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第一話 麻葉学園の日常、突然の異世界転移

 秋の風が落ち葉を舞い上げる午後。真木海斗(まきかいと)は窓の外に視線を泳がせていた。


 彼の瞳に映る中庭の風景は、どこか遠い場所のように感じられた。紅葉し始めた銀杏の葉が、風に誘われて螺旋を描き舞い落ちる。その先では、フライングで授業を抜け出した生徒たちが、学食で買った昼食を頬張っていた。


 すべては平凡で、日常だった。


「明日の修学旅行、お前も来るのか?」


 隣の席から声がした。振り向くと、クラスメイトの佐伯が身を乗り出していた。


「当然だろ。欠席したら留年するからな」


 海斗は無感情に近い声で答え、再び窓の外へと目を戻した。


 彼が通う私立麻葉学園は、全国でも珍しいほど自由を謳う校風で知られていた。授業への出席はほとんど強制されず、テストの成績さえ基準を満たしていれば進級できる。「自己責任」という言葉が、教師の口癖となっている世界。


 だが唯一、修学旅行だけは皆勤が義務づけられていた。学園の校是「体験による成長」の象徴的イベントだからだ。


「お前みたいなサボり魔でも、修学旅行だけは出るんだな」


 佐伯の言葉に、海斗はかすかな皮肉を込めて唇の端を上げた。


「仕方ないだろ。まあ適当に楽しむさ」


 退屈な日常に現れる、修学旅行という人工的なスパイス。まあそれも無いよりはマシ程度でしかないが、どうせ行くなら楽しんだ方が得だ、と海斗は割り切っていた。


「……さて、行くか」


 鞄を肩にかけ、教室を後にする。廊下に出ると、彼の足は自然と校舎の東側へと向かった。少し歩くと、古い木造の別棟が見えてきた。


 麻葉学園の創立当初からある旧校舎。今は一部の部活動に転用されているその建物の4階一番奥の大部屋には、手書きの看板が掛けられていた。


 『ギャンブル研究会』


 一般的な学校であれば、賭け事を研究するなど校則違反の烙印を押されるだろう。しかし麻葉学園では、「同好会として届出を出し、常識の範囲で行うなら自由」と黙認されている。


 海斗は周囲に人がいないことを確認し、特殊なリズムでドアをノックした。トン、トン、トン・トン・トン。合図のような、呪文のような、五つの音。


「どうぞ」


 中から声がして、彼は音を立てないように扉を開けた。


 埃臭い匂いと興奮した声が、濁った空気と共に押し寄せてくる。


「フルハウス」

「フォーカード」

「マジかよ、そりゃ詐欺だろ!」

「ざけんな……」


 薄暗い室内の中央に据えられた大きなテーブルを囲むようにして、十数人の生徒が集まっていた。古びた白熱灯の黄色い光が、テーブルに並べられたカードやチップを照らし出し、その光景に非現実的な影を落としていた。


 罵声は飛び交うが、物理的な争いに発展することはめったにない。ここでは、勝者は堂々と勝ち分を持ち去り、敗者はあっさりと退散する―そんな暗黙のルールが成立していた。


 海斗は空気の悪い室内を横切り、テーブルに近づいた。角刈りの不良が大声で文句を言いながら、札束を投げ捨てている。


「クソッ! 三回連続で大勝負に負けるなんてありえねえよ!」


 不良が指さす先に、一人の少女がいた。


 折原琉亜(おりはらるあ)


 長く真っ直ぐな黒髪と切れ長の瞳を持つ彼女は、美しいが何処か冷たい印象を与える存在だった。ギャンブル研究会のエースプレイヤーとして名を馳せる彼女は、微笑みもせずにカードを操り、淡々と勝ちを重ねていた。


