モノノケヤドリ 下
再び議場に物怪宿りや兵士、研究者が集合する。
会議が始まり、百目鬼が中央に立って話を進めた。
「何故、急に玉藻前が出現したのか、説明を求める。ハク」
ハクは再び登壇し、前を向いて話を始める。
「結界は現世にあるからこそ有効です。その場が冥府となれば、結界は無効となります。その盲点を突かれました」
「つまり、結界が無効となる冥府が発生したと?」
「はい。物怪の発生は冥府との接続ですが、一瞬のことで、且つ東京では結界によって蜘蛛の巣のように身動きが取れなくなります。ですが、今回は長時間冥府に繋がっていた為、結界は機能しなかった、と思われます」
「病院が破壊されたのに、元に戻ったという現象は?」
「奴の能力です」
「能力とは何だ?具体的に説明しろ」
俺はハクの横に出て、言う。
「超強力な幻覚です。病院内にいた俺だけでなく、全員が騙されたという事になります」
議場がざわついた。
無理もない。
ランクSSSの幻覚、そして、その能力の強さから、勝てるはずが無い、と絶望する人間は多い。
百目鬼は問う。
「なにか対処法は見つけられたのか?」
「この力は、世界をも騙す能力です。奴の能力を強化している…それを壊せば…」
ハクが口を閉ざす。
俺は引き継いで言った。
「壊すという表現からも、何らかの装置が存在する。つまり、玉藻前の能力を増幅している装置があり、それを破壊すれば、超強力な幻覚は解ける。少なくとも、通常の玉藻前の能力のみになる」
ハクが頷く。
俺は疑問を言った。
「つまり、超強力な幻覚っていうのは、誰も幻覚だと気づけない」
俺は全員の意見を聞くため、とある仮説を口にした。
「物怪宿りって、呪いじゃないか?」
議場が沈静した。
誰もが思っていた疑問が、そこにある。
―肉体の変身でありながら、服が破れない。
ツバサはハクに問う。
「どこまでが幻なんだ?」
ハクは言う。
「外見と能力だ。物怪宿りの肉体は物怪の細胞に侵食されているのは変わりない。だが、人外の能力を底上げしているのは呪いによるものだ。呪いは、重力や力学をも無視する。個人のイメージが変化の見た目や、攻撃のモーションに繋がっている。もともと…」
ハクは口を閉ざす。
ツバサは問う。
「物怪は実際に居るのか?」
ハクは頷く。
「いる。それを倒すために…」
「物怪宿りはつくられた」
「そうだ」
ツバサは確信に迫るのを感じながら、問う。
「なら何故、その幻覚を用い、玉藻前は物怪宿りに協力するんだ?」
「奴にはある狙いがあるからだ。そしてそれは」
ハクは口を閉ざすが、ツバサは理解して続けた。
「人間の技術、装置、つまり人間の協力が不可欠だから」
ハクは頷かないが、ただ視線を送って来る。
ほかの兵士が口々に言う。
「つまり…玉藻前と手を組んだ裏切り者がいるってことか?」
議場が静まり返る。
一人の物怪宿りが言った。
「だが、それがもし本当なら、玉藻前の能力が無ければ俺達はとっくに物怪に攻められて、滅んでいたって事だろ、仕方がなかったんじゃないのか?」
「お前が裏切ったのか」
「いや違う、一つの考えに決まっているだろう!」
混乱し始める中、冬木が椅子を蹴り飛ばした。ドガと鈍い音が響いて木製の椅子に穴が空く。
みんなが息を呑んだ。
真犯人に近づき、殺気立った冬木が押し殺した声で言った。
「うるせぇな。裏切り者がいたとして、そいつがここで自白すると思うか?」
百目鬼がハクに問う。
「何故玉藻前はお前たちを殺さなかった?」
俺が答える。
「殺せなかったんだろう。冥府に繋げられる時間に制限があったのかもしれない。今まで冥府と持続的に繋がるなんて事は無かった。人工的なものだと考えるのが妥当だろう」
俺はハクに問う。
「玉藻前の能力を強化する装置はどこに?」
ハクは首を横に振った。
「呪いによって話せない」
百目鬼がハクに言う。
「お前の呪いとは何だ?」
俺は考え、言った。
「玉藻前、もしくは玉藻前と繋がった人間に仕組まれた口封じのような物だと言って良いでしょう。それよりも今考えるべきことは、装置を破壊すること、ひいては玉藻前を倒す事です」
俺は病院内で何が起きたかについて、詳細を説明し、玉藻前がどんな幻覚を見せてくるのか、なども解説した。具体的な対策は出ないまま、会議は幕を閉じた。
隣に座る天が震えていて、俺は背に手を置いた。
「大丈夫だ。みんな疑っていないよ」
「…はい」
玉藻前はいつどのような状況で現れるか分からない。
天が玉藻前と同じ姿であるという事は、説明せざるを負えなかった。
「私…人間の時も不死の性質があります」
「そうか」
「私の言った仮説は、自分のことでもありました」
「何も思わないよ。天は天だ」
ちらりと天を見ると、天は今すぐにでも泣き出しそうな表情をしていた。
唇を噛み、震えている。
「天」
「大丈夫です」
その時、イヤーモニターにポン、と通知が入った。
腰のベルトに細い鎖で繋いだカードの液晶とリンクしている。
メールを開いて見ると、「天のメンタルケアを頼む」と博物館の招待状のバーコードが添付されていた。本文に「僕は行けないから使ってくれ」とある。
俺は言った。
「天、気分変えて、出かけようか」
天は顔を上げる。
― ― ―
東京の地下一帯には娯楽施設が多数ある。その内の一つ、最近造られた博物館へ向かった。
21世紀初頭の海を再現した水族館は、息を呑むほど美しい。トンネルのような水槽が360度広がっており、水の中に立っているかのようだ。銀色の魚が鱗を閃かして横を通り過ぎる。大きな影が落ち、見上げると平たい見た事のない魚が泳いでいた。
天が無口だが、目を輝かせて水槽を見つめていた。
次第に気持ちが切り替わったのか、楽しそうにお喋りを始める。
「見て下さい!大きな魚がいますよ」
「そうだね」
十六歳らしい無邪気な姿に、心が和む。
俺が微笑むと、天は少しだけ表情を曇らせて振り返った。
「ツバサ」
「ん?」
「…私、ちゃんと、天に見えますか?」
俺は天の肩に手を置いた。
「もちろんだよ」
「…」
「不安なのか?」
「…はい」
俺は考えた末、天と手を繋いだ。
天は顔を真っ赤にする。
「天、俺は天に会って色々なことを思い出したんだよ」
「え?」
「天を見ていると世界が広がっていくんだ。今もずっと、天に助けられてる」
「…それは、私の方です」
「俺もそう言いたいよ。いつもありがとう。これからも一緒に居て欲しいし、俺はその気持ちで戦えている。前は戦闘のモチベーションなんて、特に無いって言ったけど、よく考えると、天を守りたいって気持ちが強いんだって、俺は今日改めて思った」
「ツバサ…わ、私もです…その、責任感って言いましたが、もちろんその気持ちもあるけれど、ツバサが居るから頑張れたし、これからも頑張ることが出来ます。生きて明日を迎えたいって思うんです」
天の瞳に、水面の輝きが反射して光っていた。
とても綺麗だ。
俺は笑って頷いた。
「そうだね、頑張ろう」
俺達は一通り博物館を散策してから帰路を辿った。
天を部屋の前まで送り届ける。
天が俺を見上げ、言う。
「今日は楽しかったです。ツバサ、ありがとうございました」
「チケットはハクから貰ったんだ」
「え」
俺は苦笑した。
「気が遣えなくて悔しいよ。次は俺が先に誘うから待ってて」
天は視線を泳がせた後、俺に抱き着いた。
俺は天の頭を撫でて、身体を離す。
「誰かに見られたら少し恥ずかしいから」
天は頬を染めてコクコク頷く。
「そ、そうですね」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
― ― ―
朝の陽ざしで目が覚めた。
俺は洗面台に向かい、顔を水で洗う。
玉藻前の囁きと、仮面の罅割れる音が耳に残っている。
天を守りたいという気持ちをハッキリと自覚し、覚悟を決めたにも関わらず、スッキリするはずの気持ちとは反対に、ピリピリする不快感が胸にへばりついていた。
俺は困惑した。
自分の感情が分からない。何だこれは。
悩んだ末、俺は普段通り、何も考えないようにした。
その時、警報が鳴った。
館内放送と管狐のテレパシーで二重にアナウンスが入る。
『発生地点は街の上だ。東京都内の中心、その上空に大規模な波形を観測している。つまり、このままでは落下した物怪によって街が押しつぶされてしまう』
軍の情報部門が言う。
『あらゆる媒体を用い、速報で国民に情報を速報する』
『ああ、頼んだ。人の居る場所を中心に兵士を配備し、国民を守るのが最優先となる』
いっぱく置いて、ハクは続ける。
『結界の強度を調整し、物怪宿りは変化が出来るようにした。直ぐに状況に対応出来るよう、変化して現場に向かってくれ。道中避難していない人がいれば、避難を促すように。また状況を連絡する』
ベルトに繋いである小型の液晶カードを見ると、マップと波形の観測地点が赤く点滅していた。
俺は変化して冥府の波を察知した場所へ向かった。
上空からだと既に速報を聞いた住民が交通機関で移動しているのが見えた。範囲は街の中央なので壁際に移動しているようだ。地下シェルターという指示があったはずだが、こんな大規模な避難訓練など行った事はなく、混乱が生じるのは当然のことに思えた。
待機していると、テレパシーでハクの声が聞こえてきた。
『上空に巨大な波形がある。物怪は上から降って来るが、何が来るかは予測できない。前回の、がしゃどくろ程の大きさならば、物怪宿り全員が協力しても、受け止められる時間に限りがあるだろう。落下する前に破壊するのも現実的ではないが、今のところ方法はそれしか思いつかない。最低限のバリアの兵装は設置する予定だ。他にアイデアがあれば教えて欲しい』
管狐のテレパシーは一帯に広がっている。呟くだけで発言は共有される。
俺は考えて言う。
「移動が一番現実的じゃないか?」
『移動?どうやって?』
「バリアを橋みたいにして、俺達が一気に押して、引いて移動させる、とか」
『…落ちたら街が大破する』
「何もしなくてもそれは同じだろ」
天が割り入る。
『移動は悪くない案だと思います。初めに物怪宿りが受け止めて、バリアにゆっくり移動させるのはどうでしょう?』
ハクは答える。
『分かった。バリアについてだが、二種類用意する。まずは平たい円柱のバリア。これは、物怪宿りの足場ともなるものだ。地上から直に物怪を支えるにはリスクがあり過ぎる。そして、もう1種類が壁外まで伸びる橋の役割を果たすバリアで、これは、物怪のサイズを確認してから起動する』
「了解」
ズン、という低い振動音の後、結界が作動し、擦りガラスのような透明なバリアが上空に出現した。
『第一のバリアを設置した。内側から出て行くことは可能だ。外側から中へ入ることは出来ない。全員跳躍してバリアの上に乗ってくれ』
言われた通りバリアの上に乗り、俺は上空を見上げる。
空が近い。雲を吸収するかのように、微かに渦を巻いている。
続々と物怪宿りが集合し、隣に天と冬木がやって来た。
ハクが声を大きくして言った。
『波長が大きくなった。来るぞ!』
上空でオーロラのような揺らぎが発生した後、水面に水滴を垂らしたかの様に、朝焼けの空に丸く波紋が広がった。
そして…
何も落ちて来ない。否。
俺は叫んだ。
「透明だ!」
天はバリアを蹴り上げ、両手を伸ばして跳躍すると、何かにぶつかり、跳ね返された。天は両手を伸ばしたまま、苦悶の表情で透明の物怪を支える。
