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牡丹

作者: かわかつ

人里離れた雑木林を馬車が揺らす。馬車には東京にあるヤクザの男が二人乗っていた。緑色の桜のつぼみをゆらゆらと揺らしていた二羽のカラスが、久しぶりの大きな音に、勢いよく飛び立った。

「例の華族の娘だ、上手くいけば金になる。乱暴に扱うんじゃないぞ。それに、必要なこと以外は干渉しないようにするんだ。いいな」

帽子を深くかぶった男が言った。

「捕虜に情を入れるつもりはありません」

おそらくその舎弟と見られる、日焼けした男が答えた。馬車は雑木林を抜けた後、古びた小屋の脇に停まった。暫くして馬車から出てきたのは、日焼けした男だけであった。男は、くしゃりと雑草を踏み馬車を降りると、倉の扉を開いた。倉の中は、こじんまりとした牢になっていた。鉄格子の窓から届く、縞模様の斜陽が冷たい石畳を温めていた。埃と土の匂いの混ざった冷たい空気が男の鼻孔を撫でた。

男が目をやると、錆びた鉄格子の奥に、小柄な娘がぺたりと人形のように座っていた。男は牢屋の横の椅子に座り、ちらりと横目で娘を見た。大金を貸した華族がついに借金を踏み倒し逃げようとしたため、屋敷に居た娘を人質にとった。むやみに触れてはならないぞ。親方からそんな令を受けていたが、浮浪者と何ら変わりのない娘の身なりは、とても華族のようには見えなかった。しゃんと伸びた背筋に、白く細い手足、くるりとした目。本来女を美しく見せるべきはずのそれらは、娘の汚らしい格好をかえって際立たせた。男は、娘への小さな興味を掻き消すように、分厚い鞄からガサガサと小説を取り出し、馬車の中で読んだ続きのページを探した。

「新しい牢屋番の人ですか」

暫くの無言を破り、娘が喋った。

「そうだ」男は少しぎょっとしたが、すぐに気を引き締めそうとだけ答えた。娘からの返事はなかった。男は少し振り向きたくなった気持ちをなんとなく抑え、その後、晩飯を娘に渡すと、その日の会話はそれきりであった。

それからいくつか日が沈み、同じ数だけ日が登った。娘はたまに男に話しかけた。しかし、男は決まり事を守る性質であったため、娘の問いには無愛想に返事をするか、無視をするばかりだった。

娘が倉の外を見たい、と言い出した日があった。男が無視をしても、娘はまだせがんだ。

「俺は親方を裏切らない」

男がそういうと、娘は渋々倉の外に出ることを諦めた。

ある日、倉に一通の手紙が届いた。手紙には細い筆跡で、娘に華族の親への手紙を書かせろ、との事が書かれていた。おそらくこのまま交渉が進めば、また東京の親方の元へ帰れるのだ。男は大変気分がよかった。男は娘に手紙と紙とペンを渡し、そそくさと読書に戻った。

暫くして、娘に目をやり、そして男は息を呑んだ。娘に渡した紙に描かれていたのは、それはそれは見事な牡丹の花の絵であった。無彩色であるはずのそれは、朝日を反射し、今も男の目の裏側へ鮮やかな赤色を焼きつけているかのように感じさせた。 しかし、男ははっと我に返ると、娘に言った。

「手紙を書けと言ったはずだ。それは遊びに使っていい紙じゃない」

「きっとこの方が私が生きてるって伝わるのです」娘が答えた。

「……なら、いい」

男は半ば諦めたように言った。書き直そうにも、この殺風景な倉に紙と呼べるものは、男の書物と手紙の他に、一枚たりともなさそうであったからだ。それにこのような見事な絵は、限られた人間にしか描けないであろうことはなんとなく察せられた。男は仕方なく牡丹の絵を封筒に押し込んだ。封筒に入れるため、娘の絵を受け取り広げると、やはり見事で、紙を折り畳もうとする男の手を躊躇させた。

