8月3日 もう逃げられない蝶と捕まえた蜘蛛
「……う、う~ん?」
頭がやけにボーッとする。
まぶたも重く、体が凝り固まってるみたいだ。
まるで、必要以上に睡眠を取っていた用で――
「あれ? また寝てた?」
何だかんだで見知った天井を見て、まだここが例の屋敷であることを再認識し、何でまたもや大きなソファで寝ているのかを疑問に思う。
「確か、お昼に和牛を食べて……」
人生初の和牛を食べたところまでは覚えてる。
だけど、そこから先の記憶が無い。
少なくともソファで横になっていないはず。
なのに自分はここで寝ているという事実。
部屋に設置された時計を見る。
時間を見ればお昼前の時間帯。
この時計はどうやら午前と午後で模様の一部が変わる仕様らしく、模様には午前中であることを指す『AM』の文字が輝いていた。
「はぁ、なーんだ。まだ午前か」
随分と寝てしまったんだなーと思いきや、まだ午前中。
午後だったら真夜中まで寝ていたことになるから一瞬だけ不安だったけど、午前ならまだいい。やけに寝ていたように感じたのは気のせいみたいだ。随分お腹が空いているけど、それも気のせいだろう。
「もう1回寝よう」
掛けてあった大きめのタオルケットを掛け直して横になる。
もう少しだけ寝てもバチは当たらないだろう。
お休み。
……
…………
………………
「いや、おかしいだろ!!!??」
ボクがお昼に和牛を食べたのは12時を過ぎてからだぞ!?
そもそも、その時に模様が変わる仕様をナーねえから教えてもらったんだ。
一気に眠気が吹っ飛んだ。
タオルケットを放り出し、もう1度時計を確認する。
うん。何度見ても〈AM〉11:40となっている。
(落ち着け、落ち着くんだボク)
あらゆる可能性を考えろ。
ありそうにないことも含めて頭をフル回転させるんだ。
①単純に時計が壊れてる
これがもっともありえる。
あとでナーねえに知らさないといけない。
②実は丸1日寝続けただけ
お腹と背中がくっつきそうなほど空腹な理由の説明になるけど、人って普通そんなに眠り続けられるのか? ボクは健康体のはずだし、ノンストップで睡眠を取る可能性は無いに等しいはずだけど……微かに和牛を食べたあとで眠気に襲われたような?
③中途半端にタイムスリップした
可能性として考えててアレだけど、ありえないよなー。
ドラ〇もんじゃあるまいし、時を超えるなんて超体験を下らないことで使う原因も理由もどっちもない。いつだったかの放送で見た“未来の自分に宿題を手伝って貰う”の回はちょっとホラー要素が入ってたな。随分前のはずなのに未だに覚えてる。
「うん①だな。それしかない」
恐らく和牛を食べて大満足したボクは眠ってしまい、今は夕飯を取るぐらいの時間帯なんだろう。ソファに寝かして起こさなかったのはナーねえ。親切心から起こさないようにした結果、何時間も眠ってしまったと。こうに違いない。
長時間眠ったのも、おおよそ1ヶ月前にこっちの方に引っ越してきてからのあれやこれやの疲れが今になって表れたと考えれば納得――できなくもない。そうであってほしい。
「――って、普通にテレビ付けて確認すればいいんだ」
隅っこの方に映る時間を見れば解決することだった。
えーっと、リモコン……リモコン……
「そーくん? 何か捜し物?」
「あ、ナーねえ」
リモコンを探していると、いつの間にかナーねえが来ていた。
「丁度よかった。ナーねえに報告することがあったんだ」
「私に? 私も報告することがあったんだ。丁度よかったよ♪」
「そうなの? まぁ、いいや。お昼に和牛食べて寝ちゃったみたいでしょボク? 起きたら時計が壊れてるみたいでさ」
「時計が? どこも変じゃないけど……」
「いやいや変だよ。12時過ぎにお昼ごはんを食べたのに、12時前になってるでしょ。和牛を食べ終わってのんびりしてた時は13時に近かったし」
「あー昨日のお昼のこと? 初めての和牛を美味しそうに食べるs-くん可愛かったなー」
「そうそう昨日の――……昨日のお昼?」
「うん。昨日のお昼。和牛のひつまぶし風」
……?
