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第2章【第1話:境界を越える朝】

夜明け前の空は、まだ色を決めかねていた。

焔の里を包んでいた山影は深く、谷底には薄い靄が溜まっている。

門が閉じる音はしなかった。ただ、石が擦れるような低い気配だけが、背後で静かに遠ざかっていく。


ルゥは一歩、外へ踏み出した。

足裏に伝わる地面の感触が、里の中とはわずかに違う。

同じ石なのに、焔の気配が薄い。


胸の奥で焔が揺れた。

強くはない。ただ、確かに「向き」を持っている。


(……ここからだ)


振り返ると、エリアスとティアも並んで立っていた。

エリアスは剣を背に負い、無言で周囲を確かめている。

抜く気配はないが、いつでも動ける距離を自然に取っていた。


ティアは目を閉じ、風に耳を澄ませていた。

里を離れる風と、山の向こうから流れ込む風。

二つが交差し、別れを告げている。


「……風が変わった」


ティアが目を開ける。


「里の風は、もう守りの流れに戻ってる。

でも――その外側で、別の流れが動き始めてる」


エリアスが短く言った。


「追われてる感じはないな」


「ええ。

これは"呼びかけ"。

追うんじゃなくて、気づかせるための風」


ルゥの焔が、小さく応えた。

塔で見た光、根の炉の奥で示された道筋。

それらが一本に重なり始めている。


三人は、言葉を交わさず歩き出した。


谷を抜ける道は、まだ暗い。

だが夜の名残は薄れ、空の端に淡い灰色が滲み始めていた。

焔の里の匂い――鉄と煤と、馴染んだ火の香りは、数歩進むごとに遠ざかっていく。


ルゥは一度だけ、胸元に手を当てた。

焔は落ち着いている。

里を離れても、揺れなかった。


(……置いてきたんじゃない)


そう思えた。


山道を下るにつれ、地面の質が変わる。

火に焼かれた石から、湿りを含んだ土へ。

風も冷たさを増し、どこか水の匂いを帯び始めた。


ティアが足を止める。


「……ここから先、風が分かれる」


エリアスが即座に前へ出た。


「道が二つ?」


「見た目は一つ。でも、流れは違う」


ルゥは目を凝らした。

確かに道は一本だが、空気の揺れが微妙にずれている。

同じ場所なのに、進む"意味"が違う。


(……境界)


胸の焔が、わずかに熱を持った。


「……行くなら、どっち?」


エリアスが尋ねる。


ティアはルゥを見る。


「風は教えてくれるけど、選ばない。

ここは……焔の役目」


ルゥは深く息を吸った。

根の炉で感じた感覚。

押さえつけない。命じない。向き合う。


焔に問いかける。


(……どこへ行きたい?)


答えは言葉にならなかった。

だが、胸の奥で焔が“傾いた”。


左でも右でもない。

ほんのわずか、道の中央から外れた位置。


「……こっち」


ルゥは、石の縁を踏み越えた。


その瞬間、空気が変わった。


風が一度、巻き戻るように逆流し、

次の瞬間には新しい流れを作る。

冷たくもなく、暖かくもない。

ただ、知らない匂い。


ティアが息を呑む。


「……記憶の外」


エリアスは剣に手を掛けたが、抜かなかった。


「危険か?」


「まだ、分からない。

でも……戻る場所じゃない」


ルゥの焔が、静かに強くなる。

恐れはなかった。

不安も、ないとは言えない。


けれど――


(……進める)


