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第1章【第3話:迷いの森、記憶の囁き】

夜明けの砂原は、まるで世界から色彩と音を奪われた、別の惑星のように静まり返っていた。

前夜に荒れ狂った風の唸りは完全に止み、ただ、白い砂の粒子が朝日を受けて淡く、儚い光を放っている。

嵐がすべての足跡を消し去ったため、三人の旅路はまっさらなキャンバスの上に続く、白い地平の上に続いていた。


ルゥはその静謐で非現実的な光景に思わず息をのんだ。彼女が知る世界は、常に炎の熱と、風の音に満ちていたからだ。


「……まるで世界がいったん燃えて灰になり、そしてまた、新しく生まれたみたい」


彼女の隣で歩いていたエリアスが、その感性に焔の民らしさを感じ取り、笑いながら深く頷いた。


「焔の民らしい、そして詩的な感想だな。

でも、確かにそんな感じだ。昨夜までの混沌が、嘘みたいに消えてる」


エリアスは額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、立ち止まって足元の砂を一掬いした。

その砂は、乾燥しているにもかかわらず、どこか冷たさを帯びていた。


「この砂、光を吸ってるみたいだ。

そして、風が当たっても、音を立てない……まるで、すべての音を飲み込んでいるようだ」


指の間から零れ落ちる砂の粒子が、朝日に反射して虹色に溶けていく。ルゥは、エリアスの言葉に同調するように、胸元のペンダントを見つめた。

淡い赤色の焔の光が、まるで小さな心臓のように脈打って揺れていた。それは、静寂の中にあって、何かの到来や、あるいは危険を警告しているかのようだった。


その時、彼らより数歩前を歩いていたティアが、ゆっくりと足を止めた。彼女の背筋はいつもまっすぐだが、その顔は青白く、呼吸も浅く荒くなっている。

彼女の銀の髪が、風のない空気の中で微かに揺らめいた。


「ティア、大丈夫?」


ルゥが心配して駆け寄ろうとすると、ティアは視線だけをルゥに向け、小さく首を振って制した。


「……平気よ。ただ、この先の風の流れが変わっている。まるで、生き物みたいに渦を巻いて、そして……誰かが深い眠りについているように、重く停滞している」


彼女の透き通った瞳の先、白い砂の地平の果てに、黒い線が見えた。それは、砂漠の景色の中に、異物のように垂直に立ち上がっている。

近づくにつれ、それが一本の巨大な「森」であることが分かってきた。無数の木々が、密集して空を覆い隠し、その境界線で風の流れを物理的に遮断している。

それはまるで、時の流れや、外界の侵入を拒む、天然の壁のようだった。


「森……? この砂漠の真ん中に、これほどの緑があるのか?」


エリアスが、驚きと警戒を込めて呟く。

砂原のど真ん中に、これほど濃密な生命の塊が存在すること自体が、自然の理に反しているように思えた。

風は森の境界で完全に止まり、音や空気の動きも、森の中へと吸い込まれるように消えていた。


ルゥは、ティアの隣で一歩近づき、思わず身をすくめた。森の境界を境に外界の空気とは全く異なる、ねっとりとした冷たい空気が流れ込んできている。


「……空気が違う。ここだけ、呼吸が重い。

まるで、肺が何かで満たされるみたいに……」


ティアは目を細め、風を読むように両手を広げ、手のひらをかざした。彼女の指先が、目に見えない空気の壁に触れる。


「ここは“迷いの森”。この大地が持つ、太古の記憶の貯蔵庫よ。かつて、都の民が最後に記憶を眠らせた場所。この森は、記憶を手放せない者の心を閉じ込める。入った者は、森の中で同じ夢を、同じ過去の光景を際限なく繰り返すことになる」


