第二話 異世界生活の始まり、生徒達の方針
夏の日差しのような眩しい光が収まると、そこに広がっていたのは、学園の校庭ではなく、一面に広がる黄金色の小麦畑だった。青々とした空に白い雲、そして、その先に天を貫くような巨大な塔。
その塔は世界そのものを二分するかのように、雲を突き抜けてどこまでも伸びていて、その先は視認する事すらできなかった。
ただ塔を眺めていると、海斗の耳に周囲の混乱が徐々に届き始めた。
「どうなってるの?」
「何これ、夢?」
「先生はどこ?」
「おい、スマホが圏外だぞ!」
「ここどこ?」
パニックに陥る者、茫然と立ち尽くす者、興奮して叫ぶ者――麻葉学園の二年生約240名が、見知らぬ大地に投げ出されていた。教師の姿はない。バスもない。あるのは生徒たちと、彼らが持っていた荷物だけだ。
「お前ら、落ち着け!」
生徒会長の七瀬玲奈が声を張り上げた。彼女は急いで木箱の上に立ち、指揮を執ろうとしていた。
「まずは点呼を取る。クラスごとに集まって――」
その言葉が途切れた。玲奈の目が何かを追いかけていた。海斗も見上げると、空から何かが降りてくるのが見えた。最初は鳥かと思ったが、徐々に近づくその姿は明らかに違っていた。
白い毛並みに長い耳。巨大な白兎だ。いや、うさぎというには異形だった。体長は1メートルはあり、後ろ足で二足歩行ができそうな身体つきに、着飾った服を身にまとっている。まるで『不思議の国のアリス』に出てくるウサギのような姿だが、その表情には妖艶さすら漂っていた。
白兎は優雅に空を舞いながら降下し、生徒たちの前の空中に浮かんだまま停止した。
「おほほほほ! ようこそいらっしゃいませ、皆様! ビツでございますわ! 皆様のご到着をお待ちしておりましたのよ!」
高いテンションと妙に気取った口調で、白兎――ビツは完璧なカーテシーをしながら大仰に挨拶した。生徒たちから驚きの声が上がる。
「うさぎが……しゃべった?」
「浮いてる……」
「なにこれ、コスプレ?」
ビツは耳を振りながら、くるりと宙返りをした。
「さあさあ、皆様! 『三百層級魔導師』『下級世界貴族』にあらせられる偉大なる魔導師メヴィザール様の使い魔、ビツでございますわ! メヴィザール様は、転移者の皆様を迎える栄誉を、このビツにお与えくださいましてよ!」
その奇妙な口調と振る舞い、話している内容の数々に、生徒たちはただ呆然として何も言えずにいた。海斗もこの状況が信じられずにいたが、ふと隣に立っていたかぐやが、嬉しそうに声を上げるのが聞こえた。
「わあっ、本物の使い魔だあ! 私の夢と全く同じだよっ! これってまるで古代霊媒術で予言されていた『境界を越える白き接続者』みたいだねっ! 四次元的な意識の交差点にいた存在が実体化したと考えると面白いかも!」
かぐやの目は異様な輝きを放ち、爛々と目の前の兎人間を見つめていた。その意味不明な言葉に、翠がため息をついた。
「夢が当たるなんて……そんな、ありえないでしょ。だいたい霊媒術だなんて非科学的すぎる……」
しかし、彼女の声には確信がなかった。目の前の現実が既に「ありえない」「非科学的」なものなのだから。
ビツは生徒たちの前に降り立ち、片方の前足で虚空を引っ掻くような仕草をすると、突如として空気が裂け、小さな穴が開いた。その穴から、ビツは巻物を取り出した。
「さて、メヴィザール様からのご伝言でございますわ。えーと……ハラショー、異世界からの転移者の皆様方。私の実験の副産物として、あなた方が我らがアクラニスの塔へと召喚されたようですね。予想外の結果でしたが、面白い展開です」
ビツは巻物を読みながら、時折声色を変えて、明らかに主人の口調を真似ていた。そのままの喋り方でビツは続ける。
「私は多忙のため、直接お会いする時間がございません。ですが、安心してください。あなた方にはアクラニス法に基づき『魔導師見習い』としての地位が与えられます。我がアクラニスの塔の制度では、転移者は基本的人権を保障されています。ぜひこの世界で新たな人生を歩み始めましょう」