三人は、そのまま歩き続けた。


やがて山道は緩やかに開け、視界が広がる。

朝の光が差し込み、地平線の向こうに、見慣れない地形が浮かび上がった。


砂でも、森でもない。

岩と風が削り合ったような、色の薄い大地。

空は高く、雲の流れが異様に早い。


ティアが低く呟く。


「……地図にないわね」


エリアスが笑った。


「一番厄介なやつだ」


ルゥは、その景色をまっすぐ見つめた。

胸の焔が、はっきりと前を向いている。


名は、まだない。

けれど、進む理由はある。


風が背を押し、

剣が静かに鳴り、

焔が道を照らした。


三人の影が、知らない大地へと伸びていく。


焔の物語は、

里を越え、

記憶を越え、

次の"名のない場所"へ踏み込んでいった。



その大地で、最初に違和感を与えたのは、

視界でも、匂いでもなく、音だった。


三人が踏み出したその土地は、風が強いはずなのに、音だけが遅れて届く。

足音が地面に吸われ、布の擦れる気配が薄くなり、呼吸の音さえ遠くなる。


エリアスが眉をひそめた。


「……静かすぎないか」


ティアは首を振る。


「無音じゃない。

ただ……"跳ね返らない"」


ルゥは足を止め、地面を見下ろした。

岩は硬い。砂も少ない。

それなのに、音だけが沈む。


胸の焔が、わずかに揺れた。


(……嫌な感じじゃない。でも……)


進めないわけではない。

拒絶でもない。

ただ、歓迎されていない。


その感覚が、肌にまとわりつく。


さらに数歩進んだとき、ティアが急に立ち止まった。


「……風が、途切れてる」


「途切れる?」


エリアスが聞き返す。


「流れが途中で"切られてる"。

自然じゃない。

誰かが……あるいは"何か"が、ここで風を止めた跡がある」


その瞬間だった。


ルゥの胸の焔が、ぴくりと跳ねた。


熱ではない。

痛みでもない。

違和感だ。


(……焔が、広がらない)


無意識に、ルゥは掌に小さく焔を灯そうとした。

いつもなら、呼吸と同時に生まれるはずの焔が…


生まれなかった。


「……?」


もう一度、意識を集中する。

焔は確かに胸にある。

だが、外へ出ようとしない。


エリアスがすぐに気づいた。


「ルゥ?」


「……焔が……出ない」


その言葉に、ティアの表情が変わった。


「完全に封じられてるわけじゃない。

でも……外に出るのを"ためらってる"」


「そんなこと、あるのか」


「ある。

ここは……焔が"自分の場所じゃない"って感じてる」


ルゥは歯を噛みしめた。


(……拒まれてる?)


だが次の瞬間、地面がわずかに軋んだ。


ごく低い音。

遠雷にも似た振動が、足裏から伝わってくる。


エリアスが即座に剣を構えた。


「来る」


何が、とは言わなかった。

だが三人とも、同じ方向を見ていた。


地平の向こう、風が歪んでいる場所。

空気が揺れ、景色がわずかにズレる。


そこから――

何かが"現れようとしている"。


ティアが息を詰める。


「……焔でも、風でもない。

でも……記憶に近い」


ルゥの胸の焔が、静かに強く脈打った。


出られない焔。

だが、呼ばれている。


(……試されてる)


そう直感した瞬間、

地面から、影が"浮かび上がった"。


人の形に似ている。

だが輪郭は定まらず、色もない。

ただ、空気がそこだけ重く沈んでいる。


影は、声を持たなかった。

代わりに――


焔を見た。


正確には、ルゥの胸の奥を。


その瞬間、影が一歩、近づく。


エリアスが前に出た。


「ルゥ、下がれ!」


剣が低く鳴る。

だが、影は剣を見ていない。


見ているのは――焔。


ティアが叫ぶ。


「触れないで!

あれは……境界の残響!

名を持たないものを、測る存在!」


ルゥは、動かなかった。


怖くなかった。

焔が、逃げようとしていない。


(……外に出られないなら)


ルゥは、胸に手を当てた。


焔を"出そう"とするのをやめる。

代わりに――在り方を伝える。


(……私は、ここにいる)


