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めんどくさくなったので全部投稿

「二輪に飽きたら、四輪?」

 ベッドに寝転がる湊に覆いかぶさるように馬鹿した声が降る。

 瞬時に湊はめんどくさいのに見つかった、と思った。

「いや、調べてるだけだけど」

「お姉ちゃんが意味もなく調べものなんてしないでしょ」

「良く分かっていらっしゃる」

 それは湊の本心だった。

 この妹の察しの良さはどこから来るのだろうか。

「今日はランニングだけ?」

 スポーツウェアをしっとり汗に濡らす妹を傍目に見て湊はまたタブレットに向き直る。

 バレてしまった以上、もう隠すことも無いだろう。

「ちょっと体重増えちゃったから」

「体重ねぇ……」

 女子高校生の体格としては結構痩せてる方である妹がそう言うのは少し滑稽な気がした。

 ただ、意味は分かる。

「練習やめちゃったお姉ちゃんとは違うの」

「そうだろうね」

 これも嘘ではない。

 二輪レースはバイクそのものが軽い以上、体重がそのままデッドウェイトになる。

 シビアな体重管理も勝利への努力の一つだ。

「なんで四輪なんか調べてるの?」

「ん~、新しい足にでもしようかなって」

「へぇ、ガソリン車を?」

 何から何まで突っ込んでくる妹だ、と湊は思った。

 うっとおしいとは思わない。慣れた。

「お母さんたちはなんて言うかな?」

「一々親に言うよう必要ある?」

「あるでしょ。三津家なんだから」

「……はぁ」

 めんどくさい家だとも思わない。

 これも……慣れた、はずだ。

 しかし、湊はどうしてもあの母の顔が思い浮かぶ。

「とりあえずさ、二輪辞めたんだし、大人しくしてたら?」

 妹は素っ気なくそう言う。

 一瞬、カチンと来た湊だったが、妹が何を言わんとしているかが分かるだけに怒鳴るわけにはいかない。

 母の機嫌が悪くなれば、とばっちりを受けるのは間違いなく妹だろう。

「…………」

 黙り込んだ姉を面白くなさそうに一瞥して二段ベッドの上に上る妹。

 少しだけ軋んだベッドの音がやけに部屋に響く。

「私は先に寝るね」

「……おやすみ」

 妹はリモコンで部屋の明かりを消す。

 いっそうタブレットが湊の視界の中で自己主張した。

 親の機嫌を伺いながら生きられるほど、器用でないのはもう分かっていた。

 だから、湊はレースが……四輪のレースがしたかった。




「愛生ちゃん」

 扉越しに聞こえる母の声にマウスを握る愛生の手が震える。

 気づけば、日は落ちていていかにも日差しの無い引きこもりの部屋が出来上がっていた。

 三時間……? いや、もっとだろうか。

「……何」

 母が声をかけてくるのはそう珍しいことではない。

 ギリギリ扉の向こうで聞こえるくらいの声量で愛生は返事をした。

「お父さんから、手紙来たわ」

 思いがけない言葉にピクリと愛生の肩が跳ね上がった。

 愛生は嬉しさで自分の顔がにやけるのが分かる。

 何とかそれが声音に出ないように声を抑えて抑えて返事をする。

「……そう」

 ダメだ。絶対、母にはバレた。

 どうしても気になってしょうがない愛生は扉をジッと見てしまう。

「ご飯と一緒に置いておくね」

 しかし、優しい母は何も言わずにそれだけ言って立ち去っていった。

 愛生のゲームで鍛えた足音を聞きわける耳がそう言っていた。

 愛生は慌ただしい動きで扉を開けるとチラチラと左右を確認してからご飯が置いてあるお盆ごとグッと手繰り寄せてバタンと扉を閉める。

「…………!」

 いそいそと手に取った手紙に残るホノカ温かみは母のぬくもりか、料理の湯気か。

 海外の切手とその上の様々な消印がこの手紙の経路の長さを教えてくれる。

 のり付けされた方をデザインナイフで綺麗に開けていく。

 ぱっくりアイタ封筒から出てきたのは二枚の便箋と一枚の写真。

「…………」

 便箋を手に取った愛生は食い入るようにそのやや粗い紙面を読み始めた。

 眼光紙背に徹す、とは言うが、読み速度は一切の衰えを見せず、すぐに二枚目に向かう。

 そして、最後まで読んでから、もう一度……というところで愛生の手が止まった。

「あ……」

 愛生は便箋を置いてしまった。

 そして、写真を手に取る。

 どこか分からない西洋の田舎町に佇む父の姿。

「三年か……」

 手紙には『帰ってくる』と書いてあった。

 丁寧な字で『三年後に』という言葉も添えて。

 父はまだ、帰ってこないのだ。

「なんで……」

 なんで、手紙なんかで喜んでしまったのだろう。

 父が帰ってきたわけじゃない。そっちの方が絶対嬉しいし、手紙なんて……

 愛生は写真と便箋を封筒に入れた。

「……はあ」

 封筒に戻したは良いが、これをどうしようか愛生には決めあぐねていた。

「てか、今時紙かよ……手紙かよ……」

 愛生は何か良いファイルでもあっただろうかと机の引き出しに手を伸ばす。

「お父さん……」

 机の上に飾ってあるのは小学生の時の運動会の写真。

 保護者が参観できる行事には絶対参加してくれた父。

 レースをやってるって言ったらどうするだろう。

 ただ、手紙の返事を書くのはもう少し後になりそうだ、と愛生は思った。




 次の日の朝。

 フラフラと通学路を歩いていた由夏の後ろから声が飛ぶ。

「古町ちゃん、おはよ」

「……おはよう」

 典型的に朝が弱い由夏の声の調子が低いのと相反するように湊の声は朝から元気だった。

 今まで由夏と湊が通学路で会ったことは無い。

「…………」

 待ち伏せされた、と由夏は思ったが、上手く頭が働かない。

 早く用件を話して欲しいと言わんばかりに湊の方を見る。

 湊もそれを察したようで隣に並んで歩いて少しした時に口を開いた。

「あの、さ。車の話なんだけど」

 そりゃあ、そうだろうと由夏は思った。

 突然、日本経済の話をされても困る。

「それで?」

「朝は露骨にテンション低いね? いや、そんなことはどうでも良いんだけど……」

 湊はそう言いながら、本心では全然どうでもよくない、と思っていた。

 話すタイミングを間違えたか。

 今、この話をしても大丈夫だろうか?