「……確率って、意外と偏るもの。ポアソン分布って知ってる?」


 琉亜の言葉に、不良の顔に困惑の色が広がった。


「なんだそれ……?」


「ま、あなたの知性にはお似合いの結果ってこと」


 彼女の言葉には、彼女が孕む優雅さと残酷さが混在していた。


「ああん? 舐めてんのかぁ!?」


 不良が立ち上がり、テーブルに手をついた瞬間、部室の隅から大柄な男子生徒が近づいてきた。空手黒帯柔道黒帯の、研究会の「用心棒」だ。


「おいおい、ルール違反はナシだぜ。文句があるなら、次のゲームで取り返せばいいだろ?」


 海斗がギャンブル研究会の幹部として口を出す。彼の声は明るかったが、その奥には計算された緊張感と圧があった。数秒の沈黙の後、不良はため息をついた。


「くそっ、ああ今日はもう無理だ。ツキがねえ。撤収する!」


 不良が投げやりに言うと、他の連中も「今日はダメだ」とため息をついて席を立つ。


 そのテーブルの本日の勝者は琉亜だった。


 海斗はその様子を入り口付近で見届けると、全員が去った後でゆっくりと琉亜に近づいていった。


「今日も派手にやったな、琉亜……」


 海斗が声を掛けると、琉亜はようやく視線を彼に向け、小さく笑った。普段の冷めた表情から一転、彼女の顔には悪戯な可憐さが浮かぶ。


「ありがと。海斗の()()()()にやっただけ。こんなもん」


 周囲に人の目がなくなったことを確認すると、彼女は机の上に広がる札束を手早くまとめ始めた。そして、その一部を隠れて海斗へ手渡した。


「はい」


 かなりの額だ。海斗は呆れ半分で受け取り、ポケットにねじ込んだ。


 琉亜と海斗は裏で協力関係にあり、イカサマも含めた容赦ない戦略で不良たちを嵌めるのが常套手段だった。海斗は戦略を練り、琉亜が実行する―完璧なコンビだった。


 もちろん、不良たちに知られれば命が危ないことを、二人は承知の上でやっていた。すべては退屈しのぎだった。


「にしても、ちょっと勝ちすぎだろ。あいつらが逆上してきたら厄介じゃないか?」


 琉亜は「あはっ」と微かな息を漏らし、まったく意に介さない様子だった。彼女は勝ち分を革財布に入れながら、海斗を見上げた。その目には、何かを捕食する者の光が宿っていた。


「そんなのゲームのうち。負けを認められないなら、そいつの負け方が下手ってこと」


「……おまえ、ホント性格悪いよな」


「海斗にだけは言われたくない」


 そう言いながら、琉亜は妖艶な微笑を浮かべた。

 二人だけの時の彼女は、外面とは違う表情を見せる。冷たい美少女から色気ふりまく美女へと変貌する瞬間には、彼女自身の二重性が表れていた。


 琉亜はテーブルを離れ、窓際に設置された古いソファに移動した。陽の光が彼女の横顔を照らし、その美しさを際立たせている。海斗も横に座り、思いっきりソファーにもたれかかる。


「そういえば、明日の修学旅行、海斗は来るの?」


「まあ、義務だからな。お前は?」


「当然。何か面白いことが起きるかもしれない」


 琉亜の声は意味ありげで、その言葉には単なる期待以上のものが込められているようにも見えた。


 琉亜はソファに深く腰掛け、海斗を見つめたまま、突然話題を変えた。


「……海斗、今日の夜、時間ある? 私、()()()()()()なんだけど」


 彼女の言葉が意味するものは、二人の間では一つだった。


 海斗は、この幼馴染の少女と、いわゆるセフレの関係にあった。


 恋人と定義するにはあまりに多くの問題があり過ぎた。

 そもそも、心を開いて全てをゆだねられるタイプの少女ではない。

 琉亜も、何回関係を持っても海斗に恋愛感情がある様子は見せないため、なし崩し的にこのような事になっていた。


 海斗は周囲を警戒しながら、小声で返した。


「ここじゃまずい。話題戻すけど、おまえはちょっとやりすぎだ。さっきの勝ちっぷりで周りも警戒する。ほどほどにしてくれよ」


 琉亜は不満げな表情を浮かべ、少し唇を尖らせた。その仕草には計算された可愛らしさがあり、同時にそれが演技であることを海斗に気づかせるという、二重の演出が施されていた。


「だって、退屈」


 彼女はわざとらしく嘆息し、髪を指で弄びながら続けた。


「これでも控えめにしたほう。もし本気出したら、あの程度の奴なんて一瞬で破産させる」


 彼女の声はだんだん小さくなり、部屋の隅や扉の方を見ながら、海斗の耳元で囁くように言った。


「海斗だって、退屈だからわたしと"シたい"んでしょ?」


 海斗は返事に詰まった。

 実際、身体の関係がある以上、彼女がどこか狂気じみた快楽主義者だという事実にも目をつぶってきた。

 二人は学校では「ギャンブル研究会の仲間」という関係で通っているが、放課後や週末には時々逢引し、肉体関係を持っている。そもそも幼稚園から一緒だった幼馴染でもあり、恋人でも友人でもない、奇妙な境界領域に二人の関係は位置していた。


