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第1章【第6話:沈んだ都の殻へ】

扉の紋がほどけ、静かな光が三人の足元へと流れ込んできた。砂原の荒々しい陽光とは違う、柔らかく脈を打つような光だった。

それは海を知らないはずのルゥに、なぜか「遠くの岸辺」を連想させる。

夜明け前に灯り続ける古い灯台のように、斑に揺れながらも決して消えず、踏み出そうとする者の影を、そっと抱き留めるように包み込んでいた。


一歩、扉の内側の空気を吸い込む。

乾いた砂と風の匂いの奥、深いところから、わずかに湿りを帯びた土の息づかいが立ち昇ってくる。


雨上がりの鍛冶場に似ているようでいて、もっと古く、長いあいだ誰にも踏まれなかった大地の匂いだった。


「……温かい?」


ルゥは胸元のペンダントを押さえながら、小さく呟いた。自分の中の火が、この場所の気配に落ち着きを取り戻していくのを感じる。


ティアは答えず、しばらく扉の向こうを見据えたまま目を細め、風紋の欠片に指先で触れてから、ようやく口を開いた。


「都が……応えているのかもしれない。

まだこの下に、“誰かの記憶”が眠ったまま残っている」


その声には、懐かしさと痛みが入り混じっていた。

戻りたい場所ではあっても、決して「そのまま」には戻らないと知っている声だ。


エリアスは腰の剣の鞘に添えた手の力を緩めないまま、扉の縁にちらりと視線を走らせ、低く呟いた。


「行こう。

ここで足を止めたら、きっと二度と進めなくなる」


逃げ道を探すでもなく、ただ前を選ぶ声だった。

ルゥはその言葉に小さく頷き、指先の焔を少しだけ強く灯す。

焔は新しい空気に触れ、迷いを振り払うように跳ね上がり、ほんの刹那、彼女自身の胸の奥を照らした。


(怖い。でも――私、この焔で、見たい)


