第1章【第9話:帰路に揺れる炎と風】
砂原を渡る風は、夜のあいだ急激に冷え込み、朝を迎えるころにはひどく乾いて軽くなっていた。
三人は夜明け前に焚き火を消し、まだ薄闇をまとった砂丘の影を縫うように進んでいた。
エリアスが背中の荷を締め直しながら言った。
「昨日より風が穏やかだな。
ここを抜ければ、草原に出るはずだ」
ティアは頷き、目を細める。
「ええ。でも……風が少しざわついてる。
何か"動いているもの"がある」
ルゥは胸の焔がかすかに揺れるのを感じていた。
風が言う"動いている何か"。
それは獣か、人か、それとも――語り部の都で見たあの影のような何かか。
(……戻るだけじゃない。帰る道にも、何かあるの?)
気になったが、不安ではなかった。
焔は恐れでは揺れない。
未知に触れようとするとき、焔は明るく燃える。
草原へ抜ける道は、砂の色が薄くなり、地面にかすかな緑が混じり始めたところでようやく姿を見せた。
太陽が昇ると、草に残った露が光り、荒涼とした砂原とは別世界のように見えた。
ルゥは思わず息を呑む。
「……こんなに色が違うんだ……」
エリアスが笑う。
「風と焔と、砂を抜けた先の色だな。
この景色を見ると、“帰ってきてる”って感じがする」
ティアは遠くの山脈を見つめた。
「焔の里は、あの山の向こう。
でも……風が言ってる。“少し急いだほうがいい”って」
「急ぐ……?」
ルゥの胸がきゅっと掴まれる。
焔がざわめくときは――予兆だ。
その時、ルゥの視界にひらひらと白いものが舞い落ちた。
雪……ではない。灰でもない。
掌に乗せると、それは細い“記憶の糸”だった。
語り部の都で見た光の欠片にそっくり。
ティアの顔から血の気が引く。
「……記憶の糸がここまで飛んでくるなんて……
やっぱり何かが“目を覚ましている”」
エリアスが剣に手をかける。
「追ってきている……のか?」
ティアは首を横に振る。
「追跡の気配はない。
でも、風の向きが変わってる。
“里の方で炎が揺れている”って……風が言ってる」
ルゥの心臓が跳ねた。
炎が揺れる――
それは災いか、誰かの叫びか、あるいは――自分の“焔の根”が触れられたということかもしれない。
「急ごう!」
ルゥは思わず走り出した。
エリアスとティアもすぐに後を追う。
草原を渡る風が三人の背を強く押し、ルゥの焔が道を照らすように揺れた。
山の麓が近づくにつれ、林の中にひっそりと流れる川の音が聞こえてきた。
森に差し込む光が波紋のように揺れる。
ティアが風に耳を澄ませ、言う。
「……ここで少し休んだほうがいい。
一気に山を登ると、焔が息を乱す」
エリアスも息を整えながら頷いた。
「たしかに。里へ急ぎたい気持ちは分かるけど、
ここからは足場も悪くなる。無理して怪我したら台無しだ」
ルゥも深呼吸をした。
胸の焔が、少し落ち着きを取り戻す。
三人は川辺の木陰で腰を下ろした。
水に触れると、冷たさが火照った肌に染み渡る。
エリアスが水筒を満たしながら言った。
「ルゥ。……焔は大丈夫か?」
ルゥは胸に手を当てた。
「……うん。でも、揺れてる。
里で何かが起きてるのは、間違いないと思う」
ティアが静かに続ける。
「焔の根に関わることかもしれない。
あなたが塔で触れた“声”が何を意味していたのか……その答えが、きっと里にある」
ルゥは拳を握った。
(……行かなきゃ。焔の始まりを、ちゃんと見つけなきゃ)
それは恐れではなく、覚悟だった。
しばらく休んだ後、三人は再び歩き出した。
山道に入ると、風の向きが変わり、涼しさの中にかすかな焦げた匂いが混じっていた。
ルゥは立ち止まり、息を呑む。
「……炎の匂いだ」
エリアスも剣に手をかけた。
「焔の里のほうから……か?」
ティアは目を閉じ、風を読むように首を傾ける。
「炎の匂いだけじゃない。
"風が逆流してる"……
焔の里に何かが"ぶつかった"」
胸の焔が大きく脈打った。
怖くはない。
ただ――呼ばれている。
(……待ってて。すぐ行くから)
ルゥは歩幅を広げ、山道を駆け上がっていった。
背後から、エリアスの声が追いかける。
「無茶するなよ、ルゥ!