ビツが巻物を閉じると、生徒たちからは怒りや不安、混乱の声が上がった。
「冗談じゃない! 元の世界に返せよ!」
「家族にも何も言えてないままお別れ?」
「これって誘拐だろ」
ビツは両前足を広げて、空気を静める仕草をした。
「おーほっほっほ! お気持ちはわかりますわ。でもでも、現時点では残念ながら戻れませんの。ただし――」
ビツは空に向かって前足を伸ばし、塔を指さした。
「アクラニスの塔を登り詰めれば、話は違うかもしれませんわ! 塔の頂上に至る道のりで、魔導師はあらゆる全知全能の力を得ると言われています。その高みまで到達すれば、もしかすると皆様のご故郷へ戻る方法も見つかるかもしれませんわ!」
その言葉に、かすかな希望の光が灯るのを海斗は感じた。
「では皆様、怖がらずに、私についていらしてくださいな。まずはアクラニスの塔第一層にある、みなさまが最初に暮らす事になる都市へとご案内いたしましょう」
ビツは軽やかに空中に舞い上がり、塔の方角を指し示した。
小麦畑から都市までの道のりは、予想よりも長かった。
整列して歩く240名の生徒たちの列は、まるで遠足のようでもあり、難民のようでもあった。先頭を飛びながら案内するビツの周りには、必然的に生徒たちが集まった。
海斗も含め、数十名が前方に詰めかけ、この奇妙な生物からできるだけ多くの情報を得ようとしていた。いまは、琉亜と翠とかぐやという学園きっての知性派と目されている女子三人が中心となって、ビツを質問攻めにしている。
「このアクラニスの塔について詳細に情報をちょうだい」という翠の質問というか要請に、ビツは喜んで答えた。
「おほほほ! アクラニスの塔は世界の中心にして、魔法と知恵の源泉でございますわ! あらゆる商業活動、魔法研究、軍事戦略等の世界的頂点であり、地上から天空まで千層からなる巨大建造物でございますの!」
ビツは両前足を使って、大仰な身振りで説明を続けた。
「第1層は下層民や外部の人間が住まう農業・工業都市でございますわ! 第10層には商業の中心都市があり、あらゆる物資が取引されておりますの!」
「じゃあ、その上の階層はどうなってるの?」と翠が質問した。
「お待ちくださいませ! 第30層、第50層、第70層には、魔法学園『アストラル・アカデミア』キャンパスが、学園の階級制度に基づいた★、★★、★★★の3区分に対応してそれぞれ存在するのでございますわ! ここが、一人前の魔導師を目指す者たちの登竜門となっておりますの!」
「その間の階層は?」と今度は琉亜が尋ねた。
「おほほほ! 鋭いご質問ですわ! 合間の階層はダンジョンとなっており、魔法資源の採掘や魔獣の討伐のための大自然が広がっておりますわ! 危険ですが、それだけ報酬も大きい冒険の場なのでございますの!」
ビツの説明は続いた。
「100層から先は『100層級魔導師』と呼ばれる一般魔導師の生活区画。200層から先は『200層級魔導師』と呼ばれる貴族一歩手前の上級魔導師が暮らし、300層から先は『下級世界貴族』、400層から先は『上級世界貴族』が暮らすのでございますの!」
「そして500層より上は?」とかぐやが目を輝かせて質問した。
「500層より上は『天空議会』の領域とされておりますが、詳細は一般人には知らされておりませんの。神秘と伝説に包まれた領域と言えましょう!」
かぐやは両手を胸の前で組み、興奮した様子で叫んだ。
「すごいっ! これは『垂直宇宙の階層構造』そのものだよっ! 古代シュメール文明の『天と地を繋ぐジグラト』の真の姿が具現化してるのかもしれないっ! 各層は意識の状態そのものを象徴してて、上に登るほど高次の実在に近づくってこと! まさに宇宙的な意識の梯子だよぉっ!」