喉の奥で言葉にならなかった決意が、焔と一緒に膨らむ。ルゥの隣で、ティアの外套の裾が風もないのにふわりと揺れた。

エリアスは小さく息を吐き、視線で「大丈夫か」と二人に問う。


三人は、互いに視線で頷き合い、ゆっくりと足を踏み出して、沈んだ都へと入っていった。


扉の内側は、思っていたよりもずっと広かった。


最初に見えたのは、巨大な空洞だ。

けれど「洞窟」という言葉では追いつかない。

そこには、確かに“街”の形が残っていた。


天井を見上げると、折れた塔が幾層にも渡って絡み合い、石と石とが空中で互いを支え合いながら、巨大な逆さの森のような影を作っている。

塔の表面には古い装飾や紋様が刻まれているが、

多くは砂と時間に削られ、ところどころで途切れていた。


しかし、完全な闇ではなかった。

塔と塔の隙間から、砂の門の外からは見えなかった淡い光が差し込んでいる。

その光が崩れた屋根や壁に反射し、朽ちた街の輪郭を、まるで薄い金属の縁取りのように浮かび上がらせていた。


「……すごい……」


ルゥは思わず声を漏らした。

焔の里の谷とは違う、閉じた広さ。

頭上の空が石に変わり、けれどその下には確かに人が暮らしていた気配が、微かに残っている。


足を一歩、前へ。


コ……ン……


足裏に伝わる小さな振動とともに、地面が柔らかい鐘のように音を返した。


「今の……」


ルゥは思わず足をどけ、床をまじまじと見下ろす。

薄い光を帯びた石は、触れた場所だけ色が濃くなる。

まるで水面にさざ波が立つように、円状に微かな光が広がっていく。


コ……ン……

コ……ン……


エリアスが試しに踵で軽く床を叩いてみると、さっきとは少し違う高さの音が返ってきた。


「響きが違う……ここは一枚岩じゃないのか?」


「ここは“語りの床”って呼ばれる場所」


ティアがそっと説明する。

胸元の風紋の欠片を優しく撫でながら続けた。


「風の民はね、自分の声をこの床に落として記録したの。歌や物語、誓い、祈り……そういう“音”を。

だから、歩けば歩くほど、どこかで誰かの声が響く」


「書くんじゃなくて、落とすんだ……」


ルゥは感心とも戸惑いともつかない声を漏らした。

鍛冶師の里では、記録といえば刻印や焼き印だ。

火で焼き付け、金属に残す。

けれどここでは、足で踏むこと、歩くことそのものが

記憶を残す行為だったのだ。


エリアスは眉をひそめる。


「ってことは、ここに響いてる音は……全部、過去のものか」


過去の足音。

過去の笑い。

過去の泣き声。

もうここにはいない人たちの足跡だけが、床に残っている。


ティアは小さく頷いた。


「ええ。

ただ、ほとんどは途切れ途切れになってしまった。

風が眠った夜に、記録も一緒に崩れたから」


その言葉に、

この静けさはただの「静か」ではないのだとルゥは悟る。

ここには、本来、絶え間ない歌と物語が流れていたはずだ。それがある夜、突然止まった。

止まったまま、今日まで誰にも触れられなかった。


(止まった歌……)


ルゥの胸の焔が、小さく疼いた。


彼女は歩を進める。

焔がほんの少し大きくなり、暗闇から街の姿をひとつ、またひとつと掘り起こしていく。


崩れた家屋。

倒れかけた柱。

途中で途切れたまま宙に浮かぶ石橋。

どの建物の壁にも、かつては華やかな文様が刻まれていたのだろう。

今は砂に磨かれ、指でなぞれば辛うじて形が分かる程度だ。


それでも――街はまだ、生きていた。


足元の床が、微かに歌い始めたのだ。


――……ぁ……

――かえ……

――おか……え……り……


耳の奥で誰かが囁いたような気がして、ルゥは思わず振り向いた。


「……今の、聞こえた?」


エリアスもティアも、同じ方向を見ていた。

広い空洞の奥、塔の影が幾重にも重なっている暗がり。光が届くか届かないかという境目の、その先。


そこから、確かに“声”がした。


「“おかえり”……今、そう聞こえた」


ティアの声が震えている。

それは、自分もその呼びかけの中に含まれていると、

どこかで分かってしまっている者の震えだった。


「風がね……記憶を少しずつ呼び起こしている。

私たちが踏んだ音に重ねて、眠っていた声が目を覚まし始めた」


ルゥの焔が、ひときわ明るく揺れた。

まるでその言葉に応えるように、焔の色が少しだけ深まる。


「行こう。街の中心へ」


エリアスが前方を警戒しながら歩き出す。

剣を抜きはしないが、いつでも抜けるように鞘に添えた手に力が入る。


その足元を、床の音が追いかけた。


コン……

コン……

コン……


――ただい……ま……

――また……かたろ……


言葉としては成立していない。

ひとかけらずつに割れてしまった音節がばらばらに浮かんでは消えるだけ。

それでも、そこに宿っているものは、紛れもなく“想い”だった。


(帰ってきてほしかった人が……いたんだ)