その瞬間、影が止まった。


空気が、ひとつ息を吐く。


影は、ゆっくりと形を崩し、

風に溶けるように消えていった。


静寂。


しばらくして、エリアスが息を吐いた。


「……消えた?」


ティアは、慎重に頷いた。


「拒まれたんじゃない。……認識された。」


ルゥの焔が、ようやく小さく揺れた。

まだ外には出ない。

だが、否定されていない。


遠くで、別の揺れが生まれる。


ティアが空を見る。


「……これは、最初の警告ね」


エリアスが剣を収める。


「ってことは?」


ルゥは、前を見た。


「この土地は……

名を持たないまま通れる場所じゃない」


胸の焔が、静かに、しかし確かに答えていた。


ここでは、焔の"使い方"ではなく、

焔の"理由"を問われる。


三人は、再び歩き出す。


境界の大地は、まだ何も語らない。

だが、確実に――

試練は、始まっていた。



影が消えたあとも、境界の大地は沈黙を保っていた。

音を拒む静けさではない。ただ、必要以上のものを返さないだけの、慎重な静けさ。


ルゥは足元を見つめた。

岩の表面は滑らかすぎるほど平らで、自然に削れたというより、踏み固められた跡に近い。


「……ここ、変」


小さく呟くと、エリアスがすぐに反応した。


「道か?」


「うん。でも……道にしては、広すぎる」


ティアがしゃがみ込み、指先で地面をなぞる。

風を這わせるように、ゆっくりと。


「……やっぱり。

ここ、昔は"通ってよかった場所"ね」


「昔?」


「ええ。

今は境界だけど……本当は、境界じゃなかった」


風が、ほんのわずかに流れを変えた。

それは前へ進む風ではなく、記憶を辿るような逆流だった。


ティアは立ち上がり、周囲を見回す。


「ここは……"道"だった。

焔の里と、別の場所を繋ぐための」


ルゥの胸の焔が、かすかに震えた。


(……繋ぐ)


エリアスが眉を寄せる。


「でも、道なら……どうしてこんな中途半端な場所に?」


ティアは少し考え、言葉を選ぶ。


「途中で……"意味を失った"のよ。

使われなくなった道は、やがて名前を失う。

名前を失えば、目的も失う」


ルゥは、ふと気づいた。


焔が外に出られなかった理由。

拒まれていたのではない。

行き先が、まだ定まっていなかった。


「……だから、試されたんだ」


「試された?」


「うん。

焔を使えるかじゃなくて……どこへ行く焔なのか」


その言葉に、ティアが静かに頷いた。


「名を持たない道は、名を持たない焔を通さない。

でも……名を探している焔なら、通すかもしれない」


三人は、再び歩き始めた。


進むにつれ、地面の様子が少しずつ変わる。

岩に刻まれた線。

消えかけた紋。

かつては目印だったはずの、役目を終えた記号。


エリアスが足を止め、剣の鞘で地面を軽く叩いた。


「……これ、剣の跡だ」


「鍛冶師の?」


「いや……護衛の剣だ。

道を守るための立ち位置」


その言葉に、ルゥは胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。


(……人が、通ってた)


焔の里だけじゃない。

語り部の都でもない。

その"間"にあった、人が行き交うための場所。


ティアが静かに続ける。


「この道は……たぶん、

焔と、風と……別の何かを繋ぐための通路だった」


「別の何か?」


ティアは、空を見上げた。


雲の流れが、ほんの一瞬だけ歪む。


「……雷。

もしくは……空そのもの」


ルゥの脳裏に、塔で見た光景がよぎる。

空に浮かぶ島。

巡る焔と風と雷。


「……じゃあ」


ルゥは、はっきりと言った。


「ここは、空へ行く途中だったんだ」


言葉にした瞬間、

地面の奥で、かすかな共鳴が起きた。


ごく弱く。

だが確かに。


ティアの目が見開かれる。


「……反応した」


エリアスも感じていた。

空気が、わずかに軽くなったことを。


「つまり……」


「ええ」

ティアは、確信を込めて頷く。


「この道は、完全には死んでいない。

ただ……を呼ばれるのを待っている"。」


ルゥは、胸の焔に手を当てた。


焔は、まだ外に出ない。

だが、進む方向だけは、はっきりしている。


「……なら」


ルゥは前を見た。


「この道に、もう一度"理由"を渡そう」


ティアが、柔らかく笑った。


「ええ。焔が理由なら、風は言葉を添える」


エリアスが剣を握り直す。


「俺は……通れるようにする」


三人は並び、名を失った通路の奥へ進む。


境界だった大地は、まだ完全には道にならない。

だが、もう拒まない。


ここは――

次の場所へ向かうための、忘れられた入口だった。


そしてルゥの焔は、静かに理解していた。


この先で求められるのは、

力でも、名でもない。


"なぜ、その場所へ行くのか"