「まあな……正直、スリルはある」


 海斗はそっと認めた。琉亜との時間は、いつも危険と隣り合わせだった。彼女は予測不能で、時に残酷ですらある。それでも引き寄せられてしまう自分がいた。


「ふふ。ならいい。ちょっとぐらい危ないほうが燃えるもの」


 琉亜が言うと、彼女の瞳に一瞬、捕食者のような光が宿った。海斗は複雑な気分で首を振った。


「ともかく、今日はここまでだ。旅行の準備もあるしな」


 最後のメンバーが部室を出たのを確認して、海斗は立ち上がった。琉亜も渋々とソファから身を起こし、制服の短いスカートを整えた。ボタンが開けられた胸元から、豊満な谷間がわずかに揺れる。


「はいはい」


 悪びれた様子もなく、琉亜はゆるく手を振った。その仕草からは、人を弄ぶような楽しさが透けて見えた。しかし、瞳の最も深い場所には、別の何かが隠されているようにも見えた。


「――修学旅行前の最後の夜は、ゲームにしよっか。新しいゲームを思いついたの」


 その言葉に、海斗は否応にも本能的なものが高まってしまうのを感じた。


「期待してるよ」


 ――やれやれ。結局術中にハマってしまったな……


***


 五時限目が始まった後、海斗はギャンブル研究会の部室を抜け出した。彼の足取りは、教室に向かうのではなく、本館の理科棟へと向かっていた。新校舎の一角にあるこの棟は、最新の実験設備が整っている。学園の方針で、研究意欲のある生徒には惜しみなく設備投資する事になっているのだ。


 海斗が訪れた理由は単純だった。ここにいる人間に"便利な道具"を頼んでいたが、そろそろ完成したはずだと踏んでいたからだ。


 そこには久我翠(くがすい)という少女が待っているはずだった。


 廊下を曲がると、化学実験室や物理室を通り過ぎ、さらに奥まった部屋のドアに「科学部ラボ」と書かれたプレートが見える。一般の生徒なら立ち入り禁止の場所だが、海斗には「特別な関係」があった。


 ノックもそこそこに入ってみると……


「……おい、何勝手に入ってきてるのよ」


 冷ややかな声が返ってきた。


 そこにいたのはショートヘアで赤縁メガネが似合う知的な美少女、翠だった。制服の上に白衣を着た彼女は、複数のモニターが並ぶデスクの前に座り、シャープな瞳で海斗をじっと見据えていた。


 部屋の空気は科学の香りで満ちていた。消毒アルコールの鋭い香り、金属と電子機器の微かな温かさ、古い論文の紙の匂い―これらが混ざり合い、独自の香りを作り出していた。


 コンピュータや各種センサー、工作道具が並び、奥の棚にはAI開発関連の書籍や雑誌がぎっしり詰まっている。3Dプリンターが何かを作り出している最中らしく、規則的な動作音が空間を満たしていた。壁には数式とフローチャートがびっしりと書かれたホワイトボードが何枚も掛けられていた。


 冷蔵庫も完備されているので、海斗はその中からオレンジジュースのペットボトルを拝借する。


「相変わらずすげー場所だな。教室よりも居心地いいんじゃないか?」


 海斗が部屋を見回しながら言うと、翠はキーボードから手を離し、椅子を回して正面から海斗を見た。


「私にとってはここが第二の家。っていうか、あんたこそ授業サボって何やってるわけ? 今は5限目の最中じゃないの? あと勝手にジュース取るな」


 ツンと冷たくあしらう翠だが、その瞳はかすかに"懐かしさ"を宿しているようでもあった。微かな柔らかさが、彼女の鋭い言葉の奥に隠されている。


 海斗と翠。

 二人は半年前まで付き合っていた。

 紆余曲折あった末、ある『誤解』がきっかけで破局した過去があった。


 今は同じクラスだが、クラスでは会話はほとんど交わさない間柄だ。


「まあ、クラスの空気が合わなくてね。ってか、おまえこそ同じじゃないか?」


「私は実験が優先なの。担任も納得してくれてるし、ここでAIを回してるほうが有益なのよ」


 彼女は椅子を軽く回転させながら、モニターに表示されたプログラムコードを指し示した。複雑なアルゴリズムが画面上で踊っている。


 まったく、この自由すぎる学園環境に慣れすぎだろ、と海斗は呆れる。普通の学校なら即退学ものの行為も、ここでは「研究のため」と黙認されている。


「で、例の装置はもうできたか? 前に頼んでた精密加工のセンサーってやつ」


 海斗が本題を切り出すと、翠は「ふん」と鼻を鳴らして作業机の引き出しを開けた。


「忙しいのに、あんたの頼みばかり聞いてあげてると思わないでよね」


 そう言いながらも、彼女は小さな箱を取り出して海斗に差し出した。言葉では拒絶しながら、行動では応えるところに、海斗は翠らしさを感じる。


「ちょうどさっき試作品が完成した。ほら、これ」


 差し出されたのは小型の金属プレートと電子基板のセット。手のひらに収まるほどの小ささだ。電磁波を感知してリアルタイムで解析するその装置には、翠の精緻な技術が結晶化していた。