ルゥの胸の中で、何かがちくりと痛んだ。

焔の里で自分を育ててくれた人たちの顔が、ふと頭をよぎる。

ガランの太い腕、ミラの笑顔、祭りの火。

もし、自分が何も言わずに帰らなかったら、

あの場所にも、こんなふうに言葉にならない「おかえり」が残るのだろうか。


音の層は少しずつ厚みを増し、

街の壁が低く震え始めた。

砂に埋もれていた文様が、

光の粒となってぽつぽつと浮かび上がる。


ルゥは目を見開く。


「……光ってる……」


焔が、その光のリズムに呼吸を合わせるように揺れていた。

焔がまるで、目に見えない楽譜を読むように、

強くなったり弱くなったりしながら道を示している。


「……焔が、道を教えようとしてる」


「じゃあ、迷わなくて済む」


エリアスが静かに言う。

その声には半分安堵が、半分警戒が混じっていた。


ティアは顔を上げ、光の流れが向かう先を追う。

街の中心――折れた塔を束ねるように据えられた巨大な基部。

そこに、「心核の間」へ続く階段が口を開けていた。


「この先に、風の民が最後に守り抜こうとした“心核の間”がある。そこに、都の記憶の源が眠ってる」


ティアの声が、少しだけ低くなる。

そこに踏み込めば、もう自分は昔の自分ではいられないと知っている声だ。


そして、ほんの少し躊躇してから、小さく付け加えた。


「……私が、失ったものも」


その一言に、ルゥは迷わなかった。

彼女はティアの手をぎゅっと握る。


「見つけよう。全部じゃなくていい。

全部を取り戻す必要なんてないと思う。

でも、あなたが“語り直せる”だけの記憶を」


ティアは驚いたように目を瞬かせる。

誰かにそう言われることを、きっと一度も想像していなかったのだろう。

風はいつも、すべてを抱えて広い空へ流れていくしかないと思っていたから。


「……そうね。

全部じゃなくていいのかもしれない」


彼女はようやく、少しだけ力を抜いて微笑んだ。


「ありがとう。

じゃあ行きましょう。都の心へ」


エリアスはそんな二人を横目に見ながら、

少しだけ肩の力を抜いて笑った。


「二人とも、ちゃんと前を見てるなら、俺の仕事は一つだな。この道を、最後まで守る」


三人は光の道を辿り、崩れた街の中心へと進んでいった。


大きな階段の先に、

ほとんど形を保っていない“円形の広間”があった。


天井は半分以上が落ち、開いた穴から塔の破片が斜めに突き刺さるように垂れ下がっている。

その隙間から差し込む光が、広間の中にいくつもの斑を作っていた。

まるで大きな獣の骨格の中に入り込んでしまったような、そんな不思議な圧迫感と静けさがある。


「ここが……心核の間」


ティアが靴音を忍ばせて中へ足を踏み入れる。

床にはひびが走り、ところどころ砂がたまっていたが、中央の一角だけは不自然なほど滑らかで、傷ひとつなかった。


広間の中央に――

石で作られた古い台座があった。


台座は腰の高さほどで、側面には、

風と波と焔を象った線が絡み合うように刻まれている。

その線もところどころ欠けていたが、不思議と「途切れた」という印象はない。

むしろ、まだ描ききれていない続きがあるような、余白の手触りだった。


その上に――

大きな“記憶の石”が鎮座している。


透明で、けれどどこか乳白色にも見えるその石には、

表面に無数のひびが細かく走っていた。

触れれば壊れてしまいそうなほど脆く、ほんの少しの衝撃で粉になってしまいそうだ。


だがその中心だけは、

淡く、確かに光を放っていた。


「……これが、都の心?」


ルゥは思わず息を呑んだ。

鍛冶場で扱うどんな鉱石とも違う。

熱を持っているわけでも、冷たいわけでもない。

ただそこに、「時間の重さ」が詰め込まれているように感じられた。


「“記憶核メモリア”。

語り部の民はみんな、ここに物語を注いでいた」


ティアは台座に近づき、

石に触れる前に、一瞬だけ空気を確かめるように手を止めた。


エリアスは広間の外周に視線を走らせながらわずかに身構え、低く呟いた。


「何か……動いてないか?」


その瞬間、床の奥で影がひとつ揺れた。


ゆっくり、ゆっくり。

まるで長い眠りから覚めようとする者が、

体の輪郭を思い出していくような動きだった。