一人相変わらず意味不明な事を言いながらテンションを最高潮まで高めるかぐやに、周囲の生徒たちは半ば呆れ、半ば感心した様子で見つめた。海斗は思わず笑いそうになるくらい空想的だったが、一方でこの異世界という空想が実在するという現実に基づくと、かぐやの言葉には一定の価値がある可能性もあった。
「それって、どれくらいの高さなの?」と別の生徒が訊ねた。
「全体の高さは約四万メートルといわれておりますわ。最上層は空気も考えられないほど薄く、もちろん、魔法なしでは生きられないと言われています」
生徒たちからは驚きの声が上がった。四万メートルといえば、地球最高峰のエベレストよりもはるかに高い。そもそも宇宙に突入する高さってどれくらいだったっけ……
「じゃあ、俺たちはどこに住むんだ?」と海斗が訊ねた。
「皆様は最初、最下層の都市内に宿舎が用意されておりますわ。そこから腕を磨き、学びを深め、少しずつ上の層を目指していただきますの」
ビツの説明は続いた。この世界では時々、他世界からの転移者が現れるが、それは珍しいことではないという。転移者は「星降りの民」と呼ばれ、通常の住民とは異なる特別な素質を持つことがあるため、魔導師たちからは研究対象として、また潜在的な才能として注目されているのだそうだ。
「転移者はどうやって塔を上がっていくの?」というかぐやの質問に、ビツは重要な情報を明かした。
「おほほほ! それこそが魔導師への道を歩むということ、魔法を学ぶということでございますわ! 皆様にあたっては、まず『魔法語』を習得していただき、試験を受けて、三十層にある『アストラル・アカデミア』という学校に入学していただくのが王道でございますの!」
アストラル・アカデミア――海斗はその名を心に刻んだ。どうやらそれが、この世界で生き抜くための最初の目標になりそうだった。
約一時間の道のりを経て、彼らの視界に巨大な都市が広がり始めた。塔の最下層を囲むように広がる都市は、中世ヨーロッパの街並みを思わせる石造りの建物が立ち並び、道路には馬車や露店が軒を連ねていた。
だが、そこに住まう人々の姿は明らかに「人間」とは異なっていた。
角や尻尾、動物の耳、鱗のような皮膚を持つ者、青や緑の肌を持つ者――多種多様な種族が行き交っている。中にはビツのような獣人種や、翼を持った空飛ぶ種族まで見られた。
「あれは……人間じゃない」
「ファンタジー世界みたいだ」
「うわ、あの人、角生えてる!」
生徒たちからは興奮や驚きの声が上がる。異種族だらけとはいえ、どこか懐かしさを感じる中世の街並みは、まるでRPGゲームのような雰囲気だった。
ビツは得意げに語る。「アクラニスの塔の最下層都市『ファーストリング』へようこそ! ここには50万を超える住民が暮らし、特に工業と農業、そして魔法産業が栄えておりますの!」
生徒たちは興奮と不安が入り混じった表情で、この異世界の街並みを見つめていた。
ファーストリングの中心部に到着すると、ビツは生徒たちを広場に集めた。広場の中央には塔の入口となる巨大な門があり、その周りには市場や広場が広がっていた。
「皆様、少々お待ちくださいませ」
ビツは前足を緩やかに動かすと、空中に幾何学的な模様が浮かび上がった。その模様が光り、突如として半透明の映像が現れた。
それは、メガネをかけた知的な雰囲気の壮年男性だった。黒色を基調に金色が随所に入った豪奢なローブを着て、その胸に鷹の形を象った紫の宝石のバッジをつけている。その目は鋭く、しかし好奇心に満ちていた。
「私はメヴィザール。アクラニスの塔、『300層級魔導師』、つまり『下級世界貴族』です」
深く落ち着いた声が空間を包む。映像の男性――メヴィザールは微笑んだ。
「異世界からの訪問者たち、われらがアクラニスの塔へようこそ。君たちの突然の転移は、私の次元境界実験の予期せぬ副産物でした。巻き込んでしまった事は申し訳ないと言うほかないでしょう」
