15 救いが欲しくば風を読め
走って、走って、走って、ただ無我夢中に、走って。
その森が目に入ったとき、すがるような気持ちで、その中に飛び込んだ。木々の中をぐねぐねと、これが『姉』の視界をさえぎるための盾になってくれればと、必死の思いで走り続ける。
足を止める。前方に『姉』がいた。ぞわりと背中が寒くなり、もつれそうになる足を動かして、反対の方向へ逃げした。走る。走る。それでも、絵里香の行く手を阻むように、逃がさないとでも言いたげに、『姉』は絵里香の前に現われた。
「どうして……」
「絵里香、さあ、こっちよ、いらっしゃい」
「やめて! 私の名前を呼ばないで!」
怖い。怖い。怖い。
「ひどい子、どうしてそんなことを言うのかしら――」
『姉』の足もとの影が、地面から背中に、ぞわぞわと広がって、黒い靄のようにうごめいた。それは無数の手の形となって、その数を増やしていく。
「悪い子ね、絵里香」
『姉』の背中の無数の影が、絵里香に向かって伸びる。おぞましい。あまりにおぞましい。それはすべてを食らい尽くすような、憎悪の手だ。
「い、いやっ!」
逃げ出そうとして足がもつれ、その場に倒れ込む。手が絵里香を掴もうとする瞬間、咄嗟に目を閉じた。
「――触るなッ!」
ぐしゃり、となにかを潰すように裂く音。
それから二秒、絵里香はそっと目を開けた。黒く光る大きな手。長く鋭く尖った黒鉄の爪。腰まで伸びた藍色の髪が、風にふわりと揺れる。
「し、柴闇、くん……?」
「悪いな絵里香、気付くのが遅れちまった。ギリギリセーフってことで許してくれ」
「ど、どうしてここに」
「お前の部屋にある絵ってのは、ラウの森の泉を描いた絵なんだろう? だったら、現地も見ておこうかと思っただけだ」
「あなた、誰?」
『姉』が首をかしげる。柴闇は鼻で笑った。
「名乗るほどの者でもないさ。破魔の力を宿す者――お前にとってすこぶる相性の悪い男だ。なんかよくわかんねえけど、うちの大事な依頼人に手を出そうってんなら、俺が黙ってないぜ」
「邪魔をしないで!」
再び『姉』から伸びた影の手が柴闇と絵里香に向かって掴みかかる。柴闇はそれを避け、あるいはその爪で切り裂いた。しかし、横から伸びた手の一本が絵里香に触れそうになったとき、絵里香に一瞬の浮遊感を与えたのは、柴闇ではない。
絵里香が立っていたはずの場所に、勢いよく飛びかかってきた影の手が突き刺さる。気付いたとき、柴闇は絵里香の視界からはるか下方にいた。違う、絵里香が上に移動したのだ。
「守りながら戦うのは不得手だったか、柴闇」
柴闇がこちらを見上げたとき、絵里香はようやくそこが木の上であることに気付いた。顔を上げると、すぐそこに灰色の肌と、黒と緑の目があった。
「ナイスアシストだ、フィスト。俺のまわりには守る必要のない強い女しかいないからな。癒暗と違って守りながらっていうのは難しい。そのまま絵里香を頼む!」
「フィストさ――」
「口を閉じろ、舌を噛む」
フィストは絵里香を抱えたまま地面に飛び降りる。絵里香がフィストから降りようと身じろぎすると、彼はそれに従うように軽く屈んで絵里香を立たせた。ちら、と柴闇のほうを見ると、無数の影を相手に立ちまわる彼の姿がある。
「絵里香、森を抜ける道はわかるか?」
「で、でたらめに走ってきたので、わからないです」
「参ったな、俺もこの森に立ち入ったのは初めてだ。まあ、走っていればいずれ抜けられるだろう」
「えっ」
遠くで『姉』が叫んでいる。
「絵里香! 絵里香、どこへ行くの! こっちに来なさい!」
「絵里香、振り向くな。行くぞ」
フィストに背中を押され、絵里香は再び走り出した。道はわからない。とにかく前に。フィストもすぐうしろについてきている。柴闇も『姉』の攻撃をいなしながら、絵里香たちについてきているようだ。走って。走って。