台座の光が強まると同時に、その影は輪郭を帯びる。


――それは、人ではなかった。


塔の断片と砂と、焦げた紋様が絡み合い、

かつて声を持っていた“何か”が、

壊れた形のまま立ち上がる。


腕とも足ともつかない突起がいくつも伸びては崩れ、

顔のあった場所には、虚ろな空洞だけが口を開けていた。


ティアが息を詰める。


「……“残響の殻”。

歌が消えた時に歪んで残ってしまった、記憶の欠片……」


ルゥは反射的に焔を構えた。

焔が警告のように揺れ、影を赤く照らす。

その光を浴びた影は、わずかに後ずさるように揺れたが、すぐにまた、三人の方へとじわじわにじり寄ってくる。


エリアスが鞘を鳴らす。


「来るぞ――!」


壊れた記憶の影が、三人へと向かって動き始めた。


壊れた記憶の影は、

砂と文様と残響が混ざり合った“形のない身体”だった。


輪郭は常に揺らぎ、

砂がぽろぽろと零れ落ちながら、

消えた声の欠片が周囲の空気を震わせている。


――……あ……

――……ま……も……れ……ず……


ひび割れた言葉。

風に紛れるようでもあり、

誰かが喉を潰しながら吐き出した懺悔のようにも聞こえる。


ティアが顔を強ばらせて息を飲んだ。


「これ……誰かの記憶が壊れて残った“殻”。

あの夜、歌が奪われた時に、形を失ってしまった残り……」


エリアスは一歩前へ出て、

二人と影の間に立った。


「でも、近づいてくるなら――戦うしかない」


その背中越しに、

ルゥは影から流れてくる“温度”を感じていた。

熱くも冷たくもない。

ただ、重い。

失敗と後悔と恐怖が、絡まり合って固まったような重さだ。


ルゥは焔を構える。


「でも、これは人じゃない……記憶だよね?」


ティアは小さく震える声で答えた。


「だからこそ……痛みを抱えたまま彷徨っている。

浄化するには、“新しい光”が必要なの」


新しい光――。

それが何を指すのか、ルゥは直感で理解した。


焔。


彼女の焔が、静かに強く揺れた。



影が叫びのような音を上げた瞬間、

塔の残響が震え、

広間に溜まっていた砂が一斉に舞い上がった。


エリアスが斜め前に跳ぶ。

ルゥとティアを庇うように身体を滑り込ませ、

影の動きを切る角度で構えた。


「来るぞ!」


影は腕のような砂の塊を伸ばし、

空気を叩きつけるように振り下ろした。


ガンッ!


エリアスの鞘がそれを受け止める。

砂とは思えないほどの重さと硬さ。

圧力が一気にのしかかり、

彼の足が床に沈み、石の表面にひびが走る。


「……っ、くそっ……!」


腕に痺れるような痛みが走る。

握り締めた指先から、汗がじわりと滲み出た。


「エリアス!」

ルゥが思わず駆け寄ろうとする。


「来るな! 今は……!」


彼が言い切る前に、

影が再び波打つ。

砂の塊が大きく弧を描き、今度はティアの方へと向かった。


ティアの風紋がぱっと光る。

風が彼女を押し出すように後ろへと引き寄せ、

寸前で砂の腕を避けさせた。


しかし影は止まらない。

床一面の砂がざわりと動き出し、

記憶の殻の意志に引かれるように、

小さな粒が次々と影の身体へ吸い込まれていく。


――……うば……わ……れ……

――……ま……も……れ……な……


ルゥは震えた。


(……誰かの、後悔……?)


声の意味が、胸の奥に直接刺さってくる。

“守れなかった”“奪われた”“届かなかった”。

そういった言葉の形になる前の感情が、

影の全身から溢れ出ていた。


影がティアに触れようとした、その瞬間。

ルゥの中で何かが爆ぜた。


「……やめて!」


焔が膨らんだ。


掌から迸った焔は、

影そのものを焼き払おうとはしなかった。

代わりに、影の輪郭にまとわりついていた“黒いひずみ”――

悲鳴のような闇だけを、照らし出した。


光を浴びた影は、一瞬だけ動きを止めた。

その場でぶるりと震え、まるで自分の姿を初めて見せられたように、戸惑った気配を見せる。


「ルゥ、続けて!」


ティアの声が飛んだ。


「焔を“記憶”へ向けて……!

傷んでいるところを、照らしてあげて!」


(照らすだけでいい……? 燃やすんじゃなくて?)


