第5話 闇市場、想定外の実戦
日課の宿舎での魔法練習を終えた海斗は、窓から太陽を見つめる。時刻は午後3時近く。リンクスとの約束の時間に近づいていた。
「そろそろ行くか」
翠は白衣を脱ぎ、旅行の準備の中に含まれていた普段着に着替えていた。魔法練習の効率を上げるため、今日は特に集中して二人で取り組んでいた。光魔法の持続時間も徐々に伸び、海斗は一分以上、翠も五十秒近く維持できるようになっていた。
「リンクスは何を教えてくれるのかしら」
「さあな。でも、あいつはこの街のことをよく知ってるみたいだし、情報は貴重だろう」
海斗はポケットに翠のセンサー装置と練習杖、そして昨日獲得した銅貨を入れた。念のため、日本から持ってきたスマートフォンも携帯する。充電は残り少ないが、写真や動画が保存されており、いざというときの証拠や記録として役立つかもしれない。
スマホの画面を開くと、待ち受け画面には友人たちとの写真が映っていた。高校の文化祭での一コマだ。笑顔で肩を組む友人たち、その向こうに見える校舎。そして、端の方には琉亜の姿も写っている。海斗はその画面を眺め、一瞬だけ故郷を思い出した。あの日常は、今や遠い世界のものになっていた。
「何見てるの?」
翠が覗き込んできた。
「ただの思い出だよ」
海斗はスマホをポケットに滑り込ませた。
二人は宿舎を出て、昨日リンクスに案内された茶屋へと向かった。ファーストリングの路地は昼間でも薄暗く、入り組んでいる。住民たちは彼らを見ても特に気にかける様子はなく、それぞれの仕事に忙しそうだった。
道中、彼らは宿舎の仲間たちの様子について話した。
「最近、辰巳が集めてる連中、増えてるみたいね」と翠。
「ああ。あいつなりの生き残り方を模索してるんだろう。夜中に出歩いて、何か商売でもしてるみたいだ」
「七瀬さんの方は、『生存協議会』って名前をつけて、正式に組織化したらしいわ。もう30人くらいの生徒が加入してるって」
海斗は頷いた。転移から二週間、皆それぞれの方法で生き残りを図っている。中には魔導師の使い魔になった者もいるという噂も耳にしていた。
「かぐやのことは見かけなくなったけど、どうしてるんだろう」
「この前ちらっと見かけたわ。神殿に向かってた。あの子、何か宗教的なものに興味持ってるのかも」
「琉亜もまったく見ないな」
「何をしているやら……あの子のことだから、不味い事にはなってない気はするけど」
茶屋に到着すると、リンクスはすでに昨日と同じ隅のテーブルに座っていた。彼は周囲を警戒するように常に目を光らせながらも、海斗たちに気づくとさりげなく手を挙げた。
「定刻通りだな」
リンクスは二人を席に案内した。昨日と同じ緑色の「静心草茶」が既に注がれていた。
「どうだ、魔法の練習は進んでるか?」
「ああ。『ルーメン』の持続時間が少しずつ伸びてきた」
海斗の言葉に、リンクスは満足げに頷いた。
「で、今日はなんだ? 魔法の練習?」と海斗。
リンクスは茶を一口飲み、声を落とした。
「今日はもっと実用的なことを教えてやる。お前たちを『影市』に連れていく」
「『影市』?」と翠が首を傾げる。
「闇市場のことだ。正規の市場では手に入らないものが売買される場所。値段も交渉次第だし、中には違法なものもあるが、転移者にとっては役立つ情報や道具が手に入る可能性がある」
リンクスの説明に、海斗は興味を示した。
「危険じゃないの?」と翠。
「危険さは行動次第だ。俺についてくれば問題ない。それに、お前たちが持ってるものが、意外な価値を持つかもしれないしな」
リンクスの言葉に、海斗と翠は顔を見合わせた。
「持ってるもの?」
「ああ。異世界から来た転移者の持ち物は、魔法研究者たちにとって価値があるんだ。特に『科学的道具』とやらは高値で取引されることもある」
翠はハッとした表情になった。
「心当たりがあるわ」
「まあ実際に見せてみないとわからんが」
リンクスは立ち上がり、周囲を確認した。
「……行くぞ。俺の後についてきて、目立つ行動はするな」