他の物怪宿りも協力し、全員で支えるが、信じられない重量だった。おそらく、がしゃどくろよりも重い。潰れそうになる。
その時、百目鬼が天の隣に立ち、両手を掲げた。
百目鬼の周囲で炎が渦巻き、両手から、極太の鋼鉄が伸びて、巨大な車輪が水平に出現する。火炎を散らしながら百目鬼は変化し、全身を鉄化させて真っ黒になった顔を全員に向ける。
百目鬼の物怪「輪入道」
百目鬼が大声で指示をした。
「物怪を特定せよ!」
俺は周囲を飛び、羽ばたいて風を当てながら、跳ね返る風圧で外見を測る。触れると、絹のような滑らかな触り心地がした。手を伸ばしながら、撫でるように前進する。
それだけで裕に百メートルはありそうだった。
ふいに、出っ張ったものに手がぶつかる。手を広げて触ると、白い皮膚がすっと現れた。撫でると、ゆっくりと動く。左にカーブした。丸みを帯び出す形状に、ツバサが身を乗り出して観察すると、ツバサの全身よりも巨大な眼が出現し、ぎょろりと動いて目が合った。
ツバサは報告する。
「目がある!」
ツバサがそっと目の周辺に触れると、他に大きな目玉が二つ現れて瞬きをした。
「三つ目だ」
冬木がテレパシーを介して言う。
『主に三つ目の特徴を持つのは、「三つ目入道」「ハクタク」「三目八面」だが、透過の性質なんて持っていないはずだ』
「ああ。一つ目の物怪が複数集合しているという可能性もあるけど…」
不可解な性質に、全員が焦りを感じ始める。
俺は再度、目の周囲を撫でまわした。すると、大きな垂れた耳があると分かり、ハッとした。
シーツを被せたような丸みを帯びた四足歩行型。垂れ下がった耳、大きな三つ目。
江戸時代の妖怪絵巻に描かれた物怪によく似ている。
『「ぬりかべ」だ』
塗り壁の「壁」のイメージが定着したのは、実は二十世紀なってからだ。他の物怪と違い、ぬりかべは地方の無名の物怪だった。
ハクが言う。
『江戸前期、「化物之繪」資料と一致した。今からぬりかべをバリアで輸送する。全員配置につけ』
俺は巨大な目玉を覗き込んで言った。
「ぬりかべ、今から移動してもらう!いいか」
三つの目玉が、ぎょろりと俺に向けられる。
ぬりかべは半透明になり、微かに正体を現しながら、牙の生えた口を動かした。
『うえ』
「え?」
ツバサは気が付き、ぬりかべの口に顔を近づけた。
『うえ』
「上?」
ツバサが問うと、ぬりかべは籠った不思議な声で言う。
『モッケ』
ぬりかべは口を引き結び、むずむずと震わせる。
俺は空を見上げた。
「物怪がいるのか?」
俺の肩にそっと管狐が現れ、上空を見上げた。ハクに映像を届けているのだろう。
俺は言った。
「みんな聞いてくれ、ぬりかべが自分の上に物怪がいるって教えてくれている」
冬木が言う。
『コイツは一体何なんだ。ぜんぜん動かねぇし、気味が悪い』
「悪いヤツじゃないのかもしれない」
ハクが言う。
『ぬりかべの言う、もう一体の物怪を観測したら、直ぐに知らせる。まずはぬりかべを移動させることに集中する。第二のバリアを起動する。準備は良いか?』
全員が応えた。
「了解」
航空機が結界弾を投下する。空中で直ぐに爆発し、水平に結界が広がる。それが熱したガラス細工のように長く壁外まで伸びて固定される。
『持ち上げている人は合図で手を離し、ぬりかべの下から出てきてくれ。結界の上は滑りやすくなっている。ぬりかべを乗せて、全員で押し出す』
「了解」
『行くぞ、321』
全員が押し上げるようにして手を放し、ぬりかべはふわりと浮き上がる。
ぬりかべは全身を現しながら、ベッタン、と結界のバリアに乗った。
ツバサは祈るような気持ちでぬりかべに話し掛けた。
「このままお前が落ちたら街が潰れてしまうんだ。だから、お前を向こうまで運ぶ。ちょっと痛いかもしれないけど、許してくれよ」
ぬりかべは返事をするように、三つ目を瞬きさせた。
ぬりかべの身体に網が回され、先端を天が持ち、他の物怪宿りが後方からぬりかべをゆっくりと押す。
言葉が伝わったのか、ぬりかべも抵抗せず、大人しく運ばれて行く。
その時、太陽を背に、何かが降って来た。
目を開けていられぬ程の突風が巻き起こり、上空から現れたのは、金色の翼を羽ばたかせ、ゆっくりと下りてくる天狗の姿だった。
神々しい。
血のように赤い天狗面、真っ白な羽織り、藍色の袴。白衣から覗く筋骨隆々な腕に握られた、黒い羽団扇は王者の証だ。
日本三大妖怪の内の一匹。総合した戦闘力では、大天狗が一番強いと、人工知能が結論を出している。
大天狗はゆっくりとツバサの正面へやって来る。十分な距離があったにも関わらず、瞬間移動したかのように天狗は横にいた。
耳元で囁かれた。
「お前、嘘つきだな」
青空に黒い血が散った。
何も分からないまま、俺は墜落していた。
地面に打ち付けられ、俺は羽根をもがれた虫のように、足掻いた。
変化できない。
いっぱく遅れ、ペチャ、と音がした。見ると、切断された内臓だった。
赤い血が広がる。
パリン、という小気味よい音と共に、以津真天の面が割れた。
寒い。
寒い。
地下のトンネルを延々と歩く。
真っ暗でほとんど何も見えない。
ボロボロの作業服を着た人間たちが、一人二人、立ち止まり、壁にズルズルと背を凭れて座る。
死んでいく人間だ。
俺は彼等を追い抜き、ただ歩く。
トンネルを進み続けると、階段がある。上っていると何かを踏んだ。見ると、腐った死体だった。避ける気力もなく、俺は肉と骨を踏みつけて階段を上がる。
階段は外に繋がっている。だが、そこに自由はない。
強制労働の発電所があるだけだ。周囲は草原で、高い塀で囲まれている。高電圧の鉄線、有刺鉄線が張られ、逃げられないようになっている。一度逃げようとした人間は翌朝無残な姿で発見された。
ピーー、と笛の音が鳴る。
軍人が「整列」と大声を張り上げ、俺達は急いで列を作る。
点呼が始まる。
一人ずつネーム番号を言っていく。
「1118」「1120」「1121」…
それきり番号が続かない。
銃を背負った軍人が怒鳴る。
ツバサは慌てて言った。
「1128」
自分の前にいた六人が死んだ。
昨日は居たのに今日は居ない。
ここに辿り着けないというのは、それだけ衰弱している事になる。働けないのでご飯は受け取れないし、もう助かりはしない。
被験者の分類は主に三種類。
一つは発電所の労働と実験。朝の五時から夜の三時まで働かせられる。一番短命だ。
二つ目は炭鉱での労働と実験。
三つ目は実験三昧。
被験者はこの三択から選ぶことになる。
いずれも、そう遠くない未来、いつか死ぬ。
餓死、病死、実験死。最近蔓延している伝染病は、みんな地面を這いつくばい、のたうち回りながら苦しんで死んでいく。みんな、早く殺してくれと言う。
発電所では、ひたすらタービンを直接手で回し、発電をしなければならない。労働者の手は血だらけだ。
俺も例外ではなく、皮が剥け、肉が見えてその周りが壊死していた。
痛みをこらえてタービンを回す。
仲間と視線を交わす。
監視の人間が居眠りしている隙に、俺は手を止め、小声で同じ被験者と会話をする。
仲間が囁いた。
「一か月前に来た親子、覚えているか?」
俺はうつろな目を向ける。
仲間は目を閉じ、乾いた声で言う。
「母親が死んだそうだ」
「…子供は」
「生きてる」
「番号は」
「3400、だった気がする」
「ありがとう」
深夜三時に労働が終わり、一握りの米をもらう。
灯りの無いトンネルをずっと歩いて帰る。
3400番~の被験者が収監されている檻へ向かう。
帰りの時刻なので、バレない。
しくしく泣いている声が聞こえた。
檻の中には骨と骨に成りかけの腐った死体、大量の虫と、数人の生きている人間がいる。
檻の端にまだ年端もいかぬ子供がいる。痩せこけて、来た時よりも凄く小さくなっている。
名前は憶えている。母親とも話した。
俺は入り、声を掛けた。
「マイちゃん」
女の子はぱっとこちらを振り返る。
俺は笑顔を作り、女の子を抱き締めた。
「ママに会いたい」
「そうだね」
「うん」
俺の膝に、女の子が座る。
俺はそっと頭を撫で続ける。
反対の手で服の中に隠していた注射器を素早く取り出す。押し子を軽く押した。液体が僅かにピュッと出る。
それを置き、ポケットから米を出して、マイに差し出した。
「マイちゃん、食べな」
「いいの?」
「いいよ」
俺が微笑むと、女の子は泣きながらおにぎりを食べた。
「美味しい?」
「うん」
「あのさ、お母さんのところ、行きたい?」
「うん。お兄ちゃんが注射してくれるんでしょ」
俺は笑った。
「もう知ってるのか」
「うん。みんなが教えてくれた。あたし、大丈夫だよ」
「お兄ちゃんが抱っこしてるから、安心していいよ」
「うん」
「偉いね。よく頑張ったよ」
「うん」
「死んだらみんな天国に行くんだ。天国には天使や神様がいて、お母さんのところへ導いてくれる。みんな優しくて、お母さん以外にも、死んだお婆ちゃんやお爺ちゃんや、いろんな人がいるんだよ」
女の子は俺を見る。
俺は女の子の表情を観察し、興味のある方向へ、話を進める。
「お爺ちゃんやお婆ちゃんだけじゃないよ、例えば、お爺ちゃんやお婆ちゃんのお父さんやお母さんも居る」
「ひいお爺ちゃんとひいお婆ちゃん?」
「お、よく知ってるね」
「うん!」
「人だけじゃないよ、犬とか猫、鶏、動物もいる。みんなでマイちゃんのこと、待ってるかもね」
「うん!」
「じゃあ打つよ。ちょっとだけチクっとするけど、大丈夫」
「うん」
俺は素早く女の子の腕に注射を打った。
優しく頭を撫で続ける。
静かになったと思って見ると、女の子は眠るように穏やかな顔で死んでいた。
数時間後、俺は再び工場へ戻ってタービンを回す。
「どうだった?」
「上手くいった。けど、もう薬剤がない。実験もないから、研究者と取引もできない」
「そうか…」
落胆する声で察し、俺は言う。
「子供なら優先する」
「違うんだ。俺の父さんだ。もう死にそうなんだけど……一緒に居てくれないか」
「わかった」
ツバサは仲間の父親の手を握り、言った。
「息子さんは良い人です。子供たちのことを考えて、俺にも情報をくれました。そんな息子さんを育て上げたお父さんも、素晴らしい人だと思います」
俺は言う。
「息子さんは沢山お父さんに感謝していました。後悔していることも、あるそうですよ」
仲間は視線を逸らすが、ツバサが肩に手を置くと、仲間は胸中を吐露し始めた。
父親は息子の謝罪と感謝の言葉を聞き、涙を流しながら、口元に笑みを浮かべ、目を閉じた。
数日後、俺は老婆の手を取っていた。
「僕はちよさんに様々な事を教えて貰いました。ちよさんがいなければ、今頃の垂れ死んでいました。本当に感謝しています」
老婆の身体が震えているのを見て、ツバサはそっと覆うように老婆を抱き締めた。
「僕もすぐそちらへ行きますよ。ちよさんは先に待っていて下さい」
ツバサは老婆の耳に囁いた。
「ちよさんとは会うのが初めてでしたが、本当のお婆ちゃんみたいでした。だから僕は頑張ることが出来たのかもしれません。また会いに行きます」
老婆は涙を一筋流し、幸せそうな顔で死んでいった。
俺は何故か実験の結果が良かった。
研究者たちは良い成果が欲しいらしく、俺のデータを欲しがった。日に制限されている以上の実験を秘密で行った。
その分、安楽死用の薬剤と注射が与えられた。