その言葉に生徒たちからは怒りの声が上がったが、メヴィザールは平然と続けた。
「怒りは理解できます。ですが、残念ながら君たちを即座に元の世界へ返す方法は、現在のところ存在しません」
その言葉に、絶望の溜息が漏れる。
「しかし、希望はあります。アクラニスの塔は無限の力と可能性に満ちた場所です。上層へ登るほど、より強力な魔法、より深い知識、より大きな力、より神秘的な異能を得ることができる。塔の頂点に至った者には、あらゆる願いを叶える力があるとされている」
メヴィザールは少し表情を和らげた。
「君たちには、『魔導師見習い』としての地位が与えられる。塔の最下層に住み、魔法を学び、少しずつ上を目指せばいい。才能次第では、驚くほど早く上層へ到達する者も出るだろう。キミたちは、元居た世界より、遥かに充実した生活で、様々な欲望を満たせるかもしれない」
彼は片手を上げ、何かを示すような仕草をした。
「地位、名声、富、力、知識、恋愛対象の愛――そして、もしかすると故郷への道。それらは全て、君たち自身の手で掴み取るものだ。幸運を祈る、頑張りたまえ」
そして映像は消え、代わりにビツが再び前に踊り出た。
「おほほほ! メヴィザール様は素晴らしいお方でございますわ! とても忙しいお方なので、これだけのメッセージをくださっただけでも大変な栄誉でございますの!」
だが、生徒たちの表情は冴えなかった。「勝手に連れてきておいて、『頑張れ』だけかよ」「異世界転移って、そんな簡単に片付けられる問題じゃない」など、不満の声が漏れる。
ビツは前足を振って、さらに説明を加えた。
「皆様、ご心配なく! 転移者の皆様には特別な保護制度がございますの。当面の宿と食事は保障され、特別に魔法を学ぶ基本教材も支給されますわ。そこから先は、皆様のご努力次第!」
そこで生徒会長の七瀬玲奈が一歩前に出た。
「具体的にどうすれば良い? 私たちはこの世界のことを何も知らないのだが」
ビツは嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねた。
「おほほほ! まさにそのために、このビツがついておりますの! まずは皆様を宿舎へご案内し、基本的な生活と魔法の初歩をお教えいたしますわ!」
生徒達は、羊飼いについていく羊のように兎少女の後ろをついていくのだった。
*****
生徒たちが案内された宿舎は、塔の最下層、ファーストリングの北区画にある大きな石造りの建物だった。かつて兵舎として使われていたという建物は、今は転移者専用の一時滞在施設の一つとして機能しているという。
内部は広く、だが簡素だった。各部屋は狭いが個室になっていて、男女で区画が分けられていた。中央には共用の食堂スペースがあり、その壁には暖炉などもある。衛生設備も最低限は整っていたが、日本の基準からすれば原始的だった。多くの生徒は鼻をしかめながらも、現状ではこれが彼らの唯一の避難所だという現実を受け入れつつあった。
「ええーシャワーないの……」
「トイレが穴空いてるだけなんだが」
生徒たちのあちこちから不満の声が漏れる。海斗も正直、不便極まりないと感じたが、彼の頭にはもっと切実な心配事があった。明日から、どうやって生きていくのか。
ビツの指示で荷物を置いた生徒達に、食堂で簡単な食事――パンと野菜のスープに干し肉――が人数分配られた。空腹だった生徒たちは、文句を言いながらもおのおの食べていく。
「これがこの世界の食事か……美味しくないな」と文句を言う男子生徒。
「でも、食べられるだけいいじゃない」と冷静に言う女子生徒。
「うわ、このパン硬すぎ!わたし顎弱いんだけど!」と別の声。
しかし、その硬いパンがスープに浸すとなんとか食べやすくなることを発見した生徒たちは、徐々に黙々と食べ始めた。過酷な現実を前に、空腹を満たすことが何よりも優先された。