三人は茶屋を出て、さらに入り組んだ路地へと進んだ。中央広場から遠ざかるほど、建物は古く、狭くなっていく。道中、時折怪しげな雰囲気の住人とすれ違った。彼らの中には、露骨に海斗たちを値踏みするような目で見る者もいた。
「ここらは転移者狩りも多いから気をつけろ」
リンクスの言葉に、二人は身を引き締めた。
「転移者狩り?」
「ああ。転移者を拉致して、研究材料として売り飛ばす連中だ。特に魔力の素質がある者は高値がつく。お前たちみたいに二週間で『ルーメン』が使えるようになった転移者はかなり珍しいんだ」
この言葉を聞き、海斗は他の麻葉学園の生徒たちのことが気になった。彼らは全員無事なのだろうか。
やがて彼らは行き止まりのような場所に到着した。
「ここだ」
リンクスは壁の一部を押した。すると、驚くことに壁が動き、小さな隠し通路が現れた。
「こんなところに……」
翠が驚きの声を上げる。
「幻影魔法で隠された入口だ。知っている者しか見つけられない」
リンクスは二人を促し、狭い通路に入った。薄暗い通路は下り坂になっており、地下深くへと続いていた。湿った空気と独特の匂いが漂う。壁には微かに光る魔法の文様が彫り込まれており、淡い青い光が道を照らしていた。
「この通路も魔法で守られているのね」と翠。
「ああ。単なる隠し通路じゃない。侵入者が入ろうとすると、迷宮に変わる仕掛けだ。知らずに入った者は二度と出られない」
リンクスの言葉に、二人は身震いした。この世界の魔法の力は恐ろしい。
通路を数分歩くと、突然空間が広がり、彼らの目の前に信じられない光景が広がった。
「これが『影市』だ」
地下洞窟のような広大な空間に、無数の露店やテントが立ち並び、様々な種族が行き交っていた。天井からは魔法の光球が吊り下げられ、薄暗い照明が場を不思議な雰囲気で包んでいる。空気には香辛料や薬草、錆びた金属と古い羊皮紙の混じった独特の匂いが立ち込めていた。
「すごい……こんな場所がファーストリングの地下に」
海斗は驚きを隠せなかった。見渡す限り、珍しい商品や魔法の道具が並んでいる。キラキラと輝く水晶、奇妙な形の瓶に入った液体、古い書物、見たこともない形の武器、そして様々な魔法道具。
市場の一角では、何かの生き物が籠の中で鳴いており、別の場所では魔法使いらしき人物が小さな火球を操って、品物の実演をしていた。鮮やかな衣装を身にまとった踊り子たちが、市場の中央で魅惑的な舞を披露している。その周りには、様々な種族の観客が集まっていた。
「この市場は塔の公式な統治が及ばない場所だ。だから、通常なら禁止されてる品物も取引される。だが、詐欺や粗悪品も多いから、素人は騙されやすい」
リンクスは人混みを縫うように歩きながら説明した。
「あのテントでは魔獣の部位を売ってる。魔力を高めるための薬の材料になるんだ。向こうの赤いテントは禁断の魔法書を扱ってる。素人が手を出すと命を落とすこともある」
「この世界の危険な部分が集まってるみたいね」と翠。
「ああ、でもチャンスもな。通常なら手に入らない情報や道具がここにはある」
「何か具体的に探してるものはあるか?」
「魔法の学習に役立つものがあれば」と翠。
「そうだな……ここなら何か見つかるかもしれない」と海斗。
三人は闇市場を歩き始めた。驚くべきことに、ここでは異種族だけでなく、明らかに転移者と思われる人々の姿も見かけた。彼らは地元の服装に着替えていたが、その行動や会話の様子から転移者だとわかる。
「あの人たちも転移者?」と海斗が尋ねる。
「ああ。お前たちとは別の世界からの転移者だ。この世界では時々、転移現象が起きる。特に近年は増えているらしい」
ある露店の前で、海斗の目に見覚えのあるものが映った。
「あれは……腕時計?」
確かに、地球の腕時計と思われるものが他の商品と一緒に並べられていた。店主は蛇のような下半身を持つ異種族で、海斗たちが近づくと舌をちらつかせながら声をかけてきた。
「転移者か? 興味があるなら、見てみるといい」
