第1章【第10話:炎の根が示す道】
そして――ルゥの焔は、初めて自分の足元を知った。
けれど、それは「終わり」ではなかった。
知った瞬間から、炎は次の問いを灯し始める。
根の間の空気は、わずかに軽くなっていた。
火霊の影は揺らぎながらも輪郭を保ち、根の炉の炎はさっきまでの荒さを失って、深い呼吸のようにゆっくり明滅している。岩壁に刻まれた紋も、脈を打つたびに淡く光り、まるで炉が“落ち着け”と谷全体に告げているようだった。
ガランは頭を下げたまま、しばらく動かなかった。
煤と鉄の匂いの中で、彼の肩だけが小さく上下している。
ルゥは、胸の前で手を握った。
熱いのに痛くない。
怖くないのに震える。
自分の中にある焔が、今までとは違う場所。
もっと根の深いところで、静かに生きているのが分かる。
エリアスが一歩、前へ出かけて、止まった。
剣に触れていた指をそっと離し、言葉を選ぶように眉を寄せる。
「……ルゥ。大丈夫か」
ルゥは頷いた。
頷けたことに、少しだけ驚いた。
「うん。……大丈夫。まだ、整理できてないけど」
ティアは何も言わず、ただルゥの背中に風を寄せた。
冷たい風ではない。熱を奪うための風ではなく、燃え過ぎないように整えるための風。
彼女の風はいつも、言葉より先に“支える”ことをする。
火霊の影が、ゆっくりと揺れた。
胸の光がひときわ強くなり、根の炉の炎もそれに呼応する。炎の中に、音が混じった。燃える音ではない。石に触れる雨粒のような、かすかな合図。
――……知ったなら……進め……
声はやはり耳ではなく、胸へ入ってくる。
ルゥは息を吸い、吐き、焔を落ち着かせるように胸元を押さえた。
「進め……って……どこへ?」
火霊の影は答えず、炉の奥へ指を向けた。
そこは石の暗がりで、普段ならただの炉の底に見える場所だった。だが今は違った。炎が明滅するたび、暗がりの奥に“何か”が見える。形ではなく、道筋のようなもの。細い光の筋が、炉の奥から岩壁の下へ伸びている。
ティアが息を呑む。
「……通路?」
ガランが顔を上げた。
驚きと、苦さと、諦めに似た色が入り混じった目で、炉の奥を見つめる。
「……あるはずがない。根の炉の奥は、石で塞いで……」
言い切る前に、根の炉が一度だけ深く脈打った。
ごう、と鳴ったわけではない。谷の底で心臓が打ったような、低い震え。岩壁がかすかに鳴り、積もった煤がさらりと落ちる。
そして、炎の明滅がゆっくりと変わった。
炎の色が、ほんのわずかに“淡い蒼”を混ぜる。
ティアの瞳が揺れる。
「……都の色……」
ルゥの胸元のペンダントも同時に淡く光り、
赤と橙と蒼が混じり合った。
それは塔の中で見た光と同じ混ざり方だった。
エリアスが身構える。だが、剣は抜かない。
抜けば切れる気がした。切ってはいけない気がした。ここにあるのは敵ではなく、“答えに続くもの”だと、肌が理解していた。
ガランは低い声で言った。
「……封じたのは、炎が外へ漏れないためだ。
だが……炎が自分から道を開けるなら、もう止められん」
ルゥは喉の奥が熱くなるのを感じた。
里に戻れと言われた意味が、今、別の形で浮かび上がってくる。
(戻って終わりじゃない。戻って“根”を確かめて……それから、また進めってこと)
火霊の影が、再びルゥを見た。
胸の光が、じっと彼女の中を覗き込むように揺れる。
――……名は……まだ……
――……だが……根を見た焔は……迷わぬ……
言葉が途切れた。
影が薄くなる。炉の炎も、少しずつ落ち着いていく。まるで「ここまで」を伝えるためだけに目覚めたように。
ティアが口を開いた。
「火霊は……道の"入口"を示してる。
ここから先は、火の里の記憶のもっと深い層……
"根の炉が集めた炎の行き先"に繋がってるのかもしれない」
