、静かに熱くなる。
「……私の焔は」
ルゥは、一歩前に出た。
「試されるものじゃない」
影が、わずかに目を細めた気配がした。
「でも、もう試された」
「違う」
ルゥは首を振る。
「焔が、自分で選んだだけ」
その瞬間、焔がほんの一瞬だけ、外へ滲んだ。
炎にならない。
光にすらならない。
ただ、存在だけが"ここにある"と示す熱。
影が、初めて動きを止めた。
「……なるほど」
その声から、軽さが消えた。
「完全に目覚める前……
でも、もう戻れない段階か」
ティアが、静かに告げる。
「あなたには渡さない」
影は、短く笑った。
「今日は、いいよ」
そう言って、後ろへ下がる。
「でも……覚えておいて。
焔が"使えない時間"は、長くない」
影は、通路の闇へ溶けていった。
音も、風の乱れも残さずに。
静寂が戻る。
エリアスが、剣を収める。
「……厄介なのが来たな」
ティアは、風を整えながら言った。
「ええ。
焔の変化を"機会"だと見る者は、他にもいる」
ルゥは、胸に手を当てた。
焔は、静かだ。
だが、確かに一段階、前へ進んだ感触がある。
(……もう、戻れないんだ)
怖さはない。
ただ――
この焔が、選ばれる側から、選ぶ側になり始めたことを、はっきりと理解しただけだった。
通路の奥で、光がまた脈打つ。
待っているのは、答えではない。
選択だ。
焔の物語は、いま――
誰かに利用されるためではなく、
自分で意味を決める段階へと、踏み込んでいた。