リンクスが通訳してくれる。彼の言語魔法のおかげで、会話がスムーズに進む。
「この時計、どこから?」と海斗が尋ねると、店主は得意気に答えた。
「以前来た転移者からだ。不思議な魔法が込められていて、時を正確に刻む。五十銀貨で売ってやるぞ」
リンクスが小声で海斗に言った。
「法外な値段だ。普通の時計なら十銀貨もしない。だが、転移者の道具となると価値が上がる」
海斗はポケットのスマートフォンを思い出した。もし時計でさえこんな価値があるなら、スマホはどうだろう。
彼らは他の店も回った。古い魔法書を売る店、魔獣の部位を扱う店、魔法の道具や薬を売る店など、実に様々だった。
リンクスは時々足を止め、店主たちと情報を交換していた。どうやら彼はこの闇市場でも一定の知名度があるようだ。
ある通りの角では、奇妙な音楽が聞こえてきた。何種類もの楽器が織りなす不思議な旋律に、海斗は思わず足を止めた。演奏者たちは人間とは思えない細長い指を持ち、見たこともない形の楽器を奏でていた。
「音楽も違うんだな…」
「ああ。魔法が込められた音楽もある。心を癒したり、逆に惑わせたりするものもな」
彼らが歩いていると、翠が足を止めたのは、精密工具を扱う店の前だった。
「ねえ、これ見て」
彼女が指さしたのは、小さな金属製の装置だった。複雑な歯車や水晶が組み合わさっており、どうやら何かの調整器具のようだ。そこには魔法語で【魔法語学習向き魔道具】と書かれている。
店主は眼鏡をかけた老人で、精密な作業に没頭していた。リンクスが声をかけると、老人はゆっくり顔を上げた。
「何か用かね、若者たち」
「あの装置は何ですか?」と翠が尋ねた。
リンクスが通訳すると、老人は作業を止め、装置を手に取った。
「これは『発音誘導装置』というものだよ。魔法語の習得を助ける道具でね、特に転移者に人気があるんだ」
翠の目が輝いた。
「どうやって使うんですか?」
「これを首にかけ、魔法語を発音する際に装着すると、声帯と舌の動きを微調整してくれる。正確な発音を身体に覚えさせるためのものだ」
老人は装置を翠に手渡した。複雑な細工が施された金属の輪に、小さな水晶が埋め込まれている。側面には魔法の文字が刻まれており、触れると微かに温かさを感じた。
「私の自信作の一つだ」
海斗と翠は顔を見合わせた。これは魔法語の習得に間違いなく役立ちそうだ。
「いくらですか?」と海斗。
「通常は百銀貨だが、転移者には特別に七十銀貨にしよう」
海斗の持っている百銅貨は一銀貨に過ぎない。落胆の表情を隠せない。
リンクスが二人に耳打ちした。
「値切れる。それに、何か交換できるものがあるかもしれない」
海斗はポケットのスマートフォンを取り出した。
「これに興味はありますか?」
老人は好奇心を示し、スマホを手に取った。
「これは何だ?」
「私たちの世界の道具です。画像や動画を保存できます」
海斗はスマホの電源を入れ、保存されていた写真や動画を見せた。学校の風景、友人との写真、東京の街並み。老人の目が驚きで大きく開いた。
「これは驚きだ! 瞬間を閉じ込める装置か!」
周囲の客も興味を示し始め、人だかりができた。海斗はカメラ機能を実演し、その場の写真を撮ってみせた。瞬時に画面に映った映像に、観衆からどよめきが上がる。
「凄い魔法だ!」
「別世界の技術とはいえ、あんな小さな箱に景色を閉じ込めるとは」
「これが転移者の文明か…」
老人の目が輝いた。
「これを譲ってくれるなら、発音誘導装置と交換してもいい。さらに十銀貨を足そう」
これは良い反応だ、と海斗は喜んだ。だが同時に迷ってもいた。スマホには日本の思い出がたくさん詰まっている。バッテリーも限られている。写真の中には家族や友人、学校生活の楽しい瞬間が記録されていた。それを手放すことは、過去との繋がりを一つ絶つことを意味する。
翠が海斗に小声で言った。
「後悔しない? 大事な思い出が……」
海斗は少し考えてから決断した。