食事中、ビツは不思議な球体を取り出すと、それをテーブルの中央に置いた。球体が淡い光を放つと、突然生徒たちの耳に直接響くような形で、ビツの声が聞こえるようになった。
「おほほほ!これは『言霊球』というコミュニケーション魔法具でございますの! 高位魔導師の言語魔法がこの球体に込められており、皆様が私の言葉を理解し、皆様の言葉も私に伝わるよう翻訳されますわ!」
ビツの説明に、生徒たちは驚きの声を上げた。
「だから通じてたのか」
海斗は疑問の一つが解消して一人納得した。
「言語障壁が魔法で突破できるなんて……」
翠はその科学的にはあり得ない事象に驚いたようだ。
「わぁー、心と心の直接接続とかやってるねぇ! 夢広がるよっ! めちゃくちゃ!」
かぐやは相変わらずの独自の考え方で一人テンションを上げている。
「ただし、この魔法具は私のそばにある間だけ有効でございますの。私がいない場所では、残念ながら言葉の壁がございますわ。現地の言葉『共通語』かこの都市では共通語の一つとして用いられる『魔法語』のいずれかを習得しないと、いずれ困難に突き当たりますわよ」
生徒たちは再び現実に引き戻され、落胆の溜息をついた。
食事後、ビツは基本的な生活ルールを説明した。
「こちらの宿舎では、最初の一ヶ月間は無料で滞在できますの。その間に魔法を学び、仕事を見つけ、自立する準備をしてくださいませ。一ヶ月を過ぎれば、宿代として週に2銀貨が必要となりますわ」
現地通貨の説明もあった。銅貨、銀貨、金貨という三段階の通貨があり、1金貨は100銀貨に、1銀貨は100銅貨に相当するという。一般的な労働者の日給は1銀貨程度だという。
「週に2銀貨って…だいたい2日分の労働ってことか」と海斗は計算した。
「明日からは、魔法語の基礎教材を配布いたしますの。魔法語『アルカナ・グロッサ』の習得が、この世界で生きる第一歩でございますわよ!」
そして少し表情を暗くして、ビツは重要な警告を加えた。
「……あの、一つだけ申し上げたいことがございますの。ファーストリングの住人たちは、転移者に対して必ずしも友好的ではありませんわ。『星降りの民』と呼ばれる皆様を、厄介者や不吉な予兆と見なす者もおりますの。外出の際は、十分にご注意を」
その言葉に、居心地の悪さを覚える生徒たち。歓迎されない異邦人としての現実を突きつけられる思いだった。
質疑応答の後、ビツは明日また来ると告げて去った。残された生徒たちは、現実を受け入れることに苦戦しながらも、おのおの行動し始める。
*****
日が落ち、宿舎には薄暗い灯りだけが残った。皆、自分の荷物を点検したり、友人たちと集まって情報交換したりしていた。
海斗は自分のベッドに座り、今日の出来事を整理しようとしていた。異世界に、魔法に、魔導師の塔。あまりにも非現実的な状況に、頭がクラクラとする。自分のリュックを開け、中の荷物を確認する。携帯電話はもちろん圏外だ。充電もいつかは切れるだろう。服、タオル、財布……日本の円はここでは紙切れ同然だ。
ふと、手に触れたのは翠から受け取ったセンサー装置。彼女が科学実験用に作ったという小型の装置は、なんらかの電磁波を感知しているのか、波形を表示している。
彼はそれを眺めて苦笑した。
「海斗」
声がして顔を上げると、翠が立っていた。いつもの白衣姿だが、表情は明らかに疲れていた。髪も少し乱れている。普段の完璧な彼女からは想像できない姿だった。
「ちょっといい? かぐやと琉亜とたまたま話してたんだけど、海斗も呼ぼうって」
海斗は頷き、男女の区画を分ける壁の近くにある食堂の一角に向かった。案内されたテーブルには既にかぐやと琉亜が座っていた。かぐやはどこか興奮した様子で両手を動かしながら何かを説明しており、琉亜はいつもの冷静さを保ちながら聞いていた。
「とりあえず、学園全体でも、人格はともかく頭はいい方だろう面子が揃ったわ。今は私たち四人で、今後どうするか話し合う機会を持ちましょう」と翠は毒舌を交えつつ切り出した。