「夢を……繰り返す?」


ルゥが、その言葉の恐ろしさに、問い返した。

永遠に過去に囚われること。それは、未来を持つ焔にとって、最も忌避すべき運命だった。


ティアは静かに頷いた。


「そう。過去の記憶や強い未練、そして叶わなかった願いがこの森では実体を持つ。木々の影、流れる霧、聞こえる声。森そのものが、あなたの心を映す“記憶の鏡”なの」


エリアスは、その警告に、覚悟を決めたように剣の柄を強く握りしめた。彼の剣は、彼自身の過去の過ちと誓いを象徴している。


「なら、そこを越えれば語り部の都があるってことか。俺たちが探している、歌の源流に辿り着ける」


「そう。都はすぐそこよ。けれど、戻ってこられる保証はない。この森は、出口ではなく、あなたの過去を永遠の住処にしようとする」


沈黙が落ちる。

三人の間に、重い決断の空気が流れた。

風のない空間で、ルゥのペンダントだけが微かに脈打っていた。

それはまるで「選べ。過去に囚われるか、未来を掴むか」と囁いているかのようだった。


ルゥは、深く呼吸し、自分の中の炎の熱を確かめるように胸に手を当てた。そして、炎色の瞳を上げて、ティアとエリアスを真っ直ぐに見つめた。


「でも、行く。だって、風が言ってたじゃない。

昨日、ティアが言った言葉を、私の焔はもう忘れない」


ルゥは、力強い声で繰り返した。


「“焔の記憶が次の道を示す”って。

私の焔は、未来を切り開くためにある。過去に囚われている場合じゃない」


エリアスが、その揺るぎない決意に頷き、彼の剣の誓いがルゥの炎に重なる。ティアもルゥのまっすぐな瞳を見て、初めて安堵のような微かな笑みを浮かべた。


「なら、風も焔も、剣も同じ想いね。

私の残響も、あなたたちと共に道を見つけられるかもしれない。行きましょう」


三人は、迷いの森の暗い入口へと迷いなく足を踏み入れた。


森へと入る最初の一歩で、外界の空気とは全く異なる、濃密な空気が三人を包み込んだ。

風は完全に止んだが、代わりに、無数の音が生まれた。遠くで鈴のような、あるいはガラスがぶつかるような澄んだ音が鳴り、それが波紋のように静かに広がっていく。それは、風の音とは違う、記憶が発する音のように感じられた。


木々は黒く、高くそびえ立ち、太い枝が複雑に絡み合い、空を覆い尽くしていた。

光は木々の隙間から僅かに差すが、その光もまるで生きているように動き、葉の間を滑っては形を変えるため、常に周囲の景色が揺らぎ定まらない。


「……道がない。どこをどう進めばいいんだ」


エリアスの言葉に、ルゥは辺りを見回した。

自然の森とは異なり、進むべき方向が全く分からない。木々の並びは歩くたびに変わり、足跡を残すこともできない。そして、後ろを振り返っても、もう森の入口の姿はどこにもなかった。

まるで、彼らが踏み入れた瞬間に、世界から切り離されてしまったかのようだった。


「ティア……どうすれば」


ルゥの不安な声に、ティアは表情を変えることなく答えた。


「落ち着いて。この森は、あなたの心と記憶に強く反応する。道がないのではない。道が多すぎるのよ」


ティアは言った。


「恐れれば恐れるほど、迷いが増え道が増えて戻れなくなる。あなたの過去の恐怖や未練が、行く手を阻む幻影を生み出す。

大切なのは、心を閉ざすことではない。ただ、自分の核心だけを信じること」


彼女は、両手を胸の前で組み、目を閉じた。

風のないはずの空間で、彼女の銀の髪だけが、まるで目に見えない水流に揺らされているかのように、静かに揺れ始める。


「私が……歌えばいい。

風の民の最後の歌がこの森の記憶を刺激し、私たちに残された唯一の道筋を思い出させるように」


彼女がかすかに、しかし確かな旋律を口にし始めると、森全体がわずかに息づいた。

その歌声は、葉を震わせ、木々の間に淡い青みがかった光を流し込む。光は、まるで水脈のように、うっすらと先へ先へと続いていく一本の道筋を描いた。


「……風の道だ。ティア、見えたよ」


ルゥが囁く。

ティアは目を開け、その光の道を指し示した。


「でも、気をつけて。この森の記憶は、時にやさしく時に残酷。あなたの最も大切なもの、そして最も見たくないものを同時に見せてくるわ」


森を進むたび、音と光景が、彼らの心を侵食するように変わっていった。


風のないはずの空間で、なぜか遠くから鈴のような、楽しげな子どもの笑い声が聞こえる。

ルゥが思わず振り向けば、木々の隙間には誰もいない。しかし、木々の間を歩く、ぼんやりとした影がちらりと見えすぐに消える。

それは、彼らの知らない誰かの記憶が、森の意志によって再生されているようだった。


「ルゥ……今、誰かがいたぞ。間違いない」


エリアスの声が、わずかに震える。

剣士である彼が、目に見えない存在に動揺しているのは珍しかった。


「ううん……誰もいない。けど、何かがいる。

私たちが知っているはずのない、誰かの感情が、ここに満ちている」


ルゥは警戒しながら、心の焔を指先に灯そうとした。


しかし、その光はすぐに周囲の闇に薄れ、代わりに、木々の影の中に、別の光景が鮮明に浮かび上がった。


――それは、ルゥが故郷とする「焔の里」の風景。


活気に満ちた鍛冶場の音、子どもたちが焔の周りで笑い合う声。ルゥの親友ミラの髪飾りが風に揺れ、師であるガランの屈託のない笑顔が、遠くに見える。

ルゥは足を止め、その懐かしい景色が目の前に広がることに、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。