「大丈夫だ。今の俺たちには、魔法の上達が何より必要だ。それに、バッテリーもいずれなくなる」
電源を基本切っていたはずだが、スマホのバッテリーはすでに30%を切っていた。充電する手段のないこの世界では、いずれ使えなくなる運命だった。それならば、今この瞬間に役立てる方が賢明だと海斗は判断した。
彼は老人に向き直った。
「交換します。ただし、写真と動画のデータを消さないでください。それが価値の証明になりますから」
老人は喜んで同意した。取引が成立し、海斗と翠は発音誘導装置と十銀貨を手に入れた。老人は宝物のようにスマホを胸ポケットにしまい、感謝の言葉を述べた。
人々の注目を浴びながら、三人はその場を後にした。
「よくやった」とリンクスが言った。「あのスマートフォンとやらは、魔法研究者にとって宝物のようなものだ。老人も満足だろう」
「この装置、本当に魔法語の習得に役立つのかしら」
「ああ、間違いない。あのじいさんは腕のいい魔道具職人だ。詐欺はしない」
リンクスは別の通路へと彼らを導いた。
「次は情報だ。この銀貨を使って、もっと役立つものを探そう」
彼らが向かったのは、市場の奥にある落ち着いた雰囲気の店だった。店の看板には「万象堂」と書かれている。
中に入ると、壁一面に本棚が並び、中央には古い地図や書類が広げられた大きなテーブルがあった。空気中には古い紙と墨の香りが漂い、天井からは様々な形の結晶が吊るされていた。それらは微かに光を放ち、店内を柔らかく照らしていた。
店主は細身の中年男性で、来客に気づくとゆっくりと近づいてきた。彼の瞳は異様に青く、その肌には細かな文様のような模様が浮かんでいた。
「おや、リンクス。珍しい客を連れてきたな」
「エルト、この二人は新しい転移者だ。魔法語と魔法の習得を目指している」
エルトと呼ばれた男性は、海斗と翠を興味深げに観察した。
「なるほど。転移者か。いつ頃来たんだ?」
「二週間前です」と海斗。
「二週間か。魔法は使えるのか?」
「【光あれ】」
海斗の手元に光が灯る。
「二週間でそれなら才能がある方だろう」
エルトは棚から数冊の本を取り出した。表紙には海斗たちには読めない文字が複雑に組み合わさっていた。
「これは有能な教育者が書いた基礎魔法語の文法と発音の手引きだ。正規の書籍よりも詳しく、実践的な例も豊富にある。市場では手に入りにくい」
翠が本を開くと、確かに宿舎で配られた教本よりも詳細な説明とイラストが載っていた。ページをめくるとそこには発音時の舌の位置や、魔力の流れを示す図解がびっしりと描かれていた。さらには、初心者が陥りやすい間違いと、その修正方法まで記されている。
「いくらですか?」
「十銀貨だ」
リンクスの知り合いという手前もあり、素直に二十銀貨のうち十銀貨を支払った。
海斗と翠は貴重な本を手に入れた。
エルトはさらに彼らに近づき、声を落とした。奥の棚を指さして二人に続くよう促した。誰も近くにいないことを確認してから、彼は話し始めた。
「転移者の君たちに、少し忠告しておこう。最近、転移者を狙う連中が増えている。『黒翼会』という連中が、どうやら関心を持っているらしい」
「黒翼会?」と海斗。
「上層に拠点を持つ派閥の一つだ。少なくとも下級の世界貴族が絡んでいるようだ。詳細はわからないが、転移者を『実験材料』として扱っているという噂がある」
エルトは左右を見回し、さらに声を落とした。
「特に転移者の中でも、魔法の適性が高い者が狙われる。君たちのように短期間で魔法を習得した者は、特に警戒が必要だ」
「なぜ転移者が狙われるんですか?」と翠。
「転移者の魔力には、この世界の住人とは異なる特殊な波動があるという噂がある。それを研究している魔導師たちがいるとも。詳細は闇に包まれているがね」
エルトの言葉に、翠が不安げな表情を浮かべた。
「気をつけます」と海斗。
情報と本を手に入れ、三人は闇市場を後にする準備を始めた。しかし、出口に向かう途中、見慣れぬ通路に迷い込んでしまった。闇市場は迷路のように入り組んでおり、一度足を踏み入れた場所でも、二度目には全く様相が異なることもあるという。
