第10話「……良かった、今、あなたがボクの腕の中にいてくれて」
「少し、昔のことを思い出しちゃってさ――」
こちらの言葉を聞いたフィオナは、静かに微笑む。
そして、静かに持っていたホットワインのグラスを置いた。
「そういえば、おじさんってあまり昔話をしないよね。
今夜は、聞かせてくれると思って良いのかな」
首を傾げながらこちらの瞳を見つめこんでくるフィオナ。
その仕草が愛らしくて、店に通っていた頃を思い出す。
俺がまだ客としてトワイライトに通っていた頃を。
「……別に面白い話じゃないんだ」
「うん。だろうね、だからそんな顔をしているんだろう?」
こちらの肩に籠められる力が強くなる。
完全に肩を抱かれる態勢になって彼女の体温を感じる。
他人の肌の温かさを感じられることが、幸福だった。
こういうものとは無縁の人生を送るしかないと思っていたから。
「――冒険者なんて、まともな奴がやる仕事じゃない。
たいていは生まれ故郷であぶれた奴らだ」
魔法の才能がない剣士たちはまず間違いなくそうだ。
継ぐ家業のない親の元に生まれたか、次男以降であぶれた奴ら。
魔術師の場合は少し違うが、同じような話になる。オスカーや俺のように。
「おじさんもそうなの? 魔法使いがあぶれるような街に……?」
流石はフィオナだ。この開拓都市じゃあるまいし、魔術師があぶれる街なんて数えるほどしかない。王都でも魔術師が仕事に困るということはないだろう。そんな違和感を当然のように感じている。
「いや、ちょっと違う。魔術師として生まれれば仕事に困ることはない。
田舎なら特に。俺が生まれたのもそういう田舎だった」
「――メガネも売ってないような田舎、だったんだよね?」
彼女の言葉に頷く。
覚えてくれていたのか、あんな何気ない会話を。
「生活圏に母さんくらいしか魔法使いのいない、そんな場所だったよ。
魔法使いを必要としていながら、魔法使いが人間扱いされるには絶対的に数が少ない。そんな場所だ」
こちらの言葉に静かに頷いてくれるフィオナ。
……彼女もまた、特殊な生まれをしている。
俺なんかよりもずっと、人間としての輪に入れない機会は多かっただろう。
「なるほどね……”分かるよ”なんて言うのは少し軽すぎるかな」
「いや、君と比べれば俺の生まれなんて大した話じゃないよ。
君の過去の全てを知っている訳じゃないけれど、きっと俺よりも――」
言葉を紡いでいた唇を塞がれる。
彼女の白い指が静かに俺の唇に触れて、言葉を中断された。
「――違うよ、それは違う。フランク」
フィオナに名前を呼んでもらうのは、酷く久しぶりな気がした。
「不幸は比べ合うものじゃない。
相手の不幸が大きいから、自分の不幸が消えるなんてありえない。
だから、そんな誤魔化しをする必要はないんだ。特にボクの前では――」
彼女の手のひらが、俺の背中を撫でる。
いつもとは違う方向、真正面からフィオナの両腕が俺の身体を抱く。
薄くて、小さくなってしまった俺の身体を。
他人の体温が、否応なくこの身体が自分の身体なのだと教えてくれる。
「……フィオナ」
恐る恐る彼女へと腕を伸ばす。抱き返すように両手を。
深く抱き合っているから、表情は見えなかったけど、嫌な顔はしていないと思いたかった。
「――ごめんね、話の邪魔、しちゃって」
ホットワインを口に運ぶフィオナが、照れ隠しのように微笑む。
俺も同じように酒に口をつけて、意識を歪めようとする。
素面でいるには、少し照れくさかった。
「それで、どうして思い出しちゃったの? 思い出したくない過去なんだろ?」
「……行きつけの店を手伝うって話まではしてたと思うんだが、そこの店主があまりにも真っ当に父親をやっていてな」
こちらの言葉に静かに頷いて、続きを促してくれる。
そんな彼女を前に、俺もひとつ息を吸って、言葉を紡いだ。
「――自分に父親がいないのを、思い出したんだ」
「いない……? ひょっとしてボクと同類?」
「ふふっ、たぶん違う。知らないんだ。母さんも誰も教えてくれなかった」
生憎と教会の聖職者に育てられるほどの特殊な生まれはしていない。
本当に特異な出自を持つフィオナを前に、自分の出生を語るのは少し気後れするところはあるのだが、あれほど真っ直ぐに不幸は比べるものじゃないと言い切られてしまえば。
「……単純に考えれば、男女のいざこざなんだろうが、違うと思うんだよな。
母さんが、父親の悪口を言っていたこと、ただの一度もなくてさ」
くだらない思い込みだ。
父親がまともな人間だったのなら、俺に教えられないはずがない。
素性を何も教えることができないクズの子供なのだ、俺は。
「良いじゃないか。自分のご両親のことだ、世間に合わせる必要もない。
あなたの感じたことを、あなたが信じられるように信じてあげればいい」
フィオナの言葉は、どこまでも真っ直ぐで、だから余計に好きになってしまった頃を思い出す。レオ兄が勝手にフィオナの指名をつけて、直に話すようになったあの時からずっとこの人のこういうところが好きなんだ。
「……君の義父さんというのは、きっと偉大な人だったんだろうね」
「ふふっ、そう思うかい?」
「今の君を見ていると、そう思うんだ。違っていたらごめん」
こちらの言葉に首を横に振るフィオナ。
「いや、合ってる。あの人に育てられていなかったら今日のボクはない。
何人もの孤児を育ててきた聖人でね、ボクがあの人の最後の子供なんだ」
少しだけ自慢げに微笑む彼女の表情が眩しく見えた。
「……ボクが他人との関わりを求められるようになったのは、あの人が居たから。
人は、人間として扱われて初めて他人の輪に入っていこうと思える生き物だ。
教会の連中の大多数は、ボクにそれを与えてはくれなかった」
フィオナの真紅の瞳の向こう、俺と同じ孤独が見える。
今までずっと彼女から見えなかったものが。
「――だから、分かるよ。あなたの痛みを。
あとから埋め合わせたところで、不足していた頃の傷は消えないんだ」
そうだ。故郷を出て今日まで、あの頃に手に入らなかったものは大半を手に入れてきた。成功と言い切るには少し足りないが、それでも多くのものを。それでも過去の記憶は消えない。傷口は癒えても、傷痕が消えないように。
そして疼くんだ。忘れた頃に、たまに、どうしようもなく。
「……俺は、あなたに憧れている。初めて見た時から今日の今日まで。
毎日、見惚れている」
「――ははっ、よく覚えてくれていたね、あんな言葉を」
フィオナの腕が、静かに俺を抱き寄せる。
「……良かった、今、あなたがボクの腕の中にいてくれて」
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