ルゥの焔が、問いに答えるように形を変える。

焔の先が細く尖り、影の中に潜む“他の砂とは違う暗い点”を、探るようになぞった。


そこは、色も音も失われた、

完全な“空白”だった。


「ここだ……!」


ルゥは焔をさらに細く尖らせ、

空白へ向けてともしびを差し込んだ。


一瞬――

影が叫んだ。


――……ま……も……れ……な……かった……

――……ご……め……ん……な……さ……い…………


さっきよりはっきりとした言葉。

でも、誰の声なのかは分からない。

男か女か、若いかどうかさえ曖昧だ。

ただ「守れなかった」と「ごめんなさい」だけが、

何度も何度も繰り返されていた。


ティアが口元を押さえる。


「……これは……誰かの記憶。

誰かが失った“最後の声”……」


エリアスの目に、強い光が灯る。


「だから苦しんでいるんだ……。

残された想いが、体をなくしても、まだここに縛られてる……!」


ルゥは炎を揺らしながら、

影の身体に光を注ぎ続けた。


空白だった部分に、

少しずつ色が満ちていく。

真っ黒だった箇所が薄い灰に変わり、

やがて、淡い風の色を帯び始める。


ティアの風が、優しく抱き締めるように影の周囲を回る。

かつてその記憶が聞いていたはずの歌の拍を、

小さく、小さく奏でるように。


エリアスの剣が、影の暴れようとする動きを封じるように、床を一定のリズムで打って拍を刻む。


コン……コン……コン……。


風。

焔。

拍。


三つのリズムが、影の内部に染み込んでいく。

ばらばらだった声の欠片が、

そのリズムに合わせて少しずつ一つに寄り添っていく。


「……大丈夫……もう怖くない……」


ルゥは震える声で呟いた。

誰に向けてともなく、それでも確かに誰かに向けて。


「あなたの記憶は、ここに残るよ……。

消えたわけじゃない。

誰にも届かなかったわけじゃない……!」


影が静かに揺れた。

その輪郭が、少しだけ丸くなる。

攻撃するためではなく、

抱き締めるような形に。


そして――


溶けるように光へ還った。


砂が床にさらさらと落ち、

やがて音もなく消えていく。

残ったのは、淡い光の粒がゆるやかに舞い上がる光景だけだった。


静寂。

しかし、さっきまでの“凍りついた静けさ”とは違う。

心核の間には、柔らかな余韻だけが残った。


ティアは力が抜けたように膝をついた。

肩で大きく息をし、頬を伝う涙を乱暴にぬぐう。


「……ありがとう……ルゥ……エリアス……」


ルゥもその場に膝を落とし、

自分の手のひらの中で小さく灯っている焔を見つめた。

疲れている。けれど、火はまだ消えない。

さっきよりも、少しだけ穏やかな色をしていた。


エリアスは鞘を持つ手の震えを、

しばらく抑えられなかった。

指先がじんじんと痺れ、腕の筋肉が悲鳴を上げている。


「……あれは……誰の記憶だったんだ?」


顔を上げてティアに問う。


ティアは静かに首を振った。


「分からない。

きっと、この都の誰か……

誰かを守れなかったことを抱えたまま、

最後まで歌い切れなかった、ひとりの語り部」


ルゥは立ち上がり、

慎重な足取りで記憶核へ歩み寄った。

石に手をかざすと、ひび割れたその中心が、

彼女の焔に応えるように光を強める。


「……まだ、息をしてる」


エリアスが近づき、石を覗き込んだ。

さっきまでくすんで見えた光が、

今はほんの少しだけ、あたたかみを帯びている。


「これが……都の“心”」


ティアは涙を拭い、

もう一度、石にそっと手を触れた。

指先を通じて、微かな脈動が伝わってくる。


「ここにはまだ……語り部たちの記憶の“残り火”がある。風だけじゃ、もう動けない。

でも、焔があれば――」


ルゥが頷いた。


「じゃあ、灯そう。

私の焔で、あなたたちの声を……もう一度」


記憶核が震えた。

塔の奥から、微かな風が吹く。

それは砂原の風とも、谷を抜ける山風とも違う。

もっと静かで、しかし芯のある風だった。


――焔の記憶が、次の道を示す。


迷いの森で聞いたあの言葉が、

今度ははっきりと、この場で鳴り響いた。


三人は顔を見合わせた。


ティアが、涙の跡をそのままに微笑む。


「都は……まだ終わってない。

終わったことにされただけ。

ここから、また始められる」


エリアスが剣を握りしめ、強く頷く。


「じゃあ、進もう。都の中心へ。

ここで止まるわけにはいかない」


ルゥは焔を掲げた。

炎が高くはなく、しかしまっすぐに伸びる。


「記憶の塔へ。

風と火と剣で――ここに残ったものを、ちゃんと受け継ごう」


沈んだ街の奥で、

今までじっと息を潜めていた何かが、

新しい風を吸い込むように、静かに動き出した。


新しい風が生まれようとしていた。

それは、過去を焼き尽くすための風ではない。

記憶を抱えたまま前へ進むための、

小さな、けれど確かな始まりの風だった。

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