「ここは……」
リンクスも少し戸惑った様子だった。
「俺もあまり来ない区画だ。引き返そう」
しかし、振り返ると三人の男が立ちはだかっていた。彼らの目は冷たく、明らかに敵意を持っている。一人は全身を黒い衣服で覆い、もう一人は腕に魔法の文様の刺青が走っていた。三人目は他の二人より大柄で、腰に短剣を差している。
「転移者。随分と儲けたようだな」
男たちのリーダーらしき男が、にやりと笑った。追い剥ぎだ。
「邪魔だ、どけ」
リンクスは冷静に言い放ったが、相手は引く気配がない。
「お前らの持ち物をよこせ。特に銀貨と、その装置だ」
男たちは海斗たちを囲んだ。三対三だが、相手は明らかに戦いに慣れている。二人人は手に短剣を構え、もう一人は何かの魔法を準備しているようだった。
リンクスは小声で言った。
「俺の合図で、左の通路に走れ。それから……」
しかし、男たちは待ってくれない。一人が突進してきた。リンクスは見事な動きでそれを避け、逆に相手を壁まで蹴りつけた。その動きはあまりにも素早く、海斗の目では追えないほどだった。残りの二人も攻撃を開始する。
「逃げろ!」
リンクスの叫びに、海斗と翠は左の通路へ走り出した。しかし、別の男が魔法を唱える。
「【炎あれ】!」
通路は瞬く間に炎で塞がれてしまう。すごい出力だ。格上の魔法を使う相手である事が分かり、海斗は焦りを感じる。
「くそっ!」
海斗は練習杖を取り出した。閉鎖空間で初めての実戦だ。彼は集中し、全力で「【光あれ】!」を唱えた。杖から強烈な光が放たれ、暗い通路で追い剥ぎたちの目を眩ませた。
「くそッ! 眩しすぎる!」
その隙に、海斗は翠の手を引いて反対側の通路へ走った。リンクスも巧みに敵を翻弄しながら合流する。彼は素早い動きで一人の追い剥ぎを足払いで倒し、もう一人の顔面に蹴りを入れていた。
三人は入り組んだ通路を全力で走った。背後からは怒号と足音が迫る。
「やつらは知っているのか? 俺たちが転移者だと」と海斗。
「ああ、多分な。お前らの服装と言動でわかる。転移者は狙われやすいんだ」
彼らは曲がりくねった通路を駆け抜けるが、出口が見つからない。地下市場は予想以上に広く、迷路のようだった。
「このままじゃ……」
その時、翠が立ち止まり、センサー装置を取り出した。
「何かを感知してる! この方向に強い魔力の波動が」
彼女が示した方向に、かすかな光が見えた。三人はその光へと走った。
光の源は一見何もない壁だった。だがリンクスが触れると、そこは別の通路につながっていた。
「急げ!」
背後の仕掛けは三人の事を再び隠し、男たちは三人を見失ったようだ。
三人が通路を駆け抜けると、遠くに出口の光が見えてきた。
最後の力を振り絞って走り、ようやく彼らは闇市場の入口から外の路地へと飛び出した。
「あっちだ!」
リンクスは複雑な路地を案内し、念のため何度も方向を変えた。ようやく安全と判断し、三人は小さな広場で息を整えた。
「危なかった」
海斗は肩で息をしながら言った。
「あんな連中なら日常茶飯事だ。でも、お前の魔法の使い方は見事だったぞ。実戦で光魔法をうまく活用していた」
リンクスの言葉に、海斗は素直に「喜んでおくよ」と返す。
「でも、翠のセンサーがなければ逃げられなかったかもしれないな」
翠はセンサー装置を見つめていた。
「不思議ね。あの通路で装置が強い反応を示したわ。通常の電磁波とも、これまで検出した魔力とも違う波形だった」
彼女は装置の画面を海斗とリンクスに見せた。そこには複雑な波形が表示されており、通常の魔力検出時と比べて明らかに異なるパターンを示していた。
「この装置、面白いな」とリンクス。「魔力を形として検出できるのは珍しい。大事にしろよ」
リンクスは装置を興味深そうに観察した。
「魔力と波の関係か…もしかしたら、上層の魔導師が研究してる分野かもしれない」
三人はゆっくりと宿舎へ向かった。日没が近づき、街は夕暮れの光に包まれている。
