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色褪せた写真  作者: 氷室冬彦
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0 夜半の嵐と異邦の旅人

その日の夜は嵐だった。夕暮れ時から降りだした雨は夜が更けるにつれて勢いを増し、呼応するかのように風は荒く吹きすさび、木々を、草花を、地を蹂躙する。外を歩く人影などなく、人々は皆、避難するように逃げ帰り、ただ嵐が過ぎ去るのを待っていた。


強風が木々を揺らす林の中。もはや意味をなさない葉の傘にすがるひとつの影。雨を微塵も防いでくれない樹木を見上げてため息をついた。やはり屋根のある場所でない限り、この嵐をしのぐことはできないだろう。旅人は既にずぶ濡れだった。


近辺に手ごろな廃墟はない。宿を探すわけにもいかず、帰る場所も既になく。であれば、もはやこの嵐を甘んじて受け入れるよりないだろう。ずぶ濡れの旅人はそのまま、ずぶ濡れの地面に腰を下ろした。時が経てば朝が来る。朝になれば、この嵐もなりをひそめる。このまま寝るも寝ないも自由だが、天候の回復は、もはやそれまで待つよりない。


落ち着いた緑を纏った和風の装束は水を吸って重い。その上から大きな布をフードのようにかぶり、深く顔を隠している。襟元や袖から覗く肌には薄い布地を巻いているようだ。やや細身だが長身で、手足はすらりと長い。なぜか足に靴は履いていない。


そうした出で立ちの旅人が、雨風にさらされながら待ちぼうけていると、隣の木のうしろから、ぬ、っと黒い影がのびた。おどろき、咄嗟に飛び退いて身構えると、影は木のうしろからその姿を現した。


「うわっ……びっくりした。お前、こんなところでなにしてるんだ?」


それは一人の青年だった。旅人よりもわずかばかり若く見える。前髪は金髪だが、うしろでひとつに結んだ髪は黒く、どうやら前とうしろで髪色が違う。七分丈のシャツは襟口が広く、袖から覗く腕には手甲を着けている。背は旅人のほうが少し高い。傘を持たないその青年もまた、ずぶ濡れだった。


「雨が――上がるのを待とうと」


旅人が言うと、青年は雨を触りながら空を見上げる。


「朝まで止まないと思うぞ。このまま夜を越すにしても、この嵐だ。外にいるのはやめたほうがいい。風邪をひくならまだいいけど、凍死する可能性だってある。たかが雨と侮るなかれ、だ」


「俺は平気だ。その場の環境に、即座に適応することができる体質でな」


「だからってなんでひと晩中、雨に打たれる選択をするかねえ。おいでよ、いや、俺の家じゃないんだけど、泊めてくれるよう口利きしてやるからさ」


「しかし……」


「いいから。散歩してただけとはいえ、見ず知らずの人でもさすがに見捨てらんないし」


青年が旅人の腕を掴んで歩き出す。そのまま黙って連れられて、辿り着いた先にあったのは大きな屋敷だった。夜の闇と嵐の中ではよく見えないものの、門をくぐった先の広い庭は手入れが行き届いているようだ。石畳の小道を進んで行くと、屋敷の入り口が見えた。両開きの大きな扉を青年が叩き、そのまま扉を開けて中に向かって声をかける。


「おーい」


旅人が青年の肩越しに屋敷の中を覗いたとき、まず最初にやって来たのは、隣の青年と同じ顔、同じ背格好の青年だった。手甲を嵌めた腕。七分丈のシャツ。前とうしろで色の違う髪は量が多く、結われた黒髪が空気を含んでふわふわと揺れている。今は水に濡れている隣の青年も、普段は彼と同じほどの毛量があるのだろう。


善丸ぜんまる、やっと帰って来たか。雨が降ったと思ったら飛び出して行きやがって」


さんちゃん、水晶すいしょうさんは?」


「どこかしらにいるだろうよ。それがどうした」


善丸と呼ばれた青年は服の裾をしぼって水を落とす。


「ちょっと呼んできてくれ。この嵐の中、ずぶ濡れで夜を越そうとしていた人がいてさ、さすがに放置できなくて連れてきたんだ」


三ちゃんと呼ばれていた、善丸と同じ顔の青年が旅人を睨む。


「……しょうがないな、ちょっと待ってろ。水晶! おい、水晶!!」


青年が屋敷の奥へ向かって大声を上げる。その間に、善丸が旅人を振り返った。


「ああ、忘れてた。俺は不知火善丸しらぬいぜんまる。で、あっちは片割れの三月さんがつ。この屋敷の持ち主の水晶って人に雇われていて、住み込みで掃除とか護衛とかいろいろやってんだ」