「へえ……こんなに小さいんだな。使えそうだ」


 海斗は装置を手に取り、じっくりと観察した。表面にはLEDディスプレイと小さなボタンがついている。内心ほくそ笑む。ギャンブルの勝負で"ちょっとした悪さ"に使うつもりなのだが、翠には当然内緒だ。


「でも、何に使うのかまでは教えてくれないのよね?」


 翠が疑い深そうに聞く。彼女は腕を組み、椅子に深く腰掛けた。その姿勢には、無意識的な防衛と、知的好奇心の葛藤が表れていた。


「別に大したもんじゃないさ。俺なりの研究でね」


 海斗はニヤリと笑って装置をポケットに滑り込ませた。


「はぁ……あんたの言う"研究"が実はロクでもないギャンブル関連だって、私も薄々勘づいてるんだから」


 翠は薄目を開けて海斗を見た。


「そんな才能があるなら、もう少しまともな方向に使えば?」


 ツンと睨むその姿に、海斗は少し胸が痛む。彼女が自分を心底信用していないのも伝わったし、同時にどこか"未練"のようなものがあるのも伝わってきた気がした。かつて「才能の無駄遣い」という言葉で喧嘩したことを思い出した。


「……とりあえず、ありがとな。で、AIのほうはどうなんだ? 結構すごそうじゃん」


 話題を変えようと、海斗は部屋の奥を指さした。そこでは、大型モニターに3D地形モデルが映し出され、何やら未知のマップデータが走らせている模様。緑や青、赤の点が複雑に移動する様子は、まるで生命の動きのようだった。


「ふん、まぁそこそこ進んでるわ」


 翠は少し得意げに髪をかきあげた。


「データ解析と予測モデルの精度が上がってきてる。もしこれが完成すれば、わたしの科学部がどれだけのレベルか世間に思い知らせてあげられる」


「えらく自信満々だな」


「当然でしょ。あんたのギャンブルよりよっぽど役に立つ。……まあ、別にあんたのくだらない遊びには口出ししないけどさ」


 目を合わせずに言う翠。その冷たい態度の奥底に、どこか心配めいた色が宿っている──そんな印象を海斗は抱いた。高校一年の春、二人が出会った頃を思い出していた。


「じゃあ、俺はこのへんで。サンキュな、助かったよ」


 立ち上がり、扉に向かう海斗の背中に、翠の声が届いた。


「べ、別に嬉しくないけど、ありがと……」


 背を向ける海斗に、そんなまるで一昔前のツンデレみたいな言葉が小声で飛んできて、思わず笑いそうになる。昔の面影が、まだそこにある気がして、少しだけ懐かしさを覚えた。


「……修学旅行、荷物はちゃんと準備したの?」


「ん? ああ、まあこれからだな」


「もう、あんたっていつもいい加減なんだから!」


 昔のツンデレキャラのような事を言う翠に、海斗は思わず笑ってしまう。その笑顔には、過去の甘い記憶と、今は越えられない距離感が混在していた。


 そうしてラボを出ようとしたとき、突然、勢いよく目の前のドアが開いた。


「やっほー翠ちん! この前お願いしてたやつ、できたぁ?」


 可愛らしい雰囲気の高い声が響き、天道(てんどう)かぐやがひょこっと顔を覗かせた。ニコニコとした笑顔がまぶしい。長い黒髪をツインテールに仕上げ、猫のような大きな瞳を中心とした輪郭は、少し童顔だが不思議な魅力のある美少女だ。


「わっ……かぐや、ノックぐらいしろって言ってるでしょ……」


 翠が呆れ顔で言うが、かぐやは一切気にせず室内へと駆け込んでくる。その勢いで海斗にぶつかりそうになったが、かぐやは軽やかに体をひねって衝突を避けた。その動きには、単なる反射神経を超えた、何か特別なものを彷彿とさせられる。