エリアスが眉をひそめる。
「行き先……空、ってことか?」
ルゥの胸の焔が、静かに強くなる。
塔で見た空の島。焔と風と雷が巡っていた場所。
そこへ向かうための"足元"を、今確かめたばかりだ。
ガランは、ゆっくりと立ち上がった。
炉の前で膝をつくようにしていた鍛冶師たちが、入口の方で息を潜めているのが見える。
誰もがこの場に近づけない。
近づくほど、焔が胸を叩くのだ。
「……ルゥ」
ガランが呼ぶ。
いつもの鍛冶師の声より、少しだけ父親の声に近かった。
「お前が決めろ。
ここから先へ入るなら、里はお前を止めない。
だが、里は…お前の帰る場所でもある」
ルゥは、根の炉を見た。
火霊の影は薄れていく。
炉の炎が穏やかなまま、奥へ伸びる光の筋を一度だけ照らした。
ルゥは、息を吸った。
胸の火に合わせて。
「……行きたい」
声は小さいのに、谷に落ちた石のように重く響いた。
自分で言って、自分の中の焔が「そうだ」と頷くのが分かった。
「でも、今すぐじゃない。
里の人たちにも……ちゃんと話したい。
私がどこから来たか分からないままでも、ここは私の里だから」
エリアスが、ほっとしたように息を吐いた。
ティアは小さく頷く。風が「その順番でいい」と言うみたいに、炉の熱を整えた。
ガランは短く笑った。
「……そうだな。お前らしい」
それから、彼は真顔に戻って言った。
「あの夜の話を知っているのは、俺だけじゃない。
"空の光"を見た者の記憶は、里に残っている。
少なくとも言い伝えは、な」
ルゥの胸がまた熱くなる。
真実が、少しずつ輪郭を持って近づいてくる。
その瞬間、入口の方で誰かが慌てた声を上げた。
「ガラン! また、炉が……!」
根の間の外――里の中心の方から、遠い金属音が一つ、二つ。
鍛冶場の炉が暴れた時の音に似ている。だが今度は、もっと“焦り”が混じっている。
ティアが風を読んで顔色を変えた。
「……炎の揺れが、広がってる。
根の炉だけじゃない。里の炉が、全部"同じ方向"を向こうとしてる……!」
エリアスがすぐに言う。
「まずい。里の中心へ戻ろう。
根の間で何かが動いたなら、連鎖してる可能性がある」
ルゥは頷いた。
決意はもう胸の中にある。今は、里を守る番だ。
「行こう。
私の焔で、止められるなら止めたい」
ガランが先頭に立ち、三人は根の間を駆け出した。
背後で、根の炉が一度だけ静かに脈打つ。
まるで「行け」と背を押すように。
ルゥは走りながら、胸の焔に問いかけた。
(……私の焔は、誰のために灯る?)
答えはまだ言葉にならない。
けれど、今の焔は揺れ方が違う。
恐れで揺れていない。
迷いで揺れていない。
守るために――
進むために――
灯る焔になろうとしている。
里の中心へ向かう山道の途中、炎の匂いが一段濃くなった。
金槌の音が、焦げた音に変わっていく。
焔の物語は、里で一度立ち止まったばかりなのに、もう次の試練を連れてくる。
そしてそれは、ルゥにだけ向けられた試練ではなかった。
エリアスの剣に、ティアの風に、そして里の人々の焔に、同じ揺れが忍び寄っていた。
里の中心に近づくにつれ、空気はさらに重くなっていった。
熱が増しているわけではない。
むしろ温度は一定のままなのに、胸の奥に圧がかかる。焔が呼吸を詰め、風が流れを迷い、音だけが先に届く――そんな違和感だった。
鍛冶場の通りに出た瞬間、三人は足を止めた。
炉という炉が、同じ調子で唸っている。
赤い炎が暴れているわけではない。
だが、炎が外へ出たがっている。
鉄を焼くための炎ではなく、意志を持った"声"として、炉の奥から叩いてくる。
鍛冶師たちが距離を取り、互いに声を掛け合っていた。
「温度が合わん!」
「炎を落とせ!」
「落ちない……!」
ガランが怒鳴る。
「全員、炉から離れろ!
