35.思い出①
朝の光が、薄いカーテン越しに静かに差し込んできた。
焼きたてのパンの甘い香りも、兄さまの柔らかな笑い声も――
今はもう、どこにもない。
ただ、冷たい床と、小鳥のさえずりだけが、ミュゼリアナを迎えてくれる。
かつての「家の温もり」が、こんなにも遠いものになるなんて――あの日は思いもしなかった。
(……ユーリ兄さま)
思わず、そう心の中で名前を呼ぶ。
けれど、返事はない。
ただ、静かな朝があるだけだ。
ベッドから起き上がり、足を床につける。
ひんやりとした感触が、ぼんやりとした頭を少しだけ覚ましてくれた。
兄がいなくなってから、もうどれくらい経っただろう。
あの日から、レオニダス家は最初から兄なんて存在しなかったかのように回っている。
第一夫人――ユーリ兄さまの母が家を去ってから、第二夫人であるミュゼリアナの母が、すっかり主人気取りで家中を仕切るようになった。
ケビン兄さまも、それに合わせてますます傲慢さを強めていく。
父アルベルトは仕事を理由に、週末だけふらりと帰宅する生活を続けている。
――誰も、昔のように笑わない。
パンの焼ける匂いと、兄さまの笑い声。
(……ほんとに、あの頃とはまるで違う)
今の朝には、そのどちらもない。
静かな空気の中、小鳥のさえずりだけが響いていた。
(……そういえば、あの頃から、
ケビン兄さまは「また兄さんばっかり」ってよく拗ねてたし、
お母様も、小声で愚痴を言ってた気がする)
廊下から聞こえる家政婦たちの足音も、どこかよそよそしい。
(でも、兄さまがいるだけで、
家の空気はふんわりとやわらかくなってた。
……こんなに朝がつまらないなんて、思わなかったな)
手元に視線を落とす。指先が少し冷たい。
(私がお布団の中で丸くなってたら、鍋の蓋とおたまでカンカンならして起こしに来てくれたのに……)
しかたなく布団から起き上がると、ミュゼリアナは朝用ドレスの袖に手を通し襟を整える。
(……帰ってきてくれないかな。兄さま)
帰ってくるわけがない。
ユーリはレオニダス家を勘当され、もう、別の家の人になっているのだから。
しかも、相手は、王家から降嫁したお姫様。
名前すら口にするのがためらわれるほどの天上人。
言葉にしてしまえば、涙がこぼれそうで――
窓から射し込む光に目を細めた瞬間、ふと遠い記憶がよみがえってくる。
あの日の朝――星霊の儀が行われる前の、少しだけ特別な朝。
ミュゼリアナは、自分の部屋から廊下に出て、真新しい靴をコツコツと鳴らしながら食堂へと向かった。
扉を開けると、そこには家族が揃っていた。
父アルベルトは、珍しく穏やかな顔で書状を眺めていた。
普段は厳しい眉間も、その朝だけはわずかに緩んでいるようだった。
「おはよう、ミュゼ」
テーブルの端に座っていたユーリ兄さまが、
優しく微笑んで、軽く手を振ってくれる。
その声を聞いただけで、胸の奥がふわっとあたたかくなる。
「ユーリ兄さま、おはようございます」
母――ユーリ兄さまの母――は、テーブルの端に立ち、
給仕たちに静かに指示を出していた。
彼女の歌うような声が、朝の空気をふんわりと包んでいる。
「ミュゼ、起きてきたのね。ほら、まだあったかいわよ」
「お母様、おはようございます」
自分の母――ケビン兄さまの母――は、少し離れた椅子に腰かけ、紅茶のカップをゆっくりと傾けていた。
その隣で、ケビン兄さまが無言のままパンをつついている。
ミュゼリアナにちらりと視線を向けたが、ふたりとも何も言わず、すぐに食事へと目を戻した。
(……やっぱり、今日も話す気もないのね)
少し胸の奥がひやりとしたけれど、ミュゼリアナは気を取り直してユーリの隣へ向かった。
「お兄さま、今日っていつもより早いですね」
ユーリは、少し照れたように微笑みながら、こちらを振り返った。
「だって、今日は大事な日だからな。ミュゼも緊張して眠れなかったんじゃないか?」
「ううん、全然! でも……お兄さま、ちゃんと食べてね。おなかすいてたら、星霊様に叱られちゃうかも」
「はは、そうだな。しっかり朝ご飯を食べて、立派なギフトをもらってくるよ」
兄のその言葉に、ミュゼリアナは思わず顔をほころばせた。
そして、ほんの少しだけ躊躇してから口を開く。
「ねえ、お兄さま。今日は一緒に教会まで行ってもいい?」
「もちろんさ。お前がいてくれたほうが、僕も心強いからな」
「やった!」
その言葉が嬉しくて、思わず椅子の上で背筋を伸ばす。
ユーリの母が、優しい笑みを浮かべて髪を撫でてくれた。
「仲が良いのね、二人とも」
「だって、ユーリお兄様は優しいし、いつもいろんなことを教えてくれるから」
そのミュゼリアナの言葉に、もう一人の母は何か言いたげに目を伏せたが、あえて気にしなかった。
「何でもってことは無いと思うけどな……」
ユーリは照れたように笑って、そっと頬を掻いた。
その朝は、どこか特別で、どこか幸せだった。
ミュゼリアナは、その光景を心の奥にしまい込む。
もう二度と戻らない、宝石のような記憶。
朝食を終えると、兄たちは、星辰の儀のための準備にとりかかる。
父アルベルトは外套に袖を通し、母は兄の身だしなみを整えていた。
ミュゼリアナも、少し大きめのリボンをきちんと結び直す。
「ミュゼ、手、ちゃんと握っててくれよ。今日は転ばないように」
ユーリ兄さまがやさしく手を差し伸べてくれる。
その温かさに、胸が少しだけ弾んだ。
「うん! 絶対離さないから」
【あとがき】
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