 まだ、知り合って間もないこの二人の間に微妙な空気が流れる。

「あのぉ~……白の車の件だけどさ」

 三歩だ。

 その言葉を聞いてから三歩歩いて由夏は歩くのを止めた。

「ダメ」

 湊の方を見た由夏の目はもう全く眠たそうじゃない。

「いや、その……話だけでもしてみるってのは――」

「ダメ。アレは美鳥さんのS14だから」

「そのミトリさんに――」

「ダメ」

 取り付く島もないというのはこういうことを言うんだろう。

 由夏はもう湊を見ていない。

 また学校への道を一歩一歩と歩き出す。

 その背中は湊が見るに怒りで満ちていた。

「ヤバいかも……?」

 湊は取り残された通学路でスマホを取り出す。

 連絡を取る相手はここに居ない最後の引きこもりメンバー。

 文面は……

『ねえ、古町ちゃんの好きなモノとか知ってる?』

 それだけ送って湊も歩き出す。

 由夏を怒らせようが、何をしようが、とにかく登校はしなければならない。

 それが学生の定めである……はずだったが、その定めに縛られない奴からこともあろうに返事が返ってきたのは授業中だった。

『怒らせたのか?』




「なんで、ポテチなのさ……?」

「じゃ、それ以外になんか案があるのか?」

「いや、なんかこう安っぽいっていうか、謝罪っぽくないよね?」

「お前の代わりに買ってきたんだから、文句言うなよ」

「お母さんがでしょ~?」

「言ってはいけないことを!」

「事実じゃん!」

「正しくは買い置きしてあったポテチだ」

「ねえ」

「余計、謝意がないよね! って、あっ……」

 古町自動車整備工場の前。

 やいのやいのと徐々に大声になりつつあった湊と愛生に冷たく声をかけたのは現在の工場長たる由夏だった。

 待ち伏せして開口一番、頭を下げようと思っていた湊はタイミングを失い、動揺したように視線を泳がせるばかりだ。

「なにしてるの?」

「えっとですねぇ……謝罪を、と思って……」

 冷たい、と思っているのは引け目を感じている湊だけでただ単に由夏は他人の家――正確には工場だが、そこでたむろする二人を不審に思っているだけだった。

「ほら、これポテチだぞ」

「う、うん?」

 由夏は愛生から突き出されたポリ袋を困惑しながら受け取る。

「謝罪って何?」

「いや、朝怒らせたかなって思って」

「ああ……」

 別に怒っては無いけど……と言いかけて由夏は止める。

 確かに怒っては無いが、あの話題を続ければ、怒る可能性は十分にある。

 湊もそれは分かっているようでそこから先に話を続けるか、迷っているようだった。

「あの……話なんだけどさ」

 来た、と由夏は身構える。

 湊の言葉がどう続いてもおかしくない。

 由夏はキツい言葉をぶつける心の準備をするように短く息を吸った。

「うん」

「謝っといてなんだけど……いや、怒らせたのは悪いと思ってるんだけどさ……」

「……」

 もう湊は予防線を張っている。

 由夏が望むような話ではないのを由夏はヒシヒシと感じていた。

 湊は頭が良い、と由夏は思った。

 心の準備をしろ、と湊は由夏に言っているのだ。

「だから、冷静に聞いて欲しいんだけど……」

 そう。だから、話をしようと言っているのだ。

 ナイーブな話であるのを承知の上で怒るなよ、と言っているのだ。

 由夏の靴の下で欠けたアスファルトがガシャリと鳴る。

 それは頭が良いとも言えるし、ズルいとも言える。

「その、ミトリさんに話をするだけでもできないかな?」

「無理」

 だから、由夏は怒るわけでもなく、ただ無表情に叩き付ける様に答えた。

 それはもはや話し合うことではないという由夏の意思表示。

 湊は今、何を考えているだろう、と由夏は湊の表情を読み取ろうとする。

 しかし、その顔は一切の動揺を見せない。

「そこをなんとか、さ」

「なんとかって何?」

「いや、考えてみるっていうか……実際、今私達、何も進んでないじゃん? だから……」

「だから、何? 無理なモノは無理」

 愛生は傍目でこの微妙な綱渡りのような会話を聞いていて心中穏やかではなかった。

 お互いに平静であろうとしている。

 それはつまり、何も考えずに平静でいられるという訳ではなく、必死に抑えている状況なのだ。

「なんで無理なの?」

「だって、アレは美鳥さんの車だから」

「いや、だから、ミトリさんに話をしてみようって話じゃん?」

「……それは」

 初めて、由夏が顔を曇らせる。

 理屈では湊が正しかった。

 そして、由夏が話を美鳥さんにすることそのものを嫌がる理由は美鳥さんがなんて言うか分からないことを懸念していたから。

「……!」

 由夏は気づく。

あの車がレース仕様になって公道を走られなくなるのが嫌なのだ。

美鳥さんの話ではない。

由夏がそうなることが嫌なのだ。

「……とにかく、それ以外の案がないなら、私は降りる」

「ちょ……!」

 自分の一番深い感情に触れた由夏が持ち出した暴論に愛生は初めて慌てた。

 それは困る。レースが出来なくなってしまう。

 そう思わせるのが由夏の目的だった。

 有無を言わさぬ議論の打ち切り……そういう力を秘めた一言のはずだった。

「……降りるってどういうこと?」

 しかし、湊は違った。

 そのあからさまに怒気をはらんだ言葉に愛生も由夏も驚く。

「降りるも何もまだ何もしてないくせに」

「それは、そっちだって――」

「だからさ! だから、なんとか車用意しようとして、こういう話してるんじゃん! それをさ、理由も話さず、その態度って……おかしくない!?」

 正しい。

 湊が言っていることは正しい。

 そんなことは由夏も分かっている。

 分かっているからこそ、言葉は止まらない。

「理由理由って……何でもかんでも合理的にすれば、みんな納得できるの!?」

 由夏の頭によぎっていくのは仕事を変えると言った父の姿。

 良夫は様々な『正論』で由夏を納得させにかかった。

 経済的な理由、車を取り巻く環境、由夏の将来、亡き母との約束……

 そのどれも由夏が理解できる内容だった。

「嫌だって言って解決するわけじゃないのは分かるけど……なんで私の一番大切なモノですら嫌だって言えないの!?」

 由夏の言葉は余りに言葉足らずだった。

 由夏の気持ち、感情……そういうモノを理解するにはまだ湊も愛生も十分な付き合いをしたわけではない。

 愛生は困り果て、湊は更に炊きつけられる。

「今、『一番』じゃなきゃいけないのはレースじゃん! みんなでやろうって言ってさ、みんなのやらなきゃいけない理由があって、由夏だって……」

 湊はそこで急激に勢いを失速させる。

 何を熱くなっているのだろう、と湊は思った。

 勢いに任せて何を呼び捨てにしているのだろうとも。

 ここで喧嘩してもメリットは無い。

 本当に由夏が降りてしまったら更にレースは遠のく。

「……じゃあ、どーすんのさ」

 八方塞がりだ。もうどうしようもない。

 結局、自分は何もできないのか、と湊は一気に惨めな気持ちになる。

 二輪のレースは辞め、始めようとした四輪は頓挫しそうになっている。

「まあ、車はあの白いのだけじゃないだろ……?」

 愛生は一気に拗れてしまった雰囲気と関係を何とか戻そうとそんなことを言う。

 しかし、それは今の湊にとっては逆効果だった。

「悠長すぎる……! 車が見つかって、はいどうぞ、ってレースができるわけないじゃん」

「そんなこと、分かってるけど……」

「分かってない」

 言い切った湊のその態度に飛び火するように愛生の感情が逆なでされる。

「……! それを言ったら、分かってんのなんてバイクレースやってた湊だけだろ?」

「だから、焦ってるんじゃん!」

「それを自分だけって思うから傲慢なんだろ?」

「何を……」

「さっき自分で言ってたろ。みんなやらなきゃいけない理由があるって。だから……ってああ! もう!」

 売り言葉に買い言葉で返してしまった愛生が大声をあげながら頭を抱える。

 三人全員が、こんなことで口論している場合ではないのは分かっていた。

 特に愛生は客観的に、仲裁できるように、と立ち振る舞っていたはずなのにこうなってしまったことに苛立ちを覚えていた。

「みんな、おかしいだろ……」

 そこに、バタン、と車のドアを閉じる音が響く。

 三人は世界が自分達三人のモノではないこと思い出したかのようにハッと顔を上げた。

「なんか、出直してきた方がいい?」

 困ったような顔で三人を見ていたのは背の高い女性だった。

 その長身と小綺麗にまとめた髪にはパンツスーツが良く似合う。

「美鳥さん……」

 その由夏の言葉に驚いたのは湊と愛生。

 ヤクザな車という訳では無いが、今日日あのパールホワイトのS14に乗っている人と言うからにはバンドでもやってそうなオッサンを想像していた。

 まさか、こんなちゃんとした大人の女性とは。

「由夏、二人は友達?」

「それは……」

 言われて由夏はこの二人との関係をなんて言えば良いのか、分からず言葉に詰まる。

 そんな由夏を尻目に湊が声を上げた。

「仲間です!」

「ふぅん」

 美鳥は湊がそう言った時の由夏と愛生の表情を見逃さなかった。

 二人は何とも言えない顔をしていた。

 つまり、あたらずとも遠からず……

「結構、複雑そうな関係だね」

「そんなことないですよ。一緒にレースをやろうってだけで」

「レース?」

「そうです」

「珍しいね。車は?」

「その話をしてたんです」

「そっか」

 由夏と愛生は何も言わない。

 何となく、美鳥はそれで三人は言い合いをしていたのだと察した。

「ミトリさん、ですよね?」

「そうだけど?」

「その件で実はお話があって……」

「ちょっと!」

 勝手に話を進めようとした湊を止めようとする由夏だったが、美鳥本人は聞くつもりのようでちょっと由夏を一瞥しただけで先を促すように湊を見た。

「あの白の車についてなんですけど……」

 そこまで言われて美鳥の中で色々なことに納得がいった。

「ああ、なるほどね。レースに使いたいって?」

「はい、そうなんです」

「そりゃ、荒れるわ」

 察しが良い美鳥の態度とその言葉が湊の中でかみ合わなくて、とにかく会話を続けるしかなかった。

「荒れてました、私達?」

「タクシーから見てたからね。場所は選んだ方が良いと思ったかな」

「そうです、ね」

 そう殊勝に言って見せる湊の態度はそんなことには興味が無さげで少し美鳥には愉快だった

「返事が聞きたいって顔してるね」

「……! はは、バレました?」

 湊はそんなことを言う美鳥という女性の掴みきれなさに交渉をもう半ば諦めつつあった。

 交渉というのは言葉が通じる対等な関係の人間のすることで、どうにも湊は美鳥と対等な立場になるのには早すぎたようだった。

「由夏が反対したんでしょ」

「そうですね」

「じゃ、私もオッケーとは言えないよね」

 その言葉に心底ホッとしたのは由夏だった。

 そして、少なからず、湊と愛生もホッとしてしまった。

 結論が出た以上、もう不毛な言い争いもしなくて済む。

「あの14はさ、ずっと由夏ちゃんと由夏ちゃんのお父さんが整備してくれてんだよね。半分は私の車だけど、もう半分は古町家のものなのよ」

 それは湊も分かっていた。

 そうでなければ、あそこまで由夏が強硬に反対した理由にはならない。

 ただ、湊はそれ以外の由夏の本音も少し見えてきた気もしていた。

「だから、悪いけどあの車は貸せないね」

「分かりました」

「悪いね」

 湊が結構簡単に引き下がったことを意外に思った美鳥は話を続ける。

「っていうか、なんでレースなのか聞いて良い?」

「私は……二輪やってたんですけど、色々あって辞めて」

「バイクか。ふぅん。貴方は?」

 美鳥は湊からはそれ以上聞かずに愛生に話を振る。

 湊の言っていることが嘘ではないが、本当はもっと根深いモノであることを何となく察したからだった。

 もっと、軽めの理由だったら話もできるが……と思って愛生に振ったのだった。

「ワシ……じゃなくて、わたしは……その、引きこもりで……それを直そうと思って」

「……なるほどね」

「私には聞かないの?」

「由夏の理由は何となく察しがつくからね」

 しかし、美鳥が思っていたよりこの三人が集まったのは偶然のようで偶然ではないようで、三者三様の根の深い理由を持っているようだった。

 だからこそ、あの口喧嘩か、と美鳥は首を縦に振る。

 そして、次に思うのはこの三人に何かしてやれることは無いか、と思うのは大人のエゴか? という疑問だった。

「……クルマが無いんだ?」

「はは……ちょー初歩な話ですよね」

「いや、女子高生がポンポンクルマ用意できるのも変な話だと思うけどね」

 そこまで言って、美鳥はあることに気づく。

 この三人はなぜ大人に……親に頼らないのだろうかと。

 大人が手を貸して当然なのだ。高校生にできることなど限られている。

 エゴなどではない。この三人のやり方が不自然なのだ。

「……オイル、新しいの入ってるんだよね?」

「え……うん、そうだけど?」

 少し間をあけての美鳥の質問に由夏は怪訝に思いながらも、真っ当な受け答えをした。

「じゃあ、四人でドライブいかない?」

 今度は湊と愛生が怪訝に思う番だった。

 この女性は一体、何を考えているのだろう。

「きっと、いいことあると思うけど、どう?」

 どう? なんて言っているけど、あまり聞く気はないだろうと愛生は思った。

 それは顔を見合わせた由夏も湊もそう思っているようだ。

 三人はいぶかしんだまま、うなずく。

「よし。じゃ、行こうか」





「うーん、快調だね」

 マニュアル車なのにも関わらず、綺麗にエンジン回転をそろえながら運転席の美鳥はそう呟く。

「どこに行ってるの?」

「そう遠くないよ。待ってなって」

 助手席の由夏の質問もむなしく、前を見たまま美鳥にいなされる。

「後ろの二人はクルマ詳しかったりする?」

「いや……わたしは」

「ん~、私も別に詳しくはないですね」

「そう。まあ、そんなもんだよね」

 前の信号は運よく青。

 ハンドルを静かに切り込むと滑り込むようにS14が右折していく。

 海岸線を走る国道に入ってまた直進。

「どんなクルマで走りたいとかってあるの? っていうか、そもそも、ドライバーは誰?」

「ドライバーは一応、私の予定です」

 湊が答える。

「学生GTってドライバー一人?」

「いや、二人だよ」

 そう言う由夏の顔はやや曇っていた。

「なるほど。まだまだ人は足りてないわけだ」

「メカだって私と愛生だけだしね」

「メカは何人?」

「いればいるほど。欲を言えば六人」

「六人!?」

 由夏の言葉に驚いたのは美鳥ではなく、愛生だった。

「欲を言えばね。タイヤ交換四人に給油と消火器で二人」

「おー、レースみたいだ」

 茶化す美鳥だったが、後部座席の二人はそれどころではない。

 愛生が焦り、身を乗り出しながら前の由夏に尋ねる。

「最低だと?」

「四人……? かな」

「んん~、あと二人かぁ……」

「クルマ以外にも前途多難って感じだ」

「いや、本当に」

 頭をかきながら苦笑してみせる湊を美鳥は食えない子だなと思いながらハンドルを握る。

 焦ってもいるだろうし、だからこそ喧嘩もするんだろうが、切り替えが早い。

 しかし、由夏には足りない所でもある。

 少しは見習って欲しい所だが……と思いながら、美鳥がチラリと由夏を見ると由夏は目ざとくそれに気づく。

「何?」

「いや……あ、着いたよ」

 慣性を意識したしっとりとしたブレーキでS14は減速していく。

 ウィンカーを出してブレーキを少し戻しながらハンドルを切ると綺麗に頭からS14は入っていく。

 そこから見えてくるのは『福音寺技工』の緑の看板。

「ここって……」

 それにいち早く反応したのは意外にも湊だった。

「知ってる?」

 駐車スペースに車を寄せながら、美鳥が尋ねる。

「二輪のラッピングしてもらってました」

「ってことは、塗装屋?」

 シートベルトを外しながら由夏が美鳥を見るが、美鳥は首を振る。

「そういう訳じゃないんだよね」

 美鳥もシートベルトを外し、ドアを開け、車を出る。

 後ろの二人を出すためにシートを倒すことも忘れない。

「うるせえクルマが来てんなって思ったら……なんだ、どっかぶつけたのかよ」

 そこに現れたのはツナギの中年男性。

 ただ、ツナギを着ていても実作業はあまりやっていないようで襟首や色んな所がラフだ。

「これのどこに凹みがあるのよ」

 連れてきただけあって美鳥は知り合いなようで軽口に軽口で返す。

 その美鳥の後ろから窮屈そうに後部座席から這い出てきた二人と由夏を見てその男は目をむく。

「って、おい。なんだこの顔ぶれ」

「どれくらい知ってるの?」

 思ってもない驚き様に美鳥の目が興味ありげに輝く。

「どれくらいってお前な……」

 きょろきょろと三人の顔を見る男。

 無論、湊は知っているが、由夏も愛生もこの男は見たことが無い。

 しかし、しきりとうなずいているのを見る限り、この男は由夏も愛生も知っているようだった。

「二輪の三津さんとこの嬢ちゃんだろ? 良夫んとこの嬢ちゃんだろ? んで……いや、うん。そっちは『黒狼』のお嬢だ、間違いない」

「こ、こくろう……?」

 一人だけ変な呼び方をされた気がする愛生が自分を指さしながら眉を顰める。

 その隣で美鳥がそんな馬鹿な、と目を開く。

「嬢ちゃんのお袋さんの名前、西衣山代美だろ?」

「そ、そうですけど……?」

 自信満々に言い切る男に不信感満載の愛生。

 まさか、母親の名前が出るとは……と愛生に嫌な予感が走りまくる。

「いやー、年賀状で見るより全然可愛いじゃねぇか。良かったな、オヤジさんに似て」

「は、はあ……」

「『黒狼』ってなんですか?」

 首を傾げまくりながら、ちょっと照れている愛生の代わりに由夏が尋ねる。

 由夏が真っすぐな目で男を見た時、男は少し意外そうな顔をした後、遠くを見る様に顔を背けた。

「良夫はそういう話しねぇのか。……まあ、そうかもな」

「『黒狼』っていうのはね、この辺で有名だった走り屋だよ。黒のグロリアで女だてらに直ドリなんかカマしてたっていう」

「グロリアで……ドリフト? で女の人?」

 少し勢いがそがれた男の代わりに答えた美鳥の言葉に由夏はイマイチピンと来ないようだった。

「グロリアって高級セダンでしょ? 走り屋って感じの車じゃなかったはずだけど……」

「いやいや、当時は3リッターV6ターボFRってだけでもうドリフトなわけよ」

 メカニックらしい会話を繰り広げる男と由夏の後ろで愛生の顔が真っ青になる。

「お母さん、走り屋だったんですか!?」

 素っ頓狂な声というのはこういうのを言うんだろう。

 その声にその場にいた全員の視線が愛生に集まる。

「なんだよ、お嬢も知らなかったのか」

「し、知りません! お嬢じゃないです! だって、今乗っているの普通の車ですよ!? 電気自動車ですよ!?」

 支離滅裂に叫ぶ愛生の言葉にうん、と頷く男はS14のボンネットをコンコン、と叩く。

「そりゃあな。今日日、こんなの乗ってる方がヘンだろ?」

「ちょっと。凹むでしょ」

「板金屋つかまえてそりゃねぇだろ」

 その言葉にビビッと反応を示したのは由夏だった。

「板金? 塗装じゃないんですか?」

「板金屋が塗装して何が悪い」

「いや、バイクのラッピングしてたって……」

「そりゃ、やるさ。仕事だからな」

「名前が悪いよね。『福音寺技工』って。何屋か分かんないって」

「ああ? 俺だっていずれはカブみたいなの作ってゆくゆくはホンダみたいに二輪も四輪もって考えてた時期があったんだよ」

「見事に時流に取り残された訳だ」

「うるせぇ。今日もこうやって仕事があんだから勝ち組な方よ、これでも」

 ふん、と鼻を鳴らして男は美鳥を見る。

 しかし、美鳥は何も言わず、冷たく男を見るだけだ。

「……なんだよ。仕事の話しにきたんじゃねぇのか?」

「いや、ちょっと別の話でね」

「……なんだよ」

 回って持ったような話し方をする美鳥を警戒するように男は先を促す。

「ちょっと小耳に挟んだ話があってね」

「それで……?」

「ここって工場の奥に倉庫あるよね」

「倉庫……? って、まさか」

 そこで男はあることに勘付いたようで一気に顔が険しくなる。

「解体行きのクルマ、そこで一杯ストックしてるって聞いたんだけど」

「おま……っ、まさかそれをこの嬢ちゃんたちに……!」

「そう」

「ダメだダメだ!」

 男は大きく手を振って話を遮ろうとする。

 しかし、美鳥は話を止める気は無いようだった。

「イヤとは言わせないよ? 行政行ったら、解体屋と一緒に一発なんだから」

「それ、脅迫だろ!?」

「取り引き。いいでしょ?」

 ぬけぬけと言ってみせる美鳥を男は大人としてグッとにらむ。

「お前な、こんな嬢ちゃんたちを走り屋に引きずり込むなんて……」

「走り屋じゃなくて。レースやりたいんだってさ」

「レースぅ!?」

 予想外の言葉に男は三人を見渡すが、美鳥が嘘を言っている風は無かった。

 三人は三人とも真剣な目で男を見ていた。

「そうなんです。私達、レースやりたいんです」

「まだ、知り合って間もないし、車もないし、経験も無いけど……本気なんです」

「なんで、どうかお願いします」

 由夏、湊、愛生がそれぞれ頭を下げる。

 愛生に至っては拝み手までしていた。

 男としてもそれを疑う気は無かったが、自分たちですらやらなかったレースをこのちんちくりんのガキ三人がやりたいと言っているこの状況が飲み込めないのだ。

「ほら、911ターボの一台や二台さ」

「アホ。んなのあるかよ」

 はー、と男はため息と共に右手で顔を覆った。

 時代が変わった……というよりこの三人がヘンなだけなのだろう。

 そこで、はたとウチにもヘンなのはいたな、と男は思った。

「わあった……わあったよ」

「ホントですか!?」

 グッと喜びに握り拳を握る湊だったが、男は湊にビッと人差し指を立てて見せた。

「ただし、条件がある」

「条件ですか……?」

 愛生は大人はいつもそれだ、なんて思いながら男を見る。

 男はうなずきながら、工場の方を指さす。

「ついてこい」

 歩き出した男についていく三人と美鳥。

「条件なんて隆二さんらしいっちゃらしいけどさ」

 そこでようやく、三人はこの男の名前がおそらく福音寺隆二であるであろうことを知る。

 工場の屋根の中に入ると激しい溶接光とその音が広がっていた。

「世の中、そんなに甘かねぇんだよ」

 隆二はその中でも端の方でジャッキアップもされていない車の方へ歩いてゆく。

 その片方のドアだけが開いている車の所まで行くと低いが通る声を出した。

「サトカ」

 一体、誰を呼んでいるのかと思っていたが、その車のウィンドウが下がるのと反対にのそりと細めの上半身がひょこりとドアの向こう側から現れた。

「……なにこれ。なんかの仕事?」

「バカ。なんでもかんでも仕事だと思うんじゃねぇよ」