「あ、ごめんごめん! 真木きゅんも居たんだぁ!」


 かぐやはそう言ってから、翠の方に向き直った。彼女の動きのすべてが予測不能でありながら、不思議とどこか調和している。


「だってぇ~! 時間がないんだもん! 翠ちんの研究と連携させたいオカルト装置があるんだよー! えへへ、早く見て見てっ!」


 かぐやは「んふふ~♪」と上機嫌でなにやら資料を取り出す。彼女はオカルト研究会の会長を務める看板的存在で、学園内でも謎の宗教・魔術・スピリチュアルを幅広く研究しているかなりの変わり者として知られていた。


 しかしその無邪気な笑顔と飾らない性格から、生徒間では妙に人望がある。地味な生徒や不良たちとも分け隔てなく接し、彼女の周りにはいつも人が集まっていた。


「かぐや、何度も言うけど、あんたの『古代文字がどうの』『結界術がどうの』って、私にとっては意味不明なのよ……」


 翠がため息をつくと、かぐやはクルリと回って、両手を胸の前で合わせるような仕草をした。


「大丈夫大丈夫! 翠ちんなら理解できるはずだもーん! 翠ちんは頭がいいから!」


 その能天気な調子に、翠はさらに大きなため息をついた。

 海斗はそれを横目で見て、「相変わらずだな、天道かぐや……」とつぶやいてしまう。


 かぐやは突然、海斗の方に向き直り、彼の顔をじっと見つめた。瞳が大きく、まるで魂の奥まで見透かすような眼差しだった。


「あ、真木きゅん! なにやら企み事があるみたいだけど……翠ちんにはバレないようにね?」


 かぐやがウインクしながら、突然無邪気な笑みを向ける。海斗は思わずポケットの装置に手をやった。彼女の言葉は、単なる冗談とは思えない鋭さを持っていた。


「……俺が何を企んでるってんだ」


 開き直ろうとする海斗に、かぐやは得意げに胸を張った。


「かぐやちゃんアイの前では隠し事はムリなのだぁ! これがオカルト研究会の真骨頂っ! 見たかぁ!」


 ビシッと指をさして自慢気に言うかぐやの口調は、やりすぎなくらい明るさ全開で、下手に否定する気も失せるぐらいのパワーがある。


「……まあ、ちょっとした研究道具を作ってもらっただけさ」


 海斗が言い訳すると、かぐやは「ふーん?」と首を傾げ、不思議そうな顔をした。


 翠は椅子からすっくと立ち上がり、かぐやの肩をつかんだ。


「で?  早く本題を済ませなさい。今、実験の真っ最中なんだけど」


 翠がシビアな声で苛立ちまぎれに尋ねる。

 かぐやは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに思い出したように目を輝かせた。


「うん! 前に話した『術式模倣用の金属板』と『振動制御チップ』の続き! 翠ちんのAIと合わせたら超楽しいことになるかなって!」


 かぐやが声を弾ませる。その目は好奇心と期待に満ちていた。


「楽しいこと……って、それは具体的にどういう?」


 翠が眉をひそめる。かぐやは自分の鞄から分厚いノートを取り出し、ページをめくり始めた。そこには奇妙な図形や文字、複雑な回路図のようなものが描かれている。


「えーとね、世界中の古代魔術書を読んでたらさ、何か化学反応とか物理現象に通じる部分があるんだよねー。古代人が『魔法』として記録したものが、実は科学的な何かだった、みたいな? そういう系統の話に踏み込んで研究を進めたくて……」


