第1章 【第5話:砂の門、沈む塔の残響】
砂丘の陰で脈打っていた光は、近づくたびに輪郭を帯びていった。
最初はただの揺らぎに見えたそれが、やがて砂粒ひとつひとつの中から滲み出るように集まり、三日月を逆さまにしたような弧を形づくる。
「……これが、門」
ルゥが思わず呟いた。
光の弧は地面からわずかに浮き上がり、砂に影を落としている。触れれば消えてしまいそうなほど淡く、それでいて、目を逸らせないほど確かな存在感があった。
エリアスは喉の奥で息を整えた。
「本当に、砂の中に埋まってるんだな。塔への道が」
ティアは門の前に一歩進み、風紋の欠片をそっと掲げる。
透明な欠片が微かに震え、門の光に呼応するように淡く明滅した。
「風が、ここを“縫い目”だって言ってる。
砂原の時間と、沈んだ都の時間を繋ぐ境目」
「縫い目……」
ルゥは門の弧に手をかざした。
指先すぐの空気が、ひんやりと震えている。
熱いわけではない、冷たいわけでもない――炉の火に鉄を入れる前、ほんの一瞬だけ感じる、温度の変わる“手前”の気配に似ていた。
「くぐったら、戻れなくなったりしないよね?」
ぽつりと零れた言葉に、ティアは小さく微笑んだ。
「戻ろうと思えば戻れる。ただ……“同じふうには”戻れないわ。語り部の都を見るということは、私たち自身も少し、語り直されるってことだから」
エリアスが剣の鞘に触れながら言葉を継いだ。
「今さらだろ。もう迷いの森を抜けた時点で、前と全く同じ自分に戻るのは無理だ」
「そうかもね」
ルゥは深く息を吸い込んだ。砂の匂いの奥に、微かな湿り気を感じる。
――砂の下に、何かが眠っている。
胸元のペンダントが脈打ち、火が心臓の鼓動と同じリズムで瞬いた。
「行こう。語り部の都に」
三人は顔を見合わせ、頷き合った。
ティアが一歩、門の中央へと足を踏み出す。
光の弧が揺れ、風が押し戻すようにも、受け入れるようにも吹いた。
ティアの姿が、すっと霞に溶けるように門の向こうへ消えた。
「――!」
ルゥは思わず手を伸ばしかけ、途中で止める。
振り返ったエリアスと目が合った。
「大丈夫だ。行こう」
「うん」
ルゥとエリアスも、続いて光の弧をくぐった。
足元の感触が変わったのは、一瞬のことだった。
砂の柔らかな沈みが、急に固くなり、それから――水のように深くなった。
「っ……!」
体がぐらりと傾ぐ。
落ちているのか、昇っているのか、自分でも分からない。
上下も前後も、すべてがほどけて混ざり合い、
かろうじて胸元のペンダントと、手の中の鞘の重さだけが「自分」を繋ぎ止めてくれる。
耳元で、風と水と砂が同時に鳴った。
それは音楽のようであり、雑音のようでもあった。
過去の声、誰かの笑い、知らない言語の祈り、歌の切れ端――あらゆる“記憶の破片”が、目には見えない奔流となって三人の周囲を駆け抜ける。
「ティア!」
ルゥは声を張る。
返事はなかったが、すぐそばで、あの透明な風の気配がふっと揺れた。
――大丈夫。落ちているんじゃない。
――深さを変えているだけ。
誰の声ともつかぬ囁きが、ルゥの内側で響いた。
やがて、足裏に確かな地の感触が戻った。
ふらつきながらも膝を折らず、なんとか踏みとどまる。ルゥは息を吐き、目を開けた。
そこは、砂の海ではなかった。
空が、近い。
そう感じるほど、頭上には巨大な天井が存在していた。
それは岩ではない。
砂でも、木でも、雲でもない。
無数の塔の頂が絡み合い、折れ、傾き、
それらが何層にも重なって、大きな“ひとつの天井”を形づくっている。
「……塔が、倒れてる」
エリアスが息を呑んだ。
上を見上げたまま、首が追いつかないほどの高さだ。
塔の側面には古い紋が刻まれているが、その多くは砂と時間に削られ、
かすかな線だけがかろうじて残っている。
ルゥは周囲を見回した。
自分たちが立っているのは、広い円形の広場のような場所だった。
足元は砂ではなく、なめらかで少し弾力のある、不思議な石のようなもので覆われている。
踏むと、わずかに音が返ってくる。
「ここが……語り部の都?」
祈るような問いに、ティアが首を振った。
「いいえ。ここは“外縁”。
都そのものは、もっと下――もっと静かな場所に沈んでる」
ティアの声には、かすかな震えが混じっていた。