翌日は雨が降っていた。パツン、パツン、という不穏な音が、外から聞こえる音であることを確認し、男はほっとした。男は昨日から、常に娘の絵のことが頭に浮かんでいた。雨漏りの音を辿っている間も男の網膜にはまだあの美しい牡丹の虚像が薄く残っていた。紙と言えば文字の羅列を連想させるほど本の虫であった男にとって、絵というものはいささか新鮮なものであった。男はいつもの椅子に座ったが、本を読まず、少しの沈黙の後、娘に話しかけた。

「絵を描くというのは、面白いか」

「ええ」

娘は突然話しかけられたことに戸惑うも、嬉しそうに答えた。

「そうか」

「……どうか可能なら、私にペンと紙をまたお貸しいただけないでしょうか」

男は駄目だと言いかけたが、昨日の牡丹の絵を思い出し葛藤した。

「紙とペンと、外に落ちている草花を少し採ってきて頂きたいのです。それ以上は何も望みません」

男は椅子の横に積まれた本のてっぺんを見た。

「……今度、紙を買ってきてやる。」

男がそう言うと、娘はやたらと嬉しそうな顔をした。その日の会話はそれきりであった。

桜の花のつぼみの先が赤みがかってきた頃、倉の中にはまだ男と娘がいた。交渉が難航しているのであろうか、あれから一ヶ月と少しが経過したが、娘を華族の元へかえすのを知らせる便りはまだ来なかった。男は、二、三週間もすれば便りを送るだろう、という親方の言葉を思い出しながら、小さくため息をついた。しかし、男は特別不満ではなかった。近頃の男の娯楽は本だけではなかった。男は娘に水彩画材を買い与え、また倉の奥にあった机も与えた。娘は、男が紙と倉の前に生えている草花を与えると、それがどんな花でも美しく描いた。雫のように小さな花でも、しおれてくしゃくしゃと乾燥した花でも、精巧かつ、実物よりも一回りか二回り美しく描いた。男は少女の艶美な手が紙の上で軽やかに舞うを眺めるのが毎日の楽しみでもあった。男は気が向いた時には娘と会話を交わした。男は稀に、娘に親方の話や、仕事の話をした。男は、親方へ忠誠を誓う、忠実なプロレタリアであった。男の話す昔話に、娘は黙って、しかし楽しそうに耳を傾けた。ただ、娘は決して自分のこれまでの話と、家族の話はしなかった。男がいつ尋ねても、話をはぐらかすばかりであった。二人は、便りを待つ捕虜と牢屋番とは名ばかりの、穏やかな生活をしていた。

ある雨上がりの朝、男が窓の下を見下げると、湿った砂の粒に混ざって、薄ピンク色の花びらが落ちていた。扉を開けると、青い草原の奥に満開の桜が、幹も見えぬほどに咲き誇っていた。男はこの満開の桜を娘に無性に見せたくなり、娘を倉から連れ出した。二人は咲き誇る桜の大群を見つめた。

「私を倉から出してもよろしいのですか?」

「逃げてもすぐに捕まえられるからな」

娘は何か言いたげな顔をしながら黙った。暫くすると、娘は思い出したように牢から紙と板と水彩画材を引っ張り出した。男は娘が桜の絵を書いているのをただ見ていた。娘は紙に舞い落ちた一枚の花びらを優しく端をつかみ、ひらりと地面に置いた。

「相当花が好きなんだな」

「母が大事にしていたのです」

娘は紙に目を落としながら答えた。

男は珍しく家族の話をした娘に少し戸惑った。

「……母さんの元に早く帰れると良いな」

男は柄にもなく言った。

「母はいません」

「親方からは、両親はどちらも健在だと聞いているが」

「母は火事で死んだのです。父は顔も見たことがありません」

娘はそう言い、紙にかかった花びらをまた一枚、ひらりと地面に置いた。

「すまないことを聞いたな」

男はそう言いつつも、またいつものようにはぐらかされたのだと思った。娘は少しの間、黙って桜を描いた。赤紫がかったピンク色の筆の先が、紙の上の水溜まりに触れると、その透明をじわじわと犯した。

「母が死んだ時、私も死ぬのが良かったのです」

娘は小さな沈黙を破り、言った。男には、それが娘の決死の叫びにも聞こえた。しかし男は今までの生活で、死にたいと思ったことがなかった。男にとって、死とは絶対的な恐怖か、はたまた尊大な狭義心の対象であった。そのため、死ぬのが良かったという娘の発した言葉を、男はいまいち理解し得なかった。