 かぐやはノートを翠に見せながら熱心に説明した。彼女の言葉には、一見脈絡のない飛躍があるようでいて、その奥には独自の一貫した論理が存在しているようにも思えた。


「……だから、私のオカルトな知識と、翠ちんの研究をミックスしたら、すんごい新発見ができるかもー、なんて!」


 完全に突拍子もない理屈にも聞こえるが、その言葉はまったく嘘っぽくない。彼女は本気なのだ。その真摯さと純粋さが、かぐやの存在に独特の輝きを与えていた。


 海斗は一歩引きつつ、「いや、頭おかしいんじゃ……」と言いそうになるのをこらえていた。しかし同時に、彼の中の何かが、かぐやの言葉に呼応しているのも感じていた。


 翠はかぐやのノートをパラパラとめくり、時折眉を上げたり、首を傾げたりしていた。


「これ……どこから持ってきたの? この図面、本当に古代の書物から?」


 翠の声には、疑念の渦の中に、確かに好奇心も表れていたように見えた。


「うん! 図書館の特別資料室と、おじいちゃんのコレクションから! おじいちゃん、昔は古代文明研究者だったんだ~」


 かぐやの祖父が著名な考古学者だという話は、海斗も聞いたことがあった。


 翠は呆れたように肩を落としながらも、「ま、試しにやってみる価値はあるわね。どうせ私もAIに膨大なデータを入力してるし、ついでなら」としぶしぶ承諾した。


「やったぁ! さすが翠ちん、話が早い!」


 かぐやはピョンと跳ねる。天真爛漫という言葉がこれほど似合う人間も珍しいだろう。


 その様子を眺めていた海斗は、「楽しそうだな」と声をかけると、かぐやはクルリと振り返り、「うん! だって、私の夢に一歩近づくもん!」と叫んだ。


「お前の夢って何なんだよ……」


 海斗が半分呆れたように問うと、かぐやはニコッと人差し指を口にあてる。


「内緒! でもね、世界にはまだまだ不思議がいっぱいでしょ? 私、その全部を知りたいんだ。翠ちんのAIとか、真木きゅんの企みとかも含めてね! んふふー!」


 まるで全能感を体現するかのごとく、勢いがある。かぐやの目には、本当に世界の神秘が映っているかのような輝きがあった。


 海斗は思わず「おまえ、何者だよ……」と若干後ずさってしまう。正直、読めない少女だった。


「あっ、そうそう!」


 かぐやは突然思い出したように声を上げた。


「明日の修学旅行、わたしもすごく楽しみなんだ~!」


 その言葉に翠も顔を上げた。


「行き先、京都だもんね」


「うん! でもね、もっとすごいところに行けるかもしれないよぉ!」


 かぐやの発言に、海斗も翠も首を傾げた。


「……何言ってるの?予定変更でもあったの?」


 翠が尋ねると、かぐやは不思議な笑みを浮かべた。


「ううん、予定は変わってないけど……でも、私、夢で見たんだ。私たちが、すごく遠いところに行く夢」


「夢?」


 海斗が怪訝な顔をする。


「そう! すごく鮮明な夢だったの! 私たちがすごく大きな塔を見上げてる夢。塔の頂上は雲の向こうまで続いていて、何百もの階があって……」


 かぐやの目は遠くを見つめ、まるで本当に見ているかのように生き生きとしていた。彼女の声には、通常の会話とは異なる響きがあった。音楽のような、詩のような、あるいは呪文のような音色。


「また変なこと言ってる。単なる夢でしょ」


 翠はそう言って、PCの画面に戻ろうとした。科学者としての彼女の知性は、非合理を排除しようとする。


 しかし、かぐやは真剣な顔で続けた。


「でもね、すごくリアルだったの。そして、その夢の中で私たちは皆、自分の力を見つけるの」


「力?」


 海斗が聞き返す。彼の中の何かが、かぐやの言葉に呼応していた。


「うん、その世界にはね、あるんだよ」


「ある?」


「そう……『魔法』が!」


 かぐやの言葉は突拍子もなかった。しかし、それを聞いた瞬間、部屋の空気が微かに震えたような感覚があった。窓の向こうでは、紅葉した銀杏の葉がひときわ強い風に舞い上がっていた。


「まあ、修学旅行が楽しみなのは分かるけど……ほどほどにな」


 海斗がそんなバカにするような事を言ったとき、かぐやは海斗の肩をがばりと掴んだ。


「真木きゅん! 旅行の荷物に、大事なものは全部入れておいてね。翠ちんからもらった装置も!」


 その真剣な眼差しに、海斗は言葉を失った。間近で見たかぐやの瞳は、猫のような形をしていながら、その奥には星空のような深さがあった。海斗は本能的に「美しい」と異性として惹かれるものを感じた。


「……なぜだ?」


「私にも分からないけど、とっても大切なの。必要になるから」


 かぐやはそう言うと、海斗の体を解放し、すぐに明るい笑顔に戻った。


「ま、とにかく。わたしもオカルト研究会の活動で忙しいんだー! じゃ、またね~! 翠ちん、あとで合金削り出しの進捗教えてね。真木きゅんも……怪しいことしすぎないようにね?」


 かぐやがヒラヒラ手を振り、明るく退室していく。その残滓が部屋に漂っているかのように、華やかな空気が残った。色も香りも持たない奇妙なエネルギーのようなものが、部屋の空気を満たしていた。


 海斗は少し虚を突かれた顔をして、そっと息をつく。


(……何なんだ、あの娘は)


 一方の翠も「はぁ…」と溜息をついた。「同じ学園にこんな変人がゴロゴロいるんだから、そりゃあんたみたいなのも平気でサボるわけよ」と皮肉を言い、海斗は「いや、あれと一緒にしないでもらおうか」と苦笑する。