毎日発熱し、意識も朦朧としていた。節々が痛くて、眩暈もあった。
だが飢餓や病気で誰かが啜り泣く声を聞くと、助けなければいけない、という強迫観念に駆られた。
その意識だけが、俺を生に繋ぎ止めていた。
おそらく百人は殺した。
みんなは俺に感謝した。「死神様」とまであだ名がついた。
だが、魂を刈り取る度に、俺は心がすり減っていった。
感情はマヒし、同情も共感も湧かなくなっていた。でも、誰かが救われているならば、それが自分のやるべき事だと思った。何か役割を得なければ、生きていけなかった。
地下牢の実験場ではそれでも良かった。
だが、物怪宿りになり、普通に生活するようになってから、自分が何も感じられない事に気が付いた。
何が楽しいのか分からない。何が面白いのか分からない。何が怖いのか、何が不安なのか、理解できない。
感情に自信が持てなかった。調べると、失感情症という病気だと分かった。
他人の真似をしてその場を凌いだ。
人の笑顔に安心した。
機械のプログラムのように、俺はルールに従って行動した。そうすれば大体の事は上手くいった。
それで良いと思っていた。
目を覚ますと、病院だった。
俺は息を吸い、自身の手の平を見つめる。
綺麗な手だ。タービンを回していたとは思えない。現実だ。
顔を横にすると、天がいた。
そして、微かに残る記憶の前、大天狗に切られた事を思い出す。
あれは神通力、幻覚だったのだろう。
変化が解けた状態で胴体が真っ二つになっていたなら、自分はとっくに死んでいる。
「俺はホショクが起きたのか?」
天は静かに頷く。
「はい。私とハクがツバサを助けに行きました」
冬木と同じ状況なら、天も自分の過去を見たのだろう。
天は視線を彷徨わせて言う。
「悲惨な状況は理解できました。私のいた第一研究所がとても恵まれていたと思えるくらい」
俺は微笑んで言った。
「助けてくれてありがとう。怖い思いをさせて悪かった」
「いえ」
天はぶんぶんと首を振った。
「大天狗はどうなった」
「取り逃がしました。でも、ぬりかべは捕獲して、負傷者もいません」
「そうか」
俺がため息をつくと、天はベッドに膝をつき、急に抱き着いて来た。
天はくぐもった声で言う。
「ツバサ、ツバサは一人じゃないです。いつも私は、私のことばかりで、私、全然ツバサのことを聞き出そうとしませんでした。もっとちゃんと、沢山ツバサとお話すれば良かったです。ごめんなさい」
俺は苦笑する。
「天は優しいね。俺の方こそ心配かけてごめん。でも、怖くならないの?」
天は首を振った。
俺は天の髪を撫でる。サラサラして、手触りが良い。
静かな時間が流れる。
俺が目を瞑った瞬間、イヤーモニターで緊急出動のアラートが鳴った。
天は名残惜しそうに腕を離す。
俺はたずねる。
「あれから何日経ってる?」
「二日です。ツバサは休んでいて下さい」
「いや、行くよ」
「でも」
「大丈夫、戦わない。せめて救護とか、警備をするだけ」
大丈夫、と俺は安心させるように微笑んだ。
天は首を振る。
「ダメです。ツバサは、今は休んでいて下さい」
天は強く言った後、「行ってきます」と気持ちを切り替えるように、ビシッと敬礼した。
俺も敬礼を返す。
天が行った後、俺も病院を抜け出した。
俺はようやく理解した。
胸の不快感は不安だ。
天を守りたいと思った時、守ることが出来るかどうか、自身の力を疑った。人は不確かな未来に対して、要らぬ想像をして、不安を感じる生き物だというのは、周りを見て知っていたのに、いざ自身の事となると、簡単に不安に呑まれてしまったのだ。
それがどうしようもなく悔しかった。
俺は後から飛行場へ向かい、一般的な兵士と共に、空いているヘリコプターに搭乗した。
東京から出たのと同時に、俺は自身の身体に力を入れる。
だが、変化できない。
全身には羽毛が生え、変化できるものの、鳥の面を被ることが出来ない。
何故?
鳥の面を被ることが出来ないと、すぐに変化は戻ってしまった。
俺は混乱する自身の心を落ち着かせながら、兵士からスナイパーライフルを受け取った。
― ― ―
天の脳内にハクの声が届いた。
『地図を見てくれ。岩手県、北上高地全体に反応がある。範囲が広いから、分散して索敵を行う。川も含まれているため、水辺の物怪も出現する可能性がある。十分注意してくれ』
「了解」
ヘリコプターには、冬木が同乗していた。
ツバサが目を覚ましたことを伝えると、冬木は言った。
「俺もあいつの過去を見たかった」
装置は一人しか意識に介入できない。ハクの指示で天が選ばれた。
「…とても凄惨なものでした」
「そうか」
「第三研究所があそこまで酷いものだとは、思ってもみませんでした。何故、あんな事が許されていたのでしょう…倫理的にも到底容認されるべきものではありません」
「研究所ごとに差があるというのは、人体実験の大きな特徴だな。上の人間の指示によるものだろう。俺も詳しく調べてみよう」
「はい。あんな事が出来る人間は、玉藻前に魂を売ることが出来る人だと思いますから」
冬木はヘリコプターの窓を覗き、下を見て言う。
「山が深いな。着陸は出来ないだろう。このまま変化して地上に降りる。気持ちを切り替えろ」
「はい」
「行くぞ」
ドアを開け、二人は飛び降りる。
天は呟く。
「酒呑童子」
天の身体が発火するように燃え、服が溶けるように消失して銀色の素肌になる。髪は赤く染まり、炎のように揺らぐ。手を伸ばすと、赤銅色の棍棒が現れる。それをしっかりと握り、天は着陸する。
冬木も白装束になり、冷気を纏ってふわりと河原に降り立った。
冬木は川に視線をやり、月に映る自身の影を見た。
二人は歩き出す。
天は言う。
「このまま歩くと上流に向かっていることになるのでしょうか」
「そうだな。分かれず二人で索敵をしよう。嫌な予感がする」
「同感です」
川は次第に細くなり、河原ではなく、周囲も木々に覆われた小川になっていく。たまに魚が跳ねて月光に照らされた鱗が光る。
だが急に水質が悪くなり、透明だった水が茶色に濁りだした。
天は覗き込んで言う。
「急に水が濁りだしました。これも物怪のせい?わっ」
冬木は天の胴を持ち、大きく跳躍して川から離れる。
月光で出来た木影に入り、冬木は言った。
「ランクB、牛鬼だ。自身の影を舐められれば死ぬ。川に映る湖面の影も含まれる。即死の攻撃を持っている。直接的な攻撃ではない以上、修復が行われる間もなく死ぬ可能性は十分にありうる。危険だ」
天は息を詰める。
牛鬼と出会っただけでも、不治の病に罹ってしまうと地方伝承があったはずだ。身体は鞠のように柔らかく、足音もしない、一体どうやって戦えば良いのか。
冬木は言う。
「牛鬼の対処法に、逆の言葉を言えば助かるというものがある。言霊の力を借り、瘴気を払う。気休めかもしれないが、今から言う言葉を繰り返せ」
「はい」
「石は流れる木の葉は沈む。牛は嘶く、馬は吠える」
「石は流れる木の葉は沈む。牛は嘶く、馬は吠える」
冬木と天を取り囲むように、光の壁が出来上がる。
天は耳を澄ませて言った。
「敵はこちらに気づいているようです。さっきから、枯れ葉の上を歩く不規則な音が四方から聞こえます」
「木の影から出ないように注意しろ」
「はい」
冬木と天は背を合わせ、攻撃に備える。
その時、光の壁が何かを弾き飛ばした。
ぽってりした丸い腹、昆虫のような細い節のある脚が蠢いている。木の幹に着地した「牛鬼」は、顔を上げる。横に飛び出た牛の耳と、反り返った黄ばんだ角。血を垂らしたような爛々と光る点の瞳孔が、ぎょろりと二人を捉えた。
闇の中で、カサカサカサ、と黒い影が這い回る。牛鬼は、超高速で木の裏や木の根の下に潜み、すぐに姿を隠した。
冬木が言う。
「天、一度高く跳べ」
「はい」
天は強く地面を蹴り上げて跳躍する。
冬木は二丁の白い拳銃を地面に向ける。深呼吸をしたあと、発砲した。
二つの雪弾は凄まじい勢いで地面に着弾すると、白い爆発を起こしながら、地面一帯を凍らせた。木の根や影に隠れていた牛鬼が凍り付く。
隠れる場所がなくなった牛鬼は、一斉に冬木に向かって飛び掛かる。天が着地しながら棍棒を振り回し、氷の地面ごと牛鬼を打ち付ける。だが、その衝撃で木々も吹き飛び、影が無くなった。
天が焦った時、炎の大車輪が上空に出現した。
百目鬼が大車輪を掲げると、月光を上書きした強烈な猛火の光が、新たな影を作り出した。
天と冬木は移動し、自身の影を、その大車輪の影の中に入れる。
「すみません」
冬木は銃を回して言う。
「気にするな。それより戦うぞ」
「はい」
百目鬼が振り向き、太い声で言った。
「私は影つくりに徹しよう」
「天、一体ずつ仕留める。俺は北のやつを狩るから、お前は南から飛んできたのを対応しろ」
「了解です」
― ― ―
同刻。
暗雲が垂れ込め、雨が降って来た。
俺は山の麓に移動し、上から河原に発生する牛鬼を狙撃していた。銃のレンズを通し、河原に群がる牛鬼を一体ずつ銃で撃ち抜いていく。
最後の一発を撃ち終え、装填をした時、背後で声がした。
俺は息を詰め、一足に振り返る。
黒い毛皮に覆われた、二足歩行の何かが暗闇に潜んでいる。
雨が降る中、それはノッソリと足を踏み出す。
ピチャンと泥水が跳ねた。
現れたのは、猿の顔。
ニタリと唇を翻し、物怪は奇妙な、よく通る男の声で喋った。
『覚だ。「覚」は人の心を読み、考えを次々に言い当てて動揺を誘い、隙を狙って人を食ってしまう物怪だ』
俺は息を詰めた。
覚は嗤って俺に近づく。
『実際に心を読み上げられるのは、想像以上に不可解なものだ。認めたくはないが』
俺は銃を発砲する。
覚はゴムのように胴体を九十度に曲げて避ける。
『ランクはD、戦闘力はほとんど無いに等しい。恐れることは無い』
銃を連射する。
一発が覚に当たって、覚の上半身が吹き飛ぶ。
俺は弾を装填するが、その間に身体は完全に修復し、覚は口角を引き上げて不気味な笑みを浮かべる。
覚は口をカパッと開き、早口で言う。
『修復が速すぎる。攻撃で倒すのは無理だ。確か、焚き木などが偶然跳ねてぶつかると、逃げ去ったという民話があったはず。予想外の出来事を起こして、覚を驚かせて追い払うしか無い。だが、自分の思考の範囲外で行動を起こすのは、無理がある。一体どうしたら』
気づけば、覚は真横にいた。
覚は囁く。
『仲間を呼ぶのはダメだ……本音を読まれる危険性がある』
俺は発砲する。
覚の頭は吹き飛ぶが、0.1秒で元通りになる。
俺は走って覚から距離を取った。
覚はすぐ後ろを追いかけて来る。そして大声で言った。
『絶対に知られてはいけない。全員が一丸となり、必死で戦っているのに、自分だけ世界を救えなくても良い、だなんて思っていること』
俺は足を止める。
覚は嗤って言う。
『興味がない。自分は物怪宿り以外に、どう生きて行けば良いのか分からないし、ずっとこのままでも構わない』
俺は振り返り、言い返した。
「違う!そんな事は思っていない、俺は、天を守りたいって思ってる。俺は気が付いたんだ!」
覚は一歩近づく。
『たぶん』
二歩近づく。
『嘘かもしれない』
「嘘じゃない!」
三歩目を出し、覚は止まる。
俺は再びを銃を構える。
覚は両手を開き、言った。
『だって仕方がないじゃないか。俺は自分の事が分からない。普通だったら分かることが分からない』
俺は唾を呑み込んだ。