風除けを閉じろ、酸素を絞れ!」
だが、炉の炎は応じない。
空気を断っても、炎は弱まらない。
むしろ、芯が濃くなっていく。
ルゥは、中央の大炉に目を奪われた。
そこだけ、炎の色が違っている。
橙に淡い蒼が混じり、時折、名付けようのない白が瞬く。
(……根の炉と、同じ……)
ティアが低く言った。
「里の炉が、“根の方向”を向いてる。
炎が、自分の始まりを探してるのよ」
エリアスが歯を食いしばる。
「探して……どうなる?」
ティアは即答できなかった。
風が、答えをためらっている。
その瞬間、大炉の縁に刻まれた紋が一斉に光った。
炎が跳ね、空気が震え、鍛冶場全体に共鳴が走る。
「ルゥ!」
ガランが叫ぶ。
だが、ルゥはすでに一歩踏み出していた。
炎が、彼女を呼んでいる。
恐れではない。焦りでもない。
「ここに来い」という、静かな要請。
ルゥは炉の前に立ち、胸元に手を当てた。
炎は、確かにそこにある。だが今は、外へ出ようとしない。里の炎と同じ方向を向いて、揺れている。
「……聞こえる」
誰に言うでもなく、ルゥは呟いた。
「炎が……迷ってる」
エリアスが隣に立つ。
「どうすればいい」
ルゥは息を整えた。
根の間で感じた、あの落ち着き。
炎は押さえつけるものではない。
命じるものでもない。
向き合い、問いを返すものだ。
「……答えを、渡す」
ルゥは炉に手を伸ばさなかった。
代わりに、自分の胸に触れた。
「ここにある炎は、里のもの。
でも……始まりは、もっと遠い。
だから、帰りたくなったんだよね」
炉の炎が、一度、大きく揺れた。
ティアが息を呑む。
「……通じてる」
ルゥは続ける。
「でも、今は戻らない。
ここは、あなたたちが灯り続けてきた場所だから」
炎の揺れが、少しずつ変わる。
外へ向かっていた力が、内側へ折り返される。
ルゥは、胸の焔をそっと解いた。
大きくはしない。里を焼かない。
ただ、炉の炎と同じ高さで、同じ呼吸で灯す。
二つの炎が、同調する。
エリアスが、思わず声を落とした。
「……同じ……」
炎の色が揃っていく。
橙は橙に、蒼は蒼に。
白い瞬きは消え、炉は本来の姿へ戻り始めた。
ガランが、ゆっくりと拳を下ろす。
「……収まってきた」
鍛冶師たちの間に、安堵の息が広がる。
誰かが、炉に向かって深く頭を下げた。
だが、完全には終わっていなかった。
ティアが、はっと顔を上げる。
「……待って。
炎は収まってるけど……"呼びかけ"が、まだ残ってる」
ルゥも感じていた。
里の炎は落ち着いた。だが、その奥――もっと遠くで、同じ揺れが続いている。
(……空……)
塔で見た光景が、脳裏をよぎる。
空に浮かぶ島。巡る炎。
エリアスが言った。
「つまり……これは、里だけの問題じゃない」
ガランが、静かに頷く。
「そうだ。
焔の里が揺れたなら、他の場所も無事では済まん。
炎は……繋がっている」
ルゥは、胸の焔を確かめる。
今は、静かだ。だが、向きははっきりしている。
「……里は守れた。
でも、根の呼び声は止まってない」
ティアが、風を集める。
「風も同じ。
遠くで、同じ揺れを感じてる。
まだ、目覚めきっていない"何か"がある」
エリアスは剣を握り直した。
「行くしかないな」
誰も否定しなかった。
ガランは、ルゥを見つめる。
「……次は、里の外だな」
ルゥは、はっきりと頷いた。
「うん。
炎の始まりが、里だけじゃないなら……
全部、見に行く」
胸の焔が、強く、しかし穏やかに灯る。
それはもう、迷子の焔ではなかった。
焔の里は、ひとまず静けさを取り戻した。
だが、焔の物語は、ここで終わらない。