 しかし、二人とも内心では、かぐやの言葉が妙に引っかかっていた様子は拭えなかった。特に「遠い世界」という言葉と、彼女の真剣な眼差しが。


 「俺はそろそろ帰るよ」と海斗が言い、翠は軽く頷いただけだった。二人の間に流れる沈黙には、言葉にできない共有された不安が潜んでいた。


***


 その日の夕方、海斗は自室で修学旅行の準備をしていた。


 アパートの狭い一人暮らしの部屋。質素な家具と必要最低限の生活用品だけが置かれた空間は、彼の内面の一部を反映しているようだった。無駄を排除し、すべてを計算し尽くした生活。しかし、その完璧な秩序の中に、彼自身も気づいていない空虚さが潜んでいた。


 海斗は旅行用のバッグに着替えやタオルなどの必需品を詰め込みながら、かぐやの言葉を思い出していた。


「大事なものは全部入れておいてね」


 意味が分からないまま、海斗は念のためサバイバルグッズや予備の食料、そして翠から受け取ったセンサー装置も入れた。ポケットナイフ、懐中電灯、非常食、体を温める特殊シート-すべて確率論的に「万が一の場合」に備えたものだった。


 鞄を閉じると、スマホが振動した。画面を見ると、琉亜からのメッセージだった。


「今日、来る? 言ってた通り、ゲームしよ」


 海斗は少し迷った後、返信した。


「行くよ。8時に例の場所で」


 彼は窓の外を見た。日が沈み始め、街の灯りが一つずつ点り始めている。空は藍色から濃紺へと変わりつつあり、最初の星が見え始めていた。


 数時間後、海斗は琉亜のマンションにいた。彼女の部屋は不釣り合いなほど高級で、こんな部屋で一人暮らしをしている。部屋の内装は洗練されていながら、どこか冷たい美しさを持っていた。


 琉亜は黒いシルクのワンピースを着て、海斗を待っていた。テーブルの上にはトランプと二つのグラス。グラスには、彼女が作ったノンアルコールカクテルが注がれていた。


「今日のゲームは何だ?」


 海斗が訊ねると、琉亜は小さく笑った。


「簡単よ。カードを引いて、数字の回数だけ相手に命令できる。命令に従えなかった方が負け」


「ふん、そんなに単純なのか」


「ええ。でも面白いわよ。例えば……」


 琉亜はカードを一枚引いた。10のハート。


「私が10を引いたから、あなたに10個の命令ができる。例えば……キスして」


 海斗は琉亜に近づき、軽くキスをした。


「残り9つね」


 琉亜は海斗の首に腕を回し、囁いた。彼女の息が海斗の耳に触れ、生理的な反応を引き起こす。


「服を脱いで」


 こうして夜は更けていった。


 ゲームは徐々にエスカレートし、肉体的な快楽と心理的な支配のダンスへと変わっていった。琉亜は海斗の体を自分のものにしながら、彼の心には決して踏み込まなかった。それが二人の関係の本質だった。


 しかし、この夜の琉亜には、いつもと少し違う影があった。


 激しい時間が過ぎた後、二人はベッドに横たわっていた。窓から差し込む月光が、琉亜の白い肌をさらに幻想的に照らし出していた。


「海斗……」


 彼女は珍しく柔らかい声で呼びかけた。


「なんだ?」


 海斗は彼女の髪に触れながら答えた。


「明日、なにかあるかもね」


 その目は、いつもの挑発的な色ではなく、どこか遠くを見つめるような目だった。まるで、かぐやと同じように何かを予感しているかのように。


 海斗は黙って彼女を見つめた。琉亜は動物的直感の鋭い生き物だ。彼女がそう言うなら、本当に何かあるかもしれない。


 帰り際、海斗はアパートへの道を急いだ。冷たい夜風が頬を撫で、星空が異様なほど鮮明に見えた。すべての星が、いつもより近くに感じられた。


 アパートに戻った海斗は、もう一度荷物を確認した。すべて揃っている。彼は深呼吸し、窓の外に広がる夜空を見つめた。明日は何か特別なことが起きるのだろうか。それとも、単なる修学旅行の一日になるのだろうか。


 海斗の指先が、翠から受け取った装置の表面を無意識にたどった。


 かぐやはこの装置も必要、といった趣旨の事を言っていた。念には念を。琉亜の言葉もあったし、入れておくしよう。


 *****


 麻葉学園の校庭には、朝の光が降り注いでいた。


 時刻は八時、二年生約二百四十名が修学旅行の出発のため集合している。バスが校門前に並び、担任教師たちが点呼を取っていた。


 海斗はクラスメイトの列に加わり、ぼんやりと周囲を見回した。昨夜の疲れからか、頭がまだスッキリしない。いや、それだけではない気がした。空気に微かな振動があるような、耳の奥で鳴る低い周波のような、何か説明できない感覚があった。


