66.ミュゼリアナの涙 ②
オスカーは黙って耳を傾けていたが、やがて小さく鼻で笑った。
「……なるほど。署名どころか、まだ承諾もしていないのか」
「っ……!」
ケビンの顔から血の気が引いた。
だが反論はできない。
「安心しろ。私には時間がある。だが――」
オスカーはゆっくりとケビンの肩に手を置いた。
その重みが、まるで首にかけられた縄のように感じられる。
「君の妹を、無駄に待つ趣味はない。……分かるな?」
笑顔を浮かべながらも、背筋を凍らせる声音。
ケビンは必死に頷き、震える声で答えた。
「は、はい……必ず。必ず署名させますとも……!」
その姿は、まるで自ら妹を競り台に上げる卑小な商人。
だが、本人だけは“家のための立派な取引”だと信じて疑わなかった。
ケビンが必死に頷いたあと、オスカーは唇の端をわずかに歪め、囁くように言葉を落とした。
「邪魔なのは――父君と妹君の理性……かな?」
ケビンの喉がごくりと鳴った。
その反応を楽しむように、オスカーは懐から小さな革袋を取り出す。
「……ふむ、君が約束を果たせるかどうか、少々不安になってきた」
ことり、と手のひらに二本の小瓶が転がる。
ひとつは濁った黒――もうひとつは妖しく光る紅。
「これは?」
思わず問うケビンに、オスカーは月明かりの下でそれを掲げ、愉快そうに説明した。
「黒は毒。紅は媚薬だ。……どちらをどう使うかは、君次第だよ」
言葉は柔らかいのに、背筋が凍りつくほど冷たい響きだった。
ケビンの額に汗がにじみ、指先が小刻みに震える。
(ど、毒……媚薬……!? な、なんてことを……だが……だが……これさえあれば――!)
脳裏に浮かぶのは、拒絶を続ける妹の姿。
そして、それを力ずくで屈服させれば――自分こそがレオニダス家を立て直した英雄として讃えられる未来。
「ふ、ふふ……なるほど。卿も容赦がない」
必死に笑みを作るケビンを、オスカーは冷ややかに見下ろす。
「誤解するな。私は君に“選択肢”を与えているだけだ。……彼女が署名すれば、使う必要はない。だが、もし理性が邪魔をするなら――」
小瓶が月光を受けてぎらりと光る。
「……君の手で、解決してやるといい」
ケビンは喉を詰まらせながらも、その小瓶を両手で受け取った。
(……媚薬……か。いや、毒よりずっと“使える”じゃないか)
ケビンは震える指先で小瓶を握りしめる。
掌に収まるその重みが、妙に甘美な力を宿しているように思えた。
(ふん……身体だけはいっちょ前に成長しおって。なら、少しくらい“味見”しても構うまい)
唇の端が、下卑た笑みで歪む。
(そうだ……しっかりと躾けてからオスカー卿に献上すれば、きっと喜ばれるに違いない)
己の妄想に酔いしれ、ケビンは思わず肩を震わせた。
その様子を眺めながら、オスカーはグラスを揺らし――ふと唇に冷笑を浮かべる。
「……そうだ、どうせ店に並べる商品。少しくらい中古になっていても……構わんよ」
あまりに平然と告げられた一言に、ケビンの背筋がぞくりと震えた。
だが次の瞬間、その言葉を“肯定”と受け取った彼は、安堵と卑しい歓喜をないまぜにして頷く。
「……は、はい! 卿のお考えに従いますとも!」
その姿は、妹を「商品」と呼ばれてなお喜ぶ、哀れで卑小な傀儡にすぎなかった。
◇ ◇ ◇
喧噪を背に、ユーリは足早に会場を抜け出した。
ふと脳裏によみがえるのは、先ほどエルディアに事情を話したときの一言だ。
――『いつでも焼く準備はできておりますので、旦那様のご随意に』。
思い返すだけで背筋が冷たくなるような、恐ろしい言葉。
(絶対、あの目は本気だよね……)
胸の奥に、妹の顔――ミュゼリアナの寂しげな瞳が浮かぶ。
その像が脳裏をよぎるたびに、足はますます速まった。
【あとがき】
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