「……死ぬのが良いことなどないだろう」

「……それほどまでに愛していたということです」

娘は面倒臭そうに答えると、また桜を絵を描きはじめた。

その日は雨が降っていた。草原の奥に生えていた遅咲きな桜も、遂に飛花した。絨毯のように敷き詰められた、くすんだ色をした桜の花びらに、雨水が無作為に打ちつけられた。親方の便りはまだ来なかった。男と娘は、牢屋番と捕虜という関係を演じてはいたものの、二人の間にはかつての厳かさはなかった。その夜男は倉の奥から見つけ出した日本酒をちびちびと呑んでいた。

「ここら辺には、そろそろ牡丹の花が咲くらしい」

「そうですか」

娘は紫陽花の花を描きながら言った。

「牡丹は私の母が好きな花でした。」

少しの沈黙の後、娘は言った。男は、娘の両親の話が無性に気になった。そもそも男のいるヤクザに金を借りたのが娘の父親だったのだ。娘が父親の顔を知らないとは到底思えなかった。しかし、娘がわざわざ男に嘘をついているとも思えなかった。

「君の両親はよほど金を返したくないのだな。」

「いいえ。……父は、私を捨てたのです。」

娘は吐き捨てるように言った。

「君の両親はなぜあんなに金を出したがらないんだ。曲がりなりにも華族なんだろう。」

「殆どの華族は今、衰退の道を辿っています……私たちもまた同じなのです。」

暫くの沈黙の末、紙の上には紫陽花の柔らかい青紫色が姿を晒した。

「親方様に会いたいですか」

娘は意を決したように尋ねた。

「ああ、とても会いたい」

「私と親方様、どちらの方が会いたいですか」

男は思いもしない言葉に戸惑った。鼓動がじんわりと熱く、強くなるのを感じたが、男にはそれがなにゆえか分からなかった。

「……君と会えなくなるのは、嫌だな」

熟考の末、男は言った。長い沈黙が倉の中の空気を淀ませた。茎のない紫陽花はもう既に乾いていた。

「私は地主の娘です」

突然娘が言った。

「私がお話すること、きっと誰にも言わないでください」

「……分かった」

男にも、この娘が華族たちの実の娘ではないことが、取引にどう影響するかは理解出来た。一刻も早く親方に伝えなければならないことは理解できた。しかし、男が発したのは、娘への肯定の言葉であった。娘は筆を置き、語り出した。

「幼い頃、私は屋敷に母と弟と三人で暮らしていました。弟は私と同様に幼く、母は病気がちでしたが、地主ということもあり、男手がなくとも生活には困りませんでした。周りに同い年の子供の居なかった私は、弟と庭で虫取りをしたり、一人で花を集めたり、あとはもっぱら絵を描いていました。その頃から私は絵が好きでした。庭は一年中綺麗な花が咲いていて、私にとって、十分過ぎるほど恵まれた場所でした。母と私は花が好きでした。母は庭に咲いている花の中でも特に牡丹の花を愛していました。なので、母は初秋が過ぎ、牡丹の花が減りだすのを寂しがっていました。」

娘が手を止めると、

「夏、私たちの家の庭は、美しい赤色と白色の牡丹の群れで覆われ、咲き乱れました。しかし、秋の初めには、段々と花びらの色彩が淀んでいきます。そのため私は、夏の終わりになると必ず牡丹ばかりを紙に描き移して、何枚も描いた牡丹の花々の中から特別綺麗な牡丹の花を一枚選んで母に贈りることにしました。母は、私が母に渡さなかった牡丹の花たちや、弟が私の真似をして描いた牡丹の花らしき赤色のまんまるも、大事に部屋に飾ろうとしたので、いつしか屋敷の奥に、私たちの描いた牡丹の花を飾るためだけの部屋ができました。母はいつも夏が終わりかけると、弟を連れてその部屋に入り、弟の遊び相手をしたり、本を読み聞かせたりしました。私はなんとなくその部屋に入るのが気恥ずかしくて、少ししおれかけた牡丹の花を、また紙に描き起こしていました。

