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第1章 【第4話:歌砂の道、砂の門へ】

湖面に滲んだ都の光景は、波紋一つ立てず静かに形を変え、やがて薄い霧の帳のように三人の足元へ降りてきた。

霧は冷たくはない、けれど温かくもない。頬を撫でるそれは、古い衣の裾が通り過ぎる気配に似て、耳の奥で遠い歌を一音だけ残して消えた。


「……戻ってこいって、言ってる」


ティアが胸に手を当て、かすかに囁く。

響きは細いのに、森の奥のどこかでふくらみ、静けさにまた吸い込まれていった。


「誰が?」


エリアスが問い、湖面を凝視した。

黒いガラスのような水は三人の影を深く沈め、瞳の奥に夜空を宿している。


「風の精霊……いいえ、まだ“声”そのもの。名前になる前の呼吸」


ティアの瞳に湖の光が揺れ、瞬きのたびに溶けてしまいそうな哀惜が走る。


ルゥはペンダントを握り、炎の粒をひとつだけ指先に灯した。火は森の空気を怖がるように小さく揺れるが、消えはしない。火先には薄い膜のような風の層があり、かすかな震えが指先に伝わってくる。


「ここから先、どうすればいいの?」


自分にも森にも問うように呟くと、湖面に映る三人の影が遅れて頷いたように見えた。ほんの一呼吸ぶんの遅れ――記憶の底から水面へ浮かぶまでの時間。


足元の苔が、かすかにさざめいた。

さざめきは言葉になる前の音で、けれど確かに意味を持っていた。

――“語り直せ”。


ティアが顔を上げる。


「森は、私たちの記憶を“そのまま”見せて罰したりはしない」


「じゃあ、何を?」とエリアス。


「選ばせるの。どの言葉で、どの旋律で、同じ出来事を抱いて生きるか――それを“語り直す”ことで、記憶は過去から現在へ渡される」


霧がふわりと割れた。

三人は引かれるように森の奥へ進む。

木々の間に、半ば埋もれた石の円環が現れた。

苔に覆われた円の内側には、砂原には似つかわしくない清水が湧き、四方から集まる細い“風の道”が、そこへ糸のように結びついている。近づくほどに、風の糸は音階のように高さを変え、小さな鈴のような音を連れてきた。


「円の歌場……語り部の民が、誓いと物語を編み直した場所」


ティアが息を呑む。声は畏れと懐かしさを半分ずつ抱いていた。


ルゥは石の縁に膝をつき、小鍋ほどの焔をそっと起こした。


「焔は小さく、でも消えない」


言葉と同時に、炎は小鳥の胸のように規則正しく脈を打ち、青と橙の境目に細い金の縁取りを生む。


エリアスは剣を抜かず、鞘越しに両手で抱いた。


「刃は出さない、でも臆さない」


 鞘と掌の間に集まった体温が、迷いの森の冷えを押し返して、彼の肩の力を一つ抜いた。


ティアは薄く唇を開き、声にならない母音を一つ、円環に落とす。


「風は急がない、でも黙らない」


無音に近い息の歌は地に沈み、次の瞬間、円の内側から湧いた水音がそれを拾い上げた。


最初に浮かび上がったのはルゥの記憶だった。

熱、金床、火花、そして背中越しの大きな影――幼いルゥの視界で見上げた鍛冶場の天井が、木漏れ日のように揺れている。煤の匂いと焼けた鉄の甘い味。汗の塩気は、涙のしょっぱさとどこか似ていた。


「ルゥ、焔を恐れてはだめよ」


あの声が、もう一度、森に落ちた。

ルゥは、今度は逃げずに目を凝らす。影が振り向く。輪郭が光の粒になって崩れる直前、頬のえくぼ、指に触れた煤、髪に挟まった赤銅色の糸――ばらばらの記憶が一瞬に編まれ、胸の奥で名もなきあたたかさになった。