覚は腕を上げ、奇妙なポーズを取りながら言う。
『俺は物怪のように感情が無い。だからホショクをされなかった』
俺は引き金から指を外す。
『ハクは負の感情を捨てる事が、ホショクを免れる方法だと、俺に説明した』
覚は俺に飛び掛かり、銃を叩いた。勢いよく銃は手から離れ、地面に落ちた。
スピンする銃を横目に、俺は覚の言葉に耳を傾けていた。
『俺は人の様子を観察して、良い態度をしているに過ぎない、ペテン師だ。人を馬鹿にしているんだ』
覚は両手を挙げて叫んだ。
『人も物怪も同じ、接する時はよく観察して弱点を探せば良い。状況を把握し、作戦を練り、攻略していけば良い。今まで失敗した事はない。それが唯一、面白いと感じる。良い退屈凌ぎだ』
俺は頭が真っ白になった。
覚が飛び掛かり、俺の右肩を噛み千切る。
ボキっという鈍い音。黒い血飛沫。
俺は呆然自失の状態で、山道から滑落した。急斜面を転がり、木々に身体を打ち付ける。
土の匂いがした。
覚はゆっくりと山を降りてきて、俺の心を読み上げる。
『玉藻前の言葉は的を射ていた。自分は他人の仮面を剥がし、本心を晒した時、優越感や支配欲を感じている。それは間違いない事実だ』
俺は掠れた声で言った。
「…もう、止めてくれ」
『ごめんなさい』
覚が左のかぎ爪で俺の頭を襲う。
俺はギリギリのところで、地面を転がって避けた。
雷が鳴った。
透明に閃く豪雨で何も見えなくなる。目が痛い。
暗闇の中で明滅する光に気を取られた。
気を取られたせいで、頭の中が空になった。
覚の言葉が止む。
俺は呟いた。
「それの何が悪い」
俺は自身に言い聞かせる。
「誰だって口に出さないだけで、優越感や支配欲は感じているんだ。俺は他の感情を退いて、それらを感じやすい。これは言い訳ではなく、事実で、その原因は過去の環境にある。俺は悪くない。だから、仕方がない事だ。俺は俺なりに、それを直している際中だ」
俺は顔を上げ、覚を見る。
「俺は感情を取り戻したい。だから人を愛して、愛そうと思って、行動する。大切な人には笑顔でいて欲しい。元気でいて欲しい。俺は人の笑顔を見ると、すごく安心する。お前の言葉は、すごく小さい感情を誇張しているに過ぎない。心は一つの側面を持たない。お前は俺の弱点を突いているだけだ」
俺は覚に飛びついた。
覚と俺はもつれ合って転がる。俺は覚に頭突きをし、覚の身体に乗り上げる。残った左拳で強く顔面を叩きつけた。
覚が口を開く前に、俺はもう一度、覚の顔面を殴った。覚は、鼻と口から血を流し、怯えてぶるぶる震えている。
だが、俺の体力もそこまでだった。喰い付かれた腕を押さえ、貧血で仰向けに倒れる。
覚がニタリと嗤ってかぎ爪を振り下ろそうとした時だった。
白い綿のようなものが、わっと覚に群がった。
大きな綿菓子のようになってから、数秒経って、綿は離れる。
そこには骨だけが残っていた。
一匹の管狐が、ひょんひょんと跳んできて、俺の胸に飛び乗る。管狐は、俺の顔についた血を、舌でぺろりと舐めとった。俺の肩から流れる血にも群がり、貪るように血を啜っている。
俺は苦笑した。
「ガッツリ肉食だったんだな、お前たち」
俺は倒れて、しばらく目を閉じていた。
木の葉が擦れる音の中に、枯れ葉を踏む足音が聞こえた。誰かがやって来る。
それは近くまで来ると、座り込んだ。
明るかった目の裏が、電気を落としたように暗くなる。
目を、そっと冷たい手で覆われた。もう一方の手で、優しく髪を梳かれる。
とても心地よい。
俺は言った。
「…聞いてたか」
「ずっと前から知っていたよ」
俺は謝罪した。
「ごめん、騙して」
「ツバサが自身の欠落に葛藤し、悩んでいたのも知っている。そんなに否定しなくて大丈夫だよ。優しくあろうとするツバサは、間違いなく優しいから」
「…全部知ってたのか」
「意識しなくても、管狐の能力で、心の声が聞こえてくるんだ」
「なら幻滅…も何もないか」
そっと目を覆っていた手を、ハクは放す。
ハクは俺を覗き込んで言った。
「僕はツバサに救われた。僕はずっと、ダメな奴だって言われてきたから、暗示に掛かっていたんだ。どんな時も、ツバサは味方でいてくれた」
「ハクという大きな戦力が減ったら困ると思っただけだよ」
「ツバサが堂々と人類の希望だって言ってくれて、嬉しかった。ツバサが僕のことを懸命に考えて、これが一番良いだろうってチョイスした言葉だからこそ、僕の心に響いたんだ」
「…ハクは何も分かってない」
「僕は何千人の心の声を聴いて来た。みんな結構、嘘つきだよ。ツバサの言葉はね、誰かを励まそうとか、肯定してあげようって「目的」が根底にあるんだ」
ハクは続けて言った。
「ツバサが変化できなくなった理由が、僕には少しだけ分かる」
「え」
「変化の姿は心を反映させたものだ。ツバサは羽根が生えても、鳥の面を被る事が出来なかった。おそらく変化が出来ないのは、ツバサがその心を否定しているからだ。演じたっていいんだよ。ツバサの性質が変わったものであっても、僕は変わらず好きでいる」
ハクは再び、俺の目を手の平で覆った。
ちかちかしていた木漏れ日が見えなくなる。
「息を吸って」
「吐いて」
俺が深呼吸すると、ハクは囁いた。
「心に任せて。ツバサは誰であっても構わない。自分を信じて」
すっと心が凪いでいく。雑念が消える。
「変化してみて」
言われるままに身体に力を入れると、視界が暗くなり、腕が翼に、足と身体も変形して、以津真天に変化した。
抉れた肩口が回復し、修復する。
変化を解くと、ハクは笑って俺に手を差しだした。
俺はその手を掴み、立ち上がる。
ハクは言った。
「話は変わるけれど、状況が変わった」
「詳しく話を聞かせてくれ」
山の中腹、切り開かれた場所がヘリポートになっていた。
残っているヘリコプターは一機のみ。既に皆は帰路についている。
俺がヘリコプターに乗り込むと、座席に百目鬼が座っていた。
百目鬼は言った。
「私の心配は杞憂だったようだ」
「仲間のお陰で楽になりました。総統は俺を待っていたんですか?」
「帰りの道で話をしようと思っていたが、君の帰還が遅すぎたせいで誤魔化しようがなくなったよ」
百目鬼は小さく笑って肩を竦める。
俺は問う。
「俺を慰めたかったんですか?」
「年寄りの独り言だよ」
俺は立ち上がり、ヘリコプターの自動エンジンを切った。プツリ、と音がして、プロペラの回転が止まる。
百目鬼が眉を上げて俺を見る。
俺は言う。
「お前の正体は、暗殺されたはずの首相、東京が安全だと発表して日本中を混乱に招いた総理大臣だ」
百目鬼は苦笑する。
「急になにを言い出すんだ」
「複数証拠が挙がった。言い逃れは出来ない」
「あのクーデターは、一世紀以上前の出来事だよ」
「俺は首相がどんな人物だったのか、調べた。大学で物理学、機械工学を専攻し、自身でも論文を出す程の秀才。卒業後は渡米し、政治学の大学へ行った。総理大臣になってからは、教育の分野に力を入れた」
百目鬼は首を傾げる。
俺は言う。
「暗殺についての本は多く出されている。様々な資料から、小心でありながら大胆、能力に優れていながらも、一見、普通の人間であるという像が見えてきた。それはお前に近い」
百目鬼は肩を竦める。
「私は、世間ではカリスマ性があると言われている。おおらかで、肝が据わっている。何かを変えられる特別な人間だ、と評判なんだがね。君にはそれが分からないのか」
「自分を特別だと思っている人間は、ろくでもない奴ばかりだ。他人を見下すことでしか、自分の存在を肯定できない。これは、「玉藻前」が言っていた言葉だ。お前のことだろう。だから、ハクは生かされたんだ。もちろん、ハクは劣ってなんかいないけどな」
百目鬼は眉をピクリと動かした。
俺は言う。
「お前は犯人だと思われない為、自らを殺し、さらに物怪宿りを生み出す布石として、首相という地位を利用し、東京に国民を集めて日本中を混乱に陥れた。クーデターという形をつくり、議員を大勢殺害し、自分も暗殺された事にした。軍に力を持たせ、物怪宿りの計画を打ち立て、総統を演じ始めた。ストレスの捌け口として、ハクに暴力を振るっていた。ハクが監視カメラの一部で録画を流していたのは、それが理由だった」
「なんの妄想だ?私はハクと接触していない。君はその場を見たとでもいうのかい?本当の映像を見た訳でもないのに?」
「ハクが打ち明けてくれた。自分に自信がないのは、ずっと父親に暴力を受けてきたからだと。優秀になれば、認めてくれるのではないかと思って、頑張ってきたこと」
「あいつがそんな事を言うはずがない…臆病なあいつが、誰かに本心を晒すなど…」
百目鬼は視線を彷徨わせ、呟く。
「裏切ったのか…」
「ハクはとても真面目な人間だ。だからこそ、お前の事も大切に想っていた。お前の孤独と焦燥にも、寄り添いたいと思っていた」
俺はいっぱく置き、続けて言った。
「それ以外にも突き止めていることがある。物怪宿りの実験で、第三研究所と第四研究所はお前が責任者だった。強制労働の場があって、その二つだけ、数万人もの死者が出ている。面倒になって口封じのために死ぬまで働かせようとした。そうだろう?」
「…」
百目鬼は答えない。
「都外に追い出された一千万人は、お前のせいで死んだんだ」
百目鬼は頭を打ち振るい、言う。
「全てお前の妄想だ。それに」
「それに?」
急に百目鬼は立ち上がり、大声で言い募った。
「もしもお前が研究にいそしみ、たまたま冥府と現世を繋げてしまったならば、どうするつもりだ?過失だ!俺は出来ることをしたまでだ。ちゃんと物怪を倒せる兵器もつくり、こうして…こうやって責任もとってやっているだろうが!」
百目鬼は顔を真っ赤にし、激高して俺の襟を掴み上げた。
上空から、プロペラの音が近づいて来る。
別のヘリコプターが降下してきて、冬木と天が下りてきた。
冬木は小型の受信機を百目鬼に見せた。液晶の画面に地図が映っていて、中央に点滅する光の点がある。
「注射器は偽物だ」
百目鬼の目が見開かれる。
「注射器を取り除いてから、底の蓋を開けてみろ。極薄の機器が入っている」
「…なんの事だ」
「ツバサの所持している注射器は元々偽物で、発信機を付けていた。だが、玉藻前は注射器を本物だと信じ込んでいた。ツバサも同じだ。つまり、玉藻前はツバサの考えを読み、それを信じたという事になる」
冬木は続けて言う。
「先ほどここに居たのは、ツバサとお前だけ。百目鬼、お前は玉藻前と繋がりがある。ツバサが玉藻前に取られた注射器が、お前の手元にあるんだからな。裏切り者はお前だ、百目鬼」
冬木は百目鬼の胸倉を掴み、言った。
「何か言ったらどうだ?」
百目鬼は吹っ切れたのか、へらりと嗤った。
「今、研究者含め軍の兵士全員、国民全体が、管狐のテレパシーを介してこの状況を聞いている」
冬木は百目鬼の襟を離し、冷静に言う。
「この注射器、お前が後生大事に持っていたのは、本物が俺達の手に渡れば、計画が破綻するかもしれないからだろう。だが、それが徒となったな」
百目鬼は笑みを消す。
冬木はもう一つ機器を取り出し、言う。
「注射器には盗聴器も仕掛けてあった。だからお前が玉藻前と何を計画していたのかは分かっている。その音声を全員に伝えたことで、ハクの呪いがあっても関係なくなった。大体の事は理解できたからな」
冬木は淡々と続ける。