 濃い風体の隆二と相反するようにショートカットであっさりとした印象の少女だった。

 口調もバサッとしており、テンションもそう高くは無い。

 ただ、やや日に焼けたような浅黒い肌だけは父親譲りなのかもしれなかった。

「コイツは俺の娘のサトカだ。今の聞けば分かると思うが、ちょっと仕事教えたら、仕事仕事で困ってんだよ」

「いいことじゃないですか」

 思わず似た境遇――いや、親が廃業していないという点では正反対だが――の由夏がそうこぼしてしまう。

「はー。親としてはもっとこう、普通に生きて欲しいわけよ。娘なんだし」

「余計なお世話」

 いつも言われているのだろう。

 サトカは聞き飽きたと言わんばかりに手を振る。

 そんな可愛げのないサトカを親指で指しながら、隆二は三人を見る。

「お前らに頼みたいのはコイツもチームに入れてやって欲しいのよ」

「え、いいんですか!?」

 思い切り食いついた湊に隆二は面食らったように少しのけぞる。

「お、おう。お願いしたいのはこっちなんだがな。ほら、途中参加って他のメンバーとかとのほら、あれだ……そういうのあるだろ?」

「他のメンバー?」

 しどろもどろでやや伝わりにくいことを話していると頭を悩ます隆二をそっちのけで別の所にツッコむ愛生。

「他のメンバーなんていませんけど……」

 由夏はバツの悪そうに伏し目がちにそう言った。

「なに!? 三人でレースやろうって言ってたのか!?」

「いや~、随時募集というか、増やしてく予定で……」

 悪びれずそう抜かす湊を見ながら、一気に隆二は不安に駆られるが、その隆二の肩をポンと叩いたのは美鳥だった。

「条件ってそれだけ?」

「……まっ――」

「じゃ、車見せてよ」

 有無を言わさぬ美鳥の言葉に隆二は大きなため息をついた。

 状況が分かっていないのはサトカだ。

 小首をかしげ、頭の上に?を浮かべていていたが、美鳥に連行されるように歩き出したと三人の後をトコトコと付いていった。




「あー、なんか間違った気がするんだが……」

「気にしない気にしない」

 隆二は倉庫の前に立つと扉を思いっきり引く。

 その隙間から日光が細くそこの中に差し込んだ。

 ちょうど人が入れるぐらいのスペースが開くと隆二はその中に入っていく。

 そのまま、五人が外で待っていると一気に倉庫の中が明るくなり、扉が重たい音と共にひとりでに開いていった。

「うわあ……」

 そこに並んだのはやや埃かぶったかつての名車たち。

 史料的な価値は一切ないただの時代遅れの車ばかりだったが、今の皆には宝の山で会ったし、好きな人間にはどこまでも堪らない光景だった。

 思わず息を呑む愛生の隣で一目散に中に入っていってしまったのは由夏だった。

「ちょ、わたしも行く!」

 その背中を追って愛生が駆け出す。

 湊はゆったりと博物館でも訪れたかのように倉庫の中に踏み出した。

 相変わらず何の説明もされていないサトカは湊の後ろをてくてくと付いてゆく。

「これ……」

 由夏は一台の車の前に立つ。

 エアロを組んであったりしてある他の車には目もくれず、由夏が目指した車はスパークシルバーメタリックが目立つノーマルの一台だった。

 切れ込むようなハロゲンヘッドランプの端にちょっとタレ目なウィンカー。

1・5トンのボディを感じさせる重厚な雰囲気とそれを包むスパルタンなボディの形状。

 たまらず由夏は運転席のドアを開け、慣れた手つきでボンネットを開けるノブを引く。

「さすが、良夫さんの娘って感じ? 遺伝子レベルで惹かれるんだろうね」

 それを入り口から見ていた美鳥が楽しそうに呟く。

「状態とかコミコミで他の車の方がレース向きなんだがなあ」

「豚鼻だけど、NISMO?」

「いや、ガワだけだ。中身はただのドノーマル後期。逆に珍しいよな」

「ふーん」

 ボンネットを開け、支え棒でボンネットを固定すると見えてきたのは中央に鎮座するエンジン。

 ヘッドカバーには『NISSAN TWINCAM 24BALVE』の文字。

 鋼鉄製のエンジンブロックに収まる直列6気筒とそこから伸びるマニホールドに絡みつく2基のタービン。

 錆や埃は見られるが、確かにそこにはレースの為に生まれた一基の命があった。

「……この車、いいのか?」

 愛生はクルマの雰囲気に飲まれたのか、はたまた真剣な由夏の雰囲気に飲まれたのか、おずおずと由夏に尋ねる。

「どうかな……」

 由夏の目がエンジンルームの各所に走る。

 隆二の言葉は聞こえていないだろうが、それは本当だったようで何かチューンしている様子は無い。

 ただ、その代わり、相応のガタがあちこちに来ているように見えた。

「バラしてみないとね」

 そう言って顔を上げた由夏の周りにはいつの間にか湊とサトカがいた。

「これにするの?」

「……私はこれが良いかな」

 バムッ、とボンネットを閉じると入り組んだエンジンルームは消え、流れるような一体のボディがまた現れる。

「この車の名前は?」

「スカイラインGT‐R。……BNR32」

 愛生の質問に由夏は静かに応える。

 名前を呼ばれた車は愛生にはさらに輝いて見えた。

「レースってなに?」

 その鈍い輝きを見ながらサトカがぽつりと漏らす。

 率直な問いだ。

 三人は顔を見合わせた。

「哲学か……?」

 愛生がこれ以上ない難題と言わんばかりに眉を寄せて難しい顔をする。

「そうでもないでしょ」

 由夏がシルバーの輝きを背に頭をくしゃくしゃとする。

「そうそう。レースっていうのは……」

 湊が腰に手を当て高らかに宣言する。

「走ることだ!」

 その声は倉庫の中で抜ける軽快さと共に響き渡った。

 単純明快。

 少女たちはついに走り出した。





「うぃーす」

 いつもの放課後。まだ日の照る昼下がり。

 気の抜けた返事と共に愛生は由夏の所を訪れていた。

「ほー、これが車のエンジンか」

 エンジンスタンドと呼ばれる特殊な固定器に取り付けられたエンジンを見て愛生が呟く。

 それは先日、隆二のところで譲り受けた車のエンジンだった。

「なんか前見た時よりちっちゃくなってないか?」

「オイルパンとかヘッドとかポートとか……色々もう外してあるからね」

「じゃ、これが心臓部ってわけだ」

「正しくはエンジンブロックだけど……」

 よいしょ、と由夏がそのエンジンブロックを回す。

 すると、六本の一直線に並んだシリンダーヘッドが現れた。

「もしかして、今まで逆さまだった?」

「ま、知らない人が見てもわかんないよね」

 そこで由夏は額を袖で拭って愛生を見た。

「今日は向こうの手伝いに行かないの?」

「え、スマホ見てないのか?」

「ああ、スマホなら……」

 と驚く愛生に由夏は営業所を指さす。

「はぁ、もっと現代人っぽく生きろよな」

「学校行かないのが現代人っぽい生き方?」

「ま、それも一つだろ。そのおかげで……」

 愛生はいつものタブレットPCを取り出した。

 今日はロック画面を解除するとすぐに目当ての画面になったらしい。

 そのまま、愛生は由夏にそれを突き出した。

「見ろ、デザインできたぞ」

「CG?」

 由夏は汚れた整備用手袋を外し、腰のベルトに下げるとタブレットPCを受け取る。

 ルーフより少し低い車体幅一杯一杯のGTウィング。

 フロントとリアのバンパー下につけられたフラットディフューザー。

 そのバンパーはレースの規定ギリギリまでワイド化されており、それに合わせてフェンダーはオバーフェンダー化されている。

 更に空力と冷却を考慮してか、フロントバンパーは大きく口を開けており、ボディ横もところどころ、メッシュ状にしてあった。

「結構、落ち着いたデザインなのね」

「ちゃんとサトカに空力教えて貰ったから……ってのと規定だな。あんまり派手にはでき無さそうだ」

 由夏が見ているタブレットPCの画面を向かいから人差し指でスッと右にスワイプすると先程からかけ離れたゴテゴテのデザイン画像が出てきた。

「ちなみにやり過ぎるとこんな感じ」

 デッパ、と呼ばれていた大きく伸びたフロントスポイラーにありとあらゆるところに取り付けられたカナード、先程のモノより一回りも大きいGTウィング。

 それを見た途端、少しだけ由夏は顔をしかめた。

「これは……前時代的なのか現代的なのかわからないけど」

「ちなみにダウンフォースは凄いが、空気抵抗も凄い」

「でしょうね。さっきので良いと思う」

 由夏はタブレットPCを愛生に返すと愛生は満足そうにうなずいた。

「よし。メインメカニックは賛成だな」

「全員に見せるつもり?」

「もちろん。見せる瞬間が一番楽しいからな」

 にんわりと笑う愛生を見て由夏もつられてつい失笑する。

「おお、馬鹿にしてんのか?」

「そんなことはないけど……あ、そう言えば、空力って言ってたけど、どうやって計算したの?」

「ゲームエンジンだ」

「ゲームエンジン? ゲームにもエンジンがあるの?」

 まさかここでその単語を聞くとは思わなかった由夏が思わず固定されたままのエンジンブロックを見る。

「あるぞ。演算とか描画をしてくれるメインフレームのことだけどな」

「フレーム?」

 さらに聞き覚えのある単語。

 重工業と軽工業の差はここにでる、と愛生は頭を悩ませながら適切な単語を探す。

「あー、つまりだな。自作のゲームで試してみたって話だ」

「それってリアルなの?」

「空気抵抗だけなら、多分。要するに走らせるんじゃなくて前から風を吹かせてるだけだけど」

「それは想像できるけど。風洞実験ってヤツでしょ」

「そうそう」

 ようやく分かってくれた、と愛生はうなずきながら、タブレットPCをしまう。

「じゃ、ワシは向こうに行ってくるぞ」

「見せるついでに手伝ってあげてね」

「力仕事は苦手なんだがなあ……」

 ブツブツと呟きながら愛生は工場を後にした。

 残された由夏は手袋をはめ直しながら、エンジンブロックを見る。

 まだピストンが付いたままのクランクシャフトをフライホイールごと回してみた。

 並んだピストンが精密に計算された通りに各シリンダーで上下する。

「うん。バラシてみるか」




「たはー……すっごく地味……」

 タガネとゴムハンマーをがらんどうになったR32のフロアにごろりと置く湊。

 アンダーコートと呼ばれる車のフロアに吹かれている塗料を剥がす作業をしていたのだが、確かに湊の言う通り地味な作業だった。

「休まない」

「厳しー。サトカちゃん、厳しー」

「必要なことなんだから」

 女子高生二人がジャッキアップされた車のメインフレームに上半身だけツッコんで作業している風景というのはなかなか珍しいモノである。

 サトカがコンコン、とタガネをハンマーで叩くと汚れた塗料は割れる様に剥がれていく。

「ねえ、剥がす前より汚れてる気がするんだけど」

「あとで灯油で磨くから」

「はああ……まだやることあるのかあ……」

 湊がそう言っている間にもサトカは黙々と作業を進めている。

 サトカが担当している運転席と助手席側はもう終わりそうだった。

「ランプとか外してる時は楽しかったのになー……」

「似たようなもの」

「全然似てない! 爽快感が無い!」

 完全に手を止めた湊がサトカに向かって両手を突き出す。

「見て、この原形のないこの姿! 車がこんなのになってるの見られないじゃん!」

「それを言うならアンダーコート剥がしだって珍しい」

「地味!」

 ついにフレームから這い出してしまう湊。

 新鮮な空気を吸ってやると言わんばかりに両手を広げ息を吸うが、工場の空気などそもそもあんまり良いモノでもない。

「う……ごほっ……」

 思わずむせる湊をサトカは冷たい目で見る。

 ふぅ、と息を吐いた湊が顔を上げると工場に近寄る人影があった。

 良く見るまでもなく、その雑に括った髪と背筋の悪さは愛生だ。

「増援だ!」

 目を輝かせて湊は右手をブンブンと愛生に向かって振る。

 愛生は愛生でマイペースにこちらに向かって歩いてきた。

「もうここまでバラバラにしちゃったのか?」

 丸裸の車を見て開口一番愛生は眉をひそめた。

「すごいでしょ?」

「すごいっちゃすごいけど……二週間後には練習走行会とかなんだろ? 大丈夫か?」

 愛生の言葉に湊は少し考える素振りを見せてから、作業を続けているサトカを見る。

「サトカちゃん、大丈夫だよね?」

「誰かの手が止まらなければ」

 サトカは湊を見るわけでもなく、淡々とそう答えた。

「だって。ちゃんとやれよ」

「愛生ちゃん、交代!」

 と湊はハンマーとタガネを愛生に突き出すが、愛生は受け取らず、代わりに由夏の時と同じようにタブレットPCを出した。

「その前にだな……これを見てくれ」

「おお、デザインじゃん!」

 その湊の言葉、遂にサトカも手を止める。

 テトテトとサトカも寄ってきて二人でそのデザインを見た。

「大分、今の姿とは違わない?」

「まあ、出来るかどうかはサトカ次第ってところだが……」

「FRPでなんとかなると思う。寸法は?」

「一応、実車のデータから取ってるからモデルから逆算できるはずだ」

「このおっきな羽はどーすんの?」

「……父さんに聞いてみる。色は?」

「仮だ。チームカラーとか決めたいよな」

「いいね! 後はチームの名前も!」

 ようやく色々始まりはじめたという実感が湊の中に湧いてくる。

 そんな湊の実感を後押しするように静かに一台のトラックが工場の敷地に滑り込んできた。

「新しい仕事?」

 工場の主の娘であるサトカはそう呟く。

それは半分当たっており、半分間違っていた。

 トラックの横に大きくは貼られている『オートバックス』のステッカー。

 湊は思わず、トラックに駆け寄った。

 工場の軒先から出た少女の肩を風が優しく撫でる。




「由夏」

 作業場から奥まったところにあるパーツ保管庫に父、良夫の声が少しだけこだまする。

 由夏は人がくると思っておらず、見繕っていたパーツを取り落としそうになった。

「な、なんだお父さんか……」

 そう言いながらも由夏の心臓はバクバクいったままだ。

 何とか落ち着こうと手に取っていたピストンをもう一度手に取ってみたりして平静を装うとする。

「携帯、鳴ってたぞ」

「そう……」

 二人の間に微妙な空気が流れる。

 落ち着きつつあった由夏はまたパーツ探しを再開した。

 ピストンを手にとってはリングの溝や、面の状態などを確かめる。

「……表にあったRB」

 しかし、それも長くは続かない。

 良夫の言葉で由夏はまた手を止める。

「ウチにあったのじゃないな。どこから持ってきた?」

 流石、よく見ている、と由夏は思った。

 良夫は今、由夏が弄っているエンジンのことを言っているのだ。

「関係……ないでしょ」

 苦し紛れに由夏はそんなことを言った。

 別に本当のことを話したって良い。

 手伝ってくれと言っても何も問題は無い。

 しかし、由夏は言えない。

「勝手に仕事受けてたりしてないだろうな?」

「……そんなことない」

 だから、由夏は良夫がそう返してきた時、心底がっかりした。

 身勝手だとは思いながらも、もっと聞いて欲しかった。

 由夏が逃げられないくらいに。

 由夏の口から全てを吐かせるくらいに。

「……そうか」

 だが、良夫はそれ以上何も言わない。

 いつもそう、と由夏は思った。

 小さいころから放任主義だ。とやかく言われた覚えはない。

「戸締り、ちゃんとしろよ」

 ただし、例外として工場のこと、身だしなみ、そして――

「……いいか、人は殺すな」

 良夫はそれだけ言って去ってしまった。恐らく家に帰ってしまったのだろう。

 あれは良夫の口癖のようなものだった。

 何も直接、人を刺したり、殴り殺したりするなという話ではない。

 クルマの弄り方一つで人は死ぬということを忘れるなと言っているのだ。

「…………」

 由夏は自分が浮かれていたかどうかを自問する。

 大丈夫なはず……車を作るのだ。迷いはない。

 だが、その迷いの無さが不自然なモノかもしれないとも思った。

 もっと、ああしたい、こうしたいと思っても良い。欲がない。

「今あるものでなんとかしようとしたらダメなの……?」

 もう今の由夏にはパーツを探す気力は無かった。

「そういえば、スマホ鳴ってたって言ってたな」

 営業所を目指して由夏は歩き始める。




「そうそう。色々届いてね。フレームっぽいのとか、シートとか、なんか色々」

 湊は騒がしい大広間から少し離れた廊下でやや声を抑えて通話していた。

 なんの意味も無いと分かっていても左手で通話口を抑えてしまう。

「え? いや、私良く分かんなかったけど……うん、そう。だから、明日ね」

 どうしても焦って話は雑になる。

 電話口で由夏が困っているのか、呆れているのか。

 そういうところ、ちょっと由夏ちゃんは融通が利かない、と湊は思った。

「とりあえず、切るね……うん、じゃ明日」

 なんとか話を切り上げた湊はふぅ、と一息ついて通話を切る。

「何を話してたんですか?」

 湊はサッと顔色を変える。

 見つかったらマズい順番は母、妹、そして……

「ねえ、教えて下さいよ」

「いや……ちょっとね」

 この道後月代だった。

 月代のパッチリとした瞳が湊は苦手だった。

 しかし、理由はそれだけではない。

「明日って言ってましたよね? 明日はウチとお出かけですよね?」

「いや、さっき断ったじゃん……?」

 微妙に話が通じないのだ。

 そして、何時誰に何の話をするか分からない。

 つまり、母や妹に情報が漏れないとも限らない。

 今の湊にとってはそれなりにマズい相手なのだった。

「その理由をまだ聞いてませんけど」

「それは……一身上の都合ってやつ?」

「そういうかわし方、自分で下手だと思いません? 湊さんらしくないですね?」

「厳しーね……」

 アハハ、と困ったふりをする湊だったが、内心は話がそれつつあることに安堵していた。

「せっかくの休日なのに、遊んでくれないんですか?」

「それ、彼氏ができても言っちゃダメだよ」

「言いません。興味ないですし」

「何に? 恋愛に?」

「そういうこと、ひっくるめて全部です」

「もったいないねぇ。可愛いのに」

「自分の胸に手を当てて良く考えてみては?」

「厳しーね……」

 そこに響く木の床を綺麗に歩く足音。

 一瞬で湊はその足音の主に気が付く。

「母さん」

 振り返ったそこには綺麗にまとめた長髪を来客用のシックなワンピースに流す母、壱の姿があった。

「二人は相変わらず仲が良いのね」

「もちろんです、お母さま」

「そう」

 どうしても港には冷たく聞こえる壱の言葉を月代は明るく返す。

 湊にはできない芸当だった。

「何のお話をしていたのかしら」

「明日の予定です。せっかくの休日でしょう?」

「そう」

「でも、湊さんがツレなくて」

「そう」

 すっと切れ込むような壱の視線が湊に注がれる。

 何かを見透かされているんじゃないかと思い込んでしまいそうに案るのを堪えるので湊はいっぱいだった。

「二輪の練習はやらないの?」

 それは誰に言ったのか。

 湊か、月代か。

 グッと息を噛みしめ、湊が言葉を探していると月代が答えた。

「湊さんがやらない二輪なんて興味ありませんから」

 湊はもう寿命が縮まる思いだった。

 二輪を止めるのは母だって知っているはずだが、それは家庭の中で一種のタブーと化していたのだ。

 それを月代はいともあっさり破って見せただけでなく、壱に目をかけて貰っていたいわば弟子のような存在にも関わらず、『もうやらない』と言ってみせた。

「……そう」

 母は今、何を考えているだろうか、と湊は思った。

 そして、自分はそんな母とどんな距離感で生きればいいのか、とも。

探るような湊の視線に流れるような壱の視線が交錯する。

「湊」

「はい」

 湊は全ての感情と思考を押し殺して返事をする。

 それも母にはバレているに違いない。

 しかし、それ以外、湊は知らないのだ。

「陽介さんにビールを持って行ってあげなさい。倉庫の冷蔵庫からよ」

「はい」

「すみません、父が酒飲みで」

「いいのよ。陽介さんが飲まなかったら、こちらもつまらないもの」

 それだけ言って壱は台所に消えた。

 何かもてなしの品を増やすのだろうか。

 つくづく、器用な人だ、と湊は思った。

「ウチが持ってきます。ビール」

 見えなくなっていたはずの母の背中を目で追っていた湊はその言葉にハッとする。

 湊は首を撫でて月代を見た。

「……じゃ、二人で行こっか」




「なにしてるの?」

「さあな。よくわからん」

 深夜が近い工場の中。

 愛生は今日届いたパーツに囲まれ、R32のフレームに寄りかかっていた。

眺めていたタブレットPCからサトカに視線を移す。

 モニターの光に慣れた目には月明りは証明として少し弱く感じた。

「お父さんがお風呂に入れって」

「そうか。一般人は夜に風呂に入るんだな」

「まるで自分が一般人じゃないみたい」

「ふ。夜こそがワシの生きる時間……」

 愛生はそう言いながらカッコつけて見せるものの、サトカはたわごとに小首をかしげてスルーする。

「なにしてたの?」

「別に。綺麗になったなあって」

 R32のアンダーコート剥がしは終わっていた。

 灯油で磨かれたフロアは新車同然と言っても良い。

 ところどこにある錆やクラックを除けば、だが。

「愛生が夜まで一緒にやってくれたから」

「お蔭でまさかの人生初お泊りになっちった」

「わたしも泊めるのは初めて」

「お互い友達いなさそうだもんなあ……」

 愛生はやれやれと言わんばかりに首を振る。

 すると、ジッとサトカが愛生を見た。

「なんだよ。自分はボッチじゃないって言いたいのか?」

「いや? そんなこと考えたこともなかったから」

「学校行ってるんだろ? 休み時間とか……」

「休み時間は本読んでる。ダメ?」

「いや、ダメとかじゃあ……ないけど」

 ここまで一人を肯定するヤツも珍しい、と愛生は驚いた。

「友達っていた方がいいの?」

「それは……」

 ここで愛生が一般論としていた方が良いと言うのは簡単だった。

 しかし、それは誠実さに欠ける、と愛生は思った。

 サトカは愛生に聞いているのだ。

「分からん。いた方がいいってさ、大人は言うよな」

「お父さんもよく言う」

「けど、行きたくもないカフェとかに連れまわされて、飲みたくもないコーヒー飲んで、話したくないことに相づち打って……そういうのはわたしは嫌いだな」

「それが友達?」

「いや、これは悪意があるけどさ」

 不思議なヤツだ、と愛生は思った。

 これくらいのことも良くも悪くも自分で考えたことが無いのだろう。

 それは本当に友達についてどこまでも無関心だからなんだろう。

「じゃあ、わたしたちはなに? 友達?」

 友達、と反射的に言いかけて愛生はすんでで言葉を飲み込む。

 嫌だった。陳腐だと思った。

 ただの友達がハンマーとタガネを持って二人で車の床を這いずり回るだろうか?

