普通とか常識とか主語のデカさの割りのローカルさ
常識とか、普通とか、良く言う人がいる。
その人の言葉はマイナスな発言ばかりだ。
常識的に考えて、普通なら、そういう枕詞がつく場合は大抵が否定の言葉だ。
常識、普通、世間では、なーんて主語を大きくする人間の世界はとても狭い気がする。
常識とは普遍なものではなく、世間とは流動的なもので、普通とはその時々によって姿を変える。
だから協調性のある人間はその場その場にあったルールを用いて行動する。
でも、主語の大きい人間はそんなことなど関係なしに自分の非常識を否定するわけだ。
その否定にプラスして攻撃をする。
自分の常識外のことは悪なのだと断じて攻撃する。なぜなら悪は滅ぼされるものだからと信じて疑っていないから。
そこに正当性はないことに気づかない。なぜならその人にとっての常識や普通とはそういうものだからだ。
己を基準点であると傲慢にも信じて疑わない神の生まれ変わりなる至高の存在とでも思っているかのようだ。
簡潔に言えばタダのガキだ。
思い通りにならないことな駄々をこねて、主語を大きくして共感を求めて、気に入らないものを排斥する。
たちの悪いのは、共感性を失った発言力のある大人のガキがこう言うことをやるところだ。
目に見える瑕疵を抉ろうとして、掘るのは墓穴ばかりだ。
掘ったあとしっかりと墓穴に入ればいいのに。
憎まれっ子世に憚るとはよく言うものだ。