「お前と玉藻前の企みは『冥府と現世を完全に繋げる』こと。そのために『ゲート』という装置を作った。だがその『ゲート』は、玉藻前の強力な幻覚が作用している今、誰の目にも視えないし、触ることも出来ない。つまり、俺達のやることは決まっている。玉藻前の幻覚の力を倍増している装置を壊し、さらに可視化されたゲートを破壊する事だ」
百目鬼は不気味な笑みを口元に湛え、ひっそりと言った。
「もう遅い。既にあの付近は冥府になっている。完全に物怪が入って来られる」
ずっと黙っていた天が、百目鬼の前に出た。
「私は玉藻前のクローンだから、「玉藻前」の記憶と、移植された「酒呑童子」の記憶が半分ずつあります。私は冬木の仕掛けた盗聴器の話を聞いて、ハッキリ思い出しました」
百目鬼の言葉を遮り、天は言う。
「酒呑童子が現世にやって来た時、物怪は今のように人を襲っていなかった。何故かというと、現世と冥府が繋がって直ぐに、「ある物怪」が物怪を統率し、安定を図っていたからです。酒呑童子は好奇心旺盛で人と触れ合う内、人間を友好的に思うようになりました。ですが、玉藻前がやって来て、現世を乗っ取る計画をして…「酒呑童子」と「玉藻前」は争った。それで、あなたは玉藻前と協力し、「酒呑童子」と「ある物怪」を捕獲し、他の酒呑童子の仲間だった物怪たちも次々に捕獲して、コア細胞を取り出した」
百目鬼は嗤って小さくため息をついた。
天は言う。
「その「ある物怪」のコアが、白い注射器です。私が酒呑童子の記憶を微かに持っていたように、物怪から記憶を取り戻せる危険性があった。事の全貌を明らかにさせないために、注射器を取られないよう注意していたんですよね。おそらく酒呑童子よりも「ある物怪」はもっと、重大な秘密を知っているから。そうですね?」
百目鬼は答えず、足を組む。
「酒呑童子が檻の中で、何故、あなたが玉藻前と協力したのか訊ねると、長生きするためだと答えた。あなたは七十歳で、老いる自身が嫌だった。もっと研究をしたいと思っていたんですよね」
天の問いかけに、百目鬼は灰色の瞳孔をカッと開き、胸を反らして哄笑した。
「その通りだ。私は首相では無い。暗殺の前に既に首相を殺し、成り代わっている。私はやりたい事が山ほどあったんだ。それもその一つ、国を動かすという事が叶った。更に総統という地位まで。到底人間の一度きりの生涯で複数体験できるものじゃない」
天は両手を握り、百目鬼を射抜くように見つめて問うた。
「どうして、こんな事をしたんですか?」
「複数ある動機を全て説明することは出来ないな」
「…一番の、理由は」
百目鬼は立ち上がり、ヘリコプターから降りると、軍のコートを脱ぎ、地面に落として言った。
「私は物怪が好きだった。お前達は理解できないだろうが、一世紀前の人間は、誰もが物怪に興味関心があり、そこには大きなロマンがあったんだ」
冬木によって、百目鬼は手錠を掛けられた。
百目鬼は振り返り、何でも無いような顔をして言った。
「俺の言葉は全部ウソだ。何が本当で何が嘘なのか、お前達が決めると良い。歴史に残せるものならなあ」
百目鬼は物怪のように口の端を釣り上げ、獰猛に笑った。
同時に、赤い雷が落ちた。いっぱく置いて、凄まじい轟きが響き渡る。
冬木は空気を切り替えるように、威勢よく言った。
『全員、エレキタワーへ向かい、玉藻前の能力を強化している装置を破壊する。そしてゲートを可視化させ、破壊する』
俺達はヘリコプターに乗り、急いで東京へ向かった。
天は呟くようにたずねる。
「でも、何故ハクは適応できないと分かっていて、総統は白い注射器で物怪宿りになるのを恐れたんでしょう」
「単純に、適応できる可能性があったからじゃないのかな」
「え」
「そうじゃなきゃ、自分で携帯するまでに至らないだろう。一度奪われていたし、ハクの様子を見て、危機感を増したのかもしれない」
「…なるほど」
東京に近づくと、一目で異変が感じられた。
窓から観察すると、街の上空に赤紫色の雲が渦巻いているのが見える。空気は淀み、黒く靄がかかったように世界は色を失っている。
天は言う。
「上から物怪が降ってきたのは、たまたまでは無かったんですね」
「そうだな」
更にヘリコプターが近づいて、俺達は目を大きくした。
渦を巻く禍々しい上空には、物怪が浮遊して集まっていた。
ぬりかべの垂れた耳がゆっくりと上下に羽ばたき、ぬりかべが空を飛んでいる。日和坊、天井下り、あらゆる物怪が漂っていた。
「そうか、研究所の範囲まで冥府になってしまっているんだ。結界が効かないから、物怪が解放されている」
「どうしよう…何が起きるか分かりません。捕獲し直さないと」
「地下のシェルター内なら、物理的にも物怪が入れない程、強固な造りになっている。大丈夫だと信じよう。それより、みんなで集まって、何をしているんだろう」
管狐が膝の上に現れる。
ハクの声が聞こえた。
『人間に友好的な物怪が集まっている。何かを食い止めてくれているのかもしれない。ぬりかべは僕達に物怪が来るのを教えてくれていたしね。僕達も急ごう』
茜色の夕焼けと冥府の藍色が混じり合った世紀末的な風景の中で、エレキタワーだけが煌々と美しく輝いていた。
エレキタワーは東京の中心に設置された電波塔である。高さは600mあり、東京都のシンボルとして人々から愛されている。アミューズメント施設としても優秀で、休日は常に混みあっている印象だ。
ツバサは俺に問う。
「玉藻前の能力を増幅させている装置っていうのは具体的にエレキタワーのどこにあるんだ?」
呪いで答えられないハクの代わりに、テレパシーを介して冬木が答えた。
『おそらく先端のアンテナ付近だ。玉藻前の幻覚は、周波数の低い電波に乗せ、増幅させながら広範囲に影響を及ぼしている。ハクからチップを預かった。これを読み込ませれば、部分的に装置の内臓データを破壊する事が出来る』
「物怪宿りの幻覚だけ解かず、装置を破壊できるってことか?」
『そういう事だ。エレキタワーについてだが、最上階はほとんど鉄骨で出来た屋上の部分で、その柱に装置は埋め込まれているらしい。その為、飛行能力のあるお前に装置の破壊を任せる。一度チップを取りに来てくれ。すぐ横の機体にいる』
「分かった」
ツバサは変化し、冬木の乗る機体へ乗り込む。冬木からプラスチックケースに入ったチップと従業員用の認証チップを受け取る。
冬木は言う。
「無理に装置を破壊すれば、物怪宿りを構成している幻覚までが解かれてしまう。物怪宿りを失った場合、現れたゲートを破壊する術が、現在の兵器しかなくなる。何より、玉藻前に対抗できるのも物怪宿りだけだ。具体的に言えば、俺達のミッションは三つ。玉藻前の呪いを増幅させる装置の破壊、それにより可視化されたゲートの破壊、さらに玉藻前を倒すことだ」
「了解だ」
その時、大量の白い鳥が、こちらへ急接近してきた。
「鳥?」
冬木が呟く。
ツバサは目を細め、よく観察して呟いた。
「形代だ」
白い紙を人型にくり抜いたそれは、呪術や儀式で用いるような形代だった。
形代は空を泳ぐように旋回し、前方を飛んでいたヘリコプターに一斉に張り付いた。ヘリコプターは白く塗装されたようになり、次の瞬間、プロペラが折れて墜落していく。
乗っていた兵士はジェットスーツで脱出し、近くの高層ビルの屋上に着陸する。
冬木が呟く。
「あの形代に特殊な性質があるようだ」
「調べてくる」
「気を付けろ」
俺は再び飛翔する。
空を漂っていた一枚の形代をそっと外側の風切り羽で掬い、その瞬間、俺はひっくり返り返った。
まるで巨大な岩を背負わされたかのように、重い。
片方の翼で払うと、形代は落ちて消える。
俺は管狐のテレパシーを介して全体に言う。
「形代はとても重い」
俺の報告を受け、冬木は全員に指示した。
『エレキタワー周辺のヘリコプターは全部着陸させろ。形代には重さがある。張り付かれれば落下の危険がある』
俺は言う。
『形代は呪術などに用いられる道具だ。おそらく敵は「滝夜叉姫」夜叉丸蜘蛛丸、がしゃどくろを召喚した奴だろう』
次々に形代は発生し、イワシの群れのように空を舞う。ヘリコプターや建物に張り付き、建物を真っ白に染め上げていく。
高層のマンションはバランスを崩して上の方から潰れるように崩壊する。
冬木が言う。
『国民は地下シェルターに避難させているが、更に注意喚起を促す。建物の崩壊による物の落下の危険性がある』
俺は言った。
「俺が囮になる。兵士含めて、全員できるだけ早く地下に脱出してくれ」
羽ばたいて、形代の大群の前へ躍り出る。
一斉に形代が、俺を目掛けて襲い掛かる。急上昇して不規則に蛇行しながら避ける。形代はぶつかり合い、固まって落ちていくが、四方八方から飛んできた形代が、際限なく俺を追いかける。
滝のようなザーという音が鼓膜を打つ。空は赤と紫色に染まり、メノウのように渦巻いている。その中で、形代の白い細かな斑点が迫る。風が熱い。急旋回、急降下。
その時、右翼の先端に形代が張り付き、バランスが崩れた。左翼にも形代が張り付く。
翼が重い。必死で羽ばたくが、次々に張り付く形代の呪詛により、俺は落下した。
紫色の空、崩れた建物、浮上している物怪が見える。
世紀末の空だ。
俺は全身を地面に叩きつけた。激しい衝撃と共に、過去がフラッシュバックする。
鳥の面に罅が入った。
俺は、無理やり、罅割れていく面を両手で押さえつける。
内なる弱気の自分を握り潰し、俺は最強の「ツバサ」という虚像の人格を素早く脳内で作り上げる。どんな事にも動じず、常に冷静で機転が利く。更に、全ての物怪を倒せる程の高い能力がある。変化した時のスピードは今の百倍速く、パワーも酒呑童子並みに高い。
「俺はツバサだ」
言い聞かせるように呟いた時、形代が張り付いてボロボロになったいた両翼の羽が、一斉に剥がれ落ち、昇り始めた太陽のように鮮やかな金赤の羽に生え変わった。
ひび割れた鳥面は、修復はしないまま、斜め半分を金に染めた。
赤銅色の煌めきと赤いオーラが全身に漂っていた。
立ち上がると、全身に力が沸き上がって来るのを感じた。
第二の変化の姿だった。
俺は大きな翼を開き、空気を叩きつけるように羽ばたいた。
驚異的なスピードで、形代の追跡を余裕で振り切る。
形代が発生している渦の中心に、自ら飛び込んだ。
そこに居たのは、赤い飛び出た眼球を俺に向ける、乱れ髪の老嫗。
白装束から、骨のように細い手足が生えている。怨嗟によって爛れた顔面が、この世のものとは思えない程に醜悪だった。
血のように赤い大太刀が、俺に向かって突き立てられる。左翼を広げ、向かい風を受ける。風に煽られ、右に傾いてギリギリのところで躱す。
青い鬼火が蝶のように周囲を舞い、隙をついて襲い掛かってくる。滝夜叉姫は後退し、その中心に隠れると、太刀を持った反対の手で巻物を開き、呪術を唱え始める。
だが、俺の方が圧倒的に速かった。
金色の両翼を揃え、真正面から身体を回転させて滝夜叉姫に切り掛かる。
滝夜叉姫の胴体を真っ二つに切断する。形代は力を失い、一斉に枯れ葉のようにはらはらと舞い散っていく。
その隙に、変化した天が割り込み、巨大な棍棒を叩き込んだ。
「ウアッ」
威勢の良いかけ声と共に、滝夜叉姫が叩き落とされる。
「ツバサ、こっちは任せて。急いで」
「分かった」
俺は一気に上昇して、エレキタワーの頂上へ到達する。
辺りを見ても、玉藻前は確認できない。いないのか?
