16 色褪せた写真
「今朝、絵里香の家を調べたときなんやが、絵里香の部屋には扉に名前が書いとったな。そやけど、絵里香がお姉ちゃんの部屋やっちゅうとった隣の部屋の扉には、なんも書いちょらんかった。そんときから変やとは思とったんや」
「たしかに、絵里香の部屋にはネームプレートがあるのに、お姉さんの部屋にはないっていうのは、ちょっと変だね。三年ほど一緒に住んでるはずなのに」
「一罪が絵里香と外に出てったあと、勝手に覗かしてもろたんやけど、部屋はからっぽ。なんも置かれちょらん空き部屋やった。姉の話が嘘か妄言の類やっちゅうのは、そいで気ぃ付いたわ。黒い女は幻覚やないけど、姉ちゃんのほうが幻覚かもしれんってな」
鈴鳴神社に再び全員が揃ったとき、既に外は暗かった。出て行くときは慌ただしかった龍華は、帰りは一人でのんびり歩いて帰り、その少しあとに玲華が癒暗に抱えられて空から帰宅。しばらくしてから、フィストと柴闇が泣いている絵里香を連れて戻ってきた。留守番をしていた春斗と、事情を断片的にしか把握していない皆のため、再び話し合いの席が設けられたのだ。
今回は先ほどまでとは百八十度、主旨が違う。これからどうするか、という段階では既になくなっていた。昼から夕方にかけての数時間のうちに事態は急展開を迎え、完結してしまったという。
「そんでもって、絵里香の義母ちゃん。顔見た瞬間、なんぞ足りんもんがあるっちゅう風に感じた」
「足りない?」
「なんて言うたらええんやろうな。大事なもんが一個欠けとるような、抜け落ちてぽっかり穴空いとる部分があるっちゅうか……なあ、玲華。お前も会うたんやろ?」
「ええ。たしかに兄さんの言うとおり、絵里香さんのお義母様、藍子さんからは、欠落しているものがあるように感じられました。私も感覚で感じ取ったことなので、うまく説明できませんが」
「これ外部のモンにはどこまで言うてええんやろな? 具体的には伏せさしてもらうけども、絵里香の義母ちゃんは、その内側に閉じ込めとったもんを、なんかの拍子に開け放った痕跡があったんや」
「その放たれたものが……絵里香が姉と呼び、認識していたあれか?」
フィストが問う。龍華が頷いた。絵里香が今まで姉と呼んでいたものが、絵里香に襲い掛かってきたということは、春斗も先に聞いている。
「絵里香ちゃんのお姉さんは、絵里香ちゃんのお義母さんから、出てきた……って、ことですか?」
柴闇が机に肘をつく。
「生霊みたいなものだ。たぶん、ずっと昔に彩賀藍子から分離したまま、今までさまよっていたんだろう」
「藍子さんと、絵里香さんの実のご両親は少なくとも十代からの付き合いで仲が良く、藍子さんは当時から絵里香さんのお父様をお慕いしていらしたそうです」
「でも、お父さんはお母さんと結ばれた。……じゃあ、あのお姉ちゃんは」
「彩賀藍子の恋わずらいから生まれ出たもんやな。愛憎と嫉妬を司る感情が抜け出て、失恋の悲しみと絵里香の母ちゃんへの嫉妬、ほんでもって自分を選ばんかった父ちゃんへの、愛情が憎しみに変わって、長い時間の中で育ってしもた結果が……」
「まさか……私のお母さんとお父さんが亡くなったのは」
「え、絵里香ちゃん、さすがにそれは……」
「いや、そのとおりやで。柳季に聞いたんやけどな、二人とも病死っちゅうことで言うとるようやが、正確には原因不明の衰弱死やと。二人ともや。絵里香、あの影に呑まれそうになったとき、お前、気ぃ遠なって倒れそうにならへんだか? あれに呑まれとったら、お前も同じようになっとったぞ」
「あ……なりました。うしろにいたフィストさんが支えてくれて、なんとか気を取り戻しましたけど……」
「む? 俺はなにもしていないぞ」
「えっ? じ、じゃあ、あの手は……」
絵里香が固まってしまったのを、龍華は少し見ていたが、すぐにこちらに向きなおった。