懐かしさか、恐れか、自分でも区別がついていないような震えだった。
「外縁……ってことは、これは“上にあったもの”が崩れ落ちて天井になってるってことか?」
エリアスが見上げながら言う。
ティアはゆっくりと視線を巡らせ、ひとつの塔の根元を指差した。
「もともと、この塔は空に向かって立っていたの。
風の歌を遠くまで届けるための“記憶の柱”だった。
でも、あの夜……風が眠った時、塔も落ちた。
歌を支えていた骨組みが、全部」
ティアの声が少しだけ低くなる。
ルゥは無意識に彼女の横顔を見つめた。
「じゃあ、この“天井”の向こうに、昔の空があったんだね」
「……ええ。風が歌を運んでいた空が」
三人の足元から、かすかな振動が伝わってきた。
揺れではない。
地面そのものが、小さな音を吐き出しているような感覚。
ルゥはしゃがみ込み、指先を石の表面に当てた。
耳を寄せると、低い声が聞こえる。
『……かつて……歌は……塔を渡り……』
途切れ途切れの言葉。
まるで、古い本を無理やり開いた時に散るページのように、バラバラの語が足元から立ち上っては消えていく。
「足元が、語ってる?」
ルゥの呟きに、ティアは小さく頷いた。
「ここは“残響の広場”。
塔が倒れ、歌が上から落ちてきた時に、
その余韻だけが集められて、ここに留められた場所」
「余韻……」
エリアスは広場の中心に歩み寄った。
中央には、胸の高さほどの石柱が立っている。
その表面には、砂原で見た風の紋とは違う、
より細かくて重なりの多い文字が刻まれていた。
「読める?」
ルゥが尋ねると、ティアは一歩前へ出た。
石柱に両手を当て、目を閉じる。
長い睫毛がわずかに震え、唇の間から小さな息が漏れた。
「……全部は無理。
でも、いくつかは思い出せる」
ティアはゆっくりと言葉を紡いだ。
「“ここに残るは、歌の骨。
声を失った者のための、最後の響き。
この広場に立つ者が、新たな歌を望むなら、
己の記憶を持って、塔の影を降りなさい”」
「塔の影を……降りる?」
エリアスが周囲を見回すと、広場の外れ、
倒れた塔の根元に、ぽっかりと口を開けた暗い穴があるのが見えた。
「さっきまで、あんな穴あったか?」
ルゥが首を傾げる。
入口には、砂が一粒も積もっていない。
誰かがついさっき、鍵をひねるみたいに開けた――そうとしか思えない光景だった。
ティアは石柱から手を離し、深く息を吸った。
「塔の内部を通って、下層に降りるの。
そこに“語り部の都の殻”が残ってる」
「殻……?」
「人がいなくなっても、歌が消えても、
形だけがしばらく残ることがあるの。
塔も、部屋も、道も。
でも、そこに誰の気配も残っていなければ、
本当の意味で“都”とは呼べない」
言葉が静かに広場に落ちる。
ルゥは拳を握りしめた。
「じゃあ――私たちはその“殻”に、もう一度、歌を戻しに行くんだね。ティアの風と、私の焔と、エリアスの剣で」
エリアスは一瞬だけ笑みを浮かべ、すぐに真顔に戻った。
「降りる前に、一つ確認しておきたい」
ルゥとティアが彼を見る。
「もし、あの塔の中で何かが“眠ってない”としたら……たとえば、ここを壊した力の残りかすとか、
歌を奪った何かがまだ残っていたとしたら。
その時は、戦うことになる」
エリアスは自分の胸に手を当てた。
「俺は、ここに来るまでに決めたんだ。
“守れなかった過去”じゃなく、“守り続ける今”のために剣を抜くって。
この都に、もう一度風と焔が流れるのを邪魔するなら――たとえそれが“記憶のなりそこない”でも、斬る」
言葉は静かだったが、そこには迷いがなかった。
ティアは彼をじっと見つめ、その視線の奥で何かを決めたように微笑んだ。
「じゃあ私は、その時、風であなたの背中を押す。
剣が折れそうになったら、風で支える。
私がここまで来た意味、多分そこにあるから」
ルゥも頷いた。
「私は、焔で道を見えるようにする。
暗くて、怖くて、記憶がざわざわしても、
前と、戻る場所を、絶対に見失わないように」
三つの決意が、広場の空気を少しだけ変えた。
足元の石が小さく震え、塔の天井から砂が一粒、二粒、静かに落ちてくる。
まるで都そのものが、彼らの言葉に耳を傾けているようだった。
塔の内部へ続く穴は、思ったよりも広かった。