赤い巨大な太い柱に、長方形の蓋があり、渡された管理人のIDを照合させると、すぐに蓋は開いた。
だが、チップを差し込む場所がない。
よく見ると、二重にロックが掛かっているようだった。
「ハク、装置の蓋が開かない。チップを差し込む場所が」
俺が報告した時、上空から両翼を広げた大きな物怪の影が降ってきた。
俺は素早く身体を回転させ、羽団扇の突きを躱す。
素早い。
すれ違いざま、大天狗は囁いた。
「死んだはずなんだがなぁ」
俺はすれ違うと見せかけて、足のかぎ爪を僅かに引き上げた。降下する大天狗の黒い袴が引き裂かれる。
離れる。
大天狗は自身の引き裂かれた袴を見下ろし、いっぱく開けて、ツバサを見た。
俺も大天狗に向かい合い、一度は逸らしたその赤い瞳孔を真っすぐに見返した。
大天狗は羽団扇をパチンと閉じる。
「福運か、それとも必然か?」
「両方だ」
俺が短く答えると、大天狗は仮面越しにふっと嗤い、空気が震える程の声量で唸るように言った。
「良いだろう」
羽団扇をバッと広げ、腕を振り、羽団扇を大きく扇いだ。
すると、大天狗の周囲で大量の火炎球が出現し、焔を撒き散らして俺に猛追した。俺は黄金の両翼で力強く羽ばたき、自ら火炎球に向かって飛翔した。風切り羽を利用し、複雑に翼を傾けながら、火炎球を躱す。大天狗まで突き進み、勢いのまま右翼で切りつけるが、羽団扇の表面で防がれた。
一見、軽く柔らかそうに、ゆらゆらと揺れる羽団扇は、俺の両翼と同じように鋭利で硬い。押し切ろうと力を入れるが、鍔迫り合いになる。
顔を突き合わせ、大天狗と対峙する。天狗面の奥に宿る、燃え滾るような眼光を睨み返す。
大天狗は俺を押し返し、軽く羽団扇を扇ぐ。
すると、雲が渦巻き、爆発するかのように、暗雲が一瞬で広がった。周囲の音が何も聞こえない程の激しい雷雨が始まる。稲妻が各地で迸り、俺に向かって巨大な雷がピンポイントに落ちてくる。
俺は一度離れ、雷に当たらないよう、高度を下げて空中を移動し、稲光から逃れた。
大天狗は容赦なく羽団扇を扇ぎ、雷が落ちる速度を加速させる。
フラッシュと轟音が重なり合い、視界と聴覚を奪われる。回避が精いっぱいで、攻撃に転じられない。
エレキタワーは避雷針だが、大天狗は羽団扇を扇ぎ、エレキタワーに落ちる雷光の向きを無理やり変え、俺に飛ばしてくる。
俺は高速で頭を回転させた。
どの道、大天狗を倒さなければ装置の場所に辿り着けない。エレキタワー周辺での戦闘に拘る必要はない。急がば回れだ。
その時、ふと名案が思いついて俺は翼を翻した。急旋回して東京の西の壁際へ移動する。
コンクリートで埋め立てられた簡素な給油所がある。重機が複数並べられ、大きなトラックが停車している。国内では原油は採れないが、オイルシェールは発掘、加工ができ、石油の代替エネルギーとなる。19世紀から利用されている。電気依存の社会になっているとはいえ、タイヤやプラスチック製品、電力が足りない際の緊急的な火力発電に利用される。
オイルはタンクに保管され、地下に保存されている。
俺は何もない平坦なコンクリートの地面に急降下して突っ込んだ。
ぶ厚いコンクリートを突き抜けると、大きなタンクがあり、俺は飛び込んで全身を油まみれにする。
再び飛翔する。
暗い空を切り裂くように落ちてくる雷は、目の前で歪曲し、俺を避けて別の場所に落下した。
油は電気を通さない絶縁体だ。そもそも雷は電気抵抗の高い場所には落ちない。
自然のものである雷を操り、あり得ない事を起こし続けるには、強い妖力と集中が必要になる。その隙をつき、俺は乱れて絡まる雷光を突き抜け、あっという間に大天狗の背後を取った。
死角から右翼で切りつけるが、全て予測していたかのように、大天狗は優雅に羽団扇を掲げ、俺を見ることなく攻撃をガードした。
大天狗が大声で言う。
「未来は全て見通せる。お前の行動もなあ」
構わず、俺は両翼を合わせ、身体を捻り全力で切り掛かる。
羽団扇で受け止められるが、俺は右翼を受け流し、左斜め下、大天狗の腕を狙って斬撃を放った。
大天狗の右腕が切断された。
羽団扇を持った右腕が、落下していく。
俺の攻撃が当たったのはまぐれではない。
右腕を切られるか、胴体を切られるか。俺は左翼を交差させるように使いながら、同時に二択の結果を迫った。焦った大天狗は咄嗟に前者の未来を選んだ。
俺は足の鉤爪で大天狗の面を蹴り上げる。
大天狗は身を引き、俺の攻撃を躱す。
予め周囲に放っていた羽が大天狗の全身に突き刺さった。
俺は知らなかったが、黄金の風切り羽には遅延の能力があった。
その時間、僅か0.1秒が大きな空隙となる。
大天狗の胸に頭突きを喰らわせる。吹き飛ばされた大天狗はビルに衝突し、ビルを突き抜けて空中に放り出される。俺は追撃し、身体を捩って翼で大天狗を叩き切った。大天狗は凄まじい勢いで墜落し、地面に敷かれた太陽光発電のパネルを割り、地面に突き刺さるように落下した。
俺も急降下し、無防備な大天狗に容赦せず何度も切りつける。
だがその時、電気や排水管の破損により、大きな爆発が起きた。予想外の爆風で俺は弾かれる。
「くそっ」
ランクSSSがこの程度で殺せるはずがない。
案の定、大天狗は片羽で身体の半分が潰れたままゆっくりと浮上してきた。
だが、大天狗は言った。
「お前の勝ちだ。人間にしてはよくやった」
俺が攻撃しようと構えると、大天狗は修復した右腕に持った羽団扇を閉じて言った。
「気が変わった。人間側についても良い」
俺は呆気にとられ、慎重に問う。
「そんなもの信じられるか」
「この先の未来では、お前達は終いだ。現世は冥府に成り代わり、物怪が跋扈し、お前達は敗走し、最後は全員死ぬ。だが、私一人が寝返れば、状況は一気に転じる。五分五分程度にな」
「信じられない。どうして味方になる?お前の利は無いだろ」
「私は興味本位で様子を見物しに来ただけだ。大した理念も無い。こんなところで死ぬのはまっぴら御免だ。問の答えとしては、お前の熱意に心が動かされたという事だな。このまま滅びる人間が、少し不憫に思えただけだ」
俺は大天狗に近づいて言った。
「助けて欲しい。力と知恵を貸してくれ」
「良いだろう。ではまず、お前は雪女の宿す男と接触し、本物の注射器を受け取れ」
「どういう事だ?」
「あの塔の中じゃ、少年が死にかけている。白蔵主に適応できるのは今の所、少年だけなのだろう?さっさと物怪宿りにして、能力を開放するんだ。少年と少女を生かさねば、人類に未来はない」
「でも、ハクは…」
適応値が足りない。
大天狗は言う。
「お前の言葉とそいつの意志で、白蔵主を宿してみせろ。白蔵主の能力は玉藻前の幻覚を打ち破ることが出来る。それがお前達の勝利に繋がるだろう」
俺は大天狗を見つめて頭を下げた。
「ありがとう」
― ― ―
ヘリコプターが緊急着陸したのは、大きなスクランブル交差点だった。
既に周囲は冥府となり、結界を展開することが出来ない。
冬木は百目鬼を監視していた。
百目鬼への対応は二つ。一つは殺す事、もう一つは結界を利用して檻に放り込み、物怪宿りになれないように捕縛する事。
だが、後者は冥府になっている以上無理だ。それに殺すには、百目鬼は多くの事を知り過ぎている。こいつからは情報を引き出せる。過去の罪についても。
百目鬼の腕を拘束する手錠は、ただの鉄の塊、いや、輪入道にとっては紙屑同然だろう。
冬木のいる一帯が黒く染まる。
現世が完全に冥府に浸食された。
瞬間、百目鬼は輪入道に変化し、ヘリコプターは内側から破裂するように爆発した。
冬木も雪女に変化して爆風をいなす。
百目鬼は輪入道になり、顔面が輪の中心に収まった。
巨大な顔が嗤って言う。
「フハハハ、お前は無様だなぁ。頭をパクリとされた人間を見ただけで、ホショクされたんだ」
「それがどうした」
堂々とした冬木の姿に、百目鬼は眉をひそめて喚く。
「お前の苦手な輪入道だ!妹を喰った、お前の!」
冬木は白い銃を回し、百目鬼の言葉を遮って言った。
「自分が思い込んでいたよりも、案外過去は普通だった。目を逸らし、怯え続けていただけだった。あいつは教えてくれた。ずっと過去を見ていた俺に」
冬木は氷の銃を構えた。
「もう俺は過去ではなく、今を生きている」
雪弾を打ち込む。
百目鬼は火炎を噴出させるが、雪弾は溶解せずに、業火を貫いて車輪の一部を凍らせた。
冬木は雪弾を連射する。
車輪の一部が凍っているせいで、百目鬼は車輪を動かせず、全てを被弾した。全身が凍り付き、あっけなく百目鬼は氷の中に閉じ込められる。
「三時間は氷が解けないだろう。そこでじっとしとけ」
冬木はエレキタワーを見る。まだゲートが可視化されていない以上、玉藻前の能力を底上げるする装置の破壊は出来ていないようだ。
自分もエレキタワーへ向かうか、そう冬木が判断した時、上空から金色の羽が降ってきた。
顔を上げて、冬木は目を細めた。
縦半分が金色の鳥面、朝陽のように眩しい、こがね色の光を発する物怪だ。
「冬木!」
声でツバサだと分かった。
ツバサは隣に降り立ち、息せき切って問うてきた。
「白い注射器、持ってるか?」
「ああ」
「今からハクに打ちに行く。大天狗が味方してくれているんだが、彼によると、この白い注射器の白蔵主という物怪の能力が、玉藻前の幻覚を打ち破ることが出来るらしい」
たずねたい事は山ほどあるが、冬木はそれを飲み込んだ。すぐに本物の白い注射器の入った箱を出し、ツバサに渡して言った。
「ハクの行っていた意識の介入だが、あの後、俺の適応値が上がっていた。だからこそ、ホショクが免れている。今まで適応値が変動しないのは定説だったが、過去や自分の欠点を受け入れること、精神の成長は、適応値と相関関係にあるようだ。今のハクが適応できる可能性は十分にある」
「分かった、ありがとう」
ツバサはエレキタワーに向けて飛び立っていった。