辿り着いた先にあったのは――泉だった。
「ここ……」
「絵里香、どうした?」
「この泉……あの絵の……本当に、ここの景色だったんだ……」
「……例の絵のことか。そうか、この泉が……」
「おい、なに止まってんだよ!」
「あっ、ご、ごめん、つい」
「絵里香……」
うごめく影を背負いながら『姉』がこちらにやってくる。柴闇とフィストが前に立ち、絵里香を庇う。
「まあ、ひらけた場所に出たのはちょうどいい。これで存分に暴れられる。……あの影みたいなのは邪魔だけどな」
「し、柴闇くん、あれって、なんなの?」
「闇属性系……いや、呪術系の能力か? まあそのどっちかだ」
「絵里香が聞いているのはそういうことではないと思うが」
『姉』の背後で力を蓄えるように増えていく影。それらは幾重にも重なり合い、絡まり合い、剥き出しの殺意は一本の槍のように束ねられた。次の一手が来る――そう身構えた直後、影の槍が勢いよくこちらに向かって射出された。風を切る音が目の前に迫る。
ひらり、と。
一枚、白い紙のようなものが舞った。
絵里香の背後から、ゆるやかな風に乗せられてやってきたそれが、影の先端に触れた――瞬間、うずまくような突風が炎をまとって吹きすさび、槍は瞬く間に四散した。
「間に合うたか? 間に合うたな。そんならええわ」
独特な発音と言葉遣い。絵里香のうしろから悠々とやってきたのは、鈴鳴龍華だった。目の色が青い。手には数枚の護符のようなもの。なにが起きたかわからないが、彼がなにかをしたということだけはわかる。
「龍華、来てくれたか」
「露臥がおらなんだら間に合わんとこやったわ。監視カメラ様様やな」
絵里香の背後から現れた龍華は、前に立つフィストと柴闇の間をすり抜け、『姉』に対峙する。
「そこまでにしてもらおうかいのお――彩賀藍子さんよ」
『姉』が龍華を睨んだ。影は警戒するように彼女を包んでいる。
「り、龍華さん、どういうことですか、藍子……彩賀藍子って、それは義母さんの」
「そうや。お前の義理の母ちゃんは藍子。やけど、あの姉ちゃんも藍子。同一人物やが、別の存在や」
「なるほど、生霊が必要以上の力を持ったってクチか?」
「どういうことだ」
「長話はあとや。まずはあれをどないかせんとなあ」
「封じられ……いや、戻せるのか?」
「……封印するだけやったらなんぼでもやっちゃる。けども、元通りにするっちゅう意味やと、すまんが手遅れやな。もはや返せる場所もありゃあせん」
「ということは、だ。ここからは破魔の領分か。ずいぶん簡単になったな」
「アホぬかせ。ややこしもんはややこしまんまや。こじれにこじれて手ぇつけられん。まあ、あの姉ちゃんをどうすりゃええかっちゅう点に限った話やと、たしかにお前からすりゃ簡単やろな。ほいたら、先に戻っとか」
「そうしてくれ」
「ダメよ、どこにも行かせない。逃がさない……誰も逃がさない……お前も、お前も、お前も!」
『姉』――藍子の背後から、いっそう黒い影が、ぞわりとあたりに広がった。それらは絵里香たちを包み込むように広がり、四人はたちまち包囲される。気が遠くなってふらついた絵里香を気付けるように、誰かがその肩を優しく支えた。
「ははあ、こらたしかに、耐性ないとキツかろうな。難儀やの。フィスト、絵里香、気ぃ失うな? ここで寝たらなんもかも全部持ってかれんで」
黒く、暗い、影の中。龍華が素早く印を結んだ。轟、と熱い風が吹き、瞬く間に森の景色が戻った。唐突な闇からの帰還に、思わず目を細める。藍子がうろたえた。あたりを包んでいた影は消え、龍華は続けて二度、三度、指を組み替える。
「ほいたら、その術、ちと封じさせてもらおか」
「なにを――」
一閃。