でも急ごう。……嫌な予感がする!」
ティアも風を纏いながら言った。
「風が乱れてる……これは“兆し”よ!」
三人は山道を駆けのぼる。
焔の里はすぐそこだ。
山を越えれば――焔の根が、彼女を待っている。
そしてその焔は、これまでより大きく、強く、どこか悲しげに揺れていた。
山道を越えた瞬間、空気の質がはっきりと変わった。
冷たい山風に混じって、焔の里特有の匂い――鉄と煤、湿った石、そして炎の残り香が鼻を刺す。
ルゥは足を止めた。
「……里だ」
眼下に広がるはずの焔の里は、しかし記憶の中の姿とは違っていた。
朝のはずなのに、あちこちに薄い煙が立ち上り、里を囲む谷には不自然な静けさが沈んでいる。
いつもなら聞こえてくるはずの、炉の音や金槌の響きがない。
エリアスも異変を感じ取ったらしく、眉をひそめた。
「静かすぎるな。人の気配が薄い」
ティアは風に耳を澄ませ、低く呟く。
「風が……重い。
流れが途中で途切れているみたい。
焔の里の"中心"で、何かが滞ってる」
その言葉に、ルゥの胸の焔が強く揺れた。
まるで心臓を掴まれたような感覚。
(……やっぱり、焔の根……)
三人は足早に里へ下りていった。
里の入口に立つと、さらに異様さが際立った。
門代わりの石柱は煤に汚れ、地面には新しい亀裂が走っている。
その裂け目の奥から、かすかに熱が漏れていた。
「これ……最近できた傷だな」
エリアスがしゃがみ込み、指で地面をなぞる。
「炎が暴れた痕だ。でも、自然じゃない」
ルゥは唇を噛みしめた。
「私の焔と……似てる。でも、違う」
違和感。
同じ炎の力なのに、どこか歪んでいる。
里の奥へ進むと、ようやく人影が見えた。
数人の鍛冶師が炉の前で立ち尽くし、低い声で言葉を交わしている。
その中の一人が、ルゥに気づいた。
「……ルゥ?」
次の瞬間、ざわめきが広がった。
「戻ったのか」
「本当に……?」
「焔の子が……」
ガランが人混みをかき分けて現れた。
煤にまみれた顔は疲労の色が濃く、しかしルゥを見るなり目を見開いた。
「無事だったか」
ルゥは駆け寄り、頭を下げる。
「……ただいま。
遅くなって、ごめんなさい」
ガランは一瞬だけ目を伏せ、それから短く息を吐いた。
「謝ることじゃない。
だが……戻ってきたのは、いい時期かもしれん」
エリアスが一歩前に出る。
「里で何があったんですか」
ガランは周囲を見回し、声を落とした。
「“炉”が、暴れた」
その一言で、ルゥの背筋が凍った。
「暴れた……?」
「ああ。
里の奥、古い炉だ。
何代も前から封じていた“根の炉”が……
昨夜、勝手に炎を吐いた」
ティアが息を呑む。
「根の炉……」
ガランは彼女を見て、わずかに目を細めた。
「……外の者か」
「語り部の民です。
焔と記憶の異変を感じて、ここへ来ました」
短い沈黙のあと、ガランは頷いた。
「なるほどな。なら、話が早い」
彼はルゥを真っ直ぐ見つめる。
「ルゥ。
お前が里を出たあと、炎の流れが変わった。
まるで“戻るべき場所”を失ったみたいにな」
胸の焔が、痛むほどに脈打つ。
「……私の、せい……?」
ガランは首を振った。
「違う。
だが無関係でもない。
焔は“根”を探している。
そして、その根を一番近くで持つのが――お前だ」
里の奥から、低く唸るような音が響いた。
地面が、わずかに震える。
ティアが小さく叫ぶ。
「……来るわ。焔が、目を覚ましてる」
ルゥは拳を握りしめ、前を向いた。
「……見に行かせて。根の炉に」
エリアスも剣を構える。
「俺も行く。嫌な気配がする」
ガランは短く頷いた。