「……嘘、なんで。もう消えたはずなのに」


ルゥは、それが幻影だと理解しながらも、手を伸ばそうとする。エリアスの声が、まるで水の中に沈んだように遠く聞こえた。


「ルゥ! 止まれ、幻影だ!」


ルゥは耳を塞いだが、その声は霧に溶けて、届かない。鍛冶場の炎が突然吹き上がり、辺りを赤く染める中、焔の向こうに、母のような、しかしルゥが顔を知らない影が振り向いた。


――「ルゥ、焔を恐れてはだめよ。焔は、あなたの記憶そのものなのだから」


その声は、懐かしいのに、ルゥの記憶にはない、知らない声だった。その一瞬の囁きに、ルゥの心臓が強く跳ね、全身が震えた。


その瞬間、焔の幻影は弾けて消え、ルゥは現実の森の冷たい空気に引き戻された。


ルゥは膝をつき、激しい動悸を抑えようと、呼吸を整える。


「いまの……誰? 知らない声なのに、どうして」


ティアがそっとルゥの肩に手を置いた。

その手のひらは、風のように冷たく、慰めを与えているのか、それとも現実を突きつけているのか、判別できなかった。


「森が見せたのよ。あなたがまだ、心の最も深い場所に沈めて、意識的に覚えていない“最初の記憶”。あなたの焔の民としてのルーツよ」


「最初の……?」


ルゥは言葉を失った。

彼女の持つペンダントの力が、この森の記憶と共鳴し、彼女自身の最も古いルーツを掘り起こしたのだ。

ティアの瞳がわずかに光る。


「この森では、誰もが自分の最も深い記憶と向き合う。それが、最も愛しいものであっても、最も恐ろしいものであっても。それを受け入れられなければ、あなたは永遠にこの森の中で迷い続ける」


エリアスが、ルゥの横で深く歯を食いしばった。

彼の足元にも、ぼんやりとした影が生まれていた。

それは、エリアスがかつて守れなかった、無数の人々の姿だった。その中心には、彼が過去に失った、一人の少女の姿が浮かび上がっている。


彼は、その幻影から目を逸らそうとはしなかった。

ティアは彼を見て、静かに言った。


「恐れないで、剣士。記憶は、あなたを縛るための罰ではない。それは、あなたが誰かを想い、愛し、守ろうとした証よ。その痛みを認めることが、あなたの強さになる」


エリアスは、痛みに耐えるように拳を握り、ゆっくりと頷いた。


「……なら、逃げない。この森が見せる、どんな記憶でも、俺はちゃんと見届ける。それが俺の剣の誓いだ」


ルゥはその言葉に励まされるように立ち上がった。

彼女の瞳には、再び焔の光が戻っていた。


「私も逃げない。焔が記憶を燃やすなら、私はその光で、過去と今を照らす。そして、この森に残された記憶の歌を見つけ出す」


ティアの唇に、確かな微笑が浮かぶ。


「なら、きっと風も応えてくれる。あなたの焔の光が、この森をさまよう風の欠片を導くでしょう」


その瞬間、風のないはずの空間で、再び風が吹いた。

三人の足元の落ち葉が舞い上がり、青みがかった光が、再び彼らの進むべき道を示す。


その先に――静かな湖が現れた。

湖面は鏡のように滑らかで、森の木々や、朝日に立つ三人の姿を映している。しかし、その映像がゆっくりと揺らぎ、そこに別の光景が滲み出した。


――夜空。

――無数の白い塔。

――塔の麓で、静かに歌う人々。


ティアが息を呑み、その場に立ち尽くした。


「これは……! 私の記憶……私が失った都の姿」


彼女の声が震える。

ルゥが隣で、その都の姿を焼き付けようと問いかける。


「見えるの? あれが“語り部の都”なの?」


ティアの瞳が涙で滲む。

彼女の視界に浮かぶその都は、静かな滅びを迎えようとしていた。風が止まり、歌が途切れ、都の中心で灯されていた光が一つ、また一つと消えていく。


――美しく、そして痛ましい、永遠の沈黙。


ティアはその景色を見つめながら、ルゥの焔に触発されるように、小さく、けれど確かな決意を呟いた。


「もう一度……あの風に、歌を返さなきゃ。

都が失った、すべての記憶を込めた、たった一つの歌を……!」


彼女の決意は、ルゥの炎とエリアスの剣の誓いと重なり、迷いの森の深い闇を切り裂く、確かな光となった。

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