黒鉄の爪が藍子の腕を斬った。龍華が影の包囲を裂いた直後、既に柴闇は動いていたのだ。傷口から漏れ出る黒い砂のようなものを押さえ、藍子が数歩、うしろに下がる。柴闇がさらに距離を詰め、腹部を深く切り裂いた。ざら、ざら、と砂が漏れ出し、傷を負ったところから崩れそうになるのを、彼女はすんでのところで耐えている。
「布石は既に。最初の一手でわがのほうから俺の術式に触れたのが運の尽きや。ほな、去んでくら。春斗が一人で留守番しちょるし、玲華も言うてる間に帰ってくるしの」
今度こそ、龍華はその場を去っていった。柴闇は構えを解かずに藍子を見据え、藍子は影での攻撃をおこなわず――いや、おこなえなくなったのだ。影の槍を打ち砕いた、あのときの紙札が影を封じている。攻撃手段を奪われた彼女はただ傷口を押さえ、その場に踏ん張るだけだった。
「なぜ、どうして、どうして……どう、して」
「これ以上、被害を出すわけにはいかないからな」
縦に一閃。額が半分に割れ、そこからざらざらと藍子の身体が崩れ落ちた。あとに残ったのは、地面に積もった黒い砂。フィストが柴闇に駆け寄る。柴闇の黒鉄の手が戻の素肌に戻る。体脳系の能力による武装を解除したのだ。
「柴闇、今の少女は……」
「帰ってから龍華に聞くのが早いだろ。とりあえず、俺と龍華の力が通じる敵ってことしか、俺はわかってないからな」
「そうか……そうだな」
フィストがそう言って息をついた。
そのとき――黒い砂の塊が地面を跳ね、絵里香に向かって飛びかかった。
柴闇とフィストは不意を突かれ、反応が遅れる。
「え――」
絵里香は――動けなかった。
暗い、暗い、呪いの残滓。絵里香の目の前に迫り、その全身を呑み込もうと広がる。
しかし、影が絵里香を飲み込むことはなかった。
目の前に広がる黒。夜より深い、死の先の黒。砂はそれに阻まれ、再び地面に落ちると、最後の力を使い切ったかのように、さらさらと消えた。
黒い。
柴闇とフィストはただ凍った表情でそれを見ていた。
「黒――」
黒い。
「黒い――女――」
目の前に立つ黒い人型。髪も、身体も、顔も、すべてが黒い。まるで子どもがクレヨンで塗りつぶして描いたような。何度も夢に見た。何度も絵の中に見た。そこにしか存在しないはずの黒い女。
「な、んで……」
フィストがなにかを言おうと身を乗り出しそうになるのを、柴闇が手で制した。黒々とした目が、絵里香のすぐ目の前にあった。ゆっくりと。黒い腕が持ち上がり、女は絵里香に手を伸ばす。
これは夢ではない。
泉のほとり。足が竦んで動けない絵里香に、ゆっくり、ゆっくり伸ばされた手。絵里香には、ただぎゅっと目を閉じるより他に、できることなどなかった。
黒い女は――絵里香の頭に、そっと手を置いた。
ゆっくり。優しく。その頭をなでる。絵里香は思わず顔を上げて、黒い女を見た。黒い女も、絵里香を見ている。ただ黒いばかりの女の、ただ黒いばかりの口が動いた。
「え、り、か」
知っている。
その声を、絵里香はたしかに知っている。
記憶の底から、なつかしい声がこだまする。
――絵里香、なにしてるの?
――えりかもね、おえかきしたの! おかあさんにあげる!
――あら、本当? なんのお絵描きをしたのかしら?
――おかあさん!
――まあ、お母さんを描いてくれたの? ありがとう。でも、これ……ちょっと怖くないかしら? もっと他の色も使っていいのよ?
――おかあさん、くろのいろすきって、いってたもん。
――……そう、お母さんの好きな色で描いてくれたのね? うれしいわ、絵里香。宝物にするわね。
ただ黒いばかりの女の、ただ黒いばかりの目が細められた。
「え、り、か」
愛おしそうに。
守るように。
ぽたり、と絵里香の頬を涙が伝い落ちる。
「――お母さん?」
黒い手が、するりと絵里香の頬を撫で、女は静かに、霧のように消えていった。
次回、最終話は十月三日、十三時に更新します。