「……仲間だな」

 いつか、湊が行っていた単語を思い出す。

 つい先日のはずなのに愛生にはちょっとだけ昔のような気がした。

「ふーん」

「……なんだよ、反応薄いな」

 図らずもそんな照れくさい感傷に浸っていた愛生はそのサトカの生返事にちょっと口をとがらせる。

 少しだけサトカは考える素振りを見せて、何を思ったかダルそうに両手を広げた。

「わー、仲間だ。……これでいい?」

「なんでそれでいいと思ったか、小一時間問い詰めていいか?」

「ダメ」

「なんで!?」

「先にお風呂入ろ?」

 サトカはそう言って愛生に手を伸ばす。

 分からないヤツだし、分かってないヤツだが……と愛生は思う。

 それでも、何となく『仲間』の意味は分かっているんじゃないだろうか。

 愛生はゆったりとその手を取った。




「おはよーございます!」

「誰?」

「ひどい! みんなの湊ちゃんですよぉ~?」

「いや、そのキャラも誰だよ! つか、そうじゃなくてだな……」

「後ろの人のことね」

 翌日の朝。集合場所は『福音寺技工』のR32の周り。

 由夏、湊、愛生、サトカの他に湊の後ろの守護霊のごとく張り付いている女の子がいた。

 月代である。

「むしろ、ウチからしたらあなたたちが誰っていう話なんですけど」

「その……ごめん。気を悪くしたなら謝るけど」

 キッと睨まれた由夏がたじろぎながら、そんなことを言う。

「はいはい! 紹介します! 道後月代ちゃんです!」

「どうも」

 慇懃無礼とはこういう態度のことを言うのだろう。

 口ではそう言いながらもどう考えてもこちらと仲良くしようという姿勢が見られない。

「ど、どうも……」

 それに一番気圧されているのは愛生だ。

「それで?」

 意に介せずなのはサトカ。

「それで、っておっしゃいますと……?」

「なんでここにいるの?」

 無邪気に湊の言葉にサトカがそう返した瞬間、月代の鋭い視線はサトカに向く。

「それはこっちのセリフです。なんで湊さんがこんなところに来ないといけないんですか?」

「うわあ……」

 もう愛生は声に出してドン引いていた。

 その一言で評価は『アクの強いヤツ』から『なんかヤバそうなヤツ』に変わった。

「それは、湊に聞いてくれない?」

 由夏は月代の処理を湊に丸投げする。

「なんでですか、湊さん」

 月代の視線が忙しく行きかい、今度は湊を見る。

「それはぁ……秘密です!」

「秘密?」

「あ……いや、顔合わせにっていうか」

 煮え切らない言葉というのは疑問が湧き出るものである。

 そして、この場には疑問に対して素直に質問してしまう者が二人いた。

「じゃあ、この人は新しい仲間?」

「仲間あ? 湊さん、何か企んでるんですか?」

 サトカと月代である。

 湊は冷や汗かきっぱなしで落ち着きがない。

「あー、えっとぉ……」

 その時である。

 ブォン、と皆には聞き慣れたターボの排気音が聞こえてきた。

 一番早くそれに反応したのは誰であろう、湊であった。

「よっしゃ!」

 窮地を脱する手がかりを掴んだ湊は小さくガッツポーズする。

「なんだか、うるさい車ですね」

 見えてきた白のS14はそのまま、スゥーッと湊の横につけた。

 アイドリングの音と共に電動ウィンドウが開き、中からサングラスをかけた美鳥が湊を見る。

「おはよう。準備できてる?」

「ナイスタイミングです、美鳥さん!」

「何が? 準備は?」

「もちろん、バッチリです!」

「なら、いいけど」

「え? え?」

 何が何やら分からないのは月代である。

 その月代を引っ張って湊が助手席側に行ったかと思うと、ドアを開け、レバーを引いて助手席を倒す。

「え? え?」

 結局、月代にも皆にも満足のゆく説明はなされないまま、月代は湊によって後部座席に押し込められた。

一度乗った湊のその手際の良さはさすがだった。

 湊も、驚く月代に続くように後部座席に滑り込む。

「助手席はいいの?」

「いいんです、いいんです。出しちゃってください」

 倒した助手席を引き起こしながら湊はカクカクと首を縦に振る。

 皆を置いて出発しようとする湊と月代を三人は呆然と見ていたが、上半身を乗り出し、ドアを閉めようとする湊と視線があった。

「じゃ、後はよろしく。車頼んだ!」

 バムッ、と勢いよく、ドアが閉まる。

 フロントガラス越しに見えるのは相変わらず良く分かっていない月代のシートベルトを閉める湊と、やけにサングラスが似合う美鳥。

「行ってくるね」

 美鳥はそれだけ言うとウィンドウを閉め、クラッチを繋ぐ。

 パールホワイトのS14はそのまま工場を後にしてしまった。

「……なんだったんだ?」

 愛生が吹け上がるエキゾーストを聞きながら、誰に言うわけでもなくポツリとそう漏らす。

「ライセンスの講習会に行った」

「いや……そりゃ、昨日そう言ってたけどさ」

「じゃあ、あの道後さん? も講習会に行ったんじゃない?」

「ってことはドライバーか? ……の割には何も知らなさそうだったぞ?」

「ただの憶測だけどね」

 そう言いながら、由夏は後ろを振り返り、並べられたパーツを一望する。

「興味なさげだな」

「だって、これなんとかしないといけないんでしょ?」

「まあな」

 二人でしげしげとパーツの山を見ているとサトカがパーツを指さし確認し始めた。

「ロールケージ、熱可塑ポリカウィンドウ、バケットシート、三点式シートベルト、燃料タンク、専用ソケット、コードシールド、キルスイッチ、消火器、触媒――」

「サトカ、ストップ。気が遠くなる」

「まだ半分。エアジャッキとかもある」

「大変だな、こりゃ……」

 愛生はため息を漏らす。

「エアロは後回しだね」

「そうなる」

「まあ、仕方なしって感じだな」

「じゃあ、やりましょう」

 由夏がいつもの整備用手袋をしゅっと手につける。

「というか、いつもその格好で外出てるのか?」

 実家であるサトカとサトカの家に泊まった愛生はともかく、なぜかここに来たときすでに由夏はツナギを着ていた。

「別に……そっちの方が早いでしょ?」

「怪しいな」

 ぶつくさ言いながら三人は一番大きいロールケージに手を伸ばす。

 今日はどこまで作業が進むだろうか、と愛生は思った。




「じゃ、テキストの三二ページを開いてください」

 県警本庁の生活安全課の会議室に設けられたライセンス講習会。

 聴講しているのは湊と月代の他に六人ほどの男女。

 意外と他にもレースをやる女子は多いようで湊はホッとしていたが……

「クルマがトラブルに陥った際の対処についてです。特にエンジンやタービンがブローしたと思われる時――」

 まさか、美鳥が講師をするとは思わなかった。

 いや、女性のレーサーなど珍しくも無いが、それが身近な人間であるのはまた別の話だ。

 しかも、意外と型にはまっているというか、いつもの美鳥とは違い、かっちりとありがたいお話をしてくれている。

「…………」

 湊は配られたテキストを見ずにシャーペンを回しながら、美鳥を見る。

「また、他のクルマがそういう状態になった時、すぐに対処するために常に他のクルマの状態、コースマーシャル、フラッグなどをしっかり見ることを怠らないで下さい――」

 可哀想なのは月代だった。

 訳も分からないまま、講習会に参加させられ、真面目に聞きながらメモまで取っている。

 隣でシャーペンを回している湊とは大違いだ。

「聞いていますか?」

 美鳥の冷ややかな視線と湊の視線がバッティングする。

「聞いてます」

 間髪を入れず、湊はややダルそうに答えた。

 それは嘘ではない。

「今、私は何の話をしていましたか?」

「コーション……イエローフラッグの話です」

「そうですね。イエローフラッグとは――」

 湊がこういうのを嫌いな理由はこういうところにあった。

 仮に聞いていても、聞く姿勢というか、聞いていますよというポーズを講師に示さねば、聞いていないヤツとみなされる。

 馬鹿にしている、と湊は思う。

「……はぁ」

 聞かないわけがないのだ。自分がやりたいと言っているレースなのだから。

 しかし、美鳥や講師の気持ちも分かる。

 一つのミスが命に関わるレースだ。聞いてませんでした、で死なれては困る。

 そういう誰にも怒れないようなことが世の中には多すぎる。

「また、協議の結果、レース続行に不適と見なされた場合――」

 しかし、ライセンスの為だ。

 湊は月代と同じようにテキストに視線を落とした。




「ふぅー、終わったぁ……」

 講習が終了した会議室には西日が漏れこむ。

 休憩を間に挟んだとはいえ、長い間机に座っていた湊は大きく伸びをした。

 講義中は静まっていたが、今は帰り支度などで物音が絶えない。

「結構、四輪も大変なんですね……」

 真面目な月代はテキストをメモを照らし合わせながら、そんなことを呟いていた。

 自分がなぜここで講義を受けていたか、なんて疑問はもうとっくに失せているのだろう。

「まーね。後は実技だね」

「実技があるんですか」

「二輪もあったでしょ」

「それはそうですけど……」

 サッサとテキストをカバンにしまった湊は席を立つ。

「実技は走行会の前にやってるらしいから、五月だね」

「ゴールデンウィークですか?」

「正解!」

 パチン、と指を鳴らす湊に月代はウンザリとした顔をする。

「遊びに行こうと思ってたのに……」

「誰と?」

「それはもちろん、湊さんとに決まってるじゃないですか!」

「じゃー、どっちにしろ無理だ」

「そうなんでしょうけど……」

 パン、とテキストを閉じて月代も帰り支度をする。

 二人は会議室を後にした。

「さて、みんなの作業はどこまで進んでるかなぁ?」

 階段を下りながら湊は独り言のように呟く。

 そこでハッとしたように月代が慌てて湊の隣に並んで声を上げた。

「そうです! 結局、何なんですか!? なんでウチ、こんなことしてるんですか?」

「そりゃあ、もう……四輪するためでしょ」

 湊はことも無さげにさらりとそう言った。

「何も聞いてません! 湊さん、四輪やるんですか?」

「だから、月代もね」

 二人は階段を下りきって、エントランスの方へ曲がっていく。

「やるのは構いませんけど、説明して下さい」

「するする。でも、その前に……」

 そこでようやく湊は月代の方を見た。

「母さんには黙っといてね」

 真剣な顔で何を言うかと思えば、と月代はため息を吐いた。

「お母さまに無断でやってるんですね……」

「そりゃ、何言われるか分かんないし」

「……分かりました。湊さんがそういうなら」

「物分かりが良くて助かるよ」

 エントランスに着くと、美鳥が警察の誰かと話していた。

 顔の広い人だ、と湊は思った。

「だから、ナンバー付ですって。もう付いてないクルマには乗ってませんってば」

 美鳥はおどけたようにその男にそんなことを言っていた。

 そして、そこで二人に気づいたようで軽く挨拶をして、二人の方に来る。

「美鳥さんが講師だったんですね」

「びっくりした?」

「別に……さっきの人は?」

「昔、お世話になった人。良くも悪くもね」

 絶対に悪い方だろう、と湊は思ったが口にはしない。

「じゃあ、帰ろうか。講義の感想とか聞きたいし」

「月代に聞いた方がいいですよ」

「分かりやすかったですよ、とっても」

 三人はエントランスを出る。

 ウィィィンという自動ドアの音が嫌に耳に残る湊だった。




「結局、パーツに触ってないけど!?」

 愛生は塗装室から出てきて綺麗になったR32のフレームを見て叫ぶ。

「ロールケージは組んだし……サビ補修したんだからしょうがないでしょ?」

 そんな愛生の叫びに由夏は諭すようにそう言った。

 そう、今日の作業はひたすら錆を二人でやすりで磨いてそれをサトカが溶接していって、ロールケージと呼ばれる鉄骨を車内に張り巡らせただけ。

 そのシメとして二人が脱脂してサトカがフレームの塗装をしたのだ。

「色はこの色の良かったの?」

「もうそれ以外思いつかないというか……元々、銀色だったし……」

 新車同然の輝きを取り戻したフレームは元と同じスパークシルバーメタリックで塗装されていた。

「でも、ほら。綺麗になったでしょ? 感動しない?」

「する……めっちゃ感動する……けど、作業の進捗の悪さはまた別というか……」

「愛生は真面目だね」

「いやいや、マズいんじゃねって話なんだが……」

「何か問題があった?」

 首を振る愛生に近づいてきたのは真っ白のフード付きのつなぎとガスマスクのようなものを付けた怪しい人影。

「その格好、戦争映画とかで見たことあるぞ」

「それか養蜂家って感じ」

 二人の評価に小首をかしげながら、その人影はガスマスクを外す。

 中から現れたのは先ほどまで塗装をしていたサトカだった。

「もうちょっとしたら、マスキングを剥がす。手伝って」

「その後は?」

 愛生のせかすような言葉にサトカはふるふると首を横に振る。

「今日はもう終わりじゃないの?」

「間に合うのか?」

「でも、塗装したばっかりだから何もできない」

「そっかー……」

 愛生はガックリと肩を落とすが、慰める様にサトカがポンポンと肩を叩く。

「夜になれば、ちょっとしたことならできるよ」

「ホントか?」

「いや、それまた泊まりってことでしょ」

 由夏がツッコミを入れるが、ぐるりとサトカと愛生の視線が由夏を捉える。

「な、なに?」

 由夏はその迫力に後ずさるが、右肩をサトカに左肩を愛生に掴まれた。

「由夏も泊まる」

「そうだ。三人で泊まれば怖くない」

「何が!?」

 