「あれは呪術系の存在やな。人を呪うことに特化しとる。絵里香の認識を歪めて取り入って、黒い女を絵に閉じ込めたんも、あの姉ちゃんや。絵里香は絵里香の母ちゃんによう似とったみたいやし、そもそも嫉妬と憎しみで取り殺した二人の娘。末代まで狙われるんもわかるやろ」
「でも、どうして今まで、平気だったんですか? その、姉なる存在は、少なくとも三年前から、絵里香ちゃんの傍にいたんですよね? もっと早く、手にかけようと思えばいつでも……」
「黒い女がおったからや。あれは絵里香と絵里香の父ちゃんを守っとった。少女の藍子の邪魔をしとった。そやけど、あるとき絵の中に閉じ込められた。言うたやろ、黒い女を呪いで封じとる札は、新しいもんやったと」
「じゃあ、黒い女が閉じ込められて、それで絵里香ちゃんのお父さんが?」
「ま、ノーマークになったんやから当然よな。そっから絵里香も狙っとったが、黒い女の目が届くとこではやっぱり手は出されんのか、絵里香は無事やった。絵里香は黒い女に怖っちょったが、そいでも耐えるばっかで家を出て行くまではせなんだからな」
「それに、絵里香は夢の中で黒い女と繋がっていた」
癒暗がぽつりと言う。龍華が彼を指さし、それや、と頷く。
「黒い女は絵に閉じ込められとったが、そいでもそっからできる最大限の力で、絵里香を守り続けた。そんなとき、絵里香は春斗と柳季に今回の相談を持ち掛けたんや」
「黒い女から離れてしまった?」
「藍子も、今しかあらへんと踏んだやろ。ま、相手が悪かったとしか言われんけどな」
「もしかして……義母さんが倒れたのも」
「姉ちゃんの原型は、彩賀藍子の過去に置き去りになった片想い。少女の藍子の恋は叶わなんだが、大人の、現在の藍子はなんやかんやあって、そん人と結ばれた。そやけど、そないなもん、少女の藍子には関係あらへん。藍子本人も憎しみの対象になってしもた。あらぁ、便宜上そう呼んどるだけで、本質的には、もう藍子やあらへんよ」
「じゃあ、絵里香ちゃんのお義母さんが、実は絵里香ちゃんやそのご両親を恨んでいた……というわけじゃないんですよね? 恨みを持っていたのは、少女体の藍子さんであって、大人の、今レスペルにいる藍子さんは」
「むしろ、絵里香のこと心配して気にかけてるよ。たぶん、少女の藍子が大人の藍子にもあって然るべきだった、人を憎んだり妬んだりする心……悪心のほとんどを持って出ていってしまったんだよ。龍華が絵里香のお義母さんを見たとき、欠落しているものがあるって感じたのは、たぶんそれだね」
「龍華、お前が帰ったあとで黒い女があの場に現われたんだが、お前まさか」
「おう、さっき柳季に電話してあれこれ聞いたとき、ついでに絵里香んちで札ぁ剥がすよう頼んだんや。さすがは幼馴染。玄関の鉢植えの下に予備の鍵置いとるんも知っとった」
「ふ、不法侵入では……?」
「まあ、最後はそれのおかげで事なきを得たんだしな。俺は口外しないで肩棒を担うぜ?」
「し、柴闇さん……、えっと、それで、その黒い女は結局、何者だったんですか?」
「お母さん」
春斗の問いに、絵里香が答えた。
「あれは……私のお母さんだよ。春斗くん」
「え――でも。じゃあ、絵里香ちゃんのお母さんが、あの絵を描いた作者……?」
「絵里香の実の母ちゃんもな、藍子と同じで、欠けとった。閉じ込めとったもんを、開け放たれとった」
「鍵か」
「ああ。誰がこないなことしたんか、わからんのが難儀やな」
「鍵? なんですか?」
「いやいや、こっちの話や。気にせんでええ」
「は、はあ……その、それで、開け放たれたものって」
「家族への愛情や。藍子の生霊、嫉妬と憎しみの化身が偽の姉として、本物の藍子とは別で存在しとったように、絵里香の母ちゃんも、愛情の化身として精神の一部が切り離されて、本人が死んだあとも存在しとった」
「ほ、本当に、そんなことが」
「普通やったら、こうはならんはずなんやけどな。今回は特例中の特例や。藍子から分離したもんが姉の正体やっちゅうのは玲華からの連絡ではっきりした。姉が絵里香を狙っとるゆうんは、癒暗が気付いた」