「覚悟はあるか」
ルゥは迷わなかった。
「あります。
私の焔の始まりを――ここで確かめたい」
三人は、焔の里のさらに奥へと向かう。
封じられた炉、焔の根、そして隠されてきた記憶。
焔の里は、静かに息をひそめていた。
まるでこれから語られる真実を、恐れながら待つかのように。
そのまま、ガランに先導され、三人は里のさらに奥へと向かった。
普段なら誰も近づかない、谷の最深部。岩壁に囲まれ、昼でも薄暗いその場所は、焔の里の者たちから「根の間」と呼ばれていた。
足を踏み入れた瞬間、ルゥの胸の焔が強く反応した。
熱い、というより――懐かしい。
幼いころ、まだ焔を制御できなかった頃に感じた、胸の奥が勝手に燃え上がるような感覚に似ている。
「……ここ……」
思わず呟いたルゥに、ガランが低い声で答えた。
「お前が物心つく前から、この炉は封じられてきた。
里の炎の“源流”に近すぎる。
扱いを誤れば、里そのものを焼き尽くす」
岩壁の奥に見えてきたのは、巨大な炉だった。
通常の鍛冶炉とは比べものにならないほど古く、石は黒く溶け、幾重にも刻まれた紋がかろうじて原形を留めている。
だが――
炉の中心には、確かに焔があった。
それは激しく燃え盛る炎ではない。
赤くも橙でもない、名付けようのない色。
まるで息をするように、ゆっくりと揺れている。
ティアが息を呑む。
「……記憶の焔……。
都で感じたのと、同じ“深さ”」
エリアスも無意識に剣を握り直した。
「焔なのに……刃を向けちゃいけない気がする」
ルゥは一歩、また一歩と炉へ近づいた。
ガランが止めようとしたが、彼女の足取りを見て、言葉を飲み込む。
ルゥの焔が、根の炉の炎と共鳴する。
二つの焔が、音もなく引き合っていた。
(……呼ばれてる)
そう思った瞬間、炉の奥で何かが弾けた。
低い音。
石が擦れるような、深い唸り。
焔が、一段強く脈打つ。
「ルゥ、下がれ!」
エリアスが叫ぶのと同時に、炉の炎が膨れ上がった。
だがそれは暴発ではなく、形を持とうとする動きだった。
炎の中から、影が立ち上がる。
人の形に似ている。
けれど輪郭は揺らぎ、顔は定まらない。
ただ、胸のあたりだけが、強く光っていた。
ティアが声を震わせる。
「……火霊……。しかも……かなり古い」
ガランが歯を食いしばる。
「やはり……目覚めたか」
影はゆっくりとルゥを見た。
いや、“見た”というより、炎そのものが彼女を認識したのだ。
――……戻ったか……
直接耳に届く声ではない。
胸の奥に、熱と一緒に流れ込んでくる。
ルゥは息を詰めた。
(……この声……知ってる……?)
――……名を、持たぬ焔よ……
影が一歩、近づく。
周囲の空気が震え、岩壁に刻まれた紋が淡く光る。
エリアスが前に出ようとしたが、ルゥは首を振った。
「大丈夫……。
この炎、私を傷つけるつもりはない」
そう言いながら、ルゥは炉の前に立った。
「あなたは……この里の炎?」
影は一瞬、揺らいだ。
――里だけではない……
――焔の里は、入口にすぎぬ……
ティアがはっとする。
「入口……?」
火霊の影は、ゆっくりと炉を指した。
――ここは、炎が“集められた場所”
――だが、炎はもともと……もっと遠くにあった……
ルゥの脳裏に、塔で見た空の島がよぎる。
焔と風と雷が巡る、あの光景。
「……空……?」
影は、わずかに頷いたように見えた。
――おまえの焔は……
――この炉から生まれたのではない……
胸の焔が、強く揺れた。
(じゃあ……私は……)
エリアスが思わず口を開く。
「どういうことだ……?