「人格はともかくって、あんまりだろ」
海斗が反論する。
「かぐやちゃんは人格は完璧だけどあんまり頭は良くないかなっ!」
かぐやが的外れな自己分析を始める。
「……逆」
琉亜がかぐやの妄言を短く否定する。
「……とにかくっ! まず、この状況は現実。夢でも幻でもない。本当に私たちは異世界に来てしまったわ」
翠の言葉に、誰も異論を唱えなかった。四人はこの数時間で見てきたものを思い返す。異種族、馬車、石造りの建物、魔法。すべてが現実だと受け入れるほかなかった。
「明日から魔法語を勉強して、仕事を見つけて……それで生きていくしかない。とりあえず一ヶ月は宿と食事が保障されているけど、その後は自力で働いて稼がないと、食べていく事も出来なくなる。それがこの世界の現実のようね」
かぐやが手を挙げた。
「はいっ! わたし、これって宇宙的な必然だと思うんだ! わたしたちがここに来たのは偶然じゃないってこと! これは高次元存在からのメッセージで、私たちの意識が集合的無意識の要請で転移したのかもしれない! 古代神秘文書にある『境界の崩壊』ってやつだよっ! 私たちは宇宙の運命を変える鍵なのさぁっ!」
かぐやはどこか海斗たちには見えないところを見つめているように、テンション高く熱弁する。
翠は眉をひそめた。「そんな神秘主義的な……いまはそんな事言ってる場合じゃ……」
「神秘主義っていうけど、オカルトって言葉の本当の意味は『隠された知識』なんだよ! この塔はまさに隠された知識が集結して具現化したところ! 各階層が意識レベルと対応していて、私たちは自分自身の内なる塔も登っていくような感じがするんだよね! 勘だけどっ!」
琉亜はかぐやの熱弁を聞いて、小さく笑った。
「物語としては及第点」
琉亜の言葉は短く、感情をほとんど表に出さないが、どこか興味を示しているようだった。
「それに、この世界、すごくない? 本物の魔法があって、いろんな種族がいて! これって夢みたいな冒険物語じゃん!」
かぐやの目は輝いていた。
琉亜はクスリと笑った。
「そうね。確かに、面白そうな世界だわ」
よく見ると、琉亜もどこか興奮しているように見えた。普段の彼女なら決して見せない表情だ。そしてその目は、どこかで見たような色を帯びていた。海斗にとって、それはギャンブルの最中の彼女の目に似ていた。挑戦と危険を前にした時の、あの輝き。
「あなたたちは楽しんでるの?」
そんな二人に、翠が不信感たっぷりに言った。
「家族とも離れて、見知らぬ世界で、明日からどうやって生きていくかもわからないのに?」
彼女の声は少しだが震えていた。強がっているが、実は最も動揺しているのは彼女なのかもしれない、と海斗は思った。科学的思考の彼女にとって、魔法の世界は理解を超えた存在なのかもしれない。
かぐやは少し表情を和らげた。
「もちろん、家族のこととか心配だよ。でも、後ろばかり見てても仕方ないじゃん。今できることをやるしかないんだよ。それに、この世界にはかぐやちゃんやみんなの魂の成長に必要な何かがあるはずなんだよっ!」
琉亜も短く頷いた。
「……わたしは独自のやり方でやる。決めた」
突然の琉亜の宣言に、海斗が尋ねる。
「どういうことだ?」
「早い段階で別行動する。この宿舎には居続けるつもりはない。わたしはわたしの裁量と能力で、力をつける方法を探す」
琉亜の淡々とした語り口に、海斗は不安を覚えた。
「おい、琉亜。まだこの世界の事を何も知らないのに、一人で行動するのは危険だぞ」
「でもこのままじゃ、集団に埋もれるだけ」
彼女は立ち上がった。思い返せば、ここに来る前も彼女は海斗に「何か面白いことが起きるかもしれない」と言っていた。まるで予知していたような言葉だった。
「明日の朝には戻る。でもその後は自分のやり方で。それだけ」
かぐやも立ち上がった。