「おはよう、真木」


 声をかけられて振り向くと、翠が立っていた。普通の制服姿の上に、旅行の日まで白衣を着ている。


「おはよう……こんな日まで白衣を着てるんだな」


「余計なお世話よ、アイデンティティなの。あなたこそちゃんと準備はしてきたの?」


「まあそこそこだな。心配してくれたのか?」


「そ、そんなんじゃないわよ!」


 翠の反応に海斗は思わず笑みを漏らした。やはり、こいつは昔と変わらないな。


 列の向こうでは、かぐやが両手を振って海斗たちに気づかせようとしていた。


「真木きゅん! 翠ちん! おはよー!」


 元気いっぱいのかぐやの声が届く。海斗と翠は目を向き合わせてから、軽く手を振り返した。


 その少し離れたところでは、琉亜が静かに立っていた。海斗と目が合うと、小さく微笑んだだけだった。


 やがて担任の声が響く。


「それでは、点呼を取ります。クラスごとに整列してください」


 生徒たちが移動を始める中、海斗は不思議な感覚に襲われた。空気が微かに震えているような、耳鳴りのような感覚だ。首を振ってごまかそうとしたが、その感覚は消えない。


「どうしたの?」


 海斗の様子を見て、翠が訊ねた。


「いや……なんか変な感じがするんだよ」


「風邪?」


「違う。なんていうか……」


 海斗の言葉が途切れた瞬間、校庭の中央に奇妙な光が生まれた。最初は小さな火花のようだったが、瞬く間に広がり、複雑な幾何学模様を描き始める。


「え……?」


 生徒たちが驚きの声を上げる。先生たちも動揺し、「みんな、下がって!」と叫ぶ。


 しかし、光の模様はすでに二年生全員を囲むように広がっていた。その模様は、かぐやのノートに描かれていた古代文字に似ていた。海斗は瞬時にそれを思い出した。


「なんだこれ……」


 海斗が呟いた時、かぐやが人混みを掻き分け、彼らの元に駆け寄ってきた。


「来たよ! 本当に来たんだ! 夢の通りだ!」


 彼女の目は興奮で輝いていた。それは恐怖ではなく、待ち望んだ瞬間への歓喜だった。


「かぐや、お前……」


「言ったでしょ、夢で見たの! 私たちが別の世界に行くって!」


 その時、光の模様が突然明るさを増し、校庭全体が眩しい光に包まれた。


「うわっ!」


 海斗は思わず目を閉じた。体が浮き上がるような、重力が消失したような感覚に襲われる。耳の奥で不思議な鐘の音が鳴り、全身に電流が走ったような感覚があった。


 周囲から悲鳴や混乱の声が聞こえてくる。


「何が起きてるんだ!?」


「誰か助けて!」


「目が開けられない!」


 光が弱まると、勇気を出して目を開ける海斗。しかし、そこに広がっていたのは、学園の校庭ではなかった。


 広々とした小麦畑が広がる平原。青々とした空。そして遠くに聳え立つ、天を貫くほどの巨大な塔とその周囲に広がる都市。


 校庭にいたはずの二年生たちは、見知らぬ場所に立っていた。教師たちの姿はなく、バスもない。ただ二年生約二百四十名だけが、どこか見知らぬ地に転移してしまったかのようだ。


 塔の巨大さは、言葉を失わせる。それは単なる建造物ではなく、世界の構造そのものが形を取ったかのような存在感があった。その頂上は雲の彼方に消え、底辺は地平線まで広がる都市と融合していた。


「ここは……どこだ? あの塔は、いったい……」


 海斗の問いに、かぐやが小さく囁いた。彼女の声には、希望と畏怖と期待が混在していた。


「ここは剣と魔法の異世界。あれはアクラニスの塔っていうんだよ。これから私たちが暮らす場所」


 海斗は塔を見上げながら、恐怖、興奮、不安、そして――


 ――愉悦を感じていた。


 なぜなら……


 これは、今までの退屈な日常が、完全に終わったことを意味するのだから……


 日常という境界が崩れ、未知の世界が彼らの前に広がっていた。


「異世界か。楽しいところだといいね、海斗」


 横にいた琉亜が、冷静さを崩さず色っぽい微笑みを浮かべたのに、海斗は小さく「……ああ」と応えた。

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