「そう、なのか。俺は――」


「ちょっと、みっちゃん。うるさーい!」


高い声が響く。見ると、屋敷の奥から姿を現した一人の少女が三月に文句を言っていた。踵の高いハイヒールに、大胆に太股を見せたミニスカート。シャツは前のボタンを大きく開け、胸元は開放的だ。長いまつ毛に覆われた桃色の瞳には、わずかに紫が差しているようにも見える。右目の下のほくろはチャームポイントだろう。ショートカットの黒髪を揺らしながら、少女は大ぶりな胸の下で腕組みをした。


「ただでさえ嵐で外がうるさいってのに、なに騒いでるのよ! ……あら、善ちゃん帰ってたの。おかえり」


「ただいま、しーちゃん。たぶんしーちゃんの声のほうがうるさいよ」


雫希しずき、水晶のアホはどこだ?」


「お兄様ならお部屋よ。みっちゃんの大声も聞こえてると思うけど。で、どうしたの?」


「善丸が猫を拾ってきたんだとよ」


「ネコちゃん!」


「猫じゃない。人だよ」


「なんだ、猫じゃないの」


少女は雫希というらしい。あからさまに残念がる雫希に、旅人は気まずそうに声をかける。


「ね……猫でなくて、すまない。それから、俺は」


「あ、なんだ男の人? ならいいじゃない、あたしは歓迎!」


「黙ってろビッチ」


三月が冷たく言う。雫希がむっとした顔で言い返そうとするが、その前に雫希が出てきたのとは別の扉が開く音がした。


「騒々しいぞ、お前たち。雨の降る日は静かに響く雨音を楽しむものだ。おや、善丸。帰って来ていたのか。おかえり。そちらの客人は?」


雫希と同じくハイヒールを鳴らしながら現れた青年が、静かに、しかしよく通る声で言いながらこちらに歩いてくる。スーツ姿だがネクタイはしておらずラフな印象ではあるが、隠しきれない気品が態度に出ている。腰まで伸びた艶やかな黒髪。右目には眼帯をしており、黒の布地に伏せた目の模様が描かれている。まつ毛は長く、薄い青の瞳はよく見ると、雫希と同じくわずかに紫が差しているようだ。顔立ちもやや彼女と似ている気がする。


第一に、美しいと思った。


「外で雨に打たれていたのを連れてきたそうだ。ひと晩ここに泊めてやれと、ぜんが」


三月が簡潔に説明すると、善丸は頷く。善、というのは彼の愛称なのだろう。旅人はおずおず口を開いた。


「屋敷の主よ。このような放浪者を、中に入れてほしいとまでは言わない。俺は外で十分だ。どうか扉の外の、この屋根の下を貸してはもらえないだろうか。夜が明け次第、早急に立ち去ることを約束する」