「わたしも独自の道を探るよ! この世界の秘密を解き明かすには、古代魔法や神殿、宗教的神秘なんかを調べなきゃ! かぐやちゃんの魂の探求は、始まったばかりだぁっ!」
残された海斗と翠は、顔を見合わせた。
「……まあ、あの二人はマイペースだからな」
「……そうね。人選ミスだったかもしれないわ」
二人ははぁっと仲良くため息をつく。
「で、わたしたちはどうする?」
翠が訊ねた。彼女の目は不安と期待が入り混じっていた。
海斗は少し考えて答えた。
「俺は、しばらくここで基礎を固めるよ。魔法語を学びつつ、仕事を見つけて、少しずつ外の世界を探り、その中で独自の戦略を練っていく。一人で突っ走るのは、今はリスクが高すぎる。意味もなく高リスクを取るのは俺のギャンブラーとしてのスタイルではないな」
翠は安堵したように頷いた。
「そう、ギャンブラー云々はともかく、私もそう思う。まずは基礎を固めて、そこから先のことを考えたい」
そのまま翠は、じっと海斗を見つめてから、こんな事を言った。
「ねぇ……しばらくの間だけでいいから、一緒に頑張らない?」
その言葉に、海斗は少し驚いた。いろいろ『誤解』があって別れてからというもの、翠からこんな言葉をかけられたことはなかった。
「そうだな……一緒にやるか。二人の方が生き残れる確率は上がる」
翠はぎこちなく笑った。
「確率の計算なんかしてないで、しっかり勉強しなさいよ」
そんな4人の会話の最中、他の生徒たちもあちこちで似たような話し合いをしているようだった。240名の生徒たちは、それぞれの友人たちと、それぞれの選択を迫られている。
少し離れた場所では、生徒会長の七瀬玲奈が一部の生徒たちを集めて話していた。
「とにかく団結が大事だ。明日から『麻葉生存協議会』を組織して、情報共有と相互支援の体制を作る。我々は助け合うしかない」
その一方で、不良グループのリーダー格だった辰巳拓海は、すでに数人の仲間を引き連れて外出していた。夜の街に繰り出して偵察する、などと言っていたが、果たして何を考えているやら。
さらに別の場所では、運動部の友人、佐伯勇太が声高に話していた。
「明日からマジで筋肉で稼ぐぜ! 頭脳系は魔法やるんだろうけど、オレらはオレらのやり方でやるしかねぇ!」
海斗は思った。それぞれが生きる道を模索し始めている。この異世界の荒波の中で、全員が無事に生き残れるとは限らない。もしかしたら、今夜見る顔の中には、数ヶ月後には見られなくなる者もいるかもしれない。その考えに、彼は身震いした。
*****
夜も更けてきた。話し合いを終えた海斗は、宿の人間に教わりつつ、桶に入れた水で身体を洗った。冷たい水に触れると、改めて現実感が湧いてきた。これが夢ではないこと、本当に異世界に来てしまったことを。
身体を乾かし、ベッドに横になる。硬いマットレスが背中に違和感を与える。天井を見つめながら、彼は今日見たものを思い返した。
塔。魔法。異種族。全く異なる世界の法則。
宇宙を超えてやってきた異世界。そこで今、新たな人生が始まろうとしていた。
明日から始まる魔法語の勉強、そして仕事探し。一から新世界で生きていくための模索。それら概念が脳裏を巡っていき、消えていく。
ふと、海斗はポケットから取り出した翠のセンサー装置を見つめた。日本の科学技術の結晶が、魔法の世界でどんな役割を果たすのか。それは誰にもわからない。だがかぐやが、このセンサーが大事、といった趣旨の事を言っていたと思いだす。「夢で見た」などという妄言と笑うのは簡単だが、正直言ってこうなると馬鹿には出来ない。
不思議なことに、海斗の胸の内には不安だけではなく、高揚感と愉悦もあった。この世界で何があるのか。どこまで行けるのか。「塔の頂点」に待ち受けるものとはなんなのか。
「少なくとも、退屈する事は無さそうだな」
退屈な学生生活は完全に終わりだ。
これからは、異世界での魔導師見習いとしての生活が、始まる。
海斗は一人、静かに笑った。