「私は――」


ルゥは焔の上に手をかざし、言葉を選ぶ。


「焔を恐れない。でも、焔で誰かの“記憶”を焼き捨てない。私はこの焔で、失われた歌を、見える形に鍛ち直す」


ぽん、と焔が柔らかく裂け、小さな火の羽根がひとひら生まれて水面へ落ち、消えずに光った。

光は沈まず、指先ほどの大きさで浮遊し、円環の縁をくるりと回って再びルゥの胸の前に戻る。


「ルゥ」


ティアが小さく名を呼ぶ。その声音は祝福だった。

エリアスは軽く親指を立ててみせ、普段よりも少し緩んだ笑みを唇に乗せる。


次はエリアスの番だった。

森の影が、砂塵に霞む小さな交差路を映す。

少年の背にしがみつく幼い子の気配、怒号、走る足音、伸ばした手が空を掴む感覚「守れなかった」という一言に凝縮された夜の重みが、彼の喉で硬い石になる。喉仏が上下し、乾いた息が鞘に当たって微かな音を立てた。


「俺は……忘れたくて、ずっと走ってた」


声は低く、けれどほどけ始めている糸のように柔らかい。


「でも、忘れるたびに、足が遅くなる気がした。背中の空白が重くなってさ」


彼は膝をつき、鞘の上に両手を重ねた。

鞘の革に染み込んだ油の匂いが、夜明け前の小屋と仲間の笑い声を連れてくる。


「だから、語り直す。俺は“守れなかった少年”じゃない。守る方法を探し続ける人間だ。刃は恐れじゃなく、帰る場所を作るために抜く」


鞘の内で刃が短く鳴り、水面の光がひと筋、星のように跳ねた。その閃きはどこか懐かしい旋律の拍を打ち、ルゥの火の羽根と呼応する。ティアが息を吸う音がかすかに重なり、円環の内側で小さな渦が生まれた。


最後に、ティアの静かな夜が来た。

塔の輪郭、吊り橋の上の灯、風を束ねる輪舞、そして音がひとつ、またひとつと幕の裏へ引き取られていく、あの“静かな滅び”。誰も叫ばない、誰も責めない、ただ歌が止み、風が眠った夜。胸の奥で、冷たい空洞が鳴った。


ティアは声を失った喉を撫でるように手を当て、円環の中央に一歩進み出る。


「私は残った。残ってしまった」


吐き出された言葉は、凍りかけた息のように白く、すぐに透明になって空へ消えた。


「だから、ずっと“終わり”の中で立ち尽くしていた」


彼女は肩を落とし、しかし視線だけは上げる。


「でも――」


ティアはルゥとエリアスを見た。

二人の眼差しが風を起こす。


「私は残されたんじゃない。残ることを選ぶために、生かされた。沈黙の夜から“最初の歌”を拾い直すために」


彼女は歌った。言葉より前に在る母音、呼吸と鼓動の間を渡る細い旋律、木々と根に沁みていた古い名残を少しずつ起こす祈り。最初は音にならない気配が震え、次に水面が小さく脈を打ち、やがて葉裏で眠っていた子守歌が顔を出す。


ルゥの焔がその上に薄い色を塗り、エリアスの鞘の音が拍を与える。三つの音が、重なるでもぶつかるでもなく、円の上で同心に回り始めた。


水が膨らみ、風のない空間にさざ波が走る。

苔の粒が星座のように並び直り、空の抜け落ちていた一欠片が、ゆっくりと満ちる。苔と水の境い目に淡い細線が浮かび、そこへ音がひとつ、またひとつ、糸玉のように巻きついていく。