「……ナーねえ。今日って8月2日だよね?」
「ぶっぶー! もう8月3日だよ、そ-くん」
? ? ?
訳が分からない。
和牛を食べたのが昨日の話?
きっと今のボクは、突然宇宙に放り出された猫みたいな顔になっている。
「…………何で1日経ってるの?」
「私がそーくんの飲み物にとびっきり強力な睡眠薬を入れたからだね♪」
?
さっきの考察、②が正解だったかぁ……――って!?
「何で!? 何で睡眠薬!? どうして!!?」
ズザザッと、ナーねえから咄嗟に距離を取る。
思いっきり壁にぶつかったけど、考えるよりも先に体が動きまくってさらに後ろに下がろうとする。
そして、ゆっくり近づいてくるナーねえ。
「それはもちろん、この屋敷をリフォームしたからだよ」
「リ、リフォーム……?」
「正確にはぁ、元々私用に弄ってあった屋敷の内部にちょいちょいと罠とかを仕掛けたり、出入り口を分からなくさせたりしたの。大変だったんだよ? いろんなことを想定していたら、あっという間に1日が過ぎていたの♪」
ゆっくり、ゆっくり、1歩ずつ距離が縮まる。
「何で、そんなこと」
「この屋敷を、私とそーくんの愛の巣にするためだよ♡」
意味が分からない。
ナーねえが――目の前の女性が、何を言っているのか本気で分からない。分かりたくない。
「ボク、家に帰らなきゃいけなくて」
「大丈夫」
ボクにナーねえの影が差し込むほど近づかれる。
「そーくんがいけないんだよ」
「食べちゃいたいぐらいそーくんがカワイイから」
「身も、心も、ぜーんぶ、欲しいんだぁ」
「何も心配しなくて良いの」
「ずっと私に甘えてくれていいんだよ?」
「ちゃーんと責任もって」
「一生養ってあ・げ・る♡」
……逃げろ。
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ。
逃げるんだ!!
「う、うわぁあああああああああああああああああっっ!!」
「あん♡」
目の前に迫っていた2つの重そうな物体をはねのけて、扉へとダッシュする。
扉の先はほとんど何も分からない。
大抵のモノはこの大きな部屋のなかにあるから。
さっき言っていたリフォームというのも気になる。
でも、そんなことはあとでいい。
とにかく、この部屋から出なければいけない。
扉の前まで辿り着き、ドアを開けようと手を伸ばす。
が、
「え?」
手が、腕が、動かない。
それどころか、体が動かない。
「な、なに、が……」
「いけない子ね。そーくんは」
真後ろから声が聞こえる。
女性特有のしなやかな腕が体を這うようにほっぺまで伸ばされる。
「逃がさないぞ♡」
今、ボクはどんな顔をしている?
心臓が変なリズムを刻んで体調がおかしくなる。
「体が動かなくてびっくりしてるのかな? じゃあ、種明かしだよ。ほ~ら、よーく見て。細いものがそーくんに絡まってるでしょ」
視線を動けない箇所に向ける。
そこには、良く目を凝らさないと見えない何かがあった。
まるで、それは、
「糸……?」
「そう糸。私が自由自在に操ることが出来る神様の糸」
「神……様……?」
「そうね。本名は嫌いだけど、そーくんのために教えてあげるね」
そう言って、ナーねえはボクの耳元で囁く。
「『アトラク=ナクア』。それが、私の名前。海の向こうで生まれ育った私が、最初から持っていた名。とある蜘蛛の神様の真名だよ」
ナーねえは――人外の女性は、囁き続ける。
「蜘蛛はね、巣に掛かった蝶々を絶対に逃さないんだぞ♡」
お父さん。お母さん。
ボク、想像を絶するほどヤバい女に捕まったみたいです。