「三人で泊まりだってさ」

 S14の後部座席でスマホをポケットにしまいながら湊は呟く。

 うるさい車内だったが、それはしっかりと美鳥にも月代にも聞こえた。

「羨ましいですか?」

「や、別に」

「福音寺さんのとこで下ろしてあげようか?」

「や、私、作業何もできないんで」

「愛生ちゃんだってそうでしょうに」

 本当の所は泊まりなんてすれば母にバレる、というのが湊の気持ちだった。

 無料のバイパス道路を法定速度ギリギリで流す美鳥はチラリとルームミラーを見る。

 そう言う湊の顔は本当に何も思っていない風だった。

「私はそれより美鳥さんの方が気になりますよ」

「私?」

「そうです。なんで講師なんか」

「なんかって……ひどい言い草だ」

「そういうガラじゃないでしょ?」

「どうかな?」

 ちょっとした路面のギャップもしなやかにS14は吸収する。

 ちょっとだけ揺れた車内で美鳥はハンドルを少し握り直した。

「ライセンスとか持ってるんですか?」

「一応ね」

「じゃ、元レーサーなんですね」

「まあね」

「だから、私たちに結構、肩入れしてくれてるんですか?」

「まあ……どうだろうね」

 湊の顔が少しだけ曇るのが分かる。

 聡明な子だ、かわされていると思ったのだろう、と美鳥は思った。

 だから、湊が何かを言う前にこちらからちゃんと説明してあげなければならないとも。

「私がレースやってた時はさ、レースがそもそもあんまり無かったんだよね。もちろん、プロのやってるフォーミュラとかGTとか耐久はあったんだけど」

 少し遠い目をする美鳥は昔のことを思い出しているに違いない。

「アマチュアレースっていうの? プロへの登竜門もフォーミュラとかばっかりでワンメイクとか、フレッシュマンとかね、そういうのが無くてね」

「いつの話ですか?」

 そこに食いついたのは月代だった。

「ちょうど、ガソリン車が廃止になった時かな。切り替わりでタイミングが悪かったってわけ」

「一〇年くらい前ってことですか?」

 月代はなおも食い下がるが、美鳥は苦笑するばかりだった。

「年齢バレるからあんまり言いたくないかなあ」

「じゃあ、レースの経験ってないんですか?」

 湊は鋭い所をついてくる。

 ある意味、美鳥の心残りであり、今の美鳥を形作っているとも言える部分。

 だから、美鳥はハッキリとそれに応えた。

「ないね。ライセンスも走行会で使うくらいでさ。今はほら、学生GTもあるし、フレッシュマンも再開したじゃん? 電気自動車だけど」

「だから、若手には頑張ってほしい?」

 湊のその質問に美鳥は思わず苦笑した。

「いやいや、そんなこと言うほど歳は取ってないよ。私だってできることはあるかなってだけ。走るばっかりがレースじゃないし」

「結構、年配の方が言いそうな発言ですけど、それ」

「君たちはどうしても私をおばさんにしたいわけだ」

 呆れたように美鳥は首を振った。

 そんな美鳥を見ながら、湊は不思議な人だ、と思った。

 世の中を恨んだって良い。その権利はあるはずだ。

 しかし、美鳥はそうせず生きている。

「結構、頑張り屋なんですね」

「そうかもね」

 もう日は落ちてしまいそうだ。

 鋭く刺さるような夕日の中をS14が悠然と走っていく。




「風呂だー!」

 愛生が叫びながら浴場の扉を開ける。

 湯気が立ち込める浴場は一般家庭のそれよりも三倍は大きくちょっとした銭湯のようになっていた。

「なんでこんなに大きいの?」

 タオルでしっかりとガードしている由夏は隣で完全に全裸のサトカに尋ねる。

「お父さんが『工場の皆と風呂に入る日が来る!』とか言って大きくしたらしい」

「へぇ……じゃあ、結構使うんだ?」

「いや、皆仕事の時間終わったら帰るし、お父さん自身も家でお風呂入るからここ使うのはわたしだけ」

「それは……なんというか、当たり前というか、ご愁傷さまというか……」

 由夏はサトカが閉めなかった入り口の扉を閉める為に後ろを向く。

 そして、扉を閉め終わった時、背中から勢いよく温水が飛んできた。

「ひゃっ!?」

「ははは、タオルなんぞ使ってるからオシオキだ!」

 愛生がシャワーを全開にして由夏目がけて放水したのだ。

 見事にタオルは水を吸って、重くなり、由夏の体はしっとりと濡れた。

「はぁ……子供じゃないんだから」

「なんだよ、泊まりの恒例行事じゃないのか?」

「昨日、わたしもされた」

 それを反省してか、サトカはサッサと愛生の背後まで回っていた。

 重くなった髪を後ろに回しながら由夏はもう一度、ため息を吐く。

「まあ、冷水でしないところは優しさがにじみ出てるというか、ツメが甘いというか」

「じゃあ、冷水でやっていいんだな?」

「やったらぶつよ」

「じょ、冗談だって」

 由夏の威圧に愛生はシャワー片手に由夏をなだめるような仕草をする。

 由夏も二列、八基ならんだシャワーの所まで行き、愛生の隣で温度を調節し始めた。

「由夏はどこまでも冷静だなぁ」

「面白みがないって言ってる?」

「まあ、そうとも言う」

 煽るような愛生の言葉にも由夏は耳を貸さないように見えて愛生は諦めてバスチェアに座ろうとした。

「愛生」

 そこに温度調整をしていた由夏から声がかかる。

「な――うぶっ!」

 愛生が声に応えて由夏の方を見た瞬間、由夏が愛生の顔にシャワーを向けた。

 もろに顔に水を浴びた愛生は両目を抑えてうめく。

「目が! 目がぁぁ!」

「何? モノマネ?」

 やった本人は涼し気に一足先にバスチェアに腰掛けていた。

「なわけないだろ……!」

「愛生」

 そんな愛生の肩を後ろから人差し指でつんつんとサトカがつついた。

「なん――待て! 話せばわかる!」

 顔から手を外して振り返った愛生の目に入ったのはシャワーヘッド。

 愛生は左手をサトカを制するように伸ばす。

「うそ」

 サトカはニコニコしながら、シャワーを下ろした。

 ひとまず水をかけられなかったことに安心しつつ、愛生はガックリと肩を落とす。

「二対一は卑怯だろ……」

「自分が先に始めたんでしょ」

 髪を洗いながら由夏はそううそぶく。

「くそぉ……」

 湯気に囲まれた中で愛生は心の底から悔し気にそう呟いた。




「なんで入ってきてんのさ……?」

「小さいころはよく一緒に入ったじゃないですか~」

 こちらも湯気に囲まれた二人。

 しかし、こちらは普通の家庭の普通の浴場。

 女子高校生二人が洗い場に立つとそれなりに狭い。

「いや、普通に狭いからね?」

「ウチは狭い方が嬉しいですけど?」

 ダメだコイツ、と言わんばかりに湊は手で両目を覆い、天を仰ぐ。

「ほら、洗ってあげますから座ってください」

「いや、大丈夫です」

「遠慮はなしですよ」

 そう言いながら、月代は強引に湊の両肩に手を当て、バスチェアに湊を座らせる。

「こんなにおっきくなっちゃって……」

「何が?」

「それはもう……色々とです」

「質問した私がバカだったよ……」

 湊は諦め、月代のやりたいようにやらせることにした。

「じゃあ、髪から洗いますね」

 目をつぶった湊の頭上にシャワーから温水が流れる。

「まんべんなく濡らして……いつも使ってるシャンプーはどれですか?」

「一段目の右から三番目」

「嘘ですね。その下のですよね?」

「なんで聞いた? っていうか、なんで知ってる?」

「秘密です」

 月代は手にシャンプーをまぶし、湊の髪を洗う。

 悔しいが上手い、と湊は思った。

「どうですか?」

「いや……いいと思います」

「そうですか。湊さんは髪が短くて洗いやすいですね。伸ばさないんですか?」

「ヘルメットに入らないからね。伸ばしたことはないかな」

「長髪の湊さん……それも素敵だと思います」

 何を想像しているのか知らないが、月代の手は止まらない。

 徐々に泡にまみれていく湊の頭で髪がわしゃわしゃともまれていく。

「ちょっとクセがありますよね。湊さんの髪」

「ん~、それもヘルメットのせいでついたんじゃないかな。蒸れるし」

「二輪の影響は湊さんの色んな所に出てるんですね」

「色んな所って他はないでしょ?」

「夏場とかレーシングスーツ着たままランニングしてたでしょう? 首に日焼け跡があったり……」

「良く見てるね……」

 はぁ、と湊は一つため息を吐いた。

「流しますよ?」

「うん」

 シャワーが湊の髪に絡みついた泡を流していく。

「未来さんとは一緒にお風呂に入ったりしないんですよね」

「妹? そうだね。小学校の頃にはもう別だったかな」

「じゃあ、ウチだけの特別ですね?」

「いやいや……押し入っただけでしょ?」

 泡が流れきり、湊は額から垂れた髪を両手で後ろに回す。

 曇った鏡にうっすらと自分の顔が映った。

「じゃあ、次はコンディショナーです」

「……もしかして全部やるの?」

「もちろんです」

「……まあ、楽でいっか」




「お前らなあ……」

 あの週末から五日後の金曜日。

 平日の真昼間というのに古町自動車整備工場に集まった五人に隆二は眉をひそめる。

「学校はどうした」

「見た通り、ですかね」

 素知らぬ顔で答える湊に隆二はため息を吐く。

「はー……とりあえず、クルマを降ろすぞ」

 隆二がトラックで積んできたのは銀のR32だった。

 パッと見た感じではもう今にも走り出しそうな感じだ。

 しかし、その心臓たるエンジンルームには何も入っていない。

「何人か、手伝え」

「はい! やります!」

 元気よく答えた湊とそれに続くように月代とサトカがトラックの荷台に走り寄る。

 隆二がR32に取り付けられた固定器を外すとダンパーとサスペンションによって押さえつけられていた車体が少し浮き上がった。

「全員でウィングを引いてくれ」

「わかった」

 サトカがこくりとうなずくと、三人はR32のリアウィングに手をかけ、引っ張っていく。

 1トンと少しを支える四輪が少しずつ回り、R32は荷台からその巨体を降ろそうとする。

「よし、いいぞ」

 隆二は荷台に上がり、R32をフロントから押していた。

 後輪が二台と地面を繋ぐ短い斜面に差し掛かった時、R32の重さが少し和らいだような気がする。

 そのまま、転がるようにR32はするすると工場の中へ入っていった。

「すっごく重たかったんですが……」

 月代がふぅ、と息を吐きながら、そう言った。

「まあ、元々重たい車だからね」

 こともなげに由夏は答えながら、R32の後ろに移動式リフトを転がしてきた。

 その青の移動式リフトは人が寝そべられるような長さの棒が二本生えているような見た目をしていた。

 これを車体の下に敷くことでいつでもリフトアップできるのだ。

「この上に載せるようにもうちょっと引っ張らないといけないんだけど」

「今度は私もやるか」

 愛生が袖をまくってヤル気を見せる。

「じゃあ、もう一回」

 湊の号令で五人がもう一度R32を転がす。

「オーライ、オーライ、オーライ……はいストップ」

 由夏の号令で上手くリフトの上にR32の四輪が載った。

今度は短い距離で済み、湊はホッと胸を撫でおろす。

「エンジンはもうできてる?」

 サトカがボンネットを開けながら由夏に尋ねる。

「当然」

 少し離れた所に行っていた由夏が転がしてきたのはエンジンジャッキ。

 クレーン状のその油圧ジャッキの先にはチェーンで固定されたエンジン、RB26DETTが下がっていた。

「おお……」

 マニホールド、ドライサンプ用のオイルパン、大型のクラッチが取り付けられた大きな段ボールよりも大きいその鋼鉄の塊を見て愛生が感嘆の声を上げる。

「すげぇな。仕様は?」

 隆二も思わず身を乗り出してのそのエンジンを見ながらそんなことを尋ねた。

「ほぼノーマルですよ。ノーマルと同じ径のベアリングタービンにちょっと太いタコ足、ようするにブーストアップですね」

「中身は?」

「オーバーホールメインで。シールとか、プラグ変えて。エアフロとかセンサー新品とかにして……あとは冷却系、ラジエーターとオイルクーラーですね。レースですし」

「勝手に倉庫から持ち出して……良夫怒るぞ」

「畳むって言うんだから何も言われないですよ」

 専門用語が飛び交うその会話についていけないのは愛生、湊、月代の三人。

「サトカちゃん、つまりどういうこと?」

 サトカに困った顔を向ける湊にサトカは涼しい顔で同じような言葉を繰り返す。

「ブーストアップ。冷却系の強化――」

「いや、だから、それが分かんないんだろ……」

「要するにどういうことなんですか?」

「要するに……速くなる?」

 サトカもその効果がどうなっているのか分からないようでそんなことをうそぶきながら小首を傾げた。

「要するにね、速くなるっていうより壊れにくさ重視ってこと」

 答えを教えてくれたのは結局、由夏だった。

「壊れにくさですか?」

 月代はイマイチピンと来なかったようだ。

「レースだからね。市販車とは負荷が違うから」

「速くはないのか?」

 今度は愛生。

 その言葉に一抹の不安を感じているのがにじみ出ていて少しだけ由夏はムッとする。

「速いよ。元々速いエンジンなんだから」

「なるほど。それに壊れにくさが加わって最強ってことか!」

 ポンッと合点が行ったように湊が手を鳴らすが、由夏が今度は少し顔を曇らせた。

「壊れにくいってだけで壊れないわけじゃないから。それだけは勘違いしないで」

「良夫の娘だな。言うことが似てるわ」

 隆二のその言葉に由夏は喜んでいいのか、何とも分からなかった。

「とりあえず、コイツ組み付けるんだろ?」

「そうですね」

 由夏はエンジンジャッキを車体の前まで持ってくる。

「お前らは学校休んでるかもしれねえが、俺だって工場空けてるんだ。サッサと済まそうぜ」

「そうですね。みんなやろっか!」

 隆二の言葉にうなずいた湊の号令が工場に響き渡る。

 まだ早い朝の日差しは少し柔らかく皆を包んでいた。




「いくよ」

 完全に日が沈み、照らすものが工場の照明だけになってから数時間。

 工場にやや疲れた湊の声がこだまする。

 その湊はハンドルもついてない運転席に入り、元のR32にはエアコンやオーディオが付いていた部分に取り付けられた各種スイッチボードに手をかけていた。

「うん、いいよ」

 由夏が外付けの油圧計を片手にエンジンの助手席側の傍でうなずく。

「じゃ、行きます」

 湊はそのスイッチボードで一番大きな赤い回転させるタイプのスイッチに手をかけ、回す。

 それはキルスイッチ兼メインスイッチでそれを回すと電装系に電気が流れる仕組みだ。

 一気に各種に電力が行き、色んなものが作動する音と共に湊の目の前のダッシュボードに組み付けられたメインコンソールに明かりが灯る。

「そっちは点いた?」

 由夏がサトカや湊を見ながらそう尋ねると、サトカは右手でオッケーサインを出し、湊はうなずいた。

「じゃあ、油圧のスイッチを」

 由夏の言葉に湊の視線がスイッチボードを彷徨う。

 ビニールテープに『メイン』や『水温』など、手書きでメーターやスイッチに注釈が描いてある中の『油圧』を探す。

 それはメインスイッチのすぐ隣にあるトグルスイッチだった。

「いきまーす」

 パチッ、という音と共にまた少し車から音が鳴るようになる。

 それと同時に由夏が手にしていた油圧計の針がピクリと反応を示した。

 それを見たまま、由夏が黙り込んでしまったので他のメンバーは不安な気持ちに駆られてしまう。

「……ど、どうなんだ?」

 助手席があったところに腰掛けて旧型のノートPCを見ていた愛生がおずおずと由夏の顔を下から覗き込む。

 由夏はチラリと愛生を見てからまた油圧計に目を戻す。

 目盛り的には上限まで全然上がっていなかったが、それで正常だった。

「オッケーだよ。ちゃんとプレッシャーかかってる」

「な、なんだよ、脅かすなよな……」

「でも、まだ終わってないから。湊、火入れよう」

 由夏は油圧計から湊を見る。

 ポリカーボネード製のフロントウィンドウ越しにその視線は熱く湊に突き刺さる。

 湊はゴクリ、と息を呑んで『スターター』と貼られたボタン型スイッチに手を伸ばした。

 そのボタンは一番普通の形をしており、そして、湊にとって重要なボタンであるので位置はちゃんと把握していた。

「月代、サトカ、隆二さん、ガソリン漏れとかないよね?」

 由夏は三人の顔を見渡す。

 R32の正面に立っていた月代は神妙にコクコクと首を縦に振った。

 そして、由夏の向かいに立っていたサトカもオッケーサインを出す。

 最後に、リアで燃料タンクのポンプ周りをチェックしていた隆二もうなずいた。

「湊、お願い」

「ふぅ……じゃ、いきます」

 グッ、と湊がスターターボタンを押した瞬間、セルモーターがエンジンを回す。

 キュルルルル……という音が工場にこだました。

 徐々に回転が速くなりつつも、一向に燃焼の音がしないことに皆の頭に不安がよぎる。

「由夏さん……」

 正面でタイミングベルトがプーリーと共に回るのを見ていた月代が不安そうに漏らす。

 まだ、点火して三〇秒も経ってない。

 由夏だけはエンジンが点火することを絶対に信じていた。

「大丈夫……」

 その瞬間、ボボッと言う音と共に一瞬だけセルモーターが回る音が軽くなる。

 火がどこかでついた証拠だ。

「あっ!」

 目を見開いて叫んだのはサトカ。

 それに呼応するようにその音は時折響き、そして、その感覚を短くしていく。

 由夏はエンジンに手を伸ばし、スロットルを制御するワイヤーを少しだけ引っ張った。

 それにより、何もしていないアイドリング状態から少しだけ多くの空気がエンジンに流れ込む。

 ボボッ、ボボボッ、と点火の回数がさらに増えていく。

「こい……!」

 由夏がそう言った瞬間、ボボボボッと一際大きな音が響いてから、ドドドド……と唸るような少しだけ不安定なアイドリングが始まった。

「きたーっ!」

 運転席でエンジンの小さな振動に揺られた湊が大きく声を上げる。

 遂にR32の心臓は動き出した。

 そのことをすぐに理解できたのは由夏と湊だけだった。

「……!」

 由夏はすぐに冷却水が循環しているかどうかを確かめる為にフロントのラジエーターから伸びるホースに手を伸ばす。

 冷却が上手くいってなかったらすぐにオーバーヒートだ。

 水は……流れていた。

「はあ……」

 誰も何も言わず、そのエンジンの音に浸っていた中で由夏だけは安堵のため息を漏らす。

「成功……?」

 サトカが呆然とそう漏らした瞬間、ようやく他のメンバーにも喜びが伝播した。

「成功です!」

正面に立っていた月代が大きく手を上げた。

「む、報われたぁ……」

 助手席から足を延ばしていた愛生はノートPCから手を離し、だらりと手をフロアに落とした。

「ここまで来たぞ……!」

 その隣の運転席で湊は着実と進みつつあるレースまでの道のりを噛みしめていた。

「流石、良夫の娘だぜ」

 そう言いながら由夏の傍に立ったのは隆二。

 由夏はその言葉を聞きながら、今まで組んできたエンジンを思い出していた。

 そのどれと比べても今回のエンジンが動いたのは嬉しい。

 それは間違いない。

 しかし、何かが足りない。

 それは――

「何やってんだ」

 アイドリングと混じるような低い声。

 決して大きな声でもなければ、特徴的な声でもない。

 それでも、由夏には驚くぐらいハッキリと聞こえた。

「お父さん……」

 由夏が振り返った工場の軒先には父、良夫の影。

「良夫……!」

 隣で隆二が驚いたように声を上げる。

「お前、工場辞めたんじゃなかったのかよ」

「それでも、ここは俺の工場だ。来て悪いことは無いだろう」

 良夫はツカツカと真っすぐ由夏の方へ――いや、R32の方へ近づいてきた。

「隆二こそ、こんなとこで何してる」

「何してるって、お前、由夏ちゃんがレースやるってんだからさ……」

「……レース?」

 聞いたこともない単語を聞いたかの様に驚いて良夫は由夏を見る。

 由夏は遂にここまで言えなかったことを隆二に言わせてしまったことに激しい後悔を覚えていた。

「……その――」

「この前組んでたRBはこれか」

 自分の口から色々説明しようとした由夏の言葉を遮って良夫はR32のエンジンルームをのぞき込む。

「ちょっとアイドリングがバラついてるが……レース用ってのとセッティングがまだっていうならこんなもんか」

「相変わらず、辛口だな。ちったぁ褒めてやれよ」

「褒めたってこれが良いエンジンにはならんだろう。問題点はキッチリ洗い出すべきだ」

 そう。由夏が何か足りないと感じたこと。

 それはこの父、良夫の厳しく公平な視線であり、姿勢であり、言葉だった。

 説明はできなかったが、父のそういうところが全く変わっていないことに由夏は正直、嬉しかった。

「ふぅん……」

 良夫は由夏がやっていたように冷却水の流れるホースを弄ってみたり、スロットルワイヤーを引っ張ってみたりしてエンジンの具合を確かめる。

「……ど、どうですか?」

 図らずも隣に立つことになってしまった月代が皆を代表してそう尋ねる。

「お、おお?」

 良夫はそう言えば、知らない子がたくさんいると思ってようやくそこで少し戸惑うが、チューンのことを聞いているとなれば話は別だ。

「ちゃんと組んではある。後はセッティングを詰めれば……そうだな。走るだろうな」

「走る……」

 そうだ、自分たちは走らせるためにこれを作っていたのだ、と月代は思った。

「ここにいる皆でこれを組んだのか?」

 良夫がしげしげと皆の顔を見ながら、誰に聞くわけでもなくそう言う。

 それに答えたのはサトカだった。

「エンジンは由夏。他は皆で取り付けた」

「塗装とか、板金は隆二か」

「いや、わたし」

 その言葉に良夫は一瞬、眉をひそめたが、何かを思い出して合点がいった顔をする。

「……ああ、お前、隆二の娘か」

「そうだよ。可愛いだろ?」

 その隆二の言葉に眉をひそめたのは良夫とその娘、サトカだった。

「親に似て板金バカか」

「おめぇんとこだってそうだろうがよ」

 今度は良夫が困った顔をする。

 チラリと由夏を見てから、ぐるりとR32の仕上がりを見るように歩き始めた。

「ロールケージに燃料タンク……」

 興味深そうに色々見ていた良夫の顔がリアに来たとき、しかめっ面になる。

「なんだこれ。触媒か?」

 良夫が言っているのは純正と同じ位置から顔を覗かせる排気管の一番先、マフラーだった。

 確かに良夫の言う通り、普通の車どころか、レーシングカーでもあまり見ない変な形のものがそこについていた。

「レーシングカーと言えば、直管サイド出しだろう。R32ならなおのこと……」

「レギュレーションだから」

 気持ちは分かるが……と言った風に由夏が肩をすくめる。

 良夫はやれやれと言った風に首を振って、由夏の方へやってきた。

「レース、やるのか」

「……そう」

 詰問するわけでもない良夫のその態度に由夏がゆっくりと答える。

「じゃあ、一つだけ聞くぞ」

「うん」

「これは踏めるクルマか?」

「それは……」

 簡単な質問だ。

 しかし、それは表面だけでその言葉は重たく、そして深い。

 由夏は答えられない。

 だって、走らせても無い。本当はすぐ壊れるエンジンかもしれない。

 まだ、由夏には自信になるものなど何もない。

「踏みます!」

 はっきりとした、澄んだ声が響いた。

 今度はアイドリングには絶対負けない、強い声だった。

 それは湊の声だった。

「絶対に踏みます! 壊れても走らせてみせます!」

 湊は良夫をしっかりと見てそう言い切った。

 良夫は何も言わず、その湊の顔を見た。

 強い、と良夫は思った。

「……そうか」

 良夫はそれだけ言って短くうなずく。

 由夏はそんな良夫を複雑そうな表情で見た。

「由夏が、『踏める』とかそんなこと言ったら辞めさせるつもりだったんだがな」

「お父さん……」

 良夫は由夏を見る。

 いつか……そう、最初に整備を手伝った時に私を見ていた顔とよく似ている、と由夏は思った。

「踏める確証があるクルマなんてどこにも……いいか、どこにもないんだ。クルマは工業製品なんだ。有限なんだよ。寿命がある」

 良夫は右手をR32のルーフに置いた。

 目はまだ由夏を見ている。

「寿命を削って走っている。いつか絶対に壊れる。それがクルマだ」

 そこで良夫は短く息を吐いた。

 何かを思い出したようなその息はアイドリングの音に溶けていく。

「そして……寿命はいつくるか分からない。だから、踏めるクルマなんてモノはない」

 クルマの話だ、と良夫はあくまでも強調して言っているようだった。

 だから、由夏もそのつもりで聞く。

 絶対に良夫はガンで突然、自分の元を離れていった母を思い出したはずだ。

 それでも、車の話をしようとしてくれる父の気持ちを由夏は無駄にはできなかった。

「相変わらず……説教くせぇんだよ」

 静まり返ってしまった中で隆二が茶化すようにそう言った。

「第一、お前、レースなんてやったことねぇくせに偉そうなんだよな」

 隆二のその言葉に良夫は肩眉を上げておどけたような顔をする。

 もう父は母のことを思い出してない、と由夏は思った。

「あるぞ。二台やったことがある」

 その言葉に隆二と由夏は驚く。

「ホントかよ?」

「ああ」

「クルマはどこにいった?」

「さあな。一台はどうなったか知ってるが、もう一台は知らない」

「その知ってる方の一台は?」

 父が組んだというレーシングカーを見たい一心で由夏はそう尋ねた。

 しかし、良夫は肩をすくめて素知らぬ顔をするばかり。

「教えられないな」

「なんだよ、ケチだな」

「なんとでも言ってくれ」

 良夫は意地悪にそう笑った後、その場から立ち去ろうとした。

「帰んのか?」

「俺がすることはなさそうだからな」

 そう言って良夫はチラリと湊を見る。

「良いドライバーもいるみたいだしな。上手くいくだろう」

 それだけ言って良夫は工場を後にする。

 見送るようにアイドリングの音が工場でくぐもり続けた。





「はい、止めて」

 夕暮れ時、整備工場裏の空き地を走っていたR32は助手席があったスペースに乗っていた由夏の号令で止まった。

 キッ、というブレーキ音と砂利の擦れる音がスカスカの車内には良く響く。

「どう?」

 クラッチを切ってギアをニュートラルに戻しながら湊が尋ねた。

「まあ、こんなものだと思う。本当はベンチとかでやれれば最高なんだけど……」

 由夏の手にはボロボロの旧型ノートPC。

「ベンチ? あの座るヤツ?」

「そんなわけないでしょ」

「それ以外、ベンチとか知らないし……」

 ドドドド……というアイドリングの音もあの初点火の時よりは少しはマシになって粒がそろった音をしている。

 しかし、美鳥のS14のような完全に安定した音ではない。

 それが湊は少し不安だった。

「あのさ。アイドリングは普通の車とはまだ違うじゃん? これは問題ないの?」

「問題ないと言うか、お手製レーシングエンジンの定めというか……」

「定め?」

「乗用車が使うエンジンの回転域って3000回転とか、回して6000回転とかでしょ」

 知っている風に話されるが、湊が見たことあるガソリン車は小さいころに親が乗っていた車と美鳥のS14しか知らない。

「ん~……ガソリン車あんまり見たことないからさ」

「……とにかく、こういうクルマは4000から引っ張って8500とか10000超えたりするわけだから、どこにピークパワーを持ってくるかで空燃比が変わって――」

「まあ、問題がないなら私はそれでいいのさ」

 難しい話が始まる、と思った湊は早々に会話を切り上げてしまった。

 聞かれたから答えていた由夏は少しだけむっつりとする。

「セッティングとか、ドライバーから車の状況を教えて貰わないとこっちもできないんだからそういう話もちゃんと覚えてね」

「そりゃ、覚えるけど……」

「けど?」

「ちょっと時間かかりそうだなーって」

「はぁ……」

 由夏はノートPCを見たままため息を吐く。

 とりあえず、セッティングは出した。

「それじゃ、私は降りるから」

 由夏はタコメーターに貼ってあった『5000回転まで』と書かれたテープを外す。

「え、これからどうすんの?」

「好きに走っていいよ。ナラシも十分だと思うし、オイルは昨日替えたしね」

 内装がほぼ剥がれ、軽くなったドアを開ける由夏に湊は戸惑ったように視線を向ける。

「昨日、そんなことしてたの? 結構遅くまで私と月代走ってたけど」

「もっと車見てね。愛生とサトカだって毎晩土落としてるんだよ」

 由夏はそれだけ言ってノートPC片手に工場の方へ行ってしまった。

 確かにこの空き地は硬い土とは言え、ダート路面だ。

 走れば嫌でも土がつく。

「ん~……厳しーな」

 湊はそんなことを呟きながら、遂に限界まで回すことを許可されたエンジンで思いっきり吹かしてみる。

 ゴォォォン……という迫力のある排気音と共に一基地にタコメーターの針が回った。

「色々……やってかなきゃね!」

 そのまま少し回転が落ち込んだところにクラッチを繋ぎ、R32を走らせる。

 そんなに広い空き地ではない。

 入って2速までの所でとりあえず、トルクに物を言わせてケツを振ってみる。

 良いパワー感。ただ、少し滑り過ぎるのは履き古したタイヤか、路面か、車の重さか。

「これで、レースかぁ……」

 RB26DETTのターボ車らしいエキゾーストが低く響き渡る。

 工場の近くでそれを見ていた月代に工場に戻る途中の由夏が声をかけた。

「どう? 先に全開で吹かしてみたかった?」

 真剣な表情の月代に由夏は何を思っているのか想像がつかず、そんなことを言ってみる。

 恐らく違うだろうと由夏は思っていた。

 月代のレースへのモチベーションの根本は湊だと知っているからだ。

「どうでしょう? ……羨ましくはあると思います」

 だから、月代がそんなことを言った時、由夏は意外だった。

「羨ましい?」

「楽しそうじゃないですか」

「まあ……確かに」

 所狭しと走り回るR32をチラリと見て由夏はうなずく。

「あんまりエンストさせないでね?」

「もう慣れましたから。大丈夫です」

 そう言いながらも月代はR32から視線を外さない。

「じゃあ、私は戻ってるから」

「はい」

 その時、キラリとR32のフロントライトが西日を反射し、月代を照らした。

 あの中で湊は何を思っているだろうか、と月代は思う。

 いつも、あそこには湊だけの世界があった。

 二輪の時からそうだった。

「ウチだって……」

 今度は違うバイクで、並走する訳じゃない。

 同じ車で、違う時間を走るのだ。

 それがセカンドドライバーだ。

 月代はギュッと拳に力を入れる。




「積み込み、終わった」

 浅い夜の闇に包まれた工場に止まった一台の大型トラック。

 別に手が汚れた訳でもないのにサトカは満足気に手をはたいてみせる。

「じゃあ、これで明日、サーキットまで運んで、お前らもウチの連中が出すバンで現地まで運ぶと」

サトカの横でボヤくのは隆二。

「ったく、いつから俺は運び屋になったんだ……?」

「何から何まですみません……」

 頭をかきながら由夏が頭を下げる。

「言ってみただけだ。なにせ、娘のことでもあるし……」

 そう言いながら、隆二の口角が上がっていき、目が輝いていく。

「ワクワクしますよね!」

 グッと両手で握り拳を作り、前のめりに湊が大きな声を出す。

 そのこらえきれない情熱はその場にいる全員が内に秘めていた。

「今の全てが詰まった車が走る……待ちきれませんね」

 同意するように月代が同じように身を乗り出した。

「長かったような短かったような二週間だったなあ……」

 愛生はその大型トラックに積み込まれたR32の銀のボディをしたり顔で見ながら横柄にうなずく。

「愛生。ジジくさい……いや、ババくさい」

 サトカがそんな愛生にツッコみを入れた。

 それに同意するようにうなずいたのは由夏。

「まだ始まったばっかりでしょ。地方予選でもない、ただの練習走行会なんだから」

「なんだよー。いいだろ、感傷に浸ったって」

 わざとらしく口音がらせた愛生だったが、すぐに満面の笑みになる。

 それを見た皆がつられるようにして笑った。

「よーし! 明日、頑張るぞ!」

「おー!」

 湊の掛け声にそれぞれが思い思いに返す。

 一つ、やり切った充実感が発散されるようにその声は工場に広がっていった。




「もしもし」

 会社からの帰り道。

 良夫はぶっきらぼうにスマホにかかってきた通話を取る。

 その口調とは裏腹に足を止め、国道の欄干に寄りかかる彼の視線は真剣だった。

「……何? もう一回言ってみてくれ」

 彼の後ろを走り去っていく電気自動車たちはとても静かだ。

 タイヤノイズだって全然うるさくない。

 だからこそ、良夫はスマホの向こうで通話相手が言っていることが良く聞こえて一層心がざわつくのだ。

「本気で言っているのか? ……ちっ、分かってる」

 国道沿いの歩道の暖色系の街灯の明かりをかき割るように時々良夫を照らす電気自動車のハイビームライトがうっとおしい。

 振り払える訳もないのに良夫は右手を少し顔の横で振った。

「無理だ。そもそも、車検が通るようなクルマに戻してくれって言ったのはお前だろう」

 怒っているつもりはない。

 しかし、何か良夫の心が落ち着かないのも事実だ。

 通話口の向こうで相手が少し黙る。

 しかし、それでも相手は食い下がってきた。

「……どちらにしろ、無理だ。コンピュータ書き換えて、それでどうする? そのクルマが生き返るワケ……」

 生き返る?

 その自分の言葉に良夫はハッとする。

 今のあのクルマは死んでいるのか? 変わっただけじゃないのか?

 結局、自分もあのクルマもコイツも、実のところ――一番大切な部分が変わり切れてないとでも言うのか?

「……パーツ? パーツは……」

 ある。今も倉庫に眠っている。

 そして、それは絶対に由夏は手を付けていないだろう。

 なぜ、そのパーツたちをあの時に自分は捨てなかった?

 用途は限られる。客に出すつもりも無かった。

 それなのに、なぜあのパーツたちは今も倉庫に眠っている?