そして――現れた。

風そのもの。姿を定めぬまま、光の粉と水の輪郭で“いる”ことだけを伝える存在が、円の中央で立ち上がる。耳で聞くのではなく、肌で触れるのでもない。

三人の「今語った言葉」の温度に、風がかすかに震えて応えたのだ。


"名を問うな"と風は言った。

"名は歌の後に生まれる"と風は笑った。

音は言葉になる前のところにとどまり、しかし意味だけは確かに胸に落ちる。


「語り部の都へ行きたい」


ルゥはまっすぐに告げた。


「失われた歌を、もう一度、焔で見える形に鍛ちたい」


「俺は道を護る」


エリアスが続ける。


「戻るための道、進むための道、どちらも“折れない”ように」


ティアは一拍おいて頷いた。


「私は沈黙の夜を“前奏”に変える。あの都のために、まだ名のない風のために」


風は三人の語りを聴き終え、森の周囲をそっと撫でた。木々の葉裏に眠っていた子守歌が一瞬だけ目を覚まし、枝から枝へと移ろい、やがて石の円に集まる。水面に、新しい紋が浮かび上がった。


砂に描いたものよりも細やかで、焔の紋よりも柔らかい、風と焔と歩みの三重円の真ん中に小さな切れ目があり、そこから北西へ細い線が伸びている。

線はところどころで粒になり、粒は星図のように等間隔で震えた。


“北の砂に沈む、塔の残響に向かえ”と風は告げる。

“日が三度低くなり、夜が二度透けるところ”に門がある、と風は続けた。

“歌砂”を踏みなさい。沈む星の並びと同じ点の道、と風は結ぶ。


「歌砂……音のする砂?」


ルゥが問い、耳を澄ます。

じり……りん……と、足元の砂がかすかに鳴いた。

それは金属を擦るようでもあり、弦を弾いたようでもある、不思議な音。


エリアスはしゃがみ込み、砂をすくい上げた。

掌で転がすと、光を帯びた粒が指先に集まり、風が吹くたびに小さく震えて音を返す。


「これが“歌砂”……風の民が残した道標か」


ティアは頷いた。


「夜にしか聞こえない旋律。星が反転する時間に、その道が開く。歌は空の地図をなぞり、砂は下からそれを写す」


ルゥは立ち上がり、焔の灯を弱める。

「なら、夜を待とう。星が道を見せてくれるまで」


三人は顔を見合わせる。短い沈黙は、了解の印だった。


森を抜けた斜面には、夕暮れの名残が淡く残っていた。空はまだ青く、しかし砂原の端だけが早く暮れ、そこだけ世界が二層に割れたように見える。

空気は薄く透け、光と影が静かに溶け合っていた。

耳を澄ませば、遠い地平で風が帆布を膨らませるような音を立てている。


「“日が三度低くなり、夜が二度透けるところ”……この空の分かれ目のことかもな」


エリアスが稜線を指さす。彼の声は地図を読む時のそれで、余計な感情を落として輪郭だけを拾っている。


ティアは彼の隣で頷いた。


「風がここを境に向きを変えている。夜が“透ける”というのは、風が裏返るという意味なのかもしれない。表皮をめくるみたいにね」


ルゥは空を見上げ、手を額にかざした。

太陽の輪郭が遠くで歪み、その向こうで群青の幕が静かに張り詰めていく。


「二度透ける夜のあと……その先に、門があるんだよね」


「ええ。風が教えてくれた。沈む星と同じ並びにある“門”」


ティアの声は落ち着いているが、指先はわずかに震えていた。長く探していた合図にやっと追いついた人の震え。


三人はしばらく無言で空を眺めた。言葉を失うほど、世界は広く、美しい。砂丘の影は長く伸び、影の縁に積もった冷えが、日中の熱を薄く包み込んでいる。どこかで虫がひとつ鳴き、すぐにやめた。

けれどその美しさの奥に、どこか胸を締め付けるような哀しさがある。この光景も、いずれ誰かの記憶になって消える。だからこそ、ルゥは強く願った。――この瞬間を、忘れたくない。


夜が訪れる。彼らは焚き火を高くせず、岩陰に身を寄せて休むことにした。火は掌ほどの小さな灯。風は穏やかで、砂はさざ波のように静かに息をしている。遠くの砂紋が月の明滅に合わせて移ろい、場面転換の幕のように色を取り替えた。