「癒暗くんが?」
「フィストと兄者が揉めて、春斗がフィストを追いかけていったとき、二人の声を遠くから拾おうと遠隔知覚を使ったんだ。そしたら、二人の声や他の街の人たちの声にまざって、絵里香や絵里香の家族に対する嫉妬と憎悪の声が聞こえたんだ。絵里香のお義母さんと同じ声で。でもどこから聞こえるのかまではわからなくて、とりあえず龍華と兄者には伝えたんだけど」
「そ、それで……?」
「絵里香が入院しとる藍子本人から、お前に姉ちゃんはおらんやろ、っちゅうて、ばしっと言われてもうた。そんで、絵里香も目ぇ覚めたんやろうな。恐ろしなって、玲華がおるっちゅうことも忘れて一人で逃げてしもた」
「ご、ごめんなさい、玲華さん」
「いえ、ご無事でなによりです」
「ははは。こん娘はおいてかれて、列車待つんも億劫やったんか、どえらいもんで、隣の国から走って帰ってこようとしよったわ。誰に似てしもたんやろな」
「い、意外と活発ですね、玲華さん……」
「そいで、藍子自体はさっき森ん中で柴闇が倒したさかい、もう安心してええわ」
「森、って……あそこの、ラウの森ですか?」
「そうだ。絵里香が咄嗟に逃げ込んだみたいでな」
「……なんていうか、いつもなにかあるのは、あの森な気がします。いや、いつもっていうか、たった二回ですけど。僕もあの森で、前にいろいろあったんで……」
春斗がそう言って頭を掻くと、柴闇が少し笑った。
「それは偶然じゃないぞ。ラウは風の守護神の本拠地だ。風を司る地の民が、救いを求めてあの森に迷い込むのは、ある意味、理に適っている。無意識に、本能で惹かれちまうんだよ」
「あの、お母さんは……黒い女は、どうなったんでしょうか。消えて……しまったんですか?」
絵里香の問いに、龍華は数秒黙った。
「……そうやな。今ここにはおらんが、ほんまに消えてしもたわけやない。これからも絵里香の傍で、気ぃ済むまで絵里香を守り続けるやろ。それがええことなんか、悪いことなんかは……俺にもわからんが」
*
翌朝、春斗と絵里香はようやく静かで穏やかな日の出を迎えられた。神社で朝食を摂り、荷物をまとめ、留守番をすると言った玲華と癒暗を残し、一同はギルドに報告と挨拶に向かう。司令室には礼とロアがいた。
「お、解決したか」
礼は龍華の顔を見るやいなや、そう呟いた。龍華は頷く。
「なんとかさしてもろたわ。そら、報告書や。すぐに目ぇ通しといたってくれ」
「おつかれさま。それじゃあ、春斗と絵里香は今日で帰国ということかい?」
龍華から報告書を受け取るロアに、春斗はぺこりと頭を下げた。
「そうなります。お世話になりました」
「フィストは?」
「そうだな、俺も今日でここを発つ。なんだかんだと長居してしまった」
「無事解決したようでなによりだ。すべて報告書に書いてあるだろうけど、少し事の顛末を聞かせてもらっても?」
ロアが言うと、龍華からの目配せを受けた柴闇が、かいつまんで今回の事件の真相を明かした。礼は眼鏡を外しているので、既になにがあったのかは把握できているだろう。柴闇の説明に、ロアは真剣な表情で顔に手を当てた。
「なるほど。それは……ありがとう、すぐに聞かせてくれて。詳しくは報告書を読ませてもらうよ。大変だったね」
「なに、結果オーライだ。これで絵里香が家の中でなにかに怯える必要はなくなった。誰がなんて言おうと、俺たちの仕事はこれまでだ」
コンコン、と開けたままにされてある司令室の扉が鳴った。そちらを見ると、シスター服姿の聖導音アリアが立っている。アリアは深々と一礼し、やはり淡々とした声を響かせた。
「礼様。玄関ホールにお客様がお見えです」
「ここまで案内してあげてもらえる?」
「かしこまりました」
もう一度頭を下げ、アリアは去っていく。その様子を眺めながら、春斗は柴闇に小声でささやいた。
「あの、お客さんって、僕たち……ここにいていいんでしょうか」