「一つ……条件がある」

 良夫は一息ためてそう言った。

 もう、良夫は相手の言うことを聞くつもりだった。

 しかし、不安だった。

 それで本当に自分は変わり切れるのだろうか?

「壊してきてくれ。エンジンを。ぶつけろとは言わない」

 本当は変われないかもしれない。

 だって、この一夜であのクルマをどうしてやろうかということで頭の中が一杯なのだ。

 だから……壊してきてほしい、と良夫は言った。

「壊したら、予備のSRで由夏がエンジンを組んでくれるだろう。法律が変わったお蔭で資格だってちゃんと持ってるし……」

 良夫はあの夜見た由夏の組んだRB26DETTを思い出す。

 良いエンジンだった。

 もちろん、粗いし、そんなに上等なものじゃない。

 だが、良いエンジンだった。

「腕は確かだ。そうだろう?」

 相手はもう何も言わない。

 何か良からぬことを考えているのだろう。

 俺の為とか、由夏の為とか、そういうことを。

 そう言う……優しい奴だ、と良夫は思った。

「二二時だ。いいな」

 良夫はそれだけ言って通話を切った。

 街頭に照らされていた男は消え、時折過ぎ去るハイビームライトももう彼の姿を捉えることはできない。




「あれ……」

 由夏は慌ててバッグの中に手を突っ込み、鍵を探す。

久々に家に帰ろうと思ったらこれだ。

 電気がついていない。

「飲み会かな……金曜日だし……」

 あった。ストラップについているのはいつか父に貰った変なマスコットのキーホルダー。

 結局、これが何のマスコットなのかよく知らないが、惰性でつけている。

「ただいま」

 誰に言うわけでもなく由夏は玄関を開けた時、そう言った。

 明日は本当の意味でのシェイクダウン……。

 走るはずだ、と由夏は思った。

 ただのその実、何かあるんじゃないかという予感もあった。

「早く寝なきゃ……」

 何があるかは明日にならなければ分からない。

 だから、早く寝なければならないのだ。




「バレてるよ」

 風呂からあがって姉妹共用の部屋に戻った湊に降りかかる声。

「……ん~? 何が?」

 湊は妹の未来のその顔を見ずにそう返した。

 ドキリ、としたその動揺は上手く隠せているだろうか?

 湊は二段ベッドの一段目に腰かける。

「お母さん、おねっちゃんが何かしてるの知ってるんだから」

「そっか」

 まあ、遅かれ早かれバレるとは思っていた。

 だが、未来がこのタイミングで言う理由は何だろうか。

「それで?」

「いいの? このまま四輪なんかして」

 未来は問い詰めるように立ったまま、ベッドに座る湊に一歩近づく。

 四輪をやっていいのか?