三人が並んで降りられるほどの幅があり、
階段はなく、緩やかな斜面が暗闇の奥へと続いている。
ルゥは指先に焔を灯し、小さな焔をいくつも生み出した。それらは蛍のように塔の内側の壁へ散り、淡い光を投げる。
壁一面に、細かな線と紋様が刻まれていた。
風の軌跡のようでもあり、川の流れの地図のようでもある。
それぞれの線に、小さな印が結びつけられていた。
ティアは思わず壁に手を伸ばした。
「これ、全部……歌の軌跡。
一つひとつが誰かの物語。
風に乗せて語られた話の“通り道”が、こうして刻まれてる」
「こんなに……」
ルゥは目を見開いた。
見渡す限り、塔の内側にはびっしりと線が走り、
まるで一本の巨大な“譜面”のようだった。
エリアスは、壁のある一点に目を留めた。
他と少しだけ違う印。
重ねられた線のひとつが、途中で途切れ、その先がかすかに焦げたように黒くなっている。
「これ……途中で、焼けてる?」
ルゥがそっとその部分に火を近づけた。
黒い痕がうっすらと浮かび上がり、
焦げた輪郭の向こうに、何か別の紋様が隠れているのが見えた。
「火で……焼かれた?」
ティアの顔色がわずかに変わる。
風の民にとって、“焼ける”は滅びの象徴に近い。
ルゥは唇を噛んだ。
「ごめん。なんか、私の焔みたいな痕……」
「違う」
エリアスが首を振った。
「これは、もっと荒い。君の焔は、もっと……」
言いかけて、言葉を探すように少し間を置く。
「もっと、“誰かを残そうとしてる”焔だ。
これは、多分……全部を消そうとした火」
ティアは目を閉じた。
「そうね。あの夜、風が眠った時、
ここには“火のようなもの”が吹き込んできた。
焔というより、“焼き尽くそうとする意志”。
その時、幾つもの歌の線が途切れた」
ルゥは胸元を押さえた。
自分の火が、静かに震えている。
まるで「違う」と言いながら、「見て」と告げているようだった。
「だったら――なおさら行かなきゃね」
ルゥは壁から手を離し、斜面の先を見た。
「ここに残った歌の“骨”だけでも、拾えるものがあるなら。全部を焼こうとした何かに、負けっぱなしは嫌だ」
ティアの目に、ほんの少しだけ光が戻る。
「……本当に、焔の民は頑固ね」
エリアスが笑って肩をすくめる。
「頑固なのは風の民も同じだろ。
こんなところまで残って歌おうとするなんて」
三人の笑い声が、塔の内側で柔らかく反響した。
どれくらい降りただろうか。
時間の感覚が薄れ、彼らの息遣いと足音だけが、塔の中の世界の全てになった頃――
ふいに、斜面が平らになった。
ルゥの焔が先に広がる。
そこには、広場ほどの空間が広がっていた。
天井は低く、塔の内部が空洞のまま横に広がったような形をしている。
壁際には、倒れた柱や崩れかけのアーチが散らばり、
奥には半ば砂に埋もれた、大きな扉が眠っていた。
扉には、風と焔、そして波のような紋が一つに結ばれて刻まれている。
それは今まで見たどんな紋よりも複雑で、どこか、
ルゥのペンダントと似た“脈動”を感じさせた。
ティアが、息を呑む。
「ここが……」
「語り部の都の“殻”へ通じる扉か」
エリアスが静かに言った。
ルゥは扉へ近づき、掌をそっと押し当てる。
固い感触。
けれど、その奥から、かすかな温もりが返ってきた。
「……まだ、完全には死んでない」
ルゥの呟きに、ティアとエリアスが顔を見合わせる。
「風が言ってるわ」
ティアが静かに目を閉じた。
「“語り部の都へ向かえ。焔の記憶が、次の道を示す”」
それは、迷いの森で聞いたのと同じ言葉だった。
けれど今、その響きは前よりもずっとはっきりしている。
ルゥはペンダントを握りしめた。
焔が応えるように、胸の奥で強く燃える。
「うん。今度は、ちゃんと聞こえた」
エリアスが鞘を握り直す。
「じゃあ、扉を開けよう」
三人は扉の前に立ち、目を合わせた。
もう一度だけ、自分たちの足で決意を確かめるように。
ティアが風紋の欠片を扉の紋に重ねる。
ルゥが焔を灯し、紋様の線をなぞる。
エリアスが静かに鞘で扉の下辺を叩く。
風、焔、拍。
三つのリズムが揃った瞬間--
扉の紋が、光った。
沈んでいた塔の底で、長い長い眠りが、わずかにほどける音がした。
語り部の都の殻が、ゆっくりと口を開こうとしていた。