「いいんじゃないか? まずいなら、ここに連れてくるようには言わないだろうし。ということは、俺たちの知っているやつかもしれない」
「……もしかして、柳季?」
「さあな」
春斗の予想は外れ、アリアが連れてきたのは一人の女性――彩賀藍子だった。案内を受け、司令室に一歩踏み入れた藍子は絵里香を見ると、はっとして駆け寄ってきた。そしてそのまま、絵里香を強く抱きしめる。絵里香はおどろいて目を丸くする。
藍子は泣いていた。
「か、義母さん……どうして、ここに」
「ごめん、ごめんね。あなたが悩んでいるって、本当はわかっていたの……でも、聞けなかった。聞いてあげられなかった」
「い、いいの、義母さん、それはもう……それより、体は大丈夫なの?」
「平気よ、なんともないわ。私が……もっと、ちゃんとあなたを見てあげていれば、こんなことにならなかったのよね。ちゃんと……ちゃんと、話をするべきだった。ごめんなさい。怖かったの……ちゃんと、家族として、母親として、あなたに受け入れてもらえるのか……」
「ううん……私も、私もちゃんと、話すべきだった。なにが不安で、なにが怖いのか……もっと、話さなきゃいけなかった。たった二人の、家族……だもんね」
藍子は絵里香をそっと離し、礼や柴闇たちのほうを見た。
「すみません、私が不甲斐ないばかりに、この子には苦しい思いをさせてしまいました。事情は柳季くんから聞きました。みなさんに大変お世話になったようで……」
「……いや、俺たちは……ただ、やれることをやっただけだ」
「これからは……親子二人で、私が、母として精一杯、この子を支えていきます。このたびは本当に、ありがとうございました」
「かあ、さん」
「家に帰ったら、二人でたくさん話し合いましょう。今までのことも、これからのことも。私とあなたで、毎日たくさん……いろんな話をしましょう。ね、絵里香」
「……うん、おかあさん」
涙ぐむ絵里香に、礼は優しく微笑んだ。
「もう君が怖い夢を見ることはないだろう。絵里香、元気でね。また遊びにおいで」
「はい、ありがとうございました」
絵里香と藍子が司令室を出て行くのを見送り、柴闇が春斗をちらりと見ると、彼は服の袖で一度目元をこすった。
「ぼ、僕……一本あとの列車に乗ります。今日は……二人には、親子水入らずで過ごしてほしい、です」
「そうやなあ……その間、ギルドの中でも見てったらええわ。……礼、探偵はおるか?」
「事務所にいるはずだよ」
「俺はあいつに話さなんことあるさかい、ここたしで。ほなな、春斗、フィスト。気ぃ付けて」
「あ、は、はい。ありがとうございました、龍華さん」
「世話になったな、鈴鳴の神主よ。またいずれ」
ロアは龍華について行き、司令室には礼、フィスト、柴闇、春斗だけが残った。
「……これで、よかったのだろうか」
フィストがぽつりと呟いた。礼は頷く。
「俺はいいと思うよ」
*
がたん、ごとん。
規則的に揺れる列車の中は、乗客も少なく静かだった。二人掛けの座席に並んで座り、少しの間はお互いにわずかな照れを隠しきれないまま、短い会話を交わした。ロワリアに来て、レスペルとどういうところが違ったか、なにを食べたか、誰とどんな話をしたか。たわいない母子の会話だ。
しかし、すべてが終わったことで安心して気が抜けたのか、少しすると絵里香はウトウトと舟をこぎ、起きたばかりだというのにまた眠ってしまった。きっと安らかな夢を見ていることだろう。二人の時間はまだまだたくさんある。あせる必要はなにもない。
「絵里香……」
穏やかな顔で居眠りをする絵里香を眺め、その頭をなでながら微笑む藍子。
「絵里香……かわいい、かわいい、私の娘。安心して。もうなにも怖いことはないわ。絵里香、これからずっと、なにがあっても――お母さんが、あなたを守るからね」
がたん、ごとん。揺れる列車の中。
車窓に映り込む絵里香の隣には、彼女の頬を愛おしそうになでる、黒い女の姿があった。
おまけシナリオを本日、十七時に更新します。