ルゥは火を見つめながら呟く。

「ねぇ、さっきの“語り直す”って……鍛冶に似てる気がする」


エリアスが振り向いた。


「打ち直す、ってこと?」


「うん。壊れたから捨てるんじゃなくて、欠けたところに新しい文様を刻む。過去の芯はそのままにして、“今の手”に合わせるんだ」


彼女は火箸で小石を動かし、砂に小さな渦の模様を描く。渦の中心には火の羽根がひとひら座り、辺りをほんのり温めた。


ティアはその言葉に目を細める。


「風の歌も同じね。失われた旋律は完全には戻らない。でもその場所に今の呼吸を編み足せば、歌は続く。昔の音をなぞるんじゃなく、昔の音に今の息を重ねるの」


エリアスは鞘の上に手を置き、微笑んだ。


「じゃあ、俺の誓いも鍛ち直しだ。“守れなかった”を芯にするんじゃなく、“守り続ける”を核にする。芯は固いほど折れやすいけど、核はしなって折れない」


その言葉にティアが静かに頷き、ルゥの胸の火がやわらかく明るくなった。焚き火が三人の顔を照らす。

誰も声を出さない。

けれど、同じ想いが風の中で重なっていた。

遠く、かすかな笑い声の残響、迷いの森で聞いた子どもの笑いが、悪戯のように一度だけ転がって消える。


夜空を仰ぐと、星々が瞬きながらゆっくりと動いていく。最初の“透け目”が訪れた。

空の高みにあった藍が、薄い膜を剥がすようにずれていく。星の輝きが強くなり、風の音が反転する。

砂粒の一つ一つが、耳の奥に小さな鐘を吊るしたみたいに共鳴した。


ティアが立ち上がる。


「今よ。星が一度透けた。次の透け目が訪れるとき、星図が反転する」


ルゥは小さく息を呑んだ。


「それが……歌砂の道」


ティアはうなずき、静かに歌い始めた。

その旋律は森で聞いたものより柔らかく、まるで夜そのものを撫でるよう。ルゥの焔が彼女の声に合わせて揺れ、エリアスの鞘が拍を刻むように響く。

それは“戻るための歌”ではなく、“進むための歌”だった。拍は足取りに変わり、旋律は視線の高さを整える。


やがて二度目の透け目が訪れる。

空がさらに深く透き、星がふっと反転した。

砂の上に、淡い光の粒が並び始める。細い線が繋がり、ゆるやかな弧を描いて続いていく。

砂の呼吸が整い、音は一本の道に束ねられていった。


「……見える」


ルゥが囁く。

胸の奥の火が控えめに跳ね、足の裏が合図に応える。


「これが……歌砂の道」


エリアスが呟く。視線は遠くの低い砂丘へ。

そこに連なる光の粒は、見えない指でひとつずつ置かれた星の抜け殻のようだ。


ティアは微笑んで、胸元の風紋の欠片を取り出した。それは月光を受けて淡く輝き、砂の光の線と共鳴するように震えた。


「行きましょう。風が呼んでいる」


三人は立ち上がる。荷は重いが、足取りは軽い。

それぞれの“語り直した記憶”が背中を支えていた。

ルゥは火袋を確かめ、エリアスは水袋の口を締め直し、ティアは歌場で結ばれた風の糸を指先で確認する。


「確認しよう」


 エリアスが短く言う。


「北西へ、星の反転に合わせて歌砂を辿る」


「夜は二度透けた。次は“日が三度低くなる”を待って門を探す」


ティアが応える。

祈りというより作戦会議の口調だが、そこに宿るのは同じ願いだ。


「そして――」


ルゥが笑う。


「語り部の都で、私たちの最初の歌を形にする」


彼女は掌の火で薄い銅片に風紋を刻む。

それは護符というより、三人の“記”。焔の波、風の渦、鞘の拍を一筆で結んだ小さな輪。ティアが紐を通し、エリアスが結ぶ。結び目は固すぎず、しかしほどけにくい三人の関係に似ていた。