ルゥは、この里で育った。焔の力も……」
火霊の影は、エリアスの方を一瞥した。
――育ちは……根ではない……
その言葉に、ガランが低く唸る。
「……やはり、か」
全員の視線が、彼に集まった。
ガランはゆっくりと口を開く。
「ルゥ。
お前がこの里に来た日のことを……
そろそろ話す時が来たようだ」
ルゥの心臓が跳ねる。
「……私が……拾われた日のこと……?」
ガランは、静かに頷いた。
「お前は、この炉から生まれたわけじゃない。
だが――この炉が、お前を“受け入れた”」
火霊の影が、再びルゥを見る。
――だから……おまえは、名を持たぬ……
――そして……名を得る資格がある……
ルゥの胸の焔が、今までにないほど強く、しかし穏やかに燃えた。
怖さはなかった。
ただ、これから明かされる真実の重さだけが、静かに胸に沈んでいく。
焔の里の奥深くで、
焔の原点が、ゆっくりと語り始めようとしていた。
そして――
ルゥの物語は、ついに“生まれる前”へと遡ろうとしていた。
ガランは、根の炉の前でしばらく黙っていた。
火霊の揺らぎが岩壁に影を落とし、その影が彼の顔を深く刻んでいる。
やがて、重い息をひとつ吐いた。
「……あの夜も、こんなふうに炎が静かだった」
ルゥは喉が鳴るのを感じた。
「……私が、ここに来た夜?」
ガランは頷いた。
「今から十五年前だ。
山が荒れてな。風が唸り、空が赤く濁った。
雷でも噴火でもない……だが、焔の里の者なら誰でも分かる。"おかしな焔"が生まれた夜だった」
エリアスが息を呑む。
「焔が……生まれた?」
「いや。正確には――落ちてきた」
その言葉に、ティアの瞳がわずかに見開かれた。
「……空から?」
ガランは視線を根の炉へ移す。
「里の上空が、一瞬だけ昼のように明るくなった。
焔の色でも、雷の色でもない光だ。
そして……山の向こうから、熱が流れ込んできた」
ルゥの胸の焔が、微かに震えた。
(……塔で見た、あの空……)
「俺と、当時の長老、それから数人の鍛冶師で山を越えた。焔の流れが、谷の奥へ引き込まれていたからな」
ガランは低く続ける。
「そこで見つけたのが……お前だ」
ルゥは、息をするのを忘れた。
「……私?」
「まだ赤子だった。
泣いてもいなかった。
ただ……胸の奥で、焔が灯っていた」
ガランは、自分の胸を握りしめるように手を当てた。
「普通の子どもじゃなかった。
炉の前に立つと、炎が自然に頭を垂れた。
近づいた鍛冶師の炎が、勝手に温度を下げた」
エリアスが思わず言う。
「それって……」
「そうだ。炎が“迎え入れた”」
ティアは、静かに呟いた。
「……炎に選ばれた子……」
ガランは首を横に振る。
「選ばれた、なんて言葉じゃ足りん。
あの夜、根の炉は封じられていた。
だが――お前を抱いた瞬間、炉の奥で炎が"応えた"」
ルゥの視界が、わずかに滲んだ。
「……じゃあ……
私は……どこから来たの?」
ガランは、答える前に一瞬だけ目を閉じた。
「分からん。
だからこそ……里に置いた」
「……え?」
「外に出せば、炎に狙われる。
封じれば、炎が枯れる。
なら――焔の里で育てるしかなかった」
火霊の影が、低く揺れた。
――……守られていた……
その声に、ルゥははっと顔を上げる。
ガランは続けた。
「長老は言った。
“この子は、焔の器だ”と。
だが同時に、“器で終わらせてはならない”ともな」
ティアが、そっとルゥの隣に立つ。
「だから……自由に育てたんですね」
ガランは苦く笑った。
「炎を縛ると、必ず歪む。
だから鍛冶を教えた。
力じゃなく、焔と向き合う術をな」
ルゥの胸が、きゅっと締めつけられる。
(……私の毎日は……
全部、偶然じゃなかった……)
「だが……」
ガランの声が、少しだけ震えた。
「この里は、“答え”を与えられなかった。
お前の焔が、どこへ向かうのか。
何のために灯るのか……
それだけは、里の炎では測れなかった」
ルゥは、根の炉を見つめた。
そこにある炎は、今も静かに揺れている。
懐かしく、けれど完全には重ならない炎。
「……だから、私は……名を持たない……」
ガランは、深く頷いた。
「そうだ。お前はまだ"途中"だ。だが――」
火霊の影が、ルゥの前へ進み出た。
――……途中であることは……
――終わっていない、ということ……
――……名は……
――歩いた先で、生まれる……
ルゥの胸の焔が、これまでになく穏やかに燃えた。
恐れはなかった。
不安も、完全には消えない。
けれど――
確かに分かったことがある。
(……私は、間違ってここにいるわけじゃない)
ガランは、静かに頭を下げた。
「……すまなかった。
真実を伏せたまま、育てたことを」
ルゥは、首を振った。
「……ありがとう。
守ってくれて……ここまで、育ててくれて」
火霊の影が、満足そうに揺れ、
根の炉の炎が、ひときわやさしく灯った。
焔の里の奥深くで、
“始まりの夜”は、ようやく語られた。