それらの出来事の、十分前。
― ― ―
ツバサから連絡があった。
『ハク、装置の蓋が開かない。チップを差し込む場所が…』
ツバサの声が途切れ、外階段に待機させていた管狐が、大天狗の影を捕えた。
ハクは考える。
どうする。予想しなかった訳じゃない。宝物が見つかりそうになったら、隠す場所を変えるのは当然の事だ。
ツバサは必至に大天狗と戦っている。今の彼ならきっと勝てるはずだ。
自分が出来ることをしなければ。
「僕が実際に行って装置を見てくる。破壊ソフトのチップは複数あるから僕でも破壊できる」
冬木は眉を上げる。
「お前に戦闘能力は無いだろう」
「私が援護します」
天が戻ってきた。
棍棒にべっとりと付いた黒い血を飛ばす。
「滝夜叉姫は倒しました。大天狗はツバサに任せて、私達は装置の破壊に集中しましょう」
「分かった。冬木は百目鬼の監視を頼む」
「だが」
「もう周囲は結界の効かない冥府に侵食されつつある。百目鬼の手錠も意味が為さなくなる」
「分かった」
「出来れば外側から見た状況の報告も頼む。僕が連絡を取れない状況もあるかもしれない。その時の指揮権は冬木に任せる」
「了解だ」
呪いの装置は電波に乗せて広く波及させることが重要になる。
もしかしたら、ラジオやテレビの送信所に紛れ込ませているかもしれない。
「天、エレキタワーの中に侵入してくれ」
「了解」
天はハクを抱え、エレキタワーの窓ガラスに正面から飛び込んだ。ガラスが割れる派手な音がした。
まさかの正面突破に驚く。
変化した天がハクを頭からすっぽりと抱えているために、ハクはガラスの破片で怪我をしなかったが、天はハクを下ろして謝罪した。
「すみません、敵に位置がバレたかもしれません」
「大丈夫。どの道相手には筒抜けだろう」
酒呑童子に変化している天は荒々しくなる。滝夜叉姫との戦闘で気が高ぶっているのだろう。
タワーの中は暗く、誰もいない。
タワーは窓ガラス正面にバムクーヘン型の観覧できる場所がある。タワーの中央を貫くようにエレベーターが通っている。
「天、まずは従業員専用通路から電力計など機器類がある場所へ」
その時、チン、と音がして、エレベーターの扉が開いた。
息が詰まるような麝香の香と共に、中から天に良く似た、見惚れる程に美しい十二単を纏う少女が現れる。
真っ赤なアイラインの入った目で射抜くように見つめられると、蛇に睨まれたカエルのように、指一本動かすことが出来ない。
玉藻前には独特のオーラがあり、それに当てられてしまっている。それとも、既に圧倒的強者という暗示の幻覚が発生しているのか。
「ふふ、お主に会うのは二度目じゃの」
天は天井に張り付いていた。
頭上から棍棒を突き立て、玉藻前に奇襲を仕掛ける。
玉藻前は優雅に扇子を閉じ、一回転して天の突きを避ける。
二人は対峙し、今度は玉藻前が素早い突きを繰り出す。天はしゃがんで躱し棍棒を回すように大きく薙ぐ。玉藻前は片足で跳んで躱す。紅白の扇子を上段から振り下ろし、天は棍棒を振り上げて扇子を弾き返す。
両者は互いに距離を取る。
玉藻前は扇子を広げ、十二単を払って言った。
「まろは魅せる幻覚をも美しいのだ」
扇子を掲げた瞬間、バイオリンの音色が鳴り響いた。
天とハクは豪奢なシャンデリアが吊るされた、城内のような場所にいた。
白い大理石、壁には蝋燭が立てられ、シルクの敷かれた長机には良い香りのする料理がずらりと置かれている。
オーケストラの演奏するワルツに合わせ、玉藻前は扇子を開いて舞い踊るように天を攻撃し始める。天は初めての幻覚に戸惑いながらも、玉藻前の攻撃をしっかりとガードする。
ハクは戦闘を行う二人から離れ、腕を伸ばし、指から出る赤い紐で繋がれている管狐の意識を引っ張った。
全部で七十五匹の管狐は、街の監視、避難のために三十匹、エレキタワー内部、外部、下層、上層に分けている。
玉藻前の幻覚は幻覚でありながら、現実に影響を及ぼす。前回の戦闘で学んだ事も多い。
大きな性質は、「幻覚の中の物体は現実の中の凹凸とリンクしている」
後からツバサに聞いたところ、病院の窓のあった部分には灯篭があったのだという。
そして、自分を玉藻前だと勘違いし切り付けそうになった、という出来事もそれ裏付けている。リアルな存在感は表現がしにくい為に、現実の物質を利用していると考えられる。
つまり、この性質を用いれば、現在地を特定する事が可能だ。
ハクは幻覚の世界をよく観察した。
一見、豪華絢爛な城内は、煌びやかな物や良い香りに気を取られがちだ。
だが、着目すべきは物体の配置とその形状だ。
やはり特徴的なのは、大きな長い机。
ハクは近づき、手で触れる。
冷たい手触り。石のような堅い感触。皿や果物、料理は全て触感では感じられない。
「触感は再現できないのか」
長机の上を二人が料理をぶちまけながら走ってきて、ハクは慌てて机の下に逃げ込もうとし、頭をぶつけた。
ハクは身体を離し、実在しないテーブルの足と、その空間に触れる。
冷たい感触。これもテーブルと同じ、石のような…石造りの…
ハクは理解して呟いた。
「チケットカウンターだ」
間取りからしても、これは四階にある入口フロアで間違いない。
フロアを行き来する管狐を四階に引き寄せると、管狐の視界で、チケットホルダーの前でしゃがみ込む自身の姿と、フロアの中央で戦う天と玉藻前の姿が確認出来た。
だが、状況を理解してもなお、幻覚は解ける気配がない。
ハクは考え、そのまま待機する事にした。
下手に自分が話しかければ、玉藻前がこちらに意識を向ける。そうすれば考えが読まれてしまう。戦いに没頭している今こそが好機。
ハクは各階に散らばっていた管狐を集め、即座に強力な神通力を働けるように準備をした。
ふいにオーケストラの演奏が止まった。
照明が落ちる。
何も見えない。
同時に、身体が一瞬浮遊する。
玉藻前は、自分の居た場所に、ハクを瞬間移動させた。
天が自身に切り掛かる寸前、ハクは予め準備していた管狐の神通力で、自分と玉藻前の場所を再び入れ替えた。
玉藻前は天に痛恨の一撃を喰らう。
幻覚が解け、四階のフロアに戻る。
玉藻前はふらつきながら、チラリとこちらを見た。
口から血を吐きながら、鬼の形相で怒鳴る。
「ハク」
天が更に玉藻前を殴打する。玉藻前はフロアの床を破壊しながら落下する。
上手くいったと安堵したその時、天が床に膝をついた。
ハクも視界がぐらつき、その場に倒れる。
玉藻前の声がした。
「ぬふふ、お主ら、殺生石の逸話を知らぬのか?下野ノ国、砕けたわらわの一部は生物を殺す石となって存在し続けた。那須では、愚かな人間はガスだと言い張っておるがの」
全身が氷水に浸されたかのように、冷たい。急激に体温が下がっていくのを感じる。
「毒が回り切るのに、あと一分ももたぬ。言い残したい事があれば、今の内に言っておくが良い。まあ、生きて聞けるのは、まろしか居ないがの」
クククと嗤い、玉藻前は再び幻覚を発生させた。そして言う。
「お前達に構っている暇はないのじゃ」
玉藻前の気配が遠のく。
そこは黒いコスモス畑だった。
雨あがりの、生温かい土の匂いがリアルだ。
そんな事を頭の片隅で思いながら、ハクは床を這って天に近づいた。掠れた声で言う。
「僕は、君に謝らなければならない」
天が首を動かし、ハクを見る。
「ずっと君を憎んでいた。僕は失敗作で、天は酒呑童子を宿せるほどの適応値がある、可愛らしくて強くて優しくて、完成された女の子だったから」
天は驚いてハクを見る。
ハクは微かに笑い、天の腕を引いた。
「でも今は違うよ。僕は失敗作でないと言ってくれた人がいたから。そして素直に、君がまっすぐで強い人間だと認められる」
ハクは、白衣の内ポケットから、黒いケースを取り出し、黒い液体の入った注射器を取り出した。
「毒に侵された酒呑童子の細胞は弱っている。今なら同ランクでも、新しいコア細胞が酒呑童子のコア細胞を喰うことが出来る。そして、弱っている肉体、ただの体細胞は、新たなコアの体細胞に喰われる。つまり、解毒できる可能性が高い」
天の首筋に、ハクは準備していた注射器を刺した。
「この注射は『大嶽丸』のものだ。日本三大妖怪は『酒呑童子』『大天狗』『大嶽丸』と言われている。ランクSSSの強い物怪だ」
「…どうして、私に…?」
「自分が助かるためだ。もしも自分が適応できたら、ホショクの時、注射器が使えると思って、いつか適応値が上がるんじゃないかって思って持っていただけ。でも実際は数値が上がらなかった。よって、この注射に適応できるのは君だけだ」
天は朦朧とする意識の中でハクの声を聞いた。
ハクが頭を撫でてくれている。
その手が止まる。
同時に、身体が燃えるような熱さに包まれた。膨大なエネルギーが細胞一つ一つにパンパンに詰まっているかのようだ。
目が眩むほどの閃光が全身から迸った。
爆発が起きて、天井、床、窓が吹き飛ぶ。瓦礫を木っ端微塵に叩き壊し、渦巻く黒緋のオーラの中から、天を衝く程に巨大な黒い鬼が現れた。
焔が燃え盛るような輝きを放ち続ける、波打つ蘇芳の長髪。
天は両手を見て驚いた。
右手には酒呑童子の棍棒がある。左手には、大嶽丸の三本の剣があった。
大嶽丸の剣を振るうと、包まれていた黒いコスモス畑の空間に切れ込みが走った。
部分的に幻覚が解ける。
剣を振るい、崩れた幻想の世界から、天は飛び出した。
周囲を見て、天は息を呑む。
そこは初めに居た、エレベーターのある屋上に近いフロアだ。
窓は割れていて、自分がここから入った時とまったく同じ状態だった。
何が幻覚で何がリアルなのは、もうサッパリ分からない。
天は首を振る。
今自分がやるべき事は、玉藻前を倒すこと。
ハクの事は一旦忘れろ。
言い聞かせ、天は目を閉じた。
直ぐに屋上で空を仰ぎ見ている玉藻前の気配を感じ取り、割れた窓ガラスから屋上まで飛び移る。翼は無いが、自由自在に飛行が出来る。