「今日の収穫は大きかったな」
海斗は発音誘導装置を手に取った。この装置と本のおかげで、魔法語の学習は大幅に進むだろう。
「ああ。しかし、あのエルトの忠告は気になる。黒翼会とやらが転移者を狙っているとなると、お前たちも注意が必要だ」
リンクスの表情は真剣だった。
「明日からは、本格的に魔法の練習だ。この装置と本を使って、一番難しい基礎をしっかり固めていこう。そして……」
彼は空を見上げた。
「アストラル・アカデミアの入学を目指す。それがこの世界で成り上がる最短の道だ」
海斗と翠も空を見上げた。天高く続く塔は、どこまでも伸びている。この先の果てしなく続く道のりを暗示しているかのようだった。
それからリンクスと別れた二人は、宿舎に戻る前、こんな会話をした。
「海斗、スマホを手放して本当に良かったの?」
海斗は少し考えてから答えた。
「ああ。あれは過去の記録に過ぎない。俺たちは前を向かないと」
翠は小さく微笑んだ。
「そうね。私たちの未来は、この世界で切り開いていくしかないか」
そう言って、彼女はセンサー装置を再び確認した。装置の画面には、先ほどの奇妙な波形がまだ記録されていた。
「でも、この波形…何かの鍵になるかもしれないわ。記録しておきましょう」
「そうだな」
宿舎に戻った翠は、テーブルの上でノートに波形を書き留めていく。意外と絵心があるのか、正確なスケッチになっていた。
「これがなんなのか、いつか分かるかもしれないわね」
海斗は窓辺に立ち、宿舎の外を見た。中央広場の方からは、いつもの喧騒が聞こえてくる。転移して二週間、彼らはこの世界の生活にも少しずつ慣れてきていた。
宿舎の中では、他の転移者たちも様々な活動をしていた。ある部屋では数人が集まって魔法の練習をしており、別の部屋では商売で得た収入を数えている者もいる。かつてのクラスメイトたちも、それぞれの方法で生き残りを図っていた。
食堂では七瀬玲奈が「生存協議会」のメンバーたちと会議を開いていた。彼女の周りには30人ほどの生徒が集まり、情報共有や仕事の割り振りなどを議論している。
「皆さん、あと二週間で支援期間が終わります。それまでに仕事と住居を確保しましょう」
玲奈の声は力強く、リーダーとしての風格が備わっていた。
一方、廊下の奥では辰巳拓海と彼の取り巻きたちが、小声で何かを相談していた。彼らの中に闇市場で見かけた顔がある事にも気づく。どうやら影市との繋がりもあるようだった。
かぐやや琉亜は、影も形もない。すっかり宿舎は引き払ってしまったようだ。
それからしばらく、海斗と翠の二人はリンクスと毎日のように会い、魔法語の勉強を重ねた。発音誘導装置は期待通りの効果を発揮し、魔法語の習得は加速した。翠は文法構造を理論的に分析する能力に優れ、海斗は実践的な魔力操作の感覚を磨いていき、それらを教え合った。
合間にちょこちょこ目立たない程度に賭博場で小銭を稼ぎ、日々の雑費とした。リンクスの指導もあり、海斗はルーン・ダイスでさらに勝率を上げることができるようになっていたが、不自然にならないように勝つ割合は抑えていた。
次第に二人は気持ちのいい性格をした少年であるリンクスと意気投合していき、また魔法語や魔法も上達していく。
魔力量は増え、魔法のレパートリーも増えた。「【光あれ】」だけでなく、「【炎あれ】」、「【水あれ】」、「【土あれ】」、「【風あれ】」という基本五属性の魔法を習得した。
翠は相変わらず海斗にツンツンとしているが、段々と少女らしい笑顔を素直に見せるシーンも増えていった。ある『誤解』による破局から半年以上が経っていたが、異世界という危機を経て、海斗を再び信頼しつつあるのは明らかだった。
そうしているうちに、転移してから一か月が経とうとしていた。
約束の期日、いよいよ宿舎にいるのに週2枚の銀貨がいる時期が近付いていた。
それは、転移した麻葉学園の生徒達の少なくない割合にとって、最後の平穏が終わる事を意味していた――