夜の砂は、踏むたびに涼しい鈴のような音を立てる。星は反転したまま、進むほどに近く、けれど決して触れられない距離で伴走した。風は眠らず、しかし急がせず。焔ははしゃがず、しかし怯まず。剣は抜かれず、しかし確かに、彼らの歩みに寄り添う。


「エリアス」


歩きながら、ルゥがぽつりと言う。


「さっきの“帰る場所を作る”って、いいね。火床もそう。焔を起こすのは、戻って来られる温かさを作るため」


「俺にとっては……」


エリアスは少し考え、言葉を探す。


「帰る場所って、人そのものかもしれない。誰かがそこにいてくれること。だから“守る”は、場所じゃなくて関係を指すのかも」


「風も同じ」


ティアが歩幅を合わせる。


「風は道を作るけれど、道は風そのものじゃない。道を歩く者が息をする限り、風はその胸にも吹く。……だから、私たちが歩けば、都の歌も少しだけ前に進む」


言葉は砂に吸われ、代わりに足音が規則正しく積もっていく。ときおり砂丘の稜が崩れ、小さな滑り台みたいに音が走る。その音に歌砂が応え、線はよく磨かれた刀身のように明瞭になっていった。


やがて砂の起伏の向こうで、光が脈を打つ。

灯台のように高くはなく、星のように小さくもない。砂丘の陰に、呼吸するように揺れる門の影が見えた。近づくにつれて、光は脈とともに縮み、また開く。

心臓の収縮のようでいて、潮の満ち引きにも似ている。


「……あれが“砂の門”」


ティアの声が震えた。彼女の胸の奥で途切れていた音が、再びそこに戻っていくのを感じているのだろう。


ルゥのペンダントが静かに脈を打つ。

焔の色が一瞬、森で見た水の青を帯び、火と水の境目に細い虹が立った。


エリアスは鞘を握り直し、短く頷く。


「ここまで来た。あとは、もう戻らない言葉を選ぶだけだ」


三人は並んで立った。

背後には、焔の里へつづく山と草原、語り直した森の気配、そして風の歌が折り畳まれている。

目の前には、沈んだ都の残響と、まだ名のない新しい歌が待っていた。砂の門の縁には微かな文様が走り、歌砂の粒がそこに吸い寄せられ、まるで譜面の線のように整列していく。


「門は、問いかけてくるわ」


ティアが囁く。


「“何を置いていき、何を持って入るのか”。歌場も、塔も、みんな同じ問いをする」


「置いていくのは、二度と触れない悔い」


エリアスが言う。


「持って入るのは、二度と手放さない誓い」


「私は……」


ルゥは掌の焔を見下ろす。


「置いていくのは、焔が奪ったと思い込んでいた後ろめたさ。持って入るのは、焔で誰かの歌を形にする喜び」


言葉はそれぞれに静かで、しかし鋭かった。

砂の門の光がそれに呼応し、脈動の間隔を少し縮める。内側から、気配がひとつ、ふたつと目を覚まし、門の縁を撫でた。


「ルゥ」


ティアが微笑む。


「あなたの焔は、怖がりで優しい。だから強いの」


「エリアス」


ルゥが返す。


「あなたの剣は、抜かれる前にもう、護ってる。鞘を抱く腕がそれを証明してる」


「ティア」


二人が同時に名を呼ぶ。


「君の歌は、沈黙を怖がらない。だから沈黙の向こうに橋を架けられる」


門がひとつ、大きく脈を打った。

砂が鈴を鳴らし、星が小さく瞬く。

見上げた夜はまだ反転の余韻を残し、風は方向を定めずに、ただ三人の背に手を添えていた。


「行こう。語り部の都へ」


ルゥが静かに言う。声は震えていない。


エリアスが一歩、門の縁に足をかける。

足裏で砂の粒が並びを変え、道の先に細い光の線が伸びた。


ティアが歌の最初の母音を置く。

母音は門の内側へ滑り、見えない扉をやわらかく押し開く。


風が応え、砂が鈴を鳴らす。

門がもう一度、脈を打つ。

焔は消えず、夜は透け、歌は歩きながら、確かに強くなっていった。

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