その日は、彼岸花があちこちに咲き、まさしく夏の終わりのような日でした。私はいつものように、外で花を探し、その日はちょうど庭の端っこにあった大きな2本の彼岸花を描いていました。気がつけば夕方になり、オレンジに照らされた彼岸花はよく映えました。私は、2本の彼岸花をどうしても母に見せたくなり、屋敷の方を向くと、屋敷は夕日に重なり、そして轟々と燃えていました。呆気なく燃えていました。後に、火を消しに来た小作人から、火の不始末だな、と言われました。 その後、私は孤児として父との繋がりのあった華族に引き取られ、育てられました。お家にお金を入れなければなりませんでしたので……働きました。働かない時はずっと、絵を描いていました。」

娘はそう言うと、また、筆をとった。暫くの沈黙は、机上の紫陽花の全貌を暴いた。

娘は大きく息を吸い、震えた息を吐き、話を続けた。男は娘の艶やかな唇と、可愛らしい顎が、興奮によって震えるのを見て、息を呑んだ。

「私はあの時死ぬのがよかったんです。愛する母と死ぬのがよかったんです。もう一度お金を稼ぐだけの生活に戻るのが死ぬより辛いのです。愛する母と、離れ離れになるのが死ぬより辛いのです。」

男はひどく同情した。それでも、娘の言うことに納得することは出来なかった。

「死ぬのが良いというのが、俺にはまだ分からない。」

男は寂しそうに言った。

「いつも貴方が話す、親方様が亡くなったら、きっとそう思うのではないでしょうか。」

娘は言った。男は尊敬する親方が死ぬことを想像した。男は親方のために働き、親方のために死ぬつもりであった。自分は親方のためにに生きているのだと心から信じていた。この生活も親方の成功の糧とするつもりであった。しかし親方が死んだとしても、男は親方と心中したいという気持ちにはなれないような気がした。

「……この話を誰かに言ったら、どうなる」

「私が死にます」

娘の表情は、強大な説得力を孕んでいた。そして男は娘の思惑がなんとなく理解出来た。それと同時に、どこからともなく現れた利己的な悲しさが男の心を満たした。

「もし私が死ぬ時は、あなたも一緒に死んでくれませんか」

男は何も答えなかった。その日の会話はそれきりであった。

ある日の朝、男が外に出ると、草原の端にある牡丹の木のつぼみが膨らんでいた。娘にこれを知らせなければという、強い使命感が男を支配した。男が娘にそれを伝えると、娘はとても嬉しそうな顔をした。

「牡丹の花が咲けば、是非私のところに持ってきていただけませんか」

「分かった」

男は、娘の描いた牡丹の花はどれだけ美しいのだろうかと想起せざるを得なかった。

 あくる日の朝、男の元に手紙が届いた。手紙には、以前と同じく筆跡の細い文字で、華族達が夜逃げしたため娘は東京の女衒に引き渡すこと、娘には華族の元へ返すと伝えること、明日には倉のそばに馬車を寄越すことが綴られていた。昼頃、男は蔵の外に出てみた。雲のせいで、思っていたよりも草原は陰っていた。牡丹の花が発光するように咲いていた。男は牡丹を見つめてみた。そして、親方のことを考えた。東京のことを考えた。仕事をことを考えた。忠誠のことを考えた。娘のことを考えた。

 男の背を斜陽がオレンジ色に照らした。男は深く決心した。牡丹の花を両手いっぱいだけ採ると、蔵へと踵を返した。蔵にあったマッチ箱からマッチを取り出し、何本かを擦った。それを遠くの草原に放り投げ、倉へ戻った。

「火の不始末だ」

男はそう言い娘の方に鍵を放り投げた。

「逃げろ」

「分かりました……貴方は逃げないのですか」

「俺は、ここで死ぬんだ」

娘はきょとんとして男を見つめた。そして悟ったように言った。

「牡丹の花はありますか」

男は娘に牡丹の花を渡した。

「卑怯ですね、貴方は」

そういって娘は笑った。

炎はパチパチと音をたてながら、やがて草原の花開いた牡丹の花を照らした。 轟々と燃え上がる炎はまるで一輪の牡丹の花のようであった。

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