旅人の言葉に、屋敷の主が穏やかに微笑んだ。


「そう身構えずともよい、異邦の旅人よ。外の屋根ではこの嵐をしのげまいよ。客人はそれ相応にもてなすのが礼儀というもの。中へ入りなさい。まずは服をかわかさなくては」


「い、いや、しかし」


「遠慮しなくていいよ、外じゃ寒いだろう。水晶もいいって言ってるんだし」


「善丸、お前も早く着替えなさい。……まこと謙虚な旅人よな。私は水無月水晶みなづきすいしょう。あなたの名も聞かせてもらえるだろうか」


「……フィストティリアだ。長いので、ひとまずはフィスト――とでも」


「ではフィスト、こちらへ。この私がよいと言うのだ。ならば、厚意として受け取っていただきたい」


水晶が手で中に入るよう促す。反対に旅人――フィストは一歩、うしろに下がった。


「そういうわけには……本当に、俺は、気を遣ってもらうほどの存在ではないのだ。どうか、道端の埃のようにでも思っておいてほしい」


「うーむ、どうもかたくなだな。しかし、それでは私も納得がいかない。なにか理由があってのことならば、話してはくれないだろうか」


フィストは俯き、フードの裾を引っ張ると、いっそう深く顔を隠す。


「なにも……それは、貴殿らが気に掛けるほどの事情ではない。明日になれば、いたことすら忘れるほどの、そんな些末な存在なのだ、俺は」


「まどろっこしいな。いいから入れって」


しびれを切らした善丸がフィストの腕を引っ張り、強引に屋敷の中へと引き込んだ。フィストはよろめき、水を擦ったフードがわずかに揺れた。水晶がわずかに目を細める。


「な、なにを」


「ほう。異邦の旅人、フィストティリア。あなたはもしや……いや、直にたしかめさせてもらおう。……失礼」


水晶がフィストに一歩詰め寄り、彼が装束の上に羽織っていた布を取り払う。フィストは動揺し、それを掴んで拒もうとするが、わずかながら遅かった。フードがずり落ち、執拗に隠し続けた素顔があらわになる。


瞬間、三月が水晶とフィストの間に体をねじ込み、水晶を後ろ手に突き飛ばして距離を取らせた。善丸は雫希の前に。ただ立っているだけに見えるが、その実、警戒心が手足の構えに出ている。


後頭部の耳の高さでひとつにまとめた紫の髪。やや細身だが長身で、手足がすらりと長い。血の色を感じさせない灰色の肌。つりあがった緑色の瞳は白目の部分が黒く変色している。尖った耳。右側の額には二本の角。しかし、一本は根本から折れてしまっているようだ。その表情は凍りついてしまっている。頬を伝うのが雨水なのか冷や汗なのか、もはや誰にも判別できない。


「……鬼? いや、ヒト型のカルセットか」


三月が言う。フィストはその言葉に身を乗り出しそうになるが、堪えるように目を伏せた。


「鬼……といえば、鬼なのだろう。しかし誓って、有害な……人を襲う魔獣や悪鬼羅刹の類ではない。俺は無害な存在だ」


「お前に害があるかどうかを決めるのはお前じゃない。それは俺たちが決めることだ。善、とんでもないのを拾ってきたようだな」


「ち、ちがう。そもそも、俺は人外ではないのだ。みてくれはともかく、生物としての本質は」


「――よもや実在するとは思わなんだが、もしや夢喰いの人か」


水晶が言った。三月がそちらを振り返り、怪訝な顔をする。善丸も同じ顔をしていた。


「夢喰い? こいつが夢喰い鬼だと言うのか。あんなものはおとぎ話の存在だろう」


「鬼というのは蔑称べっしょうだぞ、三月。彼が夢喰いだと言うのなら、鬼ではなく人だ。しかし、お前がその態度をとるということは、この屋敷にはそれに関する文献がないということか」


「それは……いや、地下の書庫はまだ見ていない。探せばなにかあるかもしれんが……」


「ねえ、夢喰いってなあに? あなた、夢喰い鬼なの?」


雫希が善丸の背中から顔を出してフィストに問う。フィストは戸惑いながら、それでもはっきりと頷いた。


「俺は……ああ、夢喰いだ。名のとおり、人の夢を喰う。だがそれだけだ。決して人々に危害を加えるような存在ではない」


「どうだかな。夢喰いに関する情報をほとんど持たない俺たちには、それが本当に安全かどうか、そもそもお前が本物の夢喰い鬼なのかどうかすら判断できない。そこに付け込むのは簡単だろうよ」


「そんなつもりは」


「待て三月。彼の言動や態度からも、我々になにかをするつもりなどないことは読み取れるだろうに。そう意地悪を言うものではないぞ」


「そういう演技ということも考えられる。水晶、お前はもう少し慎重になれ。夢喰いは夢を喰う、それだけの存在? それはつまり他人の精神に影響を及ぼす力ということだ。使い方ひとつで善にも悪にもなる」


「私は慎重だとも。そんなに彼が信用ならないか?」


「当然だ。初対面の相手のどこを見て信用しろと言う。それも正体が鬼だと知って、警戒せずにいられるお前のほうがどうかしている」


「じゃあ、あたしがたしかめてあげる!」


険悪な空気を裂くように、ぴょこん、と雫希がフィストの前に飛び出してくる。フィストはわずかにうろたえたが、おそるおそる確認するように雫希を見た。


「たしかめる? 俺の言葉の真偽を……ということか?」


「そうよ。ね、あたしの目を見て」


「目を? それで、わかるものか?」


「もちろんよ。あーだめだめ、もうちょっと近くで。あたしの背に合わせて、もっと屈んでちょうだい」


「わ……わかった」


雫希の指示に従い、体を曲げて彼女に背丈を合わせる。雫希の瞳は、近くで見ると瞳孔がハートのような形をしていた。言われたとおりに、その目をじっと見つめる。そのまま三秒、顔を突き合わせて互いを覗いた。