空へ、砂へ、記憶へ――
まだ名を持たない焔は、次の場所を求めていた。
そして三人は、里を出る準備を始める。
次に向かう先は、まだ地図に載らない場所。
焔と風と剣が、同じ揺れを感じる場所だった。
そして三人は、里を出る準備を始める。
次に向かう先は、まだ地図に載らない場所。
焔と風と剣が、同じ揺れを感じる場所だった。
里に夜が降りた。
昼間の騒ぎが嘘のように、焔の里は静けさを取り戻している。
炉の火はすべて落ち着き、鍛冶師たちは交代で見張りに立ち、里の中心には慎重な呼吸だけが残っていた。
ルゥは里の外れ、小さな高台に立つ。
谷を見下ろすと、夜の闇の中に焔の里の灯が点々と浮かんでいる。
その一つ一つが、ここで生きてきた人々の炎だ。
胸の奥で、炎が静かに燃えていた。
揺れてはいない。ただ、向きだけが定まっている。
(……行くんだ)
そう思うと、不思議と寂しさはなかった。
離れることと、捨てることは違う。
今は、それが分かる。
足音が近づく。
「やっぱり、ここにいたか」
エリアスだった。剣を外し、肩にかけている。
その表情は、いつもの軽さより少しだけ真剣だった。
「眠れない?」
ルゥは首を振る。
「炎が、静かすぎて。
考え事するには、ちょうどいい感じ」
エリアスは隣に立ち、同じ景色を見る。
「俺もだ。
剣が……落ち着かない。
抜きたいわけじゃないのに、呼ばれてる感じがする」
ルゥは小さく笑った。
「似てるね。焔と剣」
「似てるのかもな。
どっちも、使い道より先に向きがある」
しばらく、二人は黙っていた。
焔の里の灯が、風に揺れる。
やがて、エリアスがぽつりと言った。
「……怖くないのか?」
「何が?」
「自分がどこから来たか分からないまま、
もっと遠くに行くこと」
ルゥは考え、正直に答えた。
「……少しは。
でも、それ以上に……行かないほうが怖い」
エリアスは頷く。
「俺も、同じだ」
その時、背後で風が音を変えた。
柔らかく、しかしはっきりとした流れ。
「二人とも」
ティアが立っていた。
夜の風をまとい、静かな目をしている。
「風が、道を示し始めてる」
ルゥは振り返る。
「もう?」
「ええ。
急かしてはいないけれど……待ってもいない」
エリアスが息を吐いた。
「らしいな」
三人は焔の里の中央へ戻る。
ガランが、炉の前で待っていた。
ガランは深い皺の刻まれた目でルゥを見る。
「……焔は、落ち着いたか」
「はい」
「それなら、次は外だな」
誰も驚かなかった。
まるで、最初からそうなると知っていたかのように。
長老は、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「空の光の話は、里に伝わっておる。
炎が地に留まらぬ日が来るとき、
焔の里は一人の子を送り出す、と」
ルゥの胸が、静かに鳴った。
「……それが、私?」
「名を持たぬ焔が、名を探しに行く。
それだけの話だ」
ガランが無言で頷き、杖を鳴らした。
「行け。
だが、忘れるな。
ここは、お前の戻る場所だ」
ルゥは深く頭を下げる。
「……必ず、戻ります」
その言葉に、焔が応えた。
夜明け前。
焔の里の門が静かに開く。
三人は並んで立ち、振り返った。
焔の里は、もう揺れていない。
だが、眠ってもいない。
焔は、ここで生きている。
ルゥは一歩、外へ踏み出す。
胸の焔が、はっきりと進む方向を示す。
空へ。
記憶へ。
まだ呼ばれていない名前へ。
風が背を押し、
剣が静かに鳴った。
そして三人は、再び歩き出す。
焔の物語は、里を出て――
次の名のない場所へと続いていった。