その理由そのものなのだと。



ルゥが一歩、名を失った通路の中央へ踏み出した瞬間だった。


胸の奥で、焔がひときわ強く脈打った。


「……っ」


声を上げるより早く、視界が揺らぐ。

足元の感触が遠のき、重さが抜ける。


落ちる感覚ではない。

持ち上げられる――それも、誰かにではなく、空そのものに。


「ルゥ?」


エリアスの声が聞こえた気がしたが、すぐに遠ざかった。


次の瞬間、世界が変わる。



それは空だった。


ただの青ではない。

幾重にも重なった空。

風の層、光の層、音の層が、ゆっくりと回転している。


ルゥは"立って"いた。

だが、地面はない。

足元には、光の筋が円を描き、その中心に彼女がいる。


(……ここ……)


答えは、焔が知っていた。


これは"場所"ではない。

記憶だ。


遠くに、島が浮かんでいる。

塔で見たものより、はるかに輪郭がはっきりしている。


島の表面には、幾つもの炉があった。

焔の里の炉に似ているが、形が違う。

もっと開いていて、もっと空に近い。


炉の周囲を、風が巡る。

その上を、雷が走る。

三つが交わるたび、炉の中の焔が色を変えた。


橙、蒼、白――

そして、そのどれでもない"名のない光"。


「……あれは……」


言葉にしようとした瞬間、声が重なった。


――火は、地に縛られていたわけではない

――最初から、空へも伸びていた


それは誰の声でもない。

男でも女でもない。

焔が焔に語りかけるような声。


ルゥは息を呑む。


(じゃあ……焔の里は……)


――里は"始まり"

――だが"終わり"ではない


視界が動く。


島の中心に、大きな核が見えた。

記憶核とは違う。

もっと粗く、もっと生々しい。


そこに、焔が集められている。


いや――

集まっているのではない。


"帰ってきている"。


(……帰る……?)


――焔は、巡る

――巡って、名を得る


突然、島の縁が崩れた。


風が裂け、雷が散り、焔が行き場を失う。

焔たちは、空から落ちていく。


地へ。

山へ。

谷へ。


その中に、ひとつだけ、強く光る焔があった。


小さく、未完成で、けれど確かに違う。


(……これ……)


それが、焔の里へ向かって落ちていく。


炉に受け止められ、

封じられ、

守られ――


そして、名を持たないまま育った焔。


ルゥの胸が、強く痛んだ。


「……私……」


言葉にしかけた瞬間、声が遮る。


――まだ、名はない

――だが、巡りを知った


島の核が、ゆっくりと回転する。


――焔は、戻る

――戻って、また空を目指す


――それが“次の段階”


視界が白く弾けた。



「ルゥ!」


肩を掴まれ、強く引き戻される感覚。


重さが戻り、音が戻り、風が耳を打つ。


ルゥは息を大きく吸い込み、その場に膝をついた。


「……はぁ……っ」


エリアスがすぐ横にいた。

剣を抜いていないが、全身が緊張している。


「大丈夫か!? 今、急に……」


ティアも駆け寄り、風を抑える。


「……焔が、跳ねた。でも……拒絶じゃない」


ルゥは胸を押さえた。

焔は、静かだ。

だが、確かに“何かを受け取った後”の静けさだった。


「……見た」


小さく言うと、二人が息を呑む。


「空……だよね」

ティアが、確信を含んだ声で言った。


ルゥは頷いた。


「うん……。

 焔は、もともと……空にも、属してた。」


エリアスが低く息を吐く。


「……やっぱりな」


「里は、終点じゃない」

ルゥは続けた。

「焔は……巡るものだった。

落ちて、守られて……それから、また戻る」


ティアは、目を閉じて風を読む。


「……道が、応えてる」


三人の足元で、名を失った通路の光が、ほんの一瞬だけ強まった。


完全な道にはならない。

だが――


"先へ進める理由"は、確かに刻まれた。


ルゥは立ち上がり、前を見た。


焔は、もう迷っていない。


名はまだない。

だが、向かう先は決まった。


「……行こう」


その言葉に、風が応え、

剣が静かに鳴り、

通路の奥で、かすかに光が揺れた。


焔の物語は、いま――

空へ続く章の入口に立っていた

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