「……これで、いいのか?」


「まだよ。逸らしちゃだめだからね」


五秒、七秒。


「……、……ま、まだだろうか」


「もうちょっと」


十秒、十二秒。


「…………、……その」


フィストがなにか言おうとしたときだった。雫希の体がふわりと前にかたむき、そのままフィストの胸に手をついた。至近距離で見つめ合っていた顔もまた、ふいに重なる。彼が続く言葉を紡げなかった理由は、その唇を塞がれてしまったことにあった。


二秒ほどの間。雫希がそっとフィストから体を離す。三月と善丸が額に手を当て呆れたような、苦々しい顔をした。


「……おい、雫希。死体が出たら警備隊に通報すんぞ」


「しーちゃん。頼むから殺しとかそういうのは勘弁だぜ」


「やーね、死なない程度に抑えてるわよ。せいぜい気を失うくらいに……あら?」


「な、な、な……」


手で口元を隠し、顔を耳まで真っ赤に染めながら、フィストは言葉を失っていた。数歩あとずさり、思い出したようにフードで顔を隠してしまう。雫希たちが首をかしげるのは、突然の口づけに対する彼の反応に対してではない。彼が今もそこに立っていられることに対して、だ。


「……おかしいな。しーちゃんの毒をくらって平気だなんて」


善丸が呟く。フィストはフードを掴んで顔を隠したまま、善丸を見た。


「ど、毒……?」


「能力よ。あたしの体、体液がぜーんぶ毒でできてるの。致命的なものから軽いものまで、毒性はある程度いじれるから、自白剤の代わりになるかと思ったんだけど」


「弱くしすぎたんじゃないのか。もう一発、今度はもっとキツめにやってみろよ」


「あ、あの……すまない。毒、ということなら……俺には効かない。だから、おそらくその手段では……」


「毒が効かない? ……チッ、耐性持ちか」


「そういえば、最初に会ったときに環境への適応能力がどうとか言ってたような。それの影響か」


善丸が思い出すように言う。雫希はあっさりと態度を変え、フィストに寄りかかってその腕に自分の腕を絡めた。フィストはびくりとして体を遠ざけるように傾けるが、乱暴に振りほどくような真似ができないのか、されるがままだ。


「でも、あたし、この人は大丈夫だと思う」


「へえ、その心は?」


「だって、じっと目を合わせるだけでタジタジしちゃって、チューされたくらいであんなに真っ赤になるのよ? 今だって、こうしてるだけで心臓の音が聞こえてくるようだわ。そんなピュアでウブな悪い鬼がいると思う?」


「まあ……そう言われると」


「……そんな生娘みたいな反応するようなやつに、人に悪さするような度胸があるとも思えん。そもそも、なにをされるかもわからない状況で、言われるがままに頭を差し出すような間抜けだ。招き入れても大した脅威にはならない……か?」


三月と善丸がそろってため息をつく。だが、この場で本当にため息をつきたい気分なのは間違いなく、このフィストティリアだろう。


「……これなら、まだ毒で倒れたほうがよかった」


「話は済んだか? ではフィストティリア。皆が納得したところで、改めて歓迎しよう。外とは言わず、どうか中でくつろいでくれ。旅をしているというのなら、その話を聞かせてほしい」


「本気なのか、屋敷の主よ。俺を薄汚れた鬼と知ってなお、それを迎え入れると?」


「無論だとも、夢喰いの人。それに薄汚れた鬼などと、そう自分を卑下するものではない。まずは冷えた体をどうにかせねばな」


「水晶、俺は地下の書物をあさってくる。善丸、お前はさっさと着替えてそいつに案内を。……おいビッチ、お前はいつまでくっついてるつもりだ。そろそろ離してやれ」


「そう、そうだ、すぐに離れたほうがいい。服が汚れてしまう……」


「あら、いいのよ。あたしこれからお風呂だもの。一緒に入る?」


「か、からかわないでくれ」


「そうだ、やめとけやめとけ。うっかりしてると食われるぜ」


「俺は、夢は喰えども、人を喰ったりなどはしない」


「逆だ逆。その女にはくれぐれも気を付けろってことだよ。でないと食われちまうのはお前のほうだからな」


「……からかわないでくれ」

次回は九月三日、十三時に更新します。

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