 知らない。それを決めるのは一体誰なんだ、と湊は思った。

「母さんの機嫌、悪いの?」

「それは……」

 そこで未来は口ごもる。

 意外だった。

 てっきり、母の機嫌が悪いから止めて欲しいと言っているものとばかり思っていた。

「え、機嫌悪くないの?」

「ぶっちゃけ、何考えてるかわかんない。お姉ちゃんだって分かるでしょ?」

「ん~、まあそれはね」

 確かに母、壱のポーカーフェイスは凄い。

 だが、一応は同意した湊だったが、それほど母がいつも何を考えているのか分からないわけでは無かった。

「何か聞いてみたりした?」

 そう。母は聞けばちゃんと答えてくれるのだ。

 しかし、よく考えてみれば、母に何かを尋ねている未来を湊はあまり見た覚えがない。

「するわけないじゃん。見えてる地雷でしょ」

「それは地雷って言わないんじゃない?」

「じゃー、爆弾でもなんでもいいけどさ。わざわざ怒らせることもないじゃん」

「……怒るかな?」

 湊はふと、そんなことを言ってしまった。

「は? 何言ってんの? 怒るに決まってるじゃん!」

 その言葉に未来はすぐに語気を強めてそう返す。

「もしかしたら怒られないかも、なんて甘すぎるんじゃない?」

「いや、そんなつもりは無かったんだけどね」

「言い訳?」

「ホントにね、違うんだけど。ん~……」

 そこで、湊はハタと気が付く。

 結局、怒っているのは未来本人じゃないだろうか。

 湊はまじまじと未来のその顔を見た。

 未来は眉を寄せ、実に怒った顔をしていた。

「……何?」

 突然、黙り込みこちらを見てきた湊に未来はそう吐き捨てる。

「明日、話すよ」

 見えない幻覚なのかもしれない。

 いや……見えてないものは存在しないのかもしれない。

 湊はまだ『四輪を始めた』という理由で怒っている母を見たことは無い。

 そんな母はまだ存在していないのかもしれない。

「何を?」

「母さんに」

「やめて」

 未来は間髪を入れず、そう言った。

 しかし、湊は続ける。

「止めないよ。怒られたら……その時だよ」

「何が……!」

「何何ってそればっかり。じゃ、明日早いから寝るね。あ、電気はつけててもいいよ」

 湊はそれだけ言って布団をかぶる。

 そのまま、目をつむっても、そこに未来が立っているのが分かった。

 しかし、しばらくすると未来は二段ベッドの上に上がり、電気を消す。

 静かになった部屋の中でいつまでも煮え切らない未来の吐息だけが音を支配し続ける。




「愛生ちゃん。お風呂沸いたわ」

 その声に愛生はパタリと呼んでいた本を閉じた。

 そのまま、その本をキーボードの隣に乱雑に積まれた本たちの上に置く。

 その本のタワーをまじまじと見つめていると扉の向こうで母、代美の少しだけ焦れたような声がした。

「愛生ちゃん?」

「……今行く」

 愛生は椅子から立ち上がり、のそのそと扉に向かう。

 いつものように扉を開けたところまではよかった。

 しかし、いつもとは違い、なぜか開けた扉の先には代美が立ったままだった。

「あ……!」

 愛生は反射的に扉を閉めようとするが、すんでのところで代美がスリッパの鼻先を扉の隙間にねじ込む。

 そのまま、代美は愛生が引っ張る扉を強引に開け、しげしげとその室内を眺めまわした。

「な、なんでこんなことするんだ……?」

「愛生ちゃん、言葉遣い。直しなさいって言ってるでしょう」

 そんな会話をしながら、部屋を見る代美の目に留まったのは先ほどまで愛生が呼んでいた本だった。

 背表紙には『猫でも分かる車の足回り』。

 さらにその下に積まれている本はR32の整備書や、当時のカタログを始め、車に関する本がジャンルや内容を問わず積まれている。

「はあ……」

 思わずため息を吐いた代美に愛生は悪事がバレた子供のように肩をすくめる。

「最近、どこかに行ってると思ったら……車なんて弄ってたのね」

「悪いか?」

「言葉遣い。……薄々感づいてはいたんだけど……本当にクルマなのね?」

「そうやってカマかけようったって――」

「分かるもの。毎日毎日、オイルとガソリンの匂いをそれだけまとって帰ってきてたらね」

 そういう代美の目はとても複雑そうに動く。

 怒ろうかどうか迷っている、と愛生には見えた。

「ママだって昔はやってたんだろ?」

 精一杯強がって愛生はそんなことを言ってみせたが、代美はその言葉に大きく首を横に振ってため息を吐いた。

「はああ……やっぱり……」

「隆二さんが毎年年賀状来てるって。それで、昔、『黒狼』って呼ばれてたって……」

「隆二君か……」

代美はガックリと肩を落とし、大きく息を吐く。

「嫌な思い出なのか? だから、わたしにも止めろって言うのか?」

 愛生は追い打ちをかけるつもりでそう言った。

 何しろ明日がサーキット初走行。

 ここで止まるわけには絶対いかない。

 しかし、強い決意で代美をにらむ愛生だったが、にらまれた代美は複雑そうな顔のまま首を横に振った。

「別に……そんなことは言わないけど」

「え……?」

 代美の言葉に愛生はスカッと肩透かしを食らった気分だった。

「ホントか……?」

「まあ……パパが海外行ってからから引きこもってた愛生ちゃんが外に出るのは嬉しいし。学校に行かなくてもね」

「それは……」

「別に学校に行けって言ってるわけじゃなくてね。うん、何かしたいことがあるのはいいんだけど……」

 愛生は嬉しい反面、困惑していた。

 てっきり、代美は止めろと言うものだと思っていたが、そんなことはなかった。

 しかし、だとすれば、なぜこんなに複雑そうな顔をしているのか。

「じゃ、何かあるのかよ?」

「言葉遣い。言ってるでしょう」

「ごまかすなよ」

「ごまかしてるわけじゃないの。言葉遣いは本当に直してほしくってね。でも……」

 ちらりと代美は愛生を見た。

「どうしてクルマなの?」

「どうしてって……そりゃ……」

 簡単すぎる質問ほど答えづらい。

 それは色んな答えが用意できるからだ。

 そして、質問にどんな意味があるかを考えてしまうタイプだった。

「由夏と、湊に出会って……それでちょっと話して。それで、湊がやろうって言い始めて……」

 愛生は代美が説明を求めていると漠然と考えた。

 しかし、代美はそういうのを聞きたかったわけではないし、それ以上に愛生自身がすぐに言葉に詰まってしまう。

 それでも、代美は黙って愛生の話を聞いていた。

「…………」

「……その、なんだろ。確かになんで車かって言われると……困るな」

「困る? 理由はないの?」

「ない……かも。偶然というか、成り行きというか……自分の衝動と偶然が重なった結果、なのかも……」

 ぽろぽろと愛生の口から言葉が漏れる。

 そんなネガティブなことを言ってどうするんだ、と愛生は思ったが、言ってしまったものは仕方ない。

 それにそれを考えてこなかったことは確かに悪いことのように思えてしまうのだ。

「……じゃあ、止めろって言ったら止められる?」

 一段と温度が下がったような代美の言葉に愛生はハッとした。

 安易な反論や言葉に今の代美を納得させるだけの力はないだろう。

 だからこそ、愛生は必死で言葉を探した。

 この今の自分の、自分たちの熱意は本物だと思っていたから。

「……それは、無理だ」

「どうして?」

「それは……」

 愛生はもどかしかった。

 いっそ、理屈じゃないとはねのけようか?という一時の感情も心を過ぎ去った。

 愛生は少し息を吸う。

 その時、まるであのエンジンがかかった時のように何か、頭の中で言葉がうなりを上げながらゆっくりと回転し始めた。

「それは……もう走り始めたから」

「クルマが?」

「違う。えっと……そうだ。初めは確かに成り行きだった。それは認める。けどさ……」

 愛生の中のエンジンはもうバラつかない。

 しっかりと入った火が吐き出す燃焼ガスをしっかり言葉にできる。

「今は違う。みんなで組んだR32だ。今はちゃんと理由がある。わたしはみんなとレースがやりたい。もう止まれないんだよ」

 そう。それが車であるのはほとんど由夏の湊のせいだろう。

 でも、わたしがやったという自負がある、と愛生は思った。

 やらされたわけでもない。やりたくなかったわけでもない。

「わたしがやりたいんだ。きっかけはなんでもいいだろ? ダメか?」

「…………」

 代美は愛生を見ていたが、その表情は何かを必死で考え、そして、受け止めようとしてくれている表情だった。

「……そうなのね」

「そうだ」

 うん、と力強くうなずくように首を縦に振る愛生。

 それを見てふっと軽く代美は笑った。

「パパには言った?」

「……まだ」

「そう。明日次第ってところかしら?」

「そうだよ。まだカッコつかないからな」

「誰に似たんだか……とにかくお風呂入ってきなさい」

「うん。そうする」

 愛生はぺたぺたと木製フローリングの床を歩き始めた。

 ゆったりと扉は静かに閉まる。

「ママ」

 愛生は階段に差し掛かったところで代美を見る。

「ありがと」

 にこっ、と笑った愛生は階段の奥に消えた。

 その先からはほのかに煙る湯煙の暖かい匂いがした気がした。




「よし……」

 まっさらのレーシングスーツをまとった湊はシューズを履いて息を吐く。

 レーシングスーツの色が白なのがいっそうワッペンなど飾り気のなさを強調する。

 湊はそのまま荷物を入れたカバンを持って立ち上がった。。

「…………」

 和風建築らしい玄関の前の広めの通路にふと、人の影が差す感じがした。

 ぎし……となった床に後押しされるように湊は振り返る。

「母さん」

 奥に見える今の引き戸から出てきたのは母、壱の姿。

「お出かけかしら?」

 壱はこともなげに湊にそう尋ねる。

 切れるような目にさらされた湊は少しだけ気持ちが押される気がしたが、それでも、ここで言わねばならないと足を踏ん張った。

「レースしてきます」

「レース?」

「うん。二輪は止めちゃったけど……」

 湊はその引手に手をかける。

 朝のまだ冷えた空気を十分に吸ったその引手はひやりと湊の指の熱を奪うが、湊は気にせず引き戸を開けた。

「私、走るのは好きだから」

 開いた引き戸の先から入ってきたのはまばゆい朝日。

 そして、その奥に見えるのは一台のバンと三津家のよくある門にたむろする仲間たち。

 門の柱に寄りかかってスマホを弄っていた愛生が顔を上げる。

「おせぃぞ」

「車はもう出発したからね」

「あとは湊だけ」

「さあ、湊さん、行きましょう!」

 湊はしっかりと壱の顔を見た。

 さけていたわけではない。会話もそれなりにしていたと思う。

 それでも、久々に見た母の顔は拍子抜けするほど普通だった。

「いってきます」

「そう。いってらっしゃい」

 壱はそれだけ言って湊から目を離し、少しだけ会釈をした。

 その楚々とした礼がこちらに向けられたものだと分かった仲間はぎょっとして月代以外の皆、一様にペコペコと頭を下げる。

 月代だけはわたって同じように会釈するだけだった。

 それも一瞬のことで湊の手によってその戸は閉められる。

「よし。みんな行こっか」

 片道一時間と少し。

 新たな戦場に五人は足を向けた。




「おい。湊は? 月代も。どこ行ったんだ?」

 サーキットの指定されたピットにR32を運び込んでから一時間ほど。

 右前輪のタイヤの空気圧を確かめていた由夏に愛生が声をかける。

「アレ」

 顔を上げた由夏はピットロードの方を指さすが、愛生には何かあるようには見えない。

「どこ行ったってのにアレっていう答えは変だろ」

「だから、アレだって」

 今度はピットロードの先、ピットから車が出ていくピットレーンの出口を指さした。

 一体、なんなんだ、と愛生がそこを見た時、一台の白い車がその先のコースの上を駆け抜けるのが見える。

「あの白い車のことか?」

「そう。ライセンスの研修中」

「今日は走行会じゃなかったのか?」

「サーキット貸切るのだってタダじゃないんだから、研修と走行会、一緒にやった方がお得でしょ」

「なるほどな」

 そこにサトカも現れて二人をしげしげと眺める。

「落ち着きがない」

「……ま、落ち着けって方が無理じゃね?」

 コンクリート打ちっぱなしのピットの床を確かめるように愛生がつま先で蹴る。

「こんなとこ、来たことないし。イメージだともっとうるさいかと思ったら結構、静かだし」

「愛生のイメージはレース本番中でしょ。それも、今コースを走ってるのは電気自動車だしね」

「いやいや、ピットってもっと慌ただしそうに作業するチームがいたりさ、怒号が飛び交ったりさ……」

「まあ、慌てて作業してるチームもあるだろうけど……」

 そう言いながら由夏はピットから少し顔を出して他のチームの様子を見てみたりしてみせる。

「由夏も落ち着きがない」

「え、私?」

 サトカの意外な一言に由夏は取り繕うように驚いたふりをしてみせる。

「そう。言葉数が多いし、それ」

「これ?」

 サトカが指さしたのはタイヤの空気圧を確かめるための機材。

「さっきからずーっと同じタイヤの空気圧見てる」

「言われてみればそうだな」

 愛生もその姿は見ていた。

 何か由夏にしか分からない異常でもあるのかと思っていたが、どうやらそういうわけではなさそうだ。

「いや、それは……」

「新品だろ、タイヤ」

「う……」

 ここまで車の整備経験にモノを言わせて落ち着いた素振りでずっと車づくりをけん引してきた由夏だったが、由夏だってレースの経験はない。

 ピットに来たのだってレース観戦の前にレーシングドライバーにサインをもらいに行ったただ一回きり。

 まさか、自分がここに車を入れるようになるなんて思ったことも無かった。

「……思い出した!」

 そこでポンと愛生が声を上げる。

 何事かと二人は愛生を見たが、愛生は何を思ってかニヤニヤとし始めた。

「そのタイヤ、ワシとサトカで組んだやつだろ」

「確かに。他のタイヤは基本的に由夏が組んだ」

「いや、それは……」

「信用されてなかったんだな。悲しいな、サトカ」

「頑張ってタイヤチェンジャーの使い方覚えたのに」

 芝居がかって二人がよよよ、と肩を寄せ合った。

 突然、三文芝居を始めた二人によって悪役に仕立てられた由夏はあわあわと手を振って抗議する。

「いや、サトカはタイヤチェンジャー使えたし、それにタイヤほとんど組んだのは二人でしょ!」

 それを聞いた二人はいっそうにやりと口角を上げる。

「ふふ。墓穴を掘った」

「じゃー、認めるんだな? 落ち着きがないって」

 うっ、と由夏はたじろいで、そして、肩を落として首を振った。

「……まあ、そうかも」

 その左肩を愛生が少し背伸びして抱きすくめる。

「そう気を落とすなよ。気持ちは皆同じだって。なんたって手に塩かけた車の初走行だしな」

「別に緊張する必要はない。練習走行会なんだから」

「それは、そうだけど」

「なんだよ、もっと自信もってこうぜ」

「良い車。それは絶対だから」

「そうだね」

 由夏は顔を上げ愛生とサトカを見る。

 皆の言葉に嘘はない。

 それはその顔を見れば分かるだろう。

「十時から走行会だよな?」

 その言葉に由夏はスマホを取り出す。

 九時三六分。

「じゃあ、そろそろ暖気しよう。サトカ、運転席に。愛生はデータロガーの準備」

「よっしゃ」

「わかった」

 その作業は手慣れたものだった。

 愛生がピットの片隅に置かれていた旧型ノートPCを手に取り、サトカは運転席に滑り込む。

 助手席のドアを開け、愛生がノートPCをデーターロガーの端末と接続したのを見て由夏が号令を出した。

「エンジン、入れていいよ」

 最初に電装系が動き始める音。

 次にオイルがかけられたプレッシャーに従って色んなところへ行き届き始める音。

 そして、パッと着いたヘッドライトとセルモーターが回り始める音。

 勝つ為に生まれたエンジンがその低い唸り声を上げる。

「うん。問題ない……」

 低く吹き抜ける排気音と負圧の中で無理やり回ろうとするタービンの吸気音。

 決して重たくない車体を揺らすような音に由夏がうなずく。

「けど、なんでヘッドライトつけたの?」

 その問いにポリカのフロントウィンドウ越しに運転席のサトカがいたずらっぽく笑った。

「かっこいい。ザ・始動って感じ」

 そう言いながら、サトカはアクセルを少しだけダフってみせる。

 それに合わせてエンジンがそのポテンシャルの片鱗の存在感をちらつかせた。

 ――走る。

 そんな言葉にするまでもない直感が三人の中を駆け巡った。




「ウチが先に終わっちゃいましたかー」

 教習車のタレイア・トラックエディションで先にサーキットライセンスと学生GTライセンス『ブロンズ』を交付されたのは月代だった。

 月代は走り終わった静かな余韻を片手のヘルメットに預け、パドックを横切り、由夏たちのいるピットを探す。

「しかし……サーキットライセンスはこのサーキットを走るためのものだとして……『ブロンズ』の学生ライセンスってなんでしたっけ?」

 月代は首から下げた通称『仮免』、要するに本物のライセンスが交付されるまでの仮処置としての認識票をまじまじと見ながらつぶやく。

「『シルバー』が地方大会の出場資格で、『ゴールド』が全国の資格? そう考えるとかなり遠いですよねえ……」

 正確には『ブロンズ』には地区大会の出場資格、つまり、地区大会が開催されるサーキットのみの出走資格。

 その出走できるサーキットがランクの上昇につれ、増えていくのだ。

 通常のレーサーライセンスと違い、学生GTにはクラスが存在しないのでどのライセンスでも走らせるレーシングカー自体は規定に沿ったものなら何でも乗れる。

「ここにいる全員がライバル……ってわけですか」

 月代はHANSと呼ばれる首を固定する器具で動かしにくい首をきょろきょろと振りながら横目に通り過ぎていくピットに並ぶチームを見る。

 さきほどまで受けていたライセンス講習会の参加者に比べてチームはあからさまに多い。

 実は一般参加もできる走行会に学生GTの練習走行会が乗っかっているので学生チームばかりではないのだが、月代にそれを知る由はない。

「まあ、昨日今日でレースを始めたチームの方が少ないですよね」

 恐らく去年までしっかり参加していたチームも少なくないだろう。

 強豪といわれるチームだってあるだろう。

 どのチームもしっかり機材、車、人材を用意してピットが狭く感じるような体制で作業に当たっていた。

 チームによってはピットの裏にいくつもテントを設営しているチームまである。

「あ、あのチームには勝てそう……」

 その中で一際目立つチームがあった。

 あからさまにピットがスカスカなのである。

 ただし、その分、コンクリート打ちっぱなしのその空間に鎮座する銀の一台の存在感は沈み込むような重さがあった。

「って、ウチのチームですか……」

 月代はガックリと肩を落とすと同時に他のチームとの差をひしひしと感じていた。

 しょぼしょぼと月代はピットに近づいていく。

 その時、ゴゥゥゥッと空気が振動した。

「…………!」

 パリッ、と張り詰めた空気に月代は目を見開く。

 二回、三回。

 その音が響くたびに月代がピットに近づく足が軽く、止まらないものになる。

「どうですか!?」

 駆け寄るような勢いになった月代はルーフに左腕を置き、運転席を覗き込んでいた由夏に声をかける。

「お、終わったの?」

「ええ。それより車の方は?」

「こっちも良い感じ」

 席を譲るように運転席からサトカが出てきた。

 まるで生きているかのように運転席のダッシュボードではタコメーターが震えている。

「湊はどうしたよ?」

「ウチが先に終わったみたいですね。そのうち来ると思います」

「じゃあ、先に月代に乗ってもらうか」

 愛生は由夏を見ながらそんなことを言った。

「そうね」

 こともなげにうなずく由夏に月代は慌てる。

「ちょ、ちょっと待ってください。ファーストドライバーは湊さんじゃないんですか?」

「そんなの、決めてないよ」

「ああ。先にいたヤツが偉いってわけじゃないだろ」

「完全実力主義」

「まあ、正直わかんないってのが本当のところだよね。それに今はさ、一秒でも多く走らせるのが大切なんだし」

 どうやら三人は本気らしかった。

 月代は勝手に自分が二番目に走るものだと思っていたので徐々に頭の中が城に染まっていく。

「ま、まだ心の準備が――」

「遅い遅い。もう十時だぜ」

 可愛く愛生が指をわざとらしく振ってみせる。

確かに愛生の言う通り、もうほとんど十時だ。

 ピットの喧騒ももう比べ物にならないものになっている。

「すみません、準備の方できましたか?」

 そこへ運営スタッフがおずおずと声をかけてきた。

 三人の視線は月代に注がれる。

「十時になったら、ピットレーンを解放するのでその後は自由走行になります。赤旗などの時はお知らせするので逐一コース状況の把握をお願いします」

「分かりました」

 由夏がしっかりとうなずくとスタッフは慌ただしく隣のピットに向かう。

「行こうぜ」

「思いっきり走らせて」

「せっかくの機会だしね」

 月代はゴクリと唾を飲みこんだ。

 もう四の五の言っていられない。

「分かりました」

 しっかりとした目つきで月代は首から下げた『仮免』を外し、サトカに手渡す。

 そのまま、ヘルメットの中に入っていたフェイスマスクを取り出し、ヘルメットをルーフに置いた。

 取り出したフェイスマスクをしっかりとかぶった後は、ヘルメットをかぶるだけだ。

「行ってきます」

 ついにヘルメットをかぶった月代はそのまま運転席に滑り込む。

 コクピットはすでに暖気が終わった戦闘態勢だ。

「何かあったら無線で教えて」

「分かりました」

 サトカの言葉に応え、バタンと閉めたドアの向こうで静かに月代はステアリングを握る。

 由夏がピットロード手前まで出て他のチームの真似をしてまるで空母のデッキクルーの様に両手を大きく振って月代に前進を命じた。

「…………」

 月代はソロリ、とR32を遂にピットガレージから出す。

 ちょうど斜めに半分だけ屋根から出てきたところで由夏が停止を命じた。

 まだピットレーンは閉じている。

 他のチームの車も同じように半身だけ屋根から出し、今か今かとそのシグナルが青になるのを待っていた。

「…………」

 色んな車のアイドリング音が響き渡るピットロードは異様な静けさに包まれていた。

 そして、その時はやってくる。

 誰に言われた訳でもない。

 ただ、それが当たり前であるかのようにピットの出口に一番近いチームの車から一台ずつ、ピットを後にしていった。

「…………」

 それを見ていた月代は少しだけ息を吐く。

 一台、また一台と減っていく車を見るたびに何か重たい緊張感が肩に乗る気がした。

 隣の車が動き出す。

 それを見た由夏はR32の前から退く。

 もう前には何もない。

「……!」

 遂に銀のR32はその走りを魅せる時が来た。

 ピットレーン60km/hの制限でもR32は他の車に紛れてすぐに消えてしまう。

 その後に続く後続車を見送りながら由夏、愛生、サトカは静かに顔を見合わせた。




(すごい……)

 コースの上で少しアクセルを踏むだけで分かる車が前に進む力の強さ。

 二輪のような流れるような加速感ではない。

 ただ、エンジンのトルクが鋼鉄の箱を無理やり押し出す感覚。

「ふー……」

 まだアウトラップ――ピットアウトしたばかりの周回――だからタイヤは温まっていない。

 グリップも低く踏み込めたものではない。

 月代はそろそろと前の車についていく。

(今のが第二ヘアピン。ここから緩く左に回り込んで……)

 二輪でも走ったことがあるサーキットだ。

 コースレイアウト自体はしっかりと頭に入っているつもり……。

(結構……速いかもしませんね……?)

 ようやく他の車を見る余裕も出てきた月代は前と後ろの車の様子を見る。

 どうだろう。まだどの車だって本気で走ってはいない。

 それでも、この車が一番速そうに見える。

(贔屓というか、親心的なアレですかね?)

 左の100Rを超えて、シケインに入った。

 左、右と車を揺らしてから、ここから、最終の複合コーナーへ加速する。

(ほら、この加速感ですよ。アクセルについてくる感じ……)

 少し蛇行しながらタイヤを温める。

 ハンドルを忙しく右や左に切ってもエンジンは前に進もうとする。

(さあ、最終コーナーです……)

 ゆっくりタイヤを温めた甲斐があったというものだ。

 タイヤはいい感じに粘って路面を捉える。

 だらだらとコーナーを走る他の車と違い、しっかりクリッピングポイントまでR32はすっ、と車のノーズを向けた。

(ここを抜ければ、左に少し旋回しながらの上り……)

 右に回り込んでからの左の上り勾配は荷重移動が結構激しい。

 それでも1・5トンのボディはヨレることなく、しっかりと前に進む。

 その感覚をハンドルから感じた月代の足はアクセルを少しだけ撫でた。

「走行会ですし……前に出てもいいんでしょう!?」

 そのまま、隊列からR32は銀のボディを横に出した。

 慣れあうのを止めた銀狼はフロアまで踏みつけられたアクセルに追従して矢のような加速を見せつける。

 月代の耳に最後に聞こえたのはターボが無理やり大気を吸う甲高い音だけだった。

「…………!」

 月代はすべてが止まったような感覚に陥る。

 呼吸すら押しつぶすような加速感。

 他の車が止まって見えるようなスピード。

 すぐに車も横のピットレーンもスタンドも見えなくなり、見えてくるのは第一コーナーのセーフティゾーンの先の壁ばかり。

「…………っ!」

 このまま、壁に突っ込んでしまうのではないかという恐怖心が何度もアクセルを踏む右足を戻そうとする。

 アウトインアウトの基本を守ろうとストレート左端にR32を寄せようと思ってハンドルを左に切った時、車の左前から一気に荷重が抜ける感覚。

 決してクラッシュするようなものではない。

 それでも、月代の足がアクセルから離れるのには十分すぎる恐怖体験だった。

「…………んっ!」

 コーナーにアプローチするために減速をするとドンッ、と慣性に逆らうGと前輪に荷重がのしかかる感覚が月代を襲う。

「あ……」

 気づけば、無我夢中で第一コーナーを曲がっている月代の耳にようやくR32の揺れるエキゾーストノートと駆動系の音。

「毎回こんな調子じゃ、レースにはなりませんね……」

 後続を大きく引き離してポツリとサーキットの上を走るR32の中で月代は大きく息を吐いた。

 興奮で震える左手でなんとかシフトを操作する。

 ギアが変わるたびに唸るエンジン、RB26DETTはいつ何時もあの加速を味あわせてくれる怖さがあった。




「どう?」

 ピットウォールスタンド――ピットガレージからピットロードを横切った先にあるレースの最前線基地。

 一段高くなっている足場と金網一枚隔てた向こうにホームストレート。

ホームストレートの奥に何かが見えているかのようにストップウォッチ片手に難しい顔をする由夏にサトカが声をかける。

「どうだろう?」

 由夏の首にはヘッドセットがかけられていた。

 そこから月代に無線(と言ってもただのインターネット回線を使ったボイスチャットツールなのだが)を飛ばせば、『どう』かは分かりはする。

 しかし、由夏にはそれをするつもりはなかった。

「タイムはそこそこなんじゃないかな?」

「ターゲットタイムとかあんの?」

 逐一送られてくるマシンの情報を新しい方のノートPCで見ながら、愛生が尋ねる。

「分からない。前年度のデータとか調べてみないと」

「今、調べようか?」

「いや……今日は何か違う気がする」

 由夏はゆっくり首を横に振った。

「曖昧」

 そんな由夏にサトカは首をかしげるが、由夏はうなずくばかりだ。

「まあね。でも、なんというか、今日は二人に走って欲しくて」

「お、私の話してる?」

 そう言いながら、ピットロードを横切って近づいてきたのは湊だった。

「ずいぶん遅かったな」

 愛生が皮肉たっぷりにそう言うが、ちょうどどこかの車が全開でホームストレートを駆け抜けたせいで湊には聞こえない。

「え?」

「ずいぶん遅かったなって言ったんだよ」

「ああ。なんか順番遅かったし、トイレ行ってたし」

 その言葉に愛生は少しだけ眉をひそめる。

「……もっと別の言い方があったんじゃないか?」

「愛生ってなんかそういうとこ、育ちが良いっていうかそういうの、あるよね」

 湊の言葉に由夏はうなずく。

「そうね。別に女子だけなんだし、気にすることないとは思うけど。重要なことだしね」

「漏らすと大変」

 どんどん下世話な話になっていくのを感じて愛生はやれやれと肩を落とす。

 その時、由夏の首に下げられていたヘッドセットから音が漏れた。

『――えますか? 聞こえますか?』

 慌てて由夏はヘッドセットを片耳だけ当て、マイクを口に近づける。

「はい。どうぞ」

『由夏さん? えっと、――ま、シケインです。この周にピッ――に入ります』

 ところどころ、途切れるのは恐らく通信環境ではない。

 マイクの取り付け位置や走行中の騒音のせいだろう。

 改善の余地ありだ、と由夏は思った。

「ピットインね」

『そうです。この周に入ります』

「何か、問題でも?」

 由夏の心が一瞬でざわつく。

 確かにどれくらい走るなどは具体的に決めていなかったが、だからこそ、なぜ今なのか、と思ってしまった。

 しかし、無線の向こうの月代は平然としたものだった。

『いや、ちょっとタイヤも減ってきたし……正直、疲れました』

「了解。ピットに入るときはリミッターを忘れないで」

 胸を撫でおろした由夏はピットロードの制限速度に車速を落とすリミッターを示唆する。

『リミッター?』

「真ん中にあるPSLってヤツ」

『――あ、これですね。分かりました』

 そこで交信は途切れた。

 シケインだと言っていた。

 なら、そろそろ最終コーナーを抜ける頃だろうか。

「何か、問題?」

 突然ピットウォールスタンドを軽やかに降りた由夏に湊は尋ねる。

「いや、疲れたって」

 由夏はこともなげにそう言いながらピットロードを横切り、ピットに向かう。

 それを追いながら、湊は少しだけ不思議そうな声を出した。

「珍しいかも。月代がそんなこと言うってのは」

「初めてだからそんなもんだろ」

 その右隣で愛生は手を広げてみせるが、湊は何となく腑に落ちなかった。

「そーかな……」

 湊の知る月代は無理をしないタイプだった。

 クレバーなわけではない。

 危機察知能力に優れていると湊は分析していた。

「もしかして、案外危なかったり……」

「いまさら」

 サトカはそう言うが、湊が言いたかったこととは少しズレていた。

 何か自分の予想を超える何かがあるのかもしれない。

 それが自分に与える負荷がどう影響するのかが分からない。

 湊はそれを『危ない』と言ったのだった。

「とにかく、次、湊の番なんだからな。頼むぜ」

「それはね。ちゃんとやるってば」

 ピットガレージの中に入った愛生に湊はヘルメットを手渡す。

 そのまま、緩めていたレーシングスーツの首元をしっかり止め直して、湊はピットロードを見た。

 欲求不満気味のエキゾーストが徐々に近づいてくる。

「愛生、サトカ。準備」

「はいよ」

 サトカは隅に積まれたタイヤをR32が恐らくとまるであろう位置の近くに運び始めた。

 愛生は消火器のような形のガソリン缶と消火器を片手にタイヤの間に並べる。

 それを見た由夏は一人、ピットの真ん中に立った。

 そこは真っすぐR32が向かってくる場所。

「来た……」

 呟いた湊の言葉はR32の目的地を前にした一際高いエキゾーストにかき消された。

 由夏は手を横に広げ、停車を命じる。

 どれだけ低い速度でもあの銀のボディが一直線に向かってくる様は怖い。

 それでも、由夏は動じない。

「…………」

 金属が擦れる耳障りなブレーキ音と遅れて鼻をつくガソリン臭さに焼けたゴムの匂い。

 運転席の月代は静かに大柄で目立つ赤のメインスイッチを切る。

 全ての機能を停止したR32はくすぶる熱を持て余すように静かになった。

「よし……!」

完全に停車したR32の運転席を愛生が開ける。

 そして、Bピラー――ルーフからボディに伸びる真ん中の柱――の裏に取り付けられたエアジャッキの受け穴に圧搾された窒素が流れるホースを刺した。

 ガコッ、という音と共にR32の車体裏に取り付けられた四本のエアジャッキによってR32のボディは浮き上がる。

「先に給油をしよう」

「わかった」

 由夏の指示により、愛生がガソリン缶を、サトカが消火器を手にする。

 そのまま、愛生はガソリン缶の先をおもむろに給油口に刺した。

「由夏は何もしないの?」

 それを傍目で見ていた湊はいつの間にかヘルメットをかぶっていた。

「練習だけど、本番想定でね。規定で給油中は一切の作業が禁止だから」

「なるほどね」

 まだ閉じていないフェイスシールドの向こうで湊はすっと目を細める。

 その視線の先にはゆっくりとシートベルトを外し、降りてきた月代。

 湊とは対照的にそのヘルメットが実に重たそうに見えた。

「おつかれ」

「はい……」

 何が『はい』なのか由夏には分からなかったが、とりあえず、その重たそうなヘルメットをとってあげる。

 そこから現れたフェイスマスクを月代が自分でとり、由夏の手の中のヘルメットの中に叩き込んだ。

「飲み物はありますか?」

「奥のクーラーボックスに」

 ヘルメットを渡しながら、由夏がピットの奥を指さす。

 それを聞いた湊がそういえば、と言った風に由夏を見た。

「食べ物は?」

「……サトカ、お昼ご飯ってあったっけ?」

 由夏はしまった、と思いながら消火器を構えるサトカを見る。

 しかし、淡い期待もむなしくサトカは首を横に振った。

「ない」

「この子の分は持ってきても、私たちの分はないわけだ」

 湊はやれやれと肩を落としながら、運転席のバケットシートにするりと身を落とした。

「隆二さんに帰りにどこか寄ってもらうから」

 座席の調整をする湊の目線に合うように開いたドアに右腕をもたらせながら、由夏はそう言った。

「それは名案。隆二さんが良いって言えばってのはあるけど」

「だから、今は集中して」

 その横で愛生たちが給油を終え、今度はタイヤ交換に取り掛かっていた。

 電動ドリルの回る音がピットにこだまする。

「そんなことで文句は言わないって」

「ならいいけど」

「信用してってば」

 座席の調整が終わった湊は四点式シートベルトを締め始める。

 由夏もその固定を手伝う。

「キツくない?」

「大丈夫」

 しっかりと湊の体がバケットシートに固定されたのを確認してから由夏は手を離す。

 愛生たちは右後輪の交換を終え、次は左後輪に移っていた。

「テストだから、あんまり熱くならないで」

「そんな熱くなるタイプに見える?」

「見えない。けど、一応」

「なるほど。由夏はいちいちそういうことを言うタイプっぽいよね」

「それが?」

「別に」

 左後輪は終わった。

 次は左前輪だ。

「スイッチは大体分かってる?」

「大体ね」

「分からなかったら、無線で聞いて」

「待った。無線のスイッチは?」

「これ」

 ハンドルのちょうど右手の親指の近くのスイッチを由夏が示す。

「これが壊れたら?」

「ピットインして」

「分かった」

「ピットインするときはこのスイッチを押すのを忘れないで」

「ピットアウトするときもでしょ?」

「そう」

 左前輪は終わった。

 残すは右前輪のみ。

「路面温度は?」

「二三度くらい。気温はそのマイナス五度前後ね」

「ちょっと暑いね。もう五月か」

 その言葉に一呼吸分、二人の会話が止まる。

 その間、電動ドリルがホイールをハブにナットで固定する音が良く聞こえた。

 しかし、それもすぐに止む。

「タイヤ、交換できたぞ」

 右隣、ドア一枚隔てた向こうで愛生の声がした。

「行ってきて」

「うん」

 それだけ言葉を交わして、由夏はエアジャッキのホースを外した。

 プシューッ、と激しく空気が放出される音と共にR32の車体はその重量をエアジャッキから四輪に預ける。

 バン、と閉められたドアの向こうで湊がR32に再び息吹を吹き込んだ。

「…………」

 すぐに始動したエンジンは車体だけでなく、空気も揺らす。

 それに飲まれないよう湊は少し息を吐いて、フェイスシールドを閉じた。

 それでも、前は良く見える。

「…………」

 そのまま、クラッチを繋ぎ、アクセルを少し入れる。

 緩やかに日の差す方へR32は転がり出した。




「本当にくるなんてな」

 少し外れたピットガレージ。

 由夏たちのピットよりも少しだけ日が陰ったそのガレージで隆二が一台の車を前に首を振る。

「タイヤ交換、手伝ってくれるだけでいいから」

「あっちだって気になるってのによ……」

 隆二はその女性の言葉にポリポリと頭をかく。

「こっちは気にならない?」

「バカ。ならないわけねぇ。良夫が組んだ最高のSRだろ?」

「正確には『最高だった』SRね」

 その言葉に隆二は少し眉をひそめた

「元通りにはならなかったのか?」

「なるわけない……って」

 その女性の口ぶりは少なからず、彼女自身が『最高ではない』と感じたというニュアンスが含まれていた。

 期待外れ。言い表すならそういう言葉だろう。

 隆二は何とも言えない気持ちを抱きながら、言葉を探した。

「……ま、良夫がそう言うならしょうがねぇよ。俺たちのなかじゃ最高のチューナーだ」

「自分じゃないのね」

 隆二はドキリ、とした。

 こういう話はもう何年もしていなかった。

 だから、こういうことを考えるのも久しぶりだった。

「……チューナーなんてエンジンやってナンボだろ」

「やればよかったのに」

「やった。ブローばっかでな。商売には全然ならねぇ」

「でも、良夫さんは今ここにいない」

「そういうもんだろ。俺はアイツの言葉に騙されて今じゃ、鉄板屋。そのアイツはアイツで今はやることがあるんだろうぜ」

 思わず口をついたその言葉に隆二はハッとした。

 思い出す。

 あの日々を。あの時間を。

 あの時の俺たちは今、どこで何をしているだろうか。

「それでも……」

 隆二はその車の純白のボディを少しだけ撫でた。

「それでも、お前は今日、走るんだろ?」

「ええ」

「じゃ、そういうことだ。俺は俺でやることをやるだけだな」

 隆二はかがんで地面に置いてあったジャッキを手に取る。

「今も昔も、それは変わんねぇよ」




(なるほど、なるほど……)

 右に切り込んだステアリング。

 R32はその銀のボディをやや前につんのめらせながら、コーナーに飛び込んでいく。

(悪くない……悪くないけど)

 その重厚感、そこから飛び出す加速感は二輪とも、先ほどまで乗っていた教習車とも違う。

 ステアリングを通してR32を理解しつつあった湊だが、どこか気分は晴れなかった。

(なんだろうね。車は悪くないはずなのに……)

 チラリと横目に追い抜いた車を見る。

 練習走行会というだけあって本番のレースとは違う。

 遅い車や、あまり踏む気のない車はウィンカーを出してレコードラインから違うところをスロー走行していた。

「…………」

 湊はもう数周経ってそういう車は見慣れていた。

(せっかくサーキットを走ってるのに)

 それは自分への言葉か、あの車たちへの言葉か。

 そう思って少し首を横に振った湊はアクセルを踏み込む。

 ここからは最終コーナーへのアプローチ。

 あまり気は抜けない。

(あれ……)

 その時だった。

 前に一瞬だけ白い車の影が横切った気がした。

 その最終コーナーだ。

 思わず、アクセルを踏む足に力が入る。

「待って……!」

 すぐに最終コーナーが迫った。

 初めてだ。こんなに最終コーナーを近く感じたのは。

 すぐに減速し、しっかりとフロントに荷重をかけて最終コーナーをできるだけ早く駆け抜けようとする。

 いつの間にか先ほどまで感じていた倦怠感は霧消していた。

 R32は湊の操作によって大きく右に回り込む最終コーナーをしっかりとクリアする。

「待ってってば……!」

見えた。

 幻覚じゃない。

 あの白の車は――




 ピットウォールスタンドにいた由夏はハッと顔を上げる。

 そのまま、ピットウォールスタンドのタイムボードなどを出す金網の間から身を乗り出してホームストレートの入り口を何かにとりつかれたように見た。

「……そんな」

 今、このサーキットを走る車は多い。

 車種だってバラバラなはずだ。

 それでも、由夏の耳にはたった二台の車のエキゾーストノートしか聞こえない。

 そして、それが由夏の全てを奪っていた。

「嘘……」

 ホームストレートの入り口は少し上り坂になっている。

 その上り坂で揺れる陽炎の奥から見えてきたのは純白と銀灰のルーフ。

 四発と六発が奏でる激しさの塊のような排気音がその二台をホームストレート目いっぱいに加速させていた。

「…………っ!」

 ギラリ、とヘッドライトが反射したと思った時には、二台は由夏の傍を通り過ぎていた。

 二台に押しのけられた風が由夏のポニーテールを乱暴に撫ぜる。

 一台は湊の乗るR32。

 そして、その前を走るあの純白の車は――

「美鳥さん!」




「…………!」

 美鳥は熟練を感じさせるペダルワークでホームストレートの全開加速からS14をしっかり、コーナーへアプローチさせる。

 久々に着たレーシングスーツが何となく体に合わなくて美鳥は少しだけもどかしかった。

「流石にね……突っ込みで負けるわけにはいかないの」

 その言葉通り、S14のコーナーの進入はR32よりも速い。

 S14のフロントが曲がり始めた時にはすでにR32との差がスッと広がっていた。

 しかも、無理なく綺麗に減速したS14のブレーキングの姿勢はぶれることは無かったが、突っ込み過ぎたR32は少し車体を左右に振られている。

「丁寧なのだけが取り柄でね……」

 S14は静かにフロントをクリッピングポイントに向け、そのままコーナーを駆け抜けていく。

「FRはここからがナーバスだけど……」

 前輪で舵を切り、後輪で加速するFRは立ち上がりがどうしても難しい。

 少しアクセルを踏みすぎるだけで後輪のトルクが車の前に行こうとする力に勝ってしまう。

 そうなると、リアが流れ出し、車は前に進まない。

「…………」

 美鳥は車の荷重を探りながら、アクセルの慎重に操作する。

 いつ、アクセルを全開にできるのか。

 ほんの一瞬の話だ。時間にしてコンマ一秒以下。

 美鳥はしっかりS14をコースの端に誘導しながら、アクセルを踏んだ。

「!」

 そして、バックミラーを見た時、美鳥の背筋がゾクリと震えた。

 そこに写るのは獰猛に前に進もうとするR32の姿。

 不気味なまでの存在感を放つその姿が亡霊のようにS14のリアに張り付こうとしていた。

「そう来ないとね……!」

 二台は第一コーナーという銃身から放たれた弾丸のようにバックストレートを全開で加速する。




「これ……この感覚……!」

 第二コーナー、第三コーナー、第一ヘアピン――

 コーナー一つ抜けるたびに湊の中で何かが覚醒していく。

「この閉塞感……! サーキットが狭く感じるこの感覚……!」

 アクセルを踏むその湊の気持ちに同調するようにRB26DETTは吠える。

 目の前を逃げる獲物を追い続ける執拗な銀狼だ。

「…………!」

 緩い左コーナーに続く第二ヘアピン。

 どうしても突っ込みきれない湊はあらゆるコーナーの進入で美鳥に離されていた。

「かったるい……っ!」

 そう。湊にはそれがかったるかった。

 二輪のような軽快さも、教習車のようなどっしりとしたブレーキのスタビリティもない。

 S14と同じように突っ込もうとするとどうしてもフロントに荷重が乗り過ぎて前のタイヤが悲鳴を上げながら限界を少し超える。

「それでも……」

 我慢に我慢を重ねたコーナーのクリップからは湊のターンだった。

 コーナー脱出に使う前輪荷重さえ気を付けてやれば、後はアクセルを踏むだけだ。

 それだけでR32は前に進んでくれる。

 絶対に獲物は逃がさない。

「変な車だな! お前ってヤツは!」

 湊は思ったことをそのまま叫ぶ。

 メカ的に説明しようと思えば、説明できることかもしれない。

 それでも、今の湊にはこの車のそういうところと直6ツインターボの加速感さえあればよかった。

 二台の距離感はずっとそのままサーキットを駆け巡る、

 気づけばこのペースで走っているのはこの二台だけでほとんどの車がこの二台には道を譲っていた。

「……いけっ!」

 進入が無理なら立ち上がりだ。

 湊は立ち上がりでどうにかR32を横に並べようとするが、どのコーナーもかわされてばかりだった。

「このコースじゃ抜けないかも……?」

 中途半端に長い加速区間とそこから一気に減速するコーナーの連続。

 どれだけ立ち上がりで速くても、それは進入でつけられた差を埋める分にしかならなかった。

「じゃあ……直線はどうだ?」

 二台はまた、ホームストレートに帰ってきた。




「くそっ! 美鳥さん速いな」

 愛生はR32の前でホームストレートに入ってくるS14を見ながら毒づいた。

「うん。でも……」

 勘というものがある。

 しかし、由夏はそれをあまり口にしたことはない。

 それはこの瞬間までそれを感じたことがなかったからだ。

 真摯にホームストレートを通過する二台を見ていた由夏の脳裏に何かが流れた。

「あ……」

 思った時にはもう遅い。

 少しだけストレートでR32を離したS14は由夏の目の前を過ぎ去っていく。

「どうかした?」

 サトカは今日初めて心もとない姿を晒した由夏に声をかけた。

 由夏は何を言うわけでもなく、言葉を探す。

 そして――

「壊れる……」

「壊れる? R32がですか?」

 その不吉な一言に月代は食い気味にそう聞き返すが、由夏はゆっくりと首を横に振った。

「美鳥さんの方ですか。でも、今、R32をちょっと離していましたけど……」

「だから……壊れるの」

「だから……?」

 分からないサトカは首をひねるが、由夏の顔がどんどん暗く沈んでいくのだけは分かった。

「あれは、壊れる……」

 勘というのは色々な思考に名前を付けたものだ。

 ただの思い込み、確率論的な無意識の思考、ひらめき……。

 そして、経験則。

 色んな思考が由夏の頭の中を駆け巡っては消えていく。

「なんで壊れるって思う?」

 由夏はサトカのその問いに答えを必死に探す。

 今、あのS14に何が起こっているのか。

 何が由夏にそう思わせるのか。

「……音」

 ポツリと由夏がその言葉を漏らした瞬間、はっきりと由夏の脳裏にある光景が思い浮かぶ。

 S14のダッシュボードに取り付けられた油温計、水温計――

 その隣に並ぶブースト計だ。

「じゃあ……言い方は悪いですけど、湊さんが勝てる可能性があるってことですか?」

 月代の一言に三人はハッとした。

 そうだ。自分たちは今、何をしているのか。

 速い車を作る。一台でも多くの車をパスできる車を作る。

「勝てる、と思う」

 由夏はゆっくりとそう言った。

「長くは持たない……はず。コーナーの立ち上がりまでに少しでも近くにいられたらいけるんじゃないかな」

 要するに壊れるのはエンジンだ。

 加速勝負、特に立ち上がり加速ならR32が勝つだろう。

 由夏はそう考えた。

「湊にそう指示出すか?」

「湊さんならたぶん気づきますよ」

 愛生の言葉に応えたのは月代。

 微妙に納得ができない愛生は首をひねる。

「ホントか?」

「湊さんは頭が良いですから」




「……!?」

 美鳥は突っ込み過ぎたのは分かっていた。

 それまでの周回よりもストレートスピードが伸びたのだ。

 だから、思わず突っ込み過ぎた。

 それは分かっていた。

「何……!?」

 しかし、問題はそこではなかった。

 突っ込み過ぎた分のスピードはクリッピングポイントをコーナーの奥へ取ることで解消したはずだった。

 そして、立ち上がりでアクセルを踏んだとたん、S14は少し乱れた。

「…………」

 たった一瞬のカウンター。

 少し立ち上がりで加速しなかっただけでR32はそのフロントノーズをS14にぶつけんばかりに接近する。

「……っ!」

 S14の何かの異常、そして、これまで以上に接近したR32。

 その二つは美鳥の心を揺らすのに十分すぎた。

 だから、見落とした。

 一瞬、少しだけセッティングされた加給圧からオーバーしたブースト計の針を。




「チャンス……!」

 少しだけ車体を振られたS14目がけて湊はアクセルを踏み込んだ。

 このまま、抜けるか?と少しだけ期待する湊だったが、それは叶わない。

 それでも、R32はS14にぴったりと接近した。

「もしかしたらもしかするかも……!」

 ようやく攻略の糸口が見えてきたかもしれない。

「絶対に逃がさない……!」

 もう一回。

 もう一回だけS14がミスするだけでいいのだ。

 それだけでR32は前に出られる。

 湊は一寸の隙も嫌がるように素早いシフトアップでR32を駆り立てた。

「こっちは大丈夫だよね……」

 油温、水温、油圧、ブースト。

 どれを取っても異常は見られない。

 ペダルフィールも悪くない。ブレーキは少しキツいか?

 タイヤは……最高だ。一番熱が入ってる。

「イケるイケる!」

 もうS14のテールとR32のノーズは50cmと離れてない。

 いつでもイケるという意思表示。

 揺さぶりではない。もう銀狼の牙はすぐそこだ。

「第二ヘアピンは……ダメか!?」

 R32をS14より速くコーナーのイン側に振ってインを突こうとするが、S14のコーナリングスピードの方が速い。

 しかし、ビタビタにつけられていたS14はどうしてもR32が突っ込んできたときの為にインは少し開けて走行しなければならない。

 少しアウト側のラインを走るS14の横を突き破るようにR32はコーナーを立ち上がった。

 しかし――

「お……?」

 立ち上がりは確かにR32の方が速い。

 しかし、そこからの加速はそれまで以上にS14が速かった。

 少しだけねじ込んだR32のノーズはすぐにS14のテールにかわされる。

「速い……いや……!」




「まさか……!」

 ようやく美鳥はブースト計を目にした。

 そこで訴えられていたS14のかすかな悲鳴も。

「今は……大丈夫」

 ブースト計の針は1・5。

 アクセルを踏み続けている今はそれで安定している。

「さっきのは……見間違い?」

 疑念に駆られた頭で手癖の様にシケインにS14をひねりこむ美鳥。

 明らかにその走りは精彩を欠いていた。

 R32に張り付かれながらコーナーを立ち上がるその時。

『壊してきてくれ。エンジンを。』

 良夫の言葉が美鳥の脳裏をかすめた。

 それは最悪なことに右足に影響を及ぼす。

 ただでさえ精彩を欠いている状況なのに、ラフにアクセルを操作してしまった。

「……っ!」

 S14が暴れる。

 いや、それは苦痛に身をよじらせたのかもしれない。

不安定に急上昇したブースト計の針がそう言っているように美鳥には見えた。

「この……っ!」

 それでも、美鳥はアクセルから足を離さなかった。

 ステアリング操作だけでS14を安定させようとする。

 それが一番ロスがないと思ったからだ。

 そして、一瞬の判断の中でとっさにロスを嫌がる思考にさせたのは後ろに迫るR32の威圧だった。

 ――しかし、それが『正解』なのか?

「…………っ」

 迷う心がアクセルを踏むべき足を鈍らせる。

 そして、加速の鈍ったS14をR32は逃さない。

 コーナーの立ち上がりから後ろにぴったりとつけていたR32はそのノーズをS14の左にねじ込んだ。

 そのまま、左後ろにつけるような形で最終コーナーまでの加速区間を並走する。

「私は……」

 レースがしたかった。

 由夏たちがレースを始めるその姿が純粋に羨ましかった。

 湊に今の自分を笑われていると思った。

 だから、見返したかった。

「私は……っ!」

 最終コーナー。

 左後ろのR32は引く様子はない。

 このまま、並走してコーナーに入るだろう。

 ということは、最終コーナーが右回りな以上、S14はずっとイン側を走らなければならない。

 美鳥はそのコーナリングラインを想定してブレーキを踏んだ。

「……!」

 少しでも膨らめば、R32に当たる。

 失速させることもできるかもしれない。

 それはミスであり、ドライビングアクシデントかもしれない。

 しかし、それだけはプライドが許さなかった。

 ブレーキで減速するS14にR32が並ぶ。

 チラリ、と横を見た美鳥と、コーナーを見続けた湊。

 完全に並んで二台はコーナーに進入する。




「いけっ!」

 限界までブレーキを遅らせたR32のフロントは心元無かった。

 湊は何とかアンダーステアを出さないためにフロントから荷重を逃がさないようステアリングを操作する。

「インベタのくせに……!」

 窓から手を伸ばせば届きそうなS14はインに張り付いたラインを走っているのに少しずつ前に出ていく。

 それでも、湊は勝ちを確信していた。

「でも、ここまで並べば……!」

 立ち上がり勝負ならR32が勝つ。

 そのまま、二台はコーナー途中のクリッピングポイントを抜ける。

我慢だ、と湊ははやる気持ちを抑え、アクセルペダルにそっと右足を置いた。

もうほとんどフロントタイヤにコーナリングフォースはない。

つまり、それぐらいコーナーが終わったということだ。

「いけぇっ!」

 2速4300回転からの全開加速。

 速く走るために生まれてきた直列六気筒ツインターボが四輪をいとも簡単に転がしてしまう。

 切り裂くような吸気音と響き渡る排気音。

 強烈な加速感が湊を襲った。




「ふぅ……」

 美鳥はそっとアクセルを踏んだ。

 その優しさだけでS14は前に転がっていく。

 R32は対照的だ。

 震えるような激しさを持って加速していった。

「…………」

美鳥は踏めなかった。

「速いなぁ……」

 自分を置き去りにした銀のR32の丸いテールランプを見ながら美鳥は呟く。

 走れるものはホームストレートへ。

 走れないものはピットロードへ。

 右に出したウィンカーの音が何よりも悲しく響いた。




「あれ、由夏は?」

 R32をピットガレージに入れ、フェイスマスクを取った湊は第一声、そう言った。

「美鳥さんのとこ」

 スポーツ飲料の入ったペットボトルを湊に差し出しながら愛生が答える。

「やっぱり、壊れたんだ」

 うなずきながら湊はそれを受け取り、フェイスマスクを入れたヘルメットをR32のルーフに置いた。

「分かったのか?」

「そりゃね」

「由夏も音が変だって言ってたな。分かるもんなんだな」

 愛生のその言葉にスポーツ飲料を飲んでいた湊の手が止まる。

「音?」

「音。それで気づいたんじゃないのか?」

「いや、全然。走りが普通に変だったよ」

「そんなに悪かったんだな。ワシには何が何だか……」

 湊は黙ってペットボトルを見る。

 何となくアンニュイな湊のその姿に愛生は湊が何を考えているのか分からなかった。

 走った後で疲れているからというようには見えない。

「……すごいね」

「何が?」

「だってさ、音で分かったんでしょ? スーパーメカニックじゃん」

「そうだな」

 なら、もっと嬉しそうに話したっていい、と愛生は思った。

 なぜそんなに寂しそうに笑うのか。

 少し弱まってきた西日が愛生の背を照らし、湊の顔に影を落とす。

「タイム、見る?」

 そこにサトカが手書きでタイムを書いた紙を挟んだクリップボードを持ってきた。

 受け取った湊はさらっとそれに目を通すが、頭に入ってこない。

「2分くらい?」

「全体的には」

「速いの?」

「前の年のファステストラップは1分51秒452」

「9秒落ちかぁ」

 湊はそう言いながらやはり心ここにあらずといった感じに愛生には見えた。

「トータルで二〇周できたってのが今回の収穫だろ?」

「まあ、そーだけどさ」

 湊は手持ち無沙汰に並べられたラップタイムを見る。

 そこに一本、細くてきれいな指が伸びた。

 差されたタイムは湊に代わってからの五周目。

「ウチたちの中で一番速かったタイムは湊さんですよ」

 その指の主は月代だった。

「悔しい?」

 少し見上げるような形で湊は月代を見た。

「どうでしょう? ウチ、感動しっぱなしで走ってましたから」

「感動?」

「だって、この車、すごくないですか? もう、アクセル踏んだらどぅぉぉぉーって」

 ぶわっと手を広げて力説する月代。

 どうやら、感動したのは本当らしい。

 湊も感動しなかったわけではない。

 特にあの純白のS14を追っている時は――

「あ、このタイム……」

「そう。S14とバトルした直後の一周」

「……そっか」

 湊はR32に寄りかかり、足を交差させた。

 そこから少しだけ息を吸って何かを言いかけた所で止める。

 駆ける足音が聞こえた。

「みんな、ごめん! 遅くなった!」

 続いて聞こえてきた声。

「由夏!」

 パドックから走ってきた由夏に湊は思わず抱き着いた。

 抱き着かれた由夏は訳が分からないし、整備用グローブはオイルで汚れていて触るわけにもいかないしで小さく万歳する形で固まってしまう。

「な、なに?」

「なにも!」

「なにもないならどいて欲しいんだけど……」

「はい」

 由夏がそう言えば、湊は素直に手を離したので由夏にはいっそう良く分からなかった。

「R32は?」

「見ての通り。問題なし」

 良く分からないのは愛生も同じで肩をすくめてそう答える。

「走り切った?」

「走り切った」

 サトカがしっかりとうなずく。

「良い車ですよ。本当に」

 重ねるように月代がしっかりとそう言った。

「そう?」

「良い車だよ」

 湊は自信たっぷりに由夏の肩を叩く。

 褒められた由夏はどうしていいか分からず、皆の顔を眺めまわした。

「なら、よかった……のかな」

 そこでようやく由夏も笑った。

 和やかな空気がピットガレージに満ちていく。

 降り注ぐ西日がR32のフロントライトで柔らかく反射した。

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