3 爪跡、夢、そのまた夢の如し
気が付くと、私は森の中に立っていた。
そこが具体的に、どこの森なのかはわからない。とにかく、どこかの森の中に、一人ぽつんと立っている状態で、とりあえずここが森であるということ以外、私にはなにもわからなかった。
どうして私はこんなところにいるんだろう。ここはどこだろう。疑問に思って、しばらくはその場を動かずにあたりをキョロキョロ見まわしていたけど、ずっと立ち尽くしていても仕方がないと思って、まばらに生えた木々の間の、雑草に覆われた道を歩き出した。
そこはとても静かで、鳥の声も虫の声も、小動物が物陰で動くような音も、なにも聞こえなかった。ただ目の前に広がる森と、そこを歩く私の足音、身体に触れた植物がしなる音だけが、得られる情報のすべてだった。自分以外のなにもかもが死に絶えたのではないかと思ってしまうほどの静けさに、得も言われぬ不安を感じるほど、森は静寂だった。
その森は大して深くはなく、見上げると、木々の隙間から空が見えた。歩いていれば、すぐに森から出られるだろうと、なんの根拠もなく考えた。ろくに道もわからず歩き続けていると、急にひらけた場所に出た。森を抜けたのかと思ったが、違うようだ。
まず最初に、綺麗な泉が目に入った。
水は蒼く透き通り、わずかな空気の流れにも水面は敏感に揺れ動く。太陽の光が水面で反射し、泉を囲う木々に網目模様を映し出す。きらきら輝く水の、刺すようなまぶしさに、思わず目を細めた。そっと近付き、泉のほとりに屈んで、水に指を浸けてみると、ひんやりと冷えていて気持ちよかった。
そのまま、手を洗ったり水をかきまわしたり、一人で小さく水遊びをしていると、ふと遠くの木々がざわめいたので、私は手を止めて顔を上げた。風もないのに、なぜだろうと。
目が、合った。
人――と言っていいのかはわからない。それはいつからそこにいたのか。まるで子どもが黒のクレヨンでぐりぐりと描き散らしたような、目も、髪も、服も、すべて真っ黒な、おそらく女性の形をした、人のようなものが、木と木の間から私のことを見つめていた。
まず、全身が凍りつくような恐怖を感じた。
突然に吹き荒れた風に落ち葉が舞い上がり、私の目に砂粒が入った。咄嗟に目を閉じて、手でこすった。風はすぐに止み、目を開けたとき、もうそこにさっきの黒い女はいなかった。あたりをぐるりと見てもそれは同じ。私は、きっとなにかを見間違えたのだろうと完結させ、ふと水面に視線を落とした。
そこにいた。
水面に映り込む、私の肩に。
振り返ってはいけない――と思たときには、既に遅かった。
目の前に、黒い女が。
真っ黒な空洞の目が私を見ている。
黒ずんだ腕が持ち上がり、女は私に手を伸ばした。
黒い。
ただ黒い。恐ろしい。
女の手が私に。
……。
……そこで、私は目を覚ました。夜の自室、ベッドの上。ああ夢かとほっとしたものの、すぐに考えを改めることになる。私は夢からは覚めた。眠りから覚めた。それなのに。
それでも、女はそこにいた。
*
「絵が――怖いの」
ロドリアゼル西大陸、レスペル国西部の某所。洋菓子店『柳』。店の奥のリビングルームにて、うつむき気味にそう話す少女の正面には、どこか陰鬱さを拭いきれない目をした少年が、困ったような、唖然としているような顔で座っていた。
「は、はあ、なるほど」
早川春斗はそう相槌を打つように返すが、隣のキッチンから現れた別の少年、柳岸柳季がそれを諫めた。
「なにがなるほどなんだよ、春斗。なにか理解できたのか?」
少女と春斗の前に麦茶の入ったグラスを差し出すと、自分の分のグラスを手に、柳季は春斗の隣に腰を下ろした。彼はこの洋菓子店『柳』を営む一家の一人息子であり、春斗の数少ない友人だ。春斗はわけあって、少し前からこの『柳』の従業員として働いており、今はこの友人の家においてもらい、一緒に暮らしているが、いずれある程度の資金が貯まれば、住む場所を探して自立するつもりだ。
春斗たちの前に座る少女――雑賀絵里香は、もともとは柳季の幼馴染で、よく店にやって来る常連客でもある。春斗が『柳』で働くようになってからは話す機会があり、今では春斗とも仲良くしてくれているのだが、その絵里香は最近なんだか元気がない。
どうやら少し前に身内に不幸があったことを柳季から聞いていて、なので余計な詮索はしないようにしていたのだが、実はそのこととは別に悩んでいることがあると。昨日の夕方ごろ、店にやって来た彼女は春斗たちにそう打ち明けてくれた。
そのときはもう時間が遅かったため、それ以上の詳しい話はできなかったのだが、明日――つまり今日――そのことを相談したいと言って、今に至るというわけだ。春斗はあまり人と話すのが得意ではなく、内気で気弱で、頭もそれほど良くはない。なので相談相手としては頼りないが、あくまで春斗は柳季のおまけだ。
春斗は頼まれると断りきれない気弱なお人好しだが、この柳季は困っている人がいれば誰であろうと放っておけない、強気なお人好しなのだ。そもそも悩みを相談したいと言われて、間髪入れない二つ返事で引き受けたのも柳季なのだ。春斗はただ巻き込まれただけと言える。……いや、絵里香のことが心配でないのかと言われると、そういうわけではないのだが。
とにかく、日を改めて再びここへやってきた絵里香が、長い沈黙のあとに述べたのが、先の言葉だった。使いものにならない春斗の代わりに、柳季が絵里香に質問を開始する。
「絵が怖いっていうのは、どういうことなんだ。どういう絵が怖くて、どういう風に怖い? たとえば、こう、紙にテキトーに描いたようなラクガキでも怖いか? それとも、額縁に入って飾られているようなものが? 人物画が怖いとか、風景画が怖いとか、対象は限定的なものなのか?」
「え、えっと」
「柳季……もうちょっとさ、ひとつひとつでいいんじゃない?」
「あ、ごめんごめん。そうだな。急いでるわけじゃないから、ゆっくりでいいよ。あせらなくていいから、もうちょっと詳しいことを教えてほしい」
絵里香はわずかにうつむき、しばらく言葉を探して――あるいは本当に話すべきか迷うように――口をもごもごさせていたが、やがて覚悟を決めたように切り出した。
「私のお父さんは、少し前に病死して、今はもういないんだけど……絵が好きな人で、生前はずいぶん熱心に集めてたみたい。どこで見つけてきたのかは知らないけど、家の中にたくさん絵が飾ってあるの。……柳季は知ってるよね?」
「ああ……たしかに、至るところにいろんな絵が飾ってあったような。あれってお父さんの趣味だったのか。てっきりお母さんの……いや、それは今は重要じゃないな。続けてくれ」
「お父さんが死んだあと、人物画なんかは、母さんも姉さんも、なんだか見られてる気がして落ち着かないとか、動きそうで気味が悪いとか言って、今はほとんど処分したんだけど、風景画や動物の絵は、綺麗で気に入ってるのもあって、そういうのは飾ったままなの」
「あれ、絵里香ってお姉さんいたっけ」
「うちって三年くらい前にお父さんが再婚したじゃない? その再婚相手の連れ子で、だから血のつながりはないんだけど。そういえば、まだ会ったことなかったっけ?」
「お義母さんとは会ったけど、お義姉さんのほうは知らないな」
「そっか。言われてみるとそうだったような……じゃあ、今度紹介するね。それで、えっと」
途中で話が逸れてしまったためか、どこまで話したかわからなくなったらしい絵里香に、春斗がそっと口を出す。
「人物画は処分されたけど、風景画は残してあって……絵って、絵里香ちゃんの部屋にも飾ってあるの?」
「うん。前に、お父さんがどれを飾りたいか選ばせてくれて……森の中の泉を描いた風景画でね。絵の名前とか作者まではわからないんだけど」
「絵が怖いって言ったけど、それって家に飾ってる全部か? 小さいころに額が外れて、自分の上に落ちてきたとか?」
「ううん、そうじゃなくて……あの、笑わないで聞いてくれると、うれしいんだけど……」
言いづらそうに頬を掻き、絵里香が語ったのは、三か月ほど前の夜、彼女が眠っている間に見た夢の話だった。気が付くと、絵里香は森の中に立っていて、そこを歩いているうちに泉を見つける。水遊びをしていたら、急に物音がして、顔を上げてみると――女がいた。
クレヨンでぐちゃぐちゃに描き殴ったような、黒い女が。
そのとき風が吹いて、思わず目を閉じてしまい、次に見たときにその女はいなくなっていた。気のせいかと思って水面に視線を落とすと、そこに映る自分の背後。肩のすぐうしろに女がいた。咄嗟に振り返ってしまったところで、目が覚める。なんだ夢か、と安心したのも束の間。
部屋に飾ってある泉の絵画。その中央に、その黒い女がいた。
「そのあとのことはよく覚えていなくて……気付いたら朝になってたわ。絵も元通りで、そんな黒い女もいなかった。だから、その出来事も、きっと夢のまた夢だったんだと思って。……でも、あれは夢じゃなかったの。あの黒い女が、ずっと私を追いかけてくるの」
小さく震える声で、絵里香は語った。顔色は蒼白で、とてもではないが冗談を言っているようには見えない。春斗はつばを飲む。
「ふと顔を上げたときに見えた絵に、何気なくうしろを振り返ったところにあった絵に、鏡を見たとき、そのうしろに写り込んだ絵の中に、同じ女がそこにいる。額縁を伝って、私をじっと見てくるの。どこもかしこも絵画ばかりな家の中には逃げ場がなくて。でも、義母さんも姉さんもなんでもない顔をしていて……その女は私にしか見えてないのよ」
「黒い、女が――」
柳季は返す言葉を失っていた。かくいう春斗も、絵里香の話をもとにその光景を想像してしまい、恐ろしさのあまり身震いしてしまったのだが。
「だから……私は、絵が怖いの」
次回は九月九日、十三時に更新します。