天は一本の剣を玉藻前に向かって投げつけた。
剣は何千本にも分裂し、玉藻前に襲い掛かる。
玉藻前は扇子を打ち振るい、幻覚を見せようとするが、一本の剣で虚空を刻むと、幻覚は霧散した。
三明の剣は、「過去」「現在」「未来」を示す、三種の智慧から成り立つ。
「現在」の剣は真の現実、真の現在を切り開く。
「未来」の剣は複数の分裂する未来に対応し、必中で攻撃を当てる。
天はなりふり構わず、「過去」の剣を振り回す。
巨大な体躯を利用し、力強く斬撃の舞いを披露する。
玉藻前は素早く後退し、一度は目を大きく見開いたものの、天の空振る連撃を見、身体を折り曲げて嗤い始めた。
「カカカッ、それはなんじゃ?無様じゃのう」
天は溢れるパワーに身を投じ、集中して剣を振るい続けた。
「諦めというのも肝要じゃ、おぬしは…」
その時、玉藻前の動きが止まった。
肩で小さく黒い血が跳ねた後、玉藻前は一瞬で肉塊になり、肉塊さえも天の時間差の強烈な連撃によって切り刻まれ、細胞の修復力を超越し、壊死する。
最後に「未来」の剣が屋上の地面ごと真っ直ぐに貫いた。
玉藻前は線香花火のように短く血肉を弾き、大きな血飛沫を上げる間も無く消えるように死んだ。
― ― ―
俺は割れたガラスから飛び込み、倒れているハクに駆け寄った。
「ハク!」
身体を揺さぶると、ハクは微かに目を開ける。
「ハク、白蔵主の注射を打つよ」
ハクは小さく頷く。
俺は注射器を取り出す。
心臓がバクバクと音を立てた。俺は過去のフラッシュバックを堪え、ハクの首筋に注射を打った。
俺はハクの肩を掴み、言い放った。
「適応値なんて気にするな、自分を信じろ!自分に負けるな!ハクは出来る子だ!」
生成り色の光が周囲に漂った。
俺が息を呑んで待っていると、ハクの目の周囲が、アイラインを引いたように、じんわりと赤く色づく。
ハクはゆっくりと目を開けた。瞳にはトパーズのような温かい透明な光が宿っていた。
全身は絹のような生地に包まれ、頭はベールのようなものが被せられた。ユリの花が綻ぶように、ゆっくりとふさふさした太い尾が開くように現れる。
ハクはゆっくりと身体を起こし、俺を一度見た後、すくりと立ち上がった。
周囲ではふさふさした雪のようなものが舞っていた。幻想的な光景だった。
「白蔵主」は「稲荷神」である。神社で手を合わせられるお稲荷様と呼ばれるに相応しい姿がそこにあった。
ハクが囁くように言う。
「…白蔵主の記憶が流れ込んでくる…そうか、白蔵主は閻魔様に頼まれて下界を見に来たんだ。けれど、帰れなくなった」
「閻魔様?」
ハクは両手を握って祈る姿勢をとる。
今まで暗黒だった景色がハクを中心に、浄化されるように本来の景色に戻っていった。
ハクの浄化は上空にも作用し、奇妙な渦を巻いていた空にぽっかりと、金属のような輪が見えた。そこから、どす黒い液体が、だらだらと流れ出てきている。地面に垂れ、現世を穢していた。
割れた窓から、呆然とそれを眺める俺の元に、大天狗がやって来た。
「お前も手伝え。放っておけば穴は広がる」
「どうすれば良い」
「全員で根を断ち切る」
「根?」
「穴から伸びている。あれを切れば侵食を防げる」
「分かった」
羽ばたき、近づくと、ぬりかべや天井くだり、日和坊、他にも基地に棲みこんでいた友好的な物怪達が懸命に黒い粘液を断ち切っていた。
大天狗の指示か、地上でも兵士がミサイルを放ち、侵食を食い止めている。
物怪宿りも集結し、全員で協力して液体を蹴散らした。
ツバサも力強く羽ばたき、勢いをつけて翼で液体を切りつける。
だが、次から次へと液体は溢れ出て、キリがない。
白蔵主の浄化は、これらの物には作用できないようだった。
攻撃する箇所を変えたり、様々な手段を試すが、まったく効果が無い。
冷静な自分が、無理かもしれない、と胸中で囁く。
実際、黒い液体は既に街をすっぽりと覆って、壁の外へ溢れようとしていた。
似た気持ちは、全員が感じているようで、攻撃のペースが遅くなる。
その時、人の声が聞こえ始めた。
白い光と共に、俯瞰の映像が見える。地下シェルターに避難した人たちが、肩を並べて俺達の戦闘の様子を見ている。シェルター内に設置されたテレビから、エレキタワーのカメラの映像を見ているようだ。
数多くの人間が、固唾を呑んで仔細を見ていた。
「頑張れ」「お願い街を守って」「頼む」「助かったら、ちゃんと好きだって言おう」「ケンカなんてしなければ良かった」「息子は無事だろうか」「がんばって」「勝ってくれ」
心の声が沢山聞こえてくる。
そうだ、一人一人生きているのだ。それぞれの人生があり、俺と同じように、生きたいと願っている。
諦めるな。
俺達は呼吸を合わせ、一度に強い攻撃を繰り返した。両翼を振り回し、がむしゃらに液体を散らす。だが、身体が重い。腕が動かない。
視界も狭くなっていく。
酸欠なのか、視界が真っ白になった。
これまでかと思った時、ゲートから光が差した。
目を瞬き、俺は息を整えて顔を上げる。
そこには巨大な目玉が、ピッタリと嵌まっていた。
巨大な眼は瞳孔をぐるりと回し、俺達を見下ろす。
異様な光景に、俺は呆然とした。
物怪達は巨大な眼球を前に、一斉に頭を垂れた。
大天狗は羽団扇を掲げ、大仰にお辞儀をする。顔を上げ、大声で言った。
「これはこれは。閻魔殿がわざわざ起こしになられるとは」
物怪たちは身体を揺らしたり、両手を挙げたり、くるくる回ったりして、大喜びしている。
にわかには信じられないが、この巨大な目が、死後魂の生末を裁き、地獄と天国へ導く審判者、閻魔と呼ばれる存在らしい。
大天狗は俺達を振り返り、高らかに言う。
「我を味方に引き入れ、物怪宿りの力を最大限に活用したこと、一人一人の意志。さまざまな条件が絡み合い、この結末に辿り着いたのだ」
閻魔は、一つ瞬きをした。
すると、全てが停止した。
思考は働くが、身体が動かない。
俺だけでなく、他の物怪も、物怪宿りも同様だった。
呆然と眺めていると、物怪たちは淡く光り始めた。輪郭がぼやけていき、やがて一つの玉となった。色とりどりに発光する玉は、ふわふわと浮いて目の中へ、ゲートの内側、おそらく冥府へと吸い込まれて行く。
夢のような光景に息を呑んでいると、気づけば俺の変化も解け、胸から黒い光の玉がポンと飛び出し、浮上していった。
以津真天の魂かもしれない。
冥府に行けば、コア細胞を取り除かれる前の、元の姿に戻れるかもしれない。
心の中で、ありがとうと伝えると、黒い玉は輝きを増した気がした。
全ての玉を吸い込むと、閻魔は長く目を閉じ、一度目を開けてから、溶けるように消えた。
同時に、リン、という音がして、金属の輪が砕け、消え去る。
暗黒だった世界は、陽が上り始めた。
ハチミツを溶かしたような、黄金の朝だ。
東京はいつもの景色に戻り、俺達はエレキタワーの屋上に立っていた。
閻魔様は物怪宿りの物怪の細胞を吸い取ってくれたようだった。
普通の人間として、物怪宿りは生きる事が出来た。
物怪はいなくなり、東京は解放され、人々は日本全国に散らばった。農業や漁業も再開され、様々な生き方が出来るようになった。
俺とハクと冬木は、菜の花が咲き乱れる広い公園のベンチに座っていた。
あれから物怪宿りや兵士は歴史の記録や証人としての仕事をしばらく行った。
事件の真相が公開され、その全てを国民全員が知ることとなった頃、物怪宿りたちは各々の生き方を選択し始めていた。
俺は冬木に問う。
「冬木はこれからどうするんだ?」
「婦人科か、小児科医になりたい。その為に医師の免許を取る」
「へえ、昔と同じ外科医じゃないのか」
「人が死ぬ場面ばかり見てきたから、始まりの時を見たいと思っただけだ」
ハクが言う。
「良いですね」
「敬語じゃなくていい。もう物怪宿りの関係じゃない。これは…」
冬木は口を閉ざす。
照れ臭くてハクも俺も言わないが、理解している。
俺は問う。
「ハクは?」
「色々かな。今までの歴史を纏めて海外に発表し、資金を得てまちづくりに取り組んだり、地域の復興に助力したい。この世界は広いから、僕自身いろいろ見て周りたいな」
「いいね」
遠くから、水色のワンピースを着た、綺麗な女の子が駆け寄ってきた。
最近の天はポニーテールをしていることが多い。
その魅力は少女の時と変わらない。美しさには更に磨きがかかっている。
「お待たせしました。遅くなってごめんなさい」
「時間ぴったりだよ。俺達が早すぎただけだ」
天は小首を傾げる。
「それならいいんだけど。みんなで何の話をしていたんですか?」
「ここら辺で有名な心霊スポットを教えて貰ってた」
天は不安そうな顔で言う。
「え、嫌、私行きたくないです」
「この近くだってよ。パワースポットなんだって」
「入口で待ってるから、みんなで行って来て」
「実は、待ってる人の方が危ないんだって。憑りつかれちゃうんだってよ」
「…」
天が怯える。
小動物のように身体を縮めて震えている様子は可愛らしい。
面白くて俺が小さく吹き出すと、ハクと冬木が呆れた視線を向けてくる。
俺は言う。
「嘘だよ」
「もう」
天が頬を膨らませる。
ハクは天に問う。
「ツバサのどこがいいの?」
天は顔を赤くして、小声で答える。
「全部」
「考え直した方が良いかもよ?この人かなり意地悪だから」
「酷いな」
天が俺の腕にぎゅっと抱き着いて言う。
「そこも好き。全部好き」
ハクは肩を竦め、冗談めかして、けれどほっとしたような優しい顔で言う。
「お幸せに」
物怪宿りになって良かったと思うのは、かけがえのない仲間が得られた事だ。
桜の花びらが春風で舞い上がった。
水色の空に黒い大きな鳥が翼を広げて飛んで行った。
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