35.思い出③
「ユーリ、お前には、レオニダスの名を継ぐ資格はない」
父の声が、神殿に静かに響く。
「独り立ちできるまで、“使用人”として家に置いてやる」
まるで判決を下すようなその響きに、
兄の背筋がすうっと伸びて、ゆっくりと頭を下げた。
「……はい、父上」
誰の慰めも届かないまま、兄は静かに壇上を降りていく。
ミュゼは、必死で涙をこらえた。
走り寄って「大丈夫だよ」と言いたかった。
でも、足がすくんで、声が出なかった。
――兄さまは、悪くない。
どうして、誰もそれを言ってくれないの。
胸が苦しくて、何も言えなかった。
神殿の高い天井の向こうで、朝の日差しだけが変わらずに降り注いでいた。
――ボーン、ボーン、と父が共和国からかってきた柱時計の音が響く。
ミュゼリアナは、ふっと我に返った。
静まり返った自室の窓辺。
手のひらには、涙のしずくが一粒、冷たく落ちていた。
もう何度、この記憶を繰り返したのだろう。
星霊の儀の日を思い出すたび、胸が痛くなって、息が苦しくなる。
家族は今も、あの日のことを誰も口にしないまま――ただ時間だけが過ぎていく。
外を見れば、今日も変わらぬ街並みが広がっている。
まだ塔のてっぺんから鐘の音が聞えない。
きっとまた、遅刻したのだろう。
鐘が町に響くたびに兄さまが「鐘番さんに感謝しないとな。あの塔登るのめっちゃ大変なんだから」なんて呟いていたのを、ふと思い出す。
少しだけ、くすりと笑いそうになる。
けれど、胸の奥の寂しさは消えなかった。
(――あれから、家の空気は変わってしまった)
朝食の食卓も、家族の会話も、何もかも。
兄さまのいない日々が、こんなにも長く、静かで、重たいものになるなんて、あの日は思いもしなかった。
誰もいない部屋の中で、彼女はもう一度、小さな声で心の中の兄の名を呼んだ。
(……ユーリ兄さま)
けれど、返事はやっぱり聞こえない。
今日もまた、“兄さまのいない朝”が始まるのだった。
扉の向こうから、控えめなノックと声が聞こえた。
「お嬢様、クラリス様がおいでになりました」
「……わかったわ。ありがとう。すぐ向かいます」
身支度を整えながら、ミュゼリアナの脳裏に、ふとあの人の顔が浮かぶ。
あれからというもの、ユーリの母は光を失ったように、病がちになってしまった。
星導教会から神官を招き、定期的に回復魔術を受けてはいるが、
心だけは、どこか遠くに置き去りにされたままのようだった。
ミュゼリアナは、今では時おり彼女の部屋を訪れ、薬湯を準備し、枕元でそっと話し相手を務めている。
「ありがとう」とかすかに返されるその声が、耳に残るたび、胸の奥が少しだけ痛んだ。
本当は、もっと笑ってほしい。
けれど――あの朝の笑顔は、もうどこにもいない。
「ミュゼちゃん!」
声が飛んできた方向へ顔を上げると、
教会の司祭見習いになったばかりのクラリスが、小走りでこちらへ駆け寄ってくるところだった。
軽く息を弾ませながら、ミュゼリアナの目の前でぴたりと足を止める。
「クラリス様、今日もありがとうございます」
「いいのよ。今日も少しだけ時間が取れたから。……それじゃ、さっそく行きましょうか?」
クラリスが笑って歩き出そうとしたところで、
ミュゼリアナは少しだけ足を止める。
「……ねえ、クラリス様。ちょっと、聞いてもいい?」
クラリスは立ち止まり、小さく首をかしげた。
「なあに?」
しばらく言葉を選んでから、ミュゼリアナは小さな声で切り出した。
「あのとき――ユーリ兄さまの星霊の儀の時、何か……おかしいこと、あったの?」
クラリスは、驚いたように目を瞬かせる。
すぐに少しだけ困った顔をして、視線をそらした。
「どうして、そんなこと……」
「ずっと、気になってたの。みんな、急にあんな顔になって……お兄さまも、すごく寂しそうで……。私、なにもできなかった」
クラリスは、しばらく黙っていたが、やがて意を決したように、静かに言った。
「……ミュゼちゃんは、ユーリ様のこと、好き?」
唐突な問いに、ミュゼは顔を赤らめて、けれどはっきりと頷く。
「もちろん! 私、お兄さまのことが、一番大切」
クラリスはふっと微笑んだ。
それから、小声でミュゼの耳元に顔を寄せる。
「本当はね――あの儀式のとき、ちょっと変なことがあったの」
「え?」
「星詠みの司祭様たち、何度も記録を見直してて……。本当は、ユーリさま、ギフトを二つ持ってるかもしれない、って噂してたの」
「二つも……?」
ミュゼの目が大きく見開かれる。
「うん。でも、それは教会でも“禁忌”だから、絶対に誰にも言っちゃだめよ。お父さまにも。私たちだけの秘密」
ミュゼリアナは、心臓がどきどきと早鐘を打つのを感じながら、強く頷く。
「……やっぱり、お兄さまは特別なんだ」
自分でも驚くほど素直な言葉が、口からこぼれた。
(私、お兄さまと……。お兄さまと、ずっと一緒にいたい。できるなら……お嫁さんになりたい、って、ずっと思ってた)
けれど、それは決して誰にも言えない秘密。
だって、兄妹で結婚するなんて、この国の教えでは許されていないのだから。
「クラリス様、ありがと。……誰にも言わない。絶対、秘密にする」
「うん、約束だよ」
二人はそっと小指を絡めて、約束の証を作った。
朝の庭に、やわらかな陽射しと、秘密を分かち合う少女たちの影が、静かに揺れていた。
クラリスをユーリの母の元へと案内したあと、ミュゼリアナは再び自室に戻った。
窓の外には、さっきまでよりも強い陽射しが降りそそいでいる。
カーテン越しの光の中で、ミュゼリアナはそっとベッドに腰を下ろした。
――あの日の兄さまの背中。
ひとりきりで壇上を降りていく姿が、今も鮮明に思い出される。
みんなが何も言えずにいるとき、ただ黙って、自分の運命を受け入れた兄さま。
ミュゼリアナは、もう何度も心の中であのときの自分を責めてきた。
どうして声をかけてあげられなかったんだろう。
どうして手を伸ばさなかったんだろう。
あのとき、ただ「大丈夫だよ」って、たった一言伝えたかったのに。
兄さまは、今どこにいるのだろう。
元気にしているのだろうか。
誰かが兄さまの優しさに気づいて、ちゃんと笑いかけてくれているだろうか。
胸の奥がきゅっと痛くなる。
でも、その痛みと一緒に、ほんの少しだけ温かいものが残っている。
(私、ずっと兄さまのことを好きでいてもいいよね)
(たとえ誰にも言えなくても、絶対に忘れない)
もし、いつか、もう一度だけ会える日が来たら――
そのときは、今度こそちゃんと伝えたい。
(――兄さま、大好き。一人の女として私を見て欲しい……)
そんな言葉を胸に抱きながら、ミュゼリアナは静かに目を閉じた。
カーン、カーン、と鐘の音が、町に響き渡る。
新しい一日が始まる。
けれど、ミュゼリアナの心の中には、
“兄さまのいない朝”と、“兄さまを待つ約束”が、そっと灯り